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「漁陽郡」の版間の差分

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'''漁陽郡'''(ぎょようぐん)は、[[中国]]にかつて存在した[[郡]]である。現在の[[中華人民共和国]][[天津市]]にあたる。
'''漁陽郡'''(ぎょようぐん)は、[[中国]]にかつて存在した[[郡]]。現在の[[北京市]][[天津市]]、[[河北省]]の一部相当する。


== 歴史 ==
[[紀元前222年]]、[[秦]]が[[燕 (春秋)|燕]]を滅ぼすと、の地に[[上谷郡]]・漁陽郡・[[右北平郡]]・[[遼西郡]]・[[遼東郡]]が置


== 先秦 ==
[[前漢]]の時代、漁陽・狐奴・潞・雍奴・泉州・平谷・安楽・傂奚・獷平・要陽・白檀・滑鹽の12県を領し、[[幽州]]に属した。
[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]には[[燕 (春秋)|燕]]により設置されていたことが史料に残る。郡名は漁水(現在の[[白河]])の北岸に位置したことによる。


== 秦代 ==
[[新]]の時代は、通路郡と改名され、県名も漁陽は得漁、狐奴は挙符、潞は通路亭、雍奴・泉州は泉調、平谷・安楽・傂奚は敦徳、獷平は平獷、要陽は要術、滑鹽は匡徳と改められた。
[[紀元前222年|前222年]]、[[秦]]が[[燕 (春秋)|燕]]を滅ぼすと、地に[[上谷郡]]・漁陽郡・[[右北平郡]]・[[遼西郡]]・[[遼東郡]]がた。郡治は[[漁陽県]](現在の[[密雲県]])


==漢代==
[[後漢]]の時代は、漁陽・狐奴・潞・雍奴・泉州・平谷・安楽・傂奚・獷平の9県を領した。[[建武 (漢)|建武]]25年([[49年]])、[[烏桓]]族の大人(たいじん:部族長)郝旦(かくたん)等が後漢に朝貢すると、[[光武帝]]は彼らを幽州の各郡に住まわたので、漁陽郡にも烏桓族が住むようになる。
[[前漢]]は秦制沿襲、[[幽州]]の下、秦の長城から[[渤海湾]]に至る地区を管轄する軍とされた。その後は北方への統治体制が弛緩したことによりその行政範囲は南部に限定され、[[新|新代]]には'''通路郡'''と改称されると同時に北方の行政権を喪失、[[後漢]]には再度'''漁陽郡'''と改称されたが現在の密雲県北部が北限とされた。


[[49年]][[建武 (漢)|建武]]25年)、[[烏桓]]族の大人(たいじん:部族長)郝旦(かくたん)等が後漢に朝貢すると、[[光武帝]]は彼らを幽州の各郡にせ、漁陽郡にも烏桓族が住むようになる。
[[西晋|晋]]の時代、その県のほとんどが[[燕国]]に合併され、漁陽郡はいったん廃止された。


当時の管轄権は下記の通り
[[北魏]]の時代は、雍奴・潞・無終・漁陽・土垠・徐無の6県を領した。
前漢:[[漁陽県]]、[[狐奴県]]、[[潞県]]、[[雍奴県]]、[[泉州県]]、[[平谷県]]、[[安楽県]、[[傂奚県]]、[[獷平県]]、[[要陽県]]、[[白檀県]]、[[滑塩県]]


新:漁陽は得漁県(旧漁陽県)、挙符(旧狐奴)、通路亭(旧潞県)、雍奴県、泉調県(旧泉州)、平谷県、安楽県、敦徳県(旧傂奚)、平獷県(旧)獷平、要術県(旧要陽)、匡徳県(旧滑塩)
[[隋]]の[[開皇]]六年([[586年]])、[[玄州]]に移ったが、[[大業]]([[605年]] - [[618年]])の初めに戻り、無終の1県を領し、[[冀州]]に属した。


