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この気に乗じて魏軍は虚を突いて城を襲撃し陥落させ、傅僉は戦死した。陽安関が陥落したことにより、魏軍は深く蜀の地に侵入することとなった。
この気に乗じて魏軍は虚を突いて城を襲撃し陥落させ、傅僉は戦死した。陽安関が陥落したことにより、魏軍は深く蜀の地に侵入することとなった。


蒋舒の魏に降ってからの事跡は伝わっていない。
魏に降ってからの事跡は伝わっていない。


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2009年12月22日 (火) 15:15時点における版

蒋 舒(しょう じょ 生没年不詳)は中国三国時代の武将。(蜀漢)に仕え、魏軍来襲時に城を開いて降伏し、蜀漢の滅亡を招く一因となった。

経歴

263年の魏軍進行より以前、蒋舒は陽安関に駐屯し、漢中の武興督の任に当たっていた。しかし仕事に当たって目立った働きがなかったため、その任をほかの人に命じて交代させ、そのまま蒋舒を留め置き、漢中太守を助けさせた。蒋舒はこのことで恨みを持った。

263年、魏の鍾会が大軍を率いて蜀に侵攻して来た。鍾会は漢・楽の二城を包囲し、自ら楽城を攻める一方、胡烈を進軍させて陽安関に進行させた。 蒋舒と一緒に城を守っていた傅僉は城を固守するつもりであったが、蒋舒は傅僉を欺いて軍勢を率いて出撃し、胡烈に降伏した。 この気に乗じて魏軍は虚を突いて城を襲撃し陥落させ、傅僉は戦死した。陽安関が陥落したことにより、魏軍は深く蜀の地に侵入することとなった。

魏に降ってからの事跡は伝わっていない。