コンテンツにスキップ

「川崎フロンターレ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
East721 (会話 | 投稿記録)
愛称追加
良虎 (会話 | 投稿記録)
115行目: 115行目:


シーズン中は数々の人事面での問題(特に先述のフッキがらみ)が噴出するも、適切な補強とチーム一丸となった戦いの結果、鹿島、名古屋と首位争いを繰り広げ、シーズン最終戦までリーグ優勝の可能性を残すまでの戦いを見せた。最後まで鹿島を抜くことは出来ず2006年以来の準優勝でシーズンを終えたが、2009年度の[[AFCチャンピオンズリーグ]]へ2年振り2回目の出場権を獲得した。
シーズン中は数々の人事面での問題(特に先述のフッキがらみ)が噴出するも、適切な補強とチーム一丸となった戦いの結果、鹿島、名古屋と首位争いを繰り広げ、シーズン最終戦までリーグ優勝の可能性を残すまでの戦いを見せた。最後まで鹿島を抜くことは出来ず2006年以来の準優勝でシーズンを終えたが、2009年度の[[AFCチャンピオンズリーグ]]へ2年振り2回目の出場権を獲得した。
; フォーメーション(J League Matchday 34)
'''<4-1-2-3>'''
<div style="position: relative;">
[[ファイル:Soccer.Field Transparant.png|350px]]
{{Image label|x=0.42|y=0.10|scale=350|text=[[川島永嗣|<span style="font-size: smaller; color: black;">'''川島永嗣'''<br /># 1</span>]]}}
{{Image label|x=0.07|y=0.36|scale=350|text=[[森勇介|<span style="font-size: smaller; color: maroon;">'''森勇介'''<br /># 19</span>]]}}
{{Image label|x=0.33|y=0.32|scale=350|text=[[井川祐輔|<span style="font-size: smaller; color: maroon;">'''井川祐輔'''<br /># 4</span>]]}}
{{Image label|x=0.60|y=0.32|scale=350|text=[[寺田周平|<span style="font-size: smaller; color: maroon;">'''寺田周平'''<br /># 13</span>]]}}
{{Image label|x=0.80|y=0.36|scale=350|text=[[伊藤宏樹|<span style="font-size: smaller; color: maroon;">'''伊藤宏樹'''<br /># 2</span>]]}}
{{Image label|x=0.40|y=0.50|scale=350|text=[[菊地光将|<span style="font-size: smaller; color: #fff;">'''菊地光将''' <br /># 17</span>]]}}
{{Image label|x=0.27|y=0.77|scale=350|text=[[中村憲剛|<span style="font-size: smaller; color: navy;">'''中村憲剛'''<br /># 14</span>]]}}
{{Image label|x=0.64|y=0.77|scale=350|text=[[谷口博之|<span style="font-size: smaller; color: navy;">'''谷口博之'''<br /># 29</span>]]}}
{{Image label|x=0.11|y=0.9|scale=350|text=[[レナチーニョ|<span style="font-size: smaller; color: gold;">'''レナチーニョ''' <br /># 34</span>]]}}
{{Image label|x=0.47|y=1|scale=350|text=[[鄭大世|<span style="font-size: smaller; color: gold;">'''鄭大世'''<br /># 9</span>]]}}
{{Image label|x=0.74|y=0.9|scale=350|text=[[ジュニーニョ|<span style="font-size: smaller; color: gold;">'''ジュニーニョ'''<br /># 10</span>]]}}
</div>


==== 2009年 ====
==== 2009年 ====
142行目: 126行目:


リーグ戦では中盤以降の鹿島の不調もあり、リーグ終盤に首位に立つが第32節に大分に敗戦、鹿島に再度首位を明け渡した。優勝は最終節までもつれ込み、「川崎が勝ち、なおかつ鹿島が引き分け以下でなければ川崎の優勝はない」という状況だったが、12月5日の最終節で柏に3-2で勝利したが、鹿島が浦和に勝ったため鹿島の優勝が決まり、川崎は2年連続で優勝を逃した。そしてその後行われた12月12日の天皇杯での仙台戦に敗れ、念願だったタイトル奪取はとうとう果たされず、関塚監督も無冠に終わった責任を取る形で辞任するに至った。
リーグ戦では中盤以降の鹿島の不調もあり、リーグ終盤に首位に立つが第32節に大分に敗戦、鹿島に再度首位を明け渡した。優勝は最終節までもつれ込み、「川崎が勝ち、なおかつ鹿島が引き分け以下でなければ川崎の優勝はない」という状況だったが、12月5日の最終節で柏に3-2で勝利したが、鹿島が浦和に勝ったため鹿島の優勝が決まり、川崎は2年連続で優勝を逃した。そしてその後行われた12月12日の天皇杯での仙台戦に敗れ、念願だったタイトル奪取はとうとう果たされず、関塚監督も無冠に終わった責任を取る形で辞任するに至った。

; 2009年シーズン基本フォーメーション
'''<4-4-2>''' 数字は背番号、(C)はゲームキャプテン
<div style="position: relative;">
[[ファイル:Soccer.Field Transparant.png|350px]]
{{Image label|x=0.42|y=0.10|scale=350|text=[[川島永嗣|<span style="font-size: smaller; color: #c00;">'''1. 川島永嗣'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.07|y=0.36|scale=350|text=[[森勇介|<span style="font-size: smaller; color: navy;">'''19. 勇介'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.27|y=0.32|scale=350|text=[[菊地光将|<span style="font-size: smaller; color: navy;">'''17. 菊地光将'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.53|y=0.32|scale=350|text=[[伊藤宏樹|<span style="font-size: smaller; color: navy;">'''2. 伊藤宏樹'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.73|y=0.36|scale=350|text=[[村上和弘|<span style="font-size: smaller; color: navy;">'''26. 村上和弘'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.27|y=0.55|scale=350|text=[[横山知伸|<span style="font-size: smaller; color: yellow;">'''18. 横山知伸'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.67|y=0.80|scale=350|text=[[中村憲剛|<span style="font-size: smaller; color: yellow;">'''14. 中村憲剛 (c)'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.53|y=0.55|scale=350|text=[[谷口博之|<span style="font-size: smaller; color: yellow;">'''29. 谷口博之'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.13|y=0.80|scale=350|text=[[レナト・カルロス・マルティンス・ジュニオール|<span style="font-size: smaller; color: white;">'''34. レナチーニョ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.27|y=1|scale=350|text=[[鄭大世|<span style="font-size: smaller; color: white;">'''9. 鄭 大世'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.53|y=1|scale=350|text=[[カルロス・アルベルト・カルヴァリョ・ドス・アンジョス・ジュニオル|<span style="font-size: smaller; color: white;">'''10. ジュニーニョ'''</span>]]}}
</div>


==== 2010年 ====
==== 2010年 ====
関塚の監督辞任を受けた翌日、クラブはヘッドコーチの高畠勉に監督就任を要請し、高畠は2度目の監督就任となった。
関塚の監督辞任を受けた翌日、クラブはヘッドコーチの高畠勉に監督就任を要請し、高畠は2008年シーズンに続き2度目の監督就任となった。コーチ陣ではフィジカルコーチの[[里内猛]]がクラブを離れたが、U-18で指導に当たっていたクラブOBの[[鬼木達]]がトップチームコーチとして新たに迎えられた。

3シーズンに渡って左サイドを支えた[[村上和弘]]が大宮へ移籍。代わって横浜FMより[[小宮山尊信]]が完全移籍にて加入した。またフロントが補強の最重要ポイントとしていた[[ミッドフィールダー#守備的ミッドフィールダー|ボランチ]]に、9年ぶりのJリーグ復帰となる[[稲本潤一]]の獲得に成功した。その他、[[佐原秀樹]]がFC東京への期限付き移籍から2年ぶりに復帰した。一方で前シーズン限りでの契約満了選手は[[吉原慎也]](のち[[柏レイソル]]に加入)のみ。また十分な出場機会を得られていなかった[[山岸智]]や[[養父雄仁]]、[[久木野聡]]・[[杉浦恭平]]といった若手選手がそれぞれ期限付き移籍で一旦クラブを離れた。