後漢:漁陽県、狐奴県、潞県、雍奴県、泉州県、平谷県、安楽県、傂奚県、獷平県
[[唐]]の[[開元]]十八年([[730年]])、[[蘇州]]をとなる。[[天宝 (唐)|天宝]]元年([[742年]])、漁陽郡と改名。[[乾元 (唐)|乾元]]元年([[758年]])、ふたたび薊州となる。漁陽・三河・玉田の3県を領す。

==魏晋南北朝==
[[西晋|晋代]]になると漁陽郡は廃止となり、管轄県は[[燕国]]に移管されている。その後[[北魏]]の時代になると再び漁陽県が設置された。

北魏代の管轄県は下記の通り
;雍奴県、潞県、[[無終県]]、漁陽県、[[土垠県]]、[[徐無県]]

==隋代==
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==唐代==
[[730年]]([[開元]]18年)、漁陽郡は'''薊州'''と改称、[[742年]]([[天宝 (唐)|天宝]]元年)に'''漁陽郡'''と改称されたが、[[758年]]([[乾元 (唐)|乾元]]元年)に再び'''薊州'''と改称され漁陽郡の行政区画名は消滅した。


== 参考資料 ==
== 参考資料 ==

2009年12月25日 (金) 06:30時点における版

中国地名の変遷
建置 秦代
使用状況 唐代に廃止
漁陽郡
前漢漁陽郡
通路郡
後漢漁陽郡
三国漁陽郡
西晋燕国に合併
東晋十六国漁陽郡
南北朝漁陽郡
玄州
漁陽郡
蘇州
漁陽郡
蘇州

漁陽郡(ぎょようぐん)は、中国にかつて存在した。現在の北京市天津市河北省の一部に相当する。


先秦

戦国時代にはにより設置されていたことが史料に残る。郡名は漁水(現在の白河)の北岸に位置したことによる。

秦代

前222年を滅ぼすと、燕の故地に上谷郡・漁陽郡・右北平郡遼西郡遼東郡が設置された。郡治は漁陽県(現在の密雲県)。

漢代

前漢は秦制沿襲、幽州の下、秦の長城から渤海湾に至る地区を管轄する軍とされた。その後は北方への統治体制が弛緩したことによりその行政範囲は南部に限定され、新代には通路郡と改称されると同時に北方の行政権を喪失、後漢には再度漁陽郡と改称されたが現在の密雲県北部が北限とされた。

49年建武25年)、烏桓族の大人(たいじん:部族長)郝旦(かくたん)等が後漢に朝貢すると、光武帝は彼らを幽州の各郡に居住させ、漁陽郡にも烏桓族が住むようになる。

当時の管轄権は下記の通り 前漢:漁陽県狐奴県潞県雍奴県泉州県平谷県、[[安楽県]、傂奚県獷平県要陽県白檀県滑塩県

新:漁陽は得漁県(旧漁陽県)、挙符(旧狐奴)、通路亭(旧潞県)、雍奴県、泉調県(旧泉州)、平谷県、安楽県、敦徳県(旧傂奚)、平獷県(旧)獷平、要術県(旧要陽)、匡徳県(旧滑塩)

後漢:漁陽県、狐奴県、潞県、雍奴県、泉州県、平谷県、安楽県、傂奚県、獷平県

魏晋南北朝

晋代になると漁陽郡は廃止となり、管轄県は燕国に移管されている。その後北魏の時代になると再び漁陽県が設置された。

北魏代の管轄県は下記の通り

雍奴県、潞県、無終県、漁陽県、土垠県徐無県

隋代

唐代

730年開元18年)、漁陽郡は薊州と改称、742年天宝元年)に漁陽郡と改称されたが、758年乾元元年)に再び薊州と改称され漁陽郡の行政区画名は消滅した。

参考資料

  • 漢書』(地理志第八)
  • 後漢書』(郡国志第二十三)
  • 晋書』(地理志上)
  • 魏書』(志第五 地形二上)
  • 隋書』(志第二十五 地理中)
  • 旧唐書』(志第十九 地理二)
  • 新唐書』(志第二十九 地理三)