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「明徳の和約」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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後亀山には既に皇太弟泰成がいるので、両統迭立の最優先は皇太弟である(参考文献の村田氏の著書も泰成の立太子問題と明記されている)
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*[[国衙領]]を大覚寺統の領地とする。
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*[[長講堂領]]を持明院統の領地とする
*[[長講堂領]]を持明院統の領地とする
*皇位は[[両統迭立]]とする(後亀山天皇の弟[[泰成親王]](後亀山の皇太弟)もしくは子である[[小倉宮実仁]]親王の立太子)
*皇位は[[両統迭立]]とする(後亀山天皇の弟[[泰成親王]](後亀山の皇太弟)の立太子)


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2010年1月10日 (日) 11:09時点における版

明徳の和約(めいとくのわやく)とは、明徳3年/元中9年に南朝大覚寺統)と北朝持明院統)間で結ばれた和議と皇位継承について結ばれた協定のこと。明徳の和談元中一統とも。

この和約に従って同年閏10月5日ユリウス暦1392年11月19日)、南朝の後亀山天皇吉野から京都に帰還して、北朝の後小松天皇三種の神器を譲って退位して南北朝の合一が図られた。これによって、建武3年(1336年)以来の朝廷の分裂状態が終了した。

内容

内容は次の4つである。

  • 南朝の後亀山天皇より北朝の後小松天皇への「譲国の儀」における神器の引渡しの実施。
  • 国衙領を大覚寺統の領地とする。
  • 長講堂領を持明院統の領地とする
  • 皇位は両統迭立とする(後亀山天皇の弟泰成親王(後亀山の皇太弟)の立太子)

経緯

50年以上にわたる南北朝の争いは、途中南朝が優勢に立って北朝を一時解体に追い込んだこと(正平一統)もあったものの、北朝を擁立した足利尊氏が開いた室町幕府が全国の武士を掌握するにつれて北朝側優位の流れが次第に固まりつつあった。ことに第3代将軍足利義満の時代になるとその優位は絶対的なものとなり、1392年には楠木正勝が敗れ河内千早城が陥落、南朝は吉野周辺や一部地方に追い込まれていった。

義満は1391年(明徳2年/元中8年)の明徳の乱で有力守護大名の山名氏を弱体化させて武家勢力を統率すると、和泉紀伊守護で南朝と領地を接する大内義弘の仲介で南朝との本格的交渉を開始した。そして3か条(前述)を条件に和睦が成立。1392年(明徳3年/元中9年)に後亀山天皇は京都へ赴いて、大覚寺において神器を譲渡し、南朝が解消される形で南北朝合一は成立した。南朝に属していた公家は一部は北朝で任官したが、官職はすでに北朝の公家で占められており、多くは公家社会への復帰が適わなかったと考えられている。

しかも、この和約は義満ら室町幕府と南朝方でのみで行われたものであったらしく、後小松天皇ら北朝方はその内容は知らされていなかったもしくは合意をしていなかったようである。そのためか、北朝では「譲国の儀」実施や両統迭立などその内容が明らかとなるとこれに強く反発した。後小松天皇は後亀山天皇との会見を拒絶し、平安時代末期に安徳天皇とともに西国に渡った神器が天皇の崩御とともに京都に戻った先例に則って、上卿日野資教権大納言)・奉行日野資藤左大弁)らを大覚寺に派遣して神器を内裏に遷したのである(『南山御出次第』『御神楽雑記』)[1]。2年後に後亀山天皇に太上天皇の尊号を奉る時も、朝廷では足利義満が後小松天皇や公家たちの反対意見を押し切る形で漸く実現したのである。[2]

しかし、1412年応永19年)には後小松皇子の称光天皇が即位して、両統迭立の条件は反故にされている。さらにその後称光の死によって持明院統の嫡流は断絶したにもかかわらず、傍流である伏見宮家から後花園天皇を迎えることで再び約束を反故にした。これに反発した南朝の後胤や遺臣らは、朝廷や幕府に対する反抗を15世紀後期まで続けた。これを後南朝という。

脚注

  1. ^ 足利治乱記』には後亀山天皇と後小松天皇が会見して神器の引き渡しが行われたように記されているが、明治時代三浦周行が『日本史の研究』において、『南山御出次第』『御神楽雑記』など、当日の次第を記した書物が全て神器の還御の手続で行われていることを指摘して、両天皇の会見を根拠のない俗説であると結論付けている。
  2. ^ 村田正志 『村田正志著作集 第1巻増補南北朝史論』 思文閣出版、1983年 P164-178(ただし、初稿は1946年)

関連項目