== 地域密着 ==
== 地域密着 ==

2010年1月15日 (金) 07:36時点における版

川崎フロンターレ
原語表記 川崎フロンターレ
愛称 フロンターレ、イルカ
クラブカラー サックスブルー、ブラック、ホワイト
創設年 1955年
所属リーグ Jリーグ
所属ディビジョン ディビジョン1 (J1)
ホームタウン 神奈川県川崎市
ホームスタジアム 等々力陸上競技場
収容人数 25,000
運営法人 株式会社川崎フロンターレ
代表者 武田信平
監督 高畠勉
公式サイト 公式サイト
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ
等々力陸上競技場メインスタンド
川崎フロンターレ試合風景 (2006年11月26日)

川崎フロンターレ(かわさき - 、Kawasaki Frontale)は、日本神奈川県川崎市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するサッカークラブ。

1955年富士通サッカー部として設立。1997年にJリーグへ準会員加盟し、1999年に同正式加盟。ホームタウン神奈川県川崎市。ホームスタジアムは中原区等々力陸上競技場。練習は同市内麻生区川崎フロンターレ麻生グラウンドを使用する。

チーム名の「フロンターレ (Frontale)」はイタリア語で「正面の、前飾り」を意味し、常に最前線で挑戦し続けるフロンティアスピリッツ、正面から正々堂々と戦う姿勢を表現したものである。ちなみに富士通にはアメリカンフットボールチームの富士通フロンティアーズXリーグ所属。1985年創設・チーム名制定)、女子バスケットボール富士通レッドウェーブWリーグ・1985年創部)、富士通バレーボール部V・チャレンジリーグ男子)があり、すべて川崎市を本拠地としている。

歴史

前身(1955年〜1996年)

富士通サッカー部は中原区の国鉄(現JR東日本南武線武蔵中原駅前にある川崎工場の従業員を中心に設立され、1967年関東サッカーリーグ発足時のオリジナルメンバーとなった。1972年日本サッカーリーグ(JSL)の2部に昇格し、1976年にはGKで主将を務めた小浜誠二の活躍もあって同1部に昇格した。しかし1部からは2年後に降格し、その後はJSL2部での活動が続いた。この1部昇格時を含む1973年から1991年八重樫茂生が監督または総監督を務め(中断期を含む)、富士通サッカー部の基礎を築いた。

Jリーグとしてのトップリーグのプロ化には参加せず、1992年からは企業内チームのまま旧JFLに参加した。1988-1995年には元中国代表の沈祥福2002年W杯中国代表コーチ、2004年アテネ五輪予選中国代表監督)が選手・コーチとして活躍し、他チームのプロ化が進むJFLで中位の維持に貢献した。外国人選手を除くと大学のサッカー部からの選手補強が多く、選手は富士通所属の社員選手となってアマチュア契約でプレーをしていた。

等々力や大和などで主催試合を行い、特にホームタウンを決めずに活動を続ける富士通を母体としたJリーグクラブ創設の動きは水面下で存在し、富士通の工場がある栃木県小山市などでは誘致の動きも噂されたが、結局富士通本社は自らの手による川崎市でのJリーグ挑戦を選択した。沈が中国へ帰国し、1983-1989年に選手として富士通サッカー部でプレーした城福浩が監督となった1996年シーズンにクラブは「富士通川崎サッカー部」へ改称し、続いて10月にJリーグ参入宣言を行い、11月21日に運営会社「富士通川崎スポーツ・マネジメント」を設立してチームを法人化した。クラブは9位に終わったチームの実力を引き上げて翌年のJFLでJリーグ昇格条件の2位以内に入るための大型補強を開始すると共に、ブラジルの名門サッカークラブ・グレミオとの業務提携を行う事も発表した。ちなみに、現在のチームカラーが水色と黒なのは、グレミオのチームカラーを模した名残である。また、この年の第76回天皇杯では3回戦でジェフユナイテッド市原を下し、初めて公式戦でJリーグのクラブを倒した。城福監督は翌シーズンの続投を希望したが容れられず、富士通の社業に専念する事になった[1]

1997年〜1998年(JFL)

1997年

1997年には現在のチーム名となり、Jリーグ準会員と認められた。1976年のJSL1部昇格の中心だった小浜が常務として事実上の責任者となり、富士通からの豊富な資金力を利用して、名古屋グランパスエイト中西哲生ベルマーレ平塚ベッチーニョ等、多くの選手をJリーグの各クラブから獲得し、富士通川崎時代のレギュラーだった伊藤彰小松崎保源平貴久などの富士通社員選手を控えに回して、1年でのJリーグ昇格を目指した。リーグの上位グループに着け、後半戦には野口幸司長谷部茂利を追加補強し昇格を狙いに行ったが、同9月の上位チームとの直接対決でコンサドーレ札幌(5月に続きバルデスハットトリック)・東京ガスサッカー部アマラオの4ゴール)・本田技研サッカー部に3連敗。斉藤和夫監督が辞任するなど終盤でチームが傾き、最終成績で札幌・東京ガスに次ぐ3位に留まり、わずか勝ち点1の差でJリーグ昇格を逃した。

1998年

捲土重来を期した1998年シーズンには何人かの元Jリーガーが退団する一方、鹿島アントラーズから鬼木達が加わり、シーズン序盤にゴールを量産したヴァルディネイや途中退団のベッチーニョに代わって入団したツゥットなどのブラジル人FWが活躍した。グレミオ留学から復帰した佐原秀樹も試合に出場し、社員選手でも川元正英久野智昭がレギュラーを獲得し、チームの総合力向上に成功した。最終節のソニー仙台FC戦で敗れてJFL優勝は東京ガスにさらわれたが、JFL準優勝となり、J1参入決定戦に参戦した。しかし、アウェイでの一発勝負となった1回戦のアビスパ福岡戦(東平尾公園博多の森球技場)では、後半ロスタイムに同点とされると、延長前半13分にVゴールにより逆転負けを喫し、再びJ1参入を逃すことになった(博多の森の悲劇)。

1999年(J2)

Jリーグディビジョン2 (J2) で迎える事になった1999年岩本輝雄の補強が注目されたが、前年の昇格失敗でも契約を延長したベット監督のチームは序盤で出遅れた。しかし、メキシコシティオリンピックで銅メダルを獲得し、そのチームの主将だった八重樫から就任を要請された松本育夫新監督が4月の第6節から指揮を執ると一気に盛り返し、新加入のティンガ柏レイソルから途中補強したDF森川拓巳などが勝利に貢献した。

松本監督の構想から外れた岩本などの出場機会が減ることもあったが、チームは順調に勝ち点を伸ばし、11月5日サガン鳥栖戦(等々力)で浦田尚希が延長Vゴールを決めて2-1と勝利し、J2の2位以内を確定して悲願のJ1昇格を果たした(11月8日にはFC東京大宮アルディージャに敗れ、他力でのJ2優勝も決定)。開幕当初の岩本に代わり、松本新監督により再び主将に任命された中西によるインターネット上の日記は、前年のJ1参入決定戦を取り上げた金子達仁のルポルタージュと合わせて『魂の叫び』として出版され、引退後の中西がメディアで活躍する契機となった。また、この年には初のマスコットとしてふろん太が発表され、5月には練習場が東京都稲城市にある富士通南多摩工場の敷地内の「富士通南多摩グラウンド」(2005年の工場閉鎖後に稲城市営南多摩スポーツ広場に移管・改称)から、川崎市麻生区片平にある麻生グラウンド(旧・大東学園高等学校グラウンド)に移転。さらに市内全体での広報活動を強化し、川崎市も市民後援会を発足させるなど行政の後押しも加わった。

2000年(J1)

J1での活躍が期待された2000年シーズンは惨憺たる結果となった。松本監督は社長となり、後任としてブラジル人ヘッドコーチのゼッカが新監督に就任。現有戦力の大幅な見直し(岩本のヴェルディ川崎移籍など)と有力選手の大量獲得(鹿島から鈴木隆行マジーニョ・鬼木達(再移籍))、パラグアイ代表MFアルバレンガ、元日本代表FW森山泰行等)を行ったが、従来の選手と新加入選手との融合が全く図れず、実権のない社長に棚上げされた松本と副社長兼強化責任者の小浜の対立が表面化し、富士通出身の杉本聰ゼネラルアドバイザー(前社長)により小浜副社長中心の体制で運営を進めることが確認されるなど、チーム内での不協和音が増加した。

また、外国人を入れ替える方針によりFC東京へと放出(レンタル移籍)したFWツゥットが大活躍し、同期昇格ながら低迷する川崎とは対照的にFC東京がJ1で躍進した原動力となった事も、サポーターから生じた厳しい批判の一因となった。チーム再建を目指した二度にわたる監督の交代なども逆に混乱を増幅させ、結局J1の年間総合順位では最下位(16位)となって、わずか1年でJ2へ降格することになった(Jリーグで入れ替え戦始まって以来、初の1シーズン降格チームとなった)。この年の川崎の失敗は大量補強による機能不全の悪例として、その後のJ1昇格クラブへの反面教師となった。

また、この年限りで東京都調布市東京スタジアム(現:味の素スタジアム)への本拠地移転を表明していたヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)との「川崎ダービー」がようやく実現したものの、さほど盛り上がりは見られなかった。

しかし、ヤマザキナビスコカップでは鹿島に次ぐ準優勝となり、入団2年目のFW我那覇和樹が優秀新人賞を獲得した。ファーストステージ最終節では当時首位だったセレッソ大阪を浦田の延長Vゴールにより2-1で下して眼前での優勝を阻止し、1stステージでは関西4チームに負けなかったなど、明るいニュースもあった。

そして、このシーズン後に再びチーム改革が行われ、松本社長・小浜副社長のほか、この年の主将だった奥野僚右、JFL時代からチームの顔だった中西など、多くの選手やスタッフがクラブを去った。

2001年〜2004年(J2)

2001年

2001年には、チーム再生プロジェクトが始動し、新監督・堀井美晴のもと、前年に札幌へレンタル移籍していたブラジル人FWエメルソンサンパウロFCから完全移籍により獲得して1年でのJ1返り咲きを狙った。しかし、前半戦で黒星を重ねて昇格争いから事実上脱落すると、シーズン後半の7月からは石崎信弘新監督の就任、エメルソンの浦和レッドダイヤモンズ移籍で再出発を強いられた。その中で、新人DFの伊藤宏樹がJ2リーグ最終戦の出場停止以外、全ての公式戦にフル出場したのは好材料だった。そしてこの年の11月、約半数の選手を戦力外とする異例の人事を断行したが、その後に行われた第81回天皇杯ではベスト4の成績を収めた。その際に出場したメンバーの半数以上が戦力外通告を受けていたため「リストラ選手の活躍」と話題になった。なお、最終節のモンテディオ山形戦では浦上壮史の好セーブ連発と我那覇の延長Vゴールにより1-0で勝利し、山形のJ1昇格を阻止した[2]

一方、クラブでは経営陣のトップが一新された。富士通からの支援資金が削減される中、新社長の武田信平をはじめとした首脳陣は長期的視野に立った運営に着手、2002年には運営会社名を「富士通川崎スポーツマネジメント」から「株式会社 川崎フロンターレ」へ変更し、川崎市や他企業およびサポーター持株会などからの資本受け入れを実施した。また、川崎市も資本参加に本格的に乗り出し、他方で市民後援会とフロンターレファンクラブの統合などによりクラブとの関係を強化していった。

2002年

2002年、ベンチーニョマルキーニョマーロンアレックスなどのブラジル人選手が攻撃を担い、中盤にはヴィッセル神戸からレンタル移籍した茂原岳人が加わった。さらに、岡山一成をDFとして獲得し守備力を強化。石崎監督のプレス戦術も浸透し、勝ち点を多く積み上げたが、前半戦の出遅れが最後まで挽回できず、終盤で昇格争いから脱落した。

2003年

2003年はブラジルのパルメイラスから獲得したFWジュニーニョが我那覇とともに前線で活躍、また鹿島から移籍したDFアウグストも攻守にわたりチームをまとめ上げた。またかつての強敵だった元札幌のFWバルデスを獲得したが、既に高齢だった事もあり十分な活躍は出来ず、シーズン途中で退団した。日本人の新加入選手では、前年J1に昇格した大分トリニータから石崎監督のためにと移籍し再びJ2でプレーした山根巌、新人ながら主に途中交代要員として全試合でベンチ入りした中村憲剛などのMFが多くの試合に出場した。だが、シーズンを通じての引き分けの多さが響き、最終的にはまたしても「勝ち点1」差での3位に終わり、石崎監督はこの年限りで辞任した。しかし天皇杯ではJ1クラブを次々と倒し、2002年はベスト8、2003年もベスト16とその実力を示し、「カップ戦に強いフロンターレ」を印象付けた。

2004年

石崎の後任監督として鹿島でコーチを務めていた関塚隆を招聘、また同じく鹿島で長年プレーしたベテランDF相馬直樹を獲得。さらにアルビレックス新潟から2年連続でJ2リーグ得点王に輝いたマルクスを補強し、戦力に厚みを増したこのシーズンは、前年以上の圧倒的な攻撃力で開幕直後からJ2で首位を独走。同年9月26日那珂市笠松運動公園陸上競技場での水戸ホーリーホック戦に2-1で勝利し、残り8試合というスピード記録で5年ぶりのJ1昇格を決定した。さらに同年10月2日に地元で開かれた横浜FC戦にも4-0で完勝し、1999年以来5年ぶり2度目のJ2優勝を確定。これも残り7試合というスピード記録だった。また同シーズンはジュニーニョがハイペースでゴールを量産、最終的には39試合出場で37得点を記録してJ2得点王に輝いた。

その後は「勝ち点100、得点100」を目標に残りゲームを戦ったが、11月23日のホームゲーム最終戦となるヴァンフォーレ甲府戦での3-0の勝利でこれを達成し、リーグ最終戦となる11月26日の鳥栖戦(鳥栖)も3-0で勝利して、最終勝ち点105、得点104の「ダブル・トリプル」でシーズンを締めくくった。また、この年の天皇杯では4回戦で神戸を3-2で降し、5回戦では鹿島に敗れベスト16に終わったものの、一時は2点差のリードを奪うなどJ1チームを相手に互角の勝負を展開した。

2005年〜2010年(J1)

2005年

J1昇格を機に、地域密着にさらに力を入れるため、エンブレムから「FUJITSU」という企業名を外し、5年ぶりのJ1シーズンを迎えた。

2000年の反省を踏まえ、前年J2リーグを圧倒的な力で勝ち抜いた現有戦力をベースにし、若干名の補強選手を加えて臨んだが、序盤戦は試合終了間際に失点を喫する試合が続き、中盤戦は攻撃陣に怪我人が相次いだ影響もあり勝ちきれない試合が多かった。しかし、8月の中断期間中に行ったキャンプで戦術を熟成した結果チーム状態が好転、終盤戦ではチーム新記録となる6連勝を記録し、鹿島に初勝利するなどの快進撃を見せた。その間には、地元川崎市出身のDF箕輪義信が日本代表に招集され、一躍注目を浴びた。最終戦でガンバ大阪に敗れ(この勝利でガンバは逆転優勝を決めた)、最終成績は8位。福家三男GMがシーズン当初に掲げた目標の5位とは勝ち点差3、賞金獲得圏の7位以内には得失点差1でわずかに及ばなかったが、最低条件の「J1残留」を裕にクリアする成績は翌シーズンへの弾みとなった。その後天皇杯でも2年ぶりにベスト8へ進出するなど、昇格初年度としては健闘が目立った一年だった。

2006年

アウグストが退団、相馬・久野が現役を引退し手薄となった左サイドに新外国人マルコンを獲得。開幕戦の新潟戦で我那覇のハットトリックなどにより6-0、第2節の京都パープルサンガ戦でもジュニーニョのハットトリックを含む7-2で下し、開幕2試合で13得点のJリーグ新記録を打ち立てて好スタートを切った。

3月末には所属選手の不祥事が発覚するトラブルがあったもののその後も好調をキープし、ドイツW杯前の中断期間を暫定ながら首位で折り返した。中断期間中に攻撃の要の1人だったマルクスが東京Vに移籍したが、その補充としてMFマギヌンを獲得し、引き続き厚みのある攻撃力を武器に優勝争いを繰り広げた。ドイツW杯終了後にイビチャ・オシム監督が就任した日本代表に我那覇、続いて中村憲剛が初招集され、それぞれ代表デビューを果たした。終盤浦和やG大阪との直接対決で一時調子を落とすも、最終節でG大阪を抜いて2位で終了。J1昇格2年目とは思えない結果を残した。ジュニーニョ、我那覇、中村、谷口博之の4選手がリーグ戦で2ケタ得点を挙げるなど、チーム合計84ゴール(リーグ1位)という圧倒的な攻撃力を全国に知らしめた。中村と谷口は同年のJベストイレブンに選出。また、シーズン18得点を叩き出した我那覇が日本人得点王(タイ記録)となった。

昨季の天皇杯で優勝し既にAFCチャンピオンズリーグ(ACL)出場権を得ている浦和がリーグ戦で優勝したため、規定により2007年度のACLへの出場権を獲得した(天皇杯前年度優勝クラブとJ1年間リーグ優勝クラブが同一クラブの場合、J1の年間準優勝クラブが繰り上げ出場となるため)。

2007年

シーズン前最初の練習試合で新加入のフランシスマールが左膝靱帯断裂の重傷を負ったが、3月3日のJ1リーグ開幕戦(等々力)で鹿島アントラーズを下し、4月15日の第6節(等々力)にはチーム史上初めて清水エスパルスに勝利、続く4月21日に埼玉スタジアム2002で行われた第7節では、浦和レッズのホーム連続不敗のJリーグ記録を25試合で止めた。[3]

ところが、浦和戦でシーズン初ゴールを決めた我那覇和樹が、試合後の23日に受けた疲労回復の静脈注射(点滴)がJリーグのドーピング(禁止薬物使用)規定違反と認定され、自粛期間を含めて公式戦6試合の出場停止、チームにも1000万円の罰金となった。我那覇は5月19日の第12節・大分トリニータ戦から復帰したが、その後も精彩を欠き、年間を通じて1ゴールのみに終わった。この問題はその後も尾を引き、結局は2008年にスポーツ仲裁裁判所で審理される事になったが,仲裁の結果は我那覇にドーピングの事実が認められないとされ、かつ、Jリーグ側に仲裁費用の負担を求める異例の裁定となった。

勢いに冷水を浴びせられた川崎は、以後のリーグ戦で安定感を欠いた。多摩川クラシコとして共同キャンペーンを展開し盛り上げを計ったFC東京戦の2試合(5月6日・第10節(等々力)で5-2、10月28日・第30節(味の素スタジアム)で7-0)など大量点で圧勝する試合と、守備が耐えきれずに接戦で勝ちきれない試合が錯綜した。名古屋から獲得したGK川島永嗣は全34試合フル出場を果たし、我那覇に代わり先発で起用されたプロ2年目の鄭大世は12ゴールと飛躍、22ゴールのジュニーニョは2004年のJ2に続きJ1でも得点王に輝いたが、我那覇のゴール相当分が減少しながら66得点でリーグ2位の攻撃力と、リーグ11位の48失点のアンバランスが解消できず、8月から9月の不調でリーグ優勝が遠のいてしまった川崎は、前年を下回る5位でシーズンを終了した。

一方、初出場のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)のグループリーグでは順調に勝ち点を重ねた。5月11日の第5節、等々力でのアレマ・マラン戦に3-0で勝利し、F組1位でJリーグ勢初のグループリーグ突破を決めた。[4]しかし、9月19日と26日の準々決勝ではセパハンにPK戦で敗退した(国際試合の項も参照)。 また、この合間に行われた9月23日のJ1リーグ第26節・柏レイソル戦(柏)では、アウェー・イスファハンでのセパハンとの第1戦から先発選手8人を入れ替えて臨み、0-4と大敗した。イランからの帰国時にUAEのドバイまでのチャーター便費用を補助していたJリーグ専務理事(当時)の犬飼基昭は、ACLプロジェクトチームを主宰していたこともあり「ベストメンバーの出場を求めた自分達への背信行為であってサポーターへの裏切り行為だ」と主張し怒りを顕わにした。川崎側は当該試合の前にJリーグ事務局へ予めベストメンバー規定に抵触していない旨を事前確認しており、川崎サポーターはこの批判が選手起用への越権介入であると反発した。これによって、先のJリーグドーピング冤罪事件で生じた、Jリーグ事務局とサポーターとの溝はさらに深いものとなった。また、川崎は勝ち残っていた浦和に情報を提供し[5]、浦和は決勝でセパハンを下して優勝した。優勝後、浦和は川崎の協力について感謝すると述べた。

J1リーグ優勝が難しくなり、ACLチャンピオンズリーグでも敗退が決まると、ナビスコ杯と天皇杯が残された。準々決勝から登場した[6]ナビスコ杯ではヴァンフォーレ甲府と横浜F・マリノスを破って7年ぶりに決勝に進んだが、11月3日の決勝(国立)ではガンバ大阪の安田理大にゴールを奪われて0-1で敗れた。その直後から始まった天皇杯でも6年ぶりのベスト4進出を果たしたものの、12月29日の準決勝で鹿島アントラーズに0-1で敗れ、シーズンの大きな目標だった「タイトル獲得」はあと一歩でならなかった。

日本代表では、中村憲剛がオシム監督から厳しい指摘を受けながらも起用され続け、7月のAFCアジアカップでは準決勝まで5試合連続で先発起用された。また、GK川島もこの大会に招集された(出場はなし)ほか、代表候補合宿には森勇介黒津勝も初招集された(正式メンバー登録はならず)。FW鄭大世は本人が強く希望していたサッカー朝鮮民主主義人民共和国代表(北朝鮮代表)に初選出され、6月の東アジアサッカー選手権2008予選大会では3試合8得点で得点王となり、翌年2月の本大会進出に貢献した。

2008年

シーズン前に開催された新体制発表会見がミューザ川崎にて初開催され、クラブの初タイトルとフェアプレイ賞獲得が公約された。

2008年シーズンは、まずMFマギヌンの名古屋への移籍があったものの、東京Vへ期限付移籍していた吉原慎也フッキらがチームに復帰し、ジェフ千葉より山岸智を獲得した。また、新人は青山学院大学からMF田坂祐介駒澤大学からMF菊地光将野村證券の内定を断ってプロサッカーへの道を選択した早稲田大学のDF・横山知伸、下部組織よりトップチームへ昇格のDF吉田勇樹(後にU-19日本代表に選出)らが加入。特にフッキの復帰や山岸の加入に伴い、川崎の持ち味である攻撃的サッカーの熟成が期待された。

しかし地元・等々力での開幕戦となった東京ヴェルディ戦で試合終盤に追いつかれドローに終わると、続くヴィッセル神戸戦を1-4で大敗するなど、明らかに連携面が不十分であることを露呈してしまう。そして神戸戦での起用法を不満としたフッキが4月2日に電撃退団、前年のレンタル移籍先であった東京Vへ完全移籍した。その後の千葉戦と札幌戦に連勝するものの、安定感を欠いた戦いを強いられる。そしてそんなチームに追い打ちをかけるようにチームの苦戦、フッキによる一連の騒動による心労、かねてから罹患していた持病の不整脈の悪化もあり、関塚が検査入院のため離脱。結果入院こそ免れたものの、ドクターストップがかかり指揮を執ることが不可能となり、同月24日に監督を辞任。これを受けてヘッドコーチの高畠勉が監督に昇格となった。

一方、5月27日には我那覇和樹が、スポーツ仲裁裁判所(CAS)にJリーグが科した処分(ドーピング禁止規定違反)の取り消しを求めた問題で、スポーツ仲裁裁判所は我那覇和樹の訴えを認める裁定を下した(ただし、Jリーグ側は誤訳を盾に我那覇本人、及び当時のチームドクター後藤氏への正式な謝罪は未だ行われていない)。

6月21日には箕輪義信をコンサドーレ札幌へ期限付で放出するも、7月8日にはサントスMFのヴィトール・ジュニオールを期限付移籍で獲得し、初出場のアウェイでの浦和レッズ戦で1ゴール・1アシストと華やかなデビューを飾り、チームも勝利。この勝利を境にチームの状態は徐々に上向きとなり、首位を走る鹿島を追走するようになる。7月29日にはFW都倉賢をザスパ草津に期限付で放出するも、8月5日にはサントスのFW・レナチーニョを期限付移籍で獲得した。

長年の地域密着活動が実を結び、8月には川崎フロンターレ後援会の会員数が初の2万人を突破。また、この頃から等々力陸上競技場の老朽化および混雑による危険性が声高に叫ばれるようになり、行政に対し競技場の全面改修を求める請願書の提出の一環として、シーズン終盤に10万筆目標の署名活動が展開された(最終的に15万4020筆を集め、2月18日に川崎市へ提出された)。

シーズン中は数々の人事面での問題(特に先述のフッキがらみ)が噴出するも、適切な補強とチーム一丸となった戦いの結果、鹿島、名古屋と首位争いを繰り広げ、シーズン最終戦までリーグ優勝の可能性を残すまでの戦いを見せた。最後まで鹿島を抜くことは出来ず2006年以来の準優勝でシーズンを終えたが、2009年度のAFCチャンピオンズリーグへ2年振り2回目の出場権を獲得した。

2009年

AFCチャンピオンズリーグへ出場する2009年シーズンは、体調が回復した関塚が再び監督に就任、昨年途中から指揮を執った高畠は再びヘッドコーチに就任した。

また、長年に渡って主力として活躍した我那覇と箕輪がそれぞれヴィッセル神戸、札幌に完全移籍したほか、前年に戦力外となった原田拓ロアッソ熊本へ、大橋正博Kリーグ江原FCへ、レンタル移籍だった都倉賢ザスパ草津)、西山貴永ベガルタ仙台)が完全移籍するなど7選手が退団。また、FC東京にレンタル移籍していた佐原秀樹のレンタル期間が1年延長された。

主な補強はセレッソ大阪へ期限付移籍していた相澤貴志の復帰、新戦力として、特別指定選手として2004年2005年に所属していた清水矢島卓郎を完全移籍で獲得(事実上の古巣復帰)、レンタル移籍だったヴィトール・ジュニオールを完全移籍で獲得、ジュニーニョも契約期間延長するなど攻撃陣を中心に選手を獲得した(なお、前年に東京Vのレンタル移籍から復帰した吉原慎也がジュビロ磐田へ再度レンタル移籍)。

2009年のヤマザキナビスコカップは決勝まで進んだが、2000年、2007年に続き今回も準優勝に終わった。この決勝戦後の表彰式において、協会名誉総裁の高円宮妃久子はじめ協会幹部やスポンサー関係者の前にもかかわらず、川崎フロンターレの一部選手が「首にかけて頂いた準優勝メダルを外す行為」、「握手を拒む行為」、「壁に寄り掛かかんだり、しゃがみ込む行為」、「ガムを噛みながらの表彰式参加」といった不適切な行動[7]をとったことが問題となり、川淵三郎協会名誉会長や鬼武健二チェアマンから大きく批判された[8]。これを受けて川崎は謝罪を行ない[7]、準優勝賞金5000万円の自主返還を申し出て、武田信平社長ら役員3人の減俸、森勇介の最低1試合の出場停止などの処分が発表された[9]。詳細は2009年ナビスコカップ表彰式での悪態騒動を参照されたい。

リーグ戦では中盤以降の鹿島の不調もあり、リーグ終盤に首位に立つが第32節に大分に敗戦、鹿島に再度首位を明け渡した。優勝は最終節までもつれ込み、「川崎が勝ち、なおかつ鹿島が引き分け以下でなければ川崎の優勝はない」という状況だったが、12月5日の最終節で柏に3-2で勝利したが、鹿島が浦和に勝ったため鹿島の優勝が決まり、川崎は2年連続で優勝を逃した。そしてその後行われた12月12日の天皇杯での仙台戦に敗れ、念願だったタイトル奪取はとうとう果たされず、関塚監督も無冠に終わった責任を取る形で辞任するに至った。

2009年シーズン基本フォーメーション

<4-4-2> 数字は背番号、(C)はゲームキャプテン

2010年

関塚の監督辞任を受けた翌日、クラブはヘッドコーチの高畠勉に監督就任を要請し、高畠は2008年シーズンに続き2度目の監督就任となった。コーチ陣ではフィジカルコーチの里内猛がクラブを離れたが、U-18で指導に当たっていたクラブOBの鬼木達がトップチームコーチとして新たに迎えられた。

3シーズンに渡って左サイドを支えた村上和弘が大宮へ移籍。代わって横浜FMより小宮山尊信が完全移籍にて加入した。またフロントが補強の最重要ポイントとしていたボランチに、9年ぶりのJリーグ復帰となる稲本潤一の獲得に成功した。その他、佐原秀樹がFC東京への期限付き移籍から2年ぶりに復帰した。一方で前シーズン限りでの契約満了選手は吉原慎也(のち柏レイソルに加入)のみ。また十分な出場機会を得られていなかった山岸智養父雄仁久木野聡杉浦恭平といった若手選手がそれぞれ期限付き移籍で一旦クラブを離れた。

地域密着

富士通川崎サッカー部は1996年にプロ化を推進するにあたり、Jリーグの理念に沿った地域社会との共生を目指すことを大テーマに掲げた。選手には「プロだから」という特別な意識・扱いをせず、地元川崎市の各行政区でのサッカースクール(学校巡回スクール含む)の実施といったサッカーに関わることだけでなく、地域の市民・区民まつりへの参加、市内各商店街等の行事への選手らの派遣(お年始など)、また地元商店街加盟店舗などの協賛によるマン・オブ・ザ・マッチの表彰制度「あんたが大賞」、週末のホームゲームでのサイン会等を積極的に行うように務めた。特に、クリスマスシーズンに行われる入院児への訪問活動「青いサンタクロースは毎年恒例の奉仕活動として定着しており、社会的な評価も高い。なお、フロンターレでは地域密着活動への参加については選手との契約条件に盛り込まれていると言われている。

一方、ホームタウンである川崎市も、「プロスポーツの根付かない街」の汚名を返上し、市民意識の一体化を進める目的で、このようなクラブの働きかけに呼応すべく2004年9月に「川崎市ホームタウンスポーツ推進パートナー」を制定。フロンターレはこの創設メンバーとして認定を受け、これに基づく活動を推進していくことになった。また、その中で、川崎市は他の地元企業・団体、またサポーター持株会と共に、運営会社(当時の富士通川崎スポーツマネジメント)の株式の一部を取得した。

2006年はクラブ創立10周年に当たり、記念行事を通じてより一層の地域密着を図ろうとした。その一つとして、川崎市商店街連合会を通じ、市内の全商店街の街灯にチームの応援タペストリー(ふろん太のデザイン)を配布し、川崎市民全体へのアピールと地元からの支援体制強化を図っている。2006年1月の時点では、タペストリー掲示を了解したのが加盟全139団体(商店街以外を含む)中68団体と紹介されている。

また広報担当者のインタビュー記事には、後援会員の75%が等々力競技場と富士通本店・川崎工場のある中原区、クラブ事務所のある高津区、そして市が整備しフロンターレが指定管理者となって2006年4月に開業した「フロンタウン・さぎぬま」(フットサル場)のある宮前区の3区在住者で占められるとあり、クラブ方針としても特にこの3区での営業活動を先行して重視するとしている。
川崎競馬場2006年11月2日JBCマイル競走の前座として「祝10周年・フロンターレ特別」が行われた[10]

チーム成績・歴代監督

富士通サッカー部

年度 カテゴリ 順位 勝点 得点 失点 監督
1967 関東 2位 18 9 0 5 33 13 野沢量一郎
1968 関東 優勝 23 10 3 1 42 15
1969 関東 3位 17 7 3 4 34 19
1970 関東 4位 15 6 3 5 27 24
1971 関東 4位 17 7 3 4 24 16
1972 JSL2部 4位 17 4 9 5 19 23
1973 JSL2部 4位 22 9 4 5 33 28 八重樫茂生
(総監督)、
赤坂健二
1974 JSL2部 2位 22 9 4 5 32 19
1975 JSL2部 3位 26 10 6 2 37 17
1976 JSL2部 優勝 29 13 3 2 32 6
1977 JSL1部 9位 20 5 (-/2) _ 13 (-/4) 18 38 八重樫茂生
1978 JSL1部 9位 17 4 (-/1) _ 14 (-/3) 14 29
1979 JSL2部 3位 47 11 (-/0) _ 7 (-/3) 29 18
1980 JSL2部 2位 25 10 5 3 25 12
1981 JSL2部 5位 21 10 1 7 31 27
1982 JSL2部 7位 13 4 5 9 16 26 福家三男
1983 JSL2部 7位 15 6 4 8 26 26
1984 JSL2部 7位 14 5 4 9 20 30
1985 JSL2部・東 _ 10 4 2 4 16 12 八重樫茂生
JSL2部・下位 8位 8 4 0 0 17 2
1986 JSL2部・東下位 10位 24 11 2 7 37 26
1987 JSL2部・東下位 10位 22 9 4 7 25 17
1988-89 JSL2部・東 _ 20 8 4 2 22 13
JSL2部・上位 4位 16 6 4 4 16 15
1989-90 JSL2部 5位 55 17 4 9 58 35 八重樫茂生
(総監督)、
来海章
1990-91 JSL2部 5位 51 15 6 9 46 30
1991-92 JSL2部 5位 59 17 8 5 46 26 来海章
1992 JFL1部 6位 20 5 5 8 19 27
1993 JFL1部 6位 _ 8 (2/0) _ 10 (2/0) 27 37
1994 JFL 10位 _ 11 (0/0) _ 19 (2/1) 39 52 沈祥福
1995 JFL 12位 34 11 (1/0) _ 19 (4/1) 45 61
1996 JFL 9位 45 15 (5/3) _ 15 (0/0) 48 45 城福浩
  • 1996年は「富士通川崎」。
  • 「勝」「敗」内の(A/B)は勝敗のうちの(延長試合数/PK試合数)。「-」はそのシーズンに適用規定が無かった方式。延長・PKともに適用されなかったシーズンは( )を省略。
  • 1995年と1996年のJFLにおける1試合平均観客数は、1995年が1,129人、1996年が1,720人。出典は「週刊サッカーダイジェスト 2008年J1&J2選手名鑑」。

川崎フロンターレ

リーグ 順位 勝点 平均観客数 監督
1997年 (旧)JFL 3 67 23 (2/0) _ 7 (3/0) 2,974 斉藤和夫ジョゼ
1998年 2 68 23 (1/0) _ 7 (3/0) 3,567 ベット
1999年 J2 1 73 25 3 8 5,396 ベット/松本育夫
2000年 J1・1st 15 10 3 2 10 7,439 ゼッカ今井敏明
J1・2nd 15 11 4 2 9 今井敏明/小林寛
2001年 J2 7 60 20 3 21 3,784 堀井美晴石崎信弘
2002年 4 80 23 11 10 5,247 石崎信弘
2003年 3 85 24 13 7 7,258
2004年 1 105 34 3 7 9,148 関塚隆
2005年 J1 8 50 15 5 14 13,658
2006年 2 67 20 7 7 14,340
2007年 5 54 14 12 8 17,338
2008年 2 60 18 6 10 17,565 関塚隆/高畠勉
2009年 2 64 19 7 8 18,847 関塚隆
2010年 高畠勉
  • 「勝」「敗」内の(A/B)は勝敗のうちの(延長試合数/PK試合数)。「-」はそのシーズンに適用規定が無かった方式。延長・PKともに適用されなかったシーズンは( )を省略。
  • 「平均観客数」は、同年のリーグ戦における主催試合での1試合平均観客数。1997-1998年は旧JFL、1999年と2001-2004年はJ2、2000年と2005-2008年はJ1リーグ戦での数字。出典は『Jリーグ公式記録集2009』、および「週刊サッカーダイジェスト 2008年J1&J2選手名鑑」。

公式戦対戦通算成績(2009年シーズン終了時点)

対戦通算成績と得失点

対戦チーム
(対戦経験のある前身のチーム名)
J1 J2 合計
モンテディオ山形 2 0 0 3 0 9 6 5 30 17 11 6 5 33 17
鹿島アントラーズ 6 2 4 19 21 - - - - - 6 2 4 19 21
浦和レッドダイヤモンズ 3 3 4 16 18 - - - - - 3 3 4 16 18
大宮アルディージャ(←NTT関東) 5 2 3 21 14 10 2 8 23 20 15 4 11 44 34
ジェフ千葉(←ジェフ市原) 6 3 3 16 11 - - - - - 6 3 3 16 11
柏レイソル 4 3 3 18 18 - - - - - 4 3 3 18 18
FC東京 4 3 5 27 23 2 2 0 6 4 6 5 5 33 27
横浜F・マリノス(←横浜マリノス) 6 2 4 17 15 - - - - - 6 2 4 17 15
アルビレックス新潟 5 1 4 23 14 4 0 12 19 25 9 1 16 42 29
清水エスパルス 2 3 7 16 22 - - - - - 2 3 7 16 22
ジュビロ磐田 5 1 6 23 25 - - - - - 5 1 6 23 25
名古屋グランパス(←名古屋グランパスエイト) 6 4 2 22 13 - - - - - 6 4 2 22 13
京都サンガF.C.(←京都パープルサンガ) 5 0 3 19 12 4 1 3 17 15 9 1 6 36 27
ガンバ大阪 4 2 6 22 26 - - - - - 4 2 6 22 26
ヴィッセル神戸 6 2 2 23 13 - - - - - 6 2 2 23 13
サンフレッチェ広島 4 4 2 21 10 2 2 0 6 4 6 6 2 27 14
大分トリニータ 4 3 3 12 9 2 2 8 10 22 6 5 11 22 31
コンサドーレ札幌 2 0 0 5 1 9 3 0 23 4 11 3 0 28 5
ベガルタ仙台(←ブランメル仙台) - - - - - 8 2 2 29 14 8 2 2 29 14
水戸ホーリーホック - - - - - 14 1 1 36 11 14 1 1 36 11
栃木SC - - - - - - - - - - - - - - -
ザスパ草津 - - - - - - - - - - - - - - -
東京ヴェルディ(←東京ヴェルディ1969←ヴェルディ川崎) 3 2 1 6 4 - - - - - 3 2 1 6 4
横浜FC 2 0 0 7 0 13 2 1 46 15 15 2 1 53 15
湘南ベルマーレ(←ベルマーレ平塚) - - - - - 9 3 4 28 14 9 3 4 28 14
ヴァンフォーレ甲府 2 1 1 6 2 13 4 3 40 23 15 5 4 46 25
カターレ富山 - - - - - - - - - - - - - - -
FC岐阜 - - - - - - - - - - - - - - -
セレッソ大阪 5 0 1 13 9 1 2 1 9 9 6 2 2 22 18
ファジアーノ岡山 - - - - - - - - - - - - - - -
徳島ヴォルティス(←大塚製薬 - - - - - - - - - - - - - - -
愛媛FC - - - - - - - - - - - - - - -
アビスパ福岡 2 0 2 5 5 10 0 2 26 17 12 0 4 31 22
サガン鳥栖 - - - - - 16 1 3 53 19 16 1 3 53 19
ロアッソ熊本 - - - - - - - - - - - - - - -
(Jリーグクラブ)計 74 34 58 295 248 126 36 53 401 232 200 70 111 696 480

対戦チームとの相性

  • 柏レイソルには、ホームで相性が良い反面、アウェー柏市内では相性が悪い。
    • 日立柏サッカー場では、注目度の高い試合が続いている。2000年ナビスコ杯1回戦第2戦アウェーは引き分け(1-1)、(ホーム第1戦での1-0での勝利でベスト8進出)、2000年2ndステージ第13節は敗北(0-1)でJ2降格が決定、2005年第1節はJ1復帰初戦でロスタイムに追いつく引き分け(1-1)、2007年第26節はAFCチャンピオンズリーグ準々決勝の狭間で出場選手を大幅に入れ替えて大敗(0-4)、2009年は結果次第では初タイトルの可能性もある最終節で大雨の中、辛勝(3-2)し5戦目にして当地で初勝利を飾った。
    • 柏の葉公園総合競技場では、2008年ナビスコ杯第4節で対戦し、1-3で敗れている。
    • 2008年第27節の柏主催の国立競技場での試合は5-2で勝利している。
  • コンサドーレ札幌には1997年にはホーム、アウェイともにVゴール負けを喫している。特にアウェイの札幌厚別公園競技場では、ロスタイム突入時に2点差でリードしていながらの敗戦であり、その後の「ロスタイムが苦手」という意識が生まれる原因のひとつとなった。しかし、1998年以降、負けがなかったが、2008年ナビスコ杯第2節(室蘭市入江運動公園陸上競技場)で、1-2で逆転負けを喫し、久々の敗戦となった。
  • ヴィッセル神戸には2007年までカップ戦などを含め負けがなく、2000年には降格争いをしているクラブ同士の対戦で唯一90分で2連勝を挙げたが(同年の他の連勝カードはセレッソ大阪戦(1試合は延長)のみ)、2008年J1第2節では1-4で破れて連勝はストップした。2009年も第2節で1-2で逆転負けを喫した。なお、JFL時代の1996年にはヴィッセル神戸のホームゲーム全15試合中、唯一の土をつけている。2007年シーズンから神戸のホーム開幕戦が3年続けてこのカードが組まれていて、最近では今シーズンの川崎フロンターレの行方を占うカードになりつつあるが、勝利を収める事が出来ず、開幕ダッシュに失敗し続けている。
  • 東京ヴェルディにも、川崎ダービーとして対戦した2000年の初対戦で敗れたが、それ以降は負けがない。天皇杯では2001年準々決勝で快勝(3-0)し、戦力外通告選手の活躍が話題となった。また、これが味の素スタジアムでの初勝利である。ヴェルディは2005年シーズンにJ1復帰後の初勝利を飾った相手となった。2008年シーズンは最終節アウェーで勝利し、ヴェルディをJ2に再降格させた。
  • 横浜FCには初対戦の2001年J2第11節でエメルソンの4ゴールで圧勝(6-0)してからわずか1敗と相性が良い。J1での初対戦となった2007年J1第3節も同じく6-0で川崎の大勝となった。
  • セレッソ大阪も勝ち越しチームの1つである。2000年には1stステージ優勝の夢を打ち破り(長居の悲劇参照)、2006年には最終節(大阪市長居第2陸上競技場)で3-1と勝利し、J2に降格させた。なおこの勝利でクラブ史上最高のJ1リーグ2位が確定し、翌年のAFCチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。
  • 横浜Fマリノスについては、2000年での初対戦で敗れた後は無敗だったが、2007年にはJ1リーグ戦で連敗した。ナビスコ杯では川崎がJ2にいた2001年にナビスコ杯で対戦し、2連敗していた。その後J1再昇格したJ1同士の対戦となった2005年シーズンは川崎の2連勝でお返しをし、2008年終了時までの対戦成績は4勝2敗3引分け。(2007年ナビスコカップ準決勝は川崎が2-0・4-2で2連勝)2009年はリーグ、ナビスコ、天皇杯で計5回対戦があり、3勝1敗1分だった。
  • サンフレッチェ広島に関しても、2000年の2ndステージ以降、2005年前半戦を除いて負けが無い。特に、J2時代の2003年は2勝2分けと完全に圧倒していた。それと、2007年はホームゲームで3-0で勝ったことで広島をJ1・J2入れ替え戦濃厚に追いやった。ただし、同チーム所属のFW佐藤寿人には、彼のかつて所属したジェフユナイテッド市原(現市原・千葉)やベガルタ仙台時代から『川崎キラー』として恐れられ、多くのゴールを許している。
  • アビスパ福岡にはJ1・J2入れ替え戦で敗れ、Jリーグでも2000年のJ1昇格初戦を含めて3連敗したが、2002年にJ2での2試合目で初勝利を挙げてからの対戦成績は川崎が完全に圧倒している。
  • 名古屋グランパスには2000年、2005年は互角で、2006年等々力敗戦以降は無敗だったが2009年AFCチャンピオンズリーグの第一戦のHOME国立勝利もAWAY瑞穂で3-1で敗れ大会ベスト8に終わっている。
  • 反対に清水エスパルスには初対戦から6戦して1度も勝てなかった。2006年はこの清水エスパルスに負けたことで優勝争いから脱落した。2007年にホームで初勝利。しかしアウェーゲームではまだ勝利を得られず、大変苦手としている。
  • 同じ静岡のジュビロ磐田もホームで全敗と苦手にしているが、2009年に2-0とホームで初めて勝利を収めた。2000年には藤田俊哉にPKのみでのハットトリック達成を許す珍記録も産み、前田遼一のプロ初出場まで試される惨敗(1-5)を喫して、試合後にゼッカ監督の辞任が発表された。ただし、アウェイ戦ではこれまで4勝2敗と勝ち越していて、2005年のJ1復帰以降はアウェイ戦では4連勝中であるが、2009年に1-2で敗れ連勝は終わった。
  • ガンバ大阪もリーグ戦では苦手チームであるが、2006年以降はホームの等々力で勝利している。特に2008年はこのホームで4-0大勝し、ここ数年ホームでは苦手意識を払拭しており4連勝中。2005年度は最終節ホームで負けたことで、このガンバ大阪にJリーグ優勝という初タイトルを与えてしまった。カップ戦などでは2002年シーズンの天皇杯、1998年(旧JFLから参加)や1999年(J2)のナビスコ杯で勝っていた。アウェイ万博ではACL ROUND16にて3-2で勝利し、10年ぶりのアウェイ勝利を飾った。
  • また、対アルビレックス新潟では、J1昇格後はホームゲーム5戦5勝でアウェーゲーム(新潟スタジアム)は5戦4敗1分。2009年に2-2で引き分け連敗を10で止めた。J2時代はホーム・アウェー共に2勝6敗の計16戦4勝12敗と苦手にしている。
  • 浦和レッドダイヤモンズとの対戦は因縁めいた結末になることが多い。
    • 初顔合わせとなった2000年のJリーグカップ(ナビスコ杯)では、ホームでの1戦目を3-0で圧勝した。アウェイでの2戦目は2点を先行される苦しい展開となったが、ギド・ビルギリオ・アルバレンガのPKで1点を挙げ試合を終了した。この結果2戦合計で1勝1敗となったが総得点を4-2とし、辛くも2回戦に進出した。なお、同シーズンの天皇杯でも対戦した。その時は既に来シーズンの1・2部入れ換えが決まっており、試合も1-2で敗れた。
    • J1復帰後の初対戦となった2005年の第2節は、前評判を覆し後半途中まで3-1と優位に試合を展開するも、終盤に追いつかれ引き分けた。第29節での対戦ではFW都倉賢が相手GKの都築龍太と小競り合いとなり一発退場(都築は警告)になるなど荒れた展開になり2-3で敗戦、関塚隆監督が「我々を勝たせない何かが働いた」とだけ発言し試合後の記者会見を切り上げる異例の事態となった。
    • 2006年のJリーグカップ(ナビスコ杯)は決勝トーナメントの1回戦で対戦、アウェイでの1戦目に3-4で敗れたものの、ホームでの2戦目で2-1と勝利を収めた。この結果1勝1敗、総得点5-5となったが、この年から決勝トーナメントで採用されたアウェーゴールルールが初めて適用され、準決勝に進出した。
    • 2007年第7節の対戦はアウェイであったが2-1で勝利した。この勝利は、浦和のホーム連続無敗記録を25でストップさせるものだった。
    • 2008年、2009年シーズンはお互いがアウェイで勝利。埼玉スタジアムでは公式戦5連勝中である。
  • FC東京とは長年のライバル関係が続いている。
    • お互いの前身である富士通と東京ガス時代から激しい順位争いを続け、1997年と1998年は川崎フロンターレに東京ガスが立ち向かった(「歴史」の項目を参照)。旧JFLの通算対戦成績は川崎(富士通)の6勝1分7敗、1997年以降は2勝2敗となる。
    • 1999年は川崎の2勝2分で終わったが、J1に同時昇格した2000年には川崎が2敗し、年間成績も明暗を分けた。川崎のJ1復帰後もFC東京の優位が続いたが、2007年第10節では川崎がこのカードで8年ぶりに勝利した(5-2)。同年第30節も川崎が7-0で圧勝した。
    • 互いのホームタウンが多摩川を挟んで隣接し、旧JFL時代からの関係も深いことから、2006年第30節では両クラブが協力して、ホームのFC東京が川崎市内にポスターを貼る集客キャンペーンを実施した(4-5で川崎が敗北)。これを発展させ、2007年からは「多摩川クラシコ」と命名され、伝統の一戦として盛り上げることになった。(参照:日本のダービーマッチ)なお、ここでは1999年のJ2時代から対戦回数をカウントしている。
  • 鹿島アントラーズには初昇格の2000年のシーズンはナビスコ杯の決勝を含め全く勝てなかった。前述の2004年度天皇杯で対鹿島戦初勝利になるところだった。しかし再昇格した2005年以降は互角の成績で苦手意識を払拭し、対戦成績をひっくり返し、清水エスパルスとともに鹿島に勝ち越す数少ないチームである。また、2009年にはカシマスタジアムで大雨で74分で試合が中断し、後日16分だけ再試合が行われるという珍事も起こった。
  • 大分トリニータのホームである九州石油ドームではJ1のリーグ戦では未勝利である。2006年、2007年と当時の関塚監督が退席処分になり、2008年アウェイは前半から数的有利ながらスコアレスドローに持ち込まれ、2008年ホーム戦では前節にシャムスカ監督が退席処分になり、互いの監督が最後まで居合わせない事が目立つ。2009年は第32節で降格決定後の大分に惜敗した。
  • 2007年以前にJリーグに在籍したチームの中で、川崎がJリーグで対戦した事がないのは横浜フリューゲルスザスパ草津愛媛FC徳島ヴォルティスの4チームである。ただし、横浜フリューゲルスとは1998年のナビスコ杯で敗戦(0-1)、徳島ヴォルティスの前身の大塚FCヴォルティス徳島とは1997年と1998年の旧JFLで4戦4勝、愛媛FCとは天皇杯(第84回第87回)で2戦2勝の対戦成績が残っている。ザスパ草津との公式戦対戦はないが、2004年のシーズン開幕前に、ファンクラブ会員を等々力へ無料招待してプレシーズンマッチに準じた練習試合を行い、川崎が勝利している(6-1)。
  • 2008年からJリーグに参入したFC岐阜ロアッソ熊本、とは、熊本の前身のNTT西日本九州など含めても、公式戦での対戦経験がない。

獲得タイトル

国内タイトル

しかし、国内3大タイトルはJ1リーグ2位が3回、ナビスコ杯準優勝3回、天皇杯ベスト4が2回と勝ち切れず、無冠の帝王シルバーコレクター等と揶揄される。

個人タイトル

ベストイレブン
得点王
ヤマザキナビスコカップ

国際試合

開催年月日 大会名 対戦相手 会場 スコア 勝敗
2005年7月28日 親善試合 イングランドの旗 ボルトン・ワンダラーズ 等々力陸上競技場 1-1 引分
2007年3月7日 ACL2007グループリーグ インドネシアの旗 アレマ・マラン ガジャヤナスタジアム 3-1 勝利
2007年3月21日 ACL2007グループリーグ タイ王国の旗 バンコク・ユニバーシティ 等々力陸上競技場 1-1 引分
2007年4月11日 ACL2007グループリーグ 大韓民国の旗 全南ドラゴンズ 光陽専用球技場 3-1 勝利
2007年4月25日 ACL2007グループリーグ 大韓民国の旗 全南ドラゴンズ 等々力陸上競技場 3-0 勝利
2007年5月9日 ACL2007グループリーグ インドネシアの旗 アレマ・マラン 等々力陸上競技場 3-0 勝利
2007年5月23日 ACL2007グループリーグ タイ王国の旗 バンコク・ユニバーシティ Royal Thai Army Stadium 2-1 勝利
2007年9月19日 ACL2007決勝T準々決勝 イランの旗 セパハン フーラドシャハル・スタジアム 0-0 引分
2007年9月26日 ACL2007決勝T準々決勝 イランの旗 セパハン 等々力陸上競技場 0-0
PK:4-5
PK負
2009年3月11日 ACL2009グループリーグ 中華人民共和国の旗 天津泰達 等々力陸上競技場 1-0 勝利
2009年3月18日 ACL2009グループリーグ 大韓民国の旗 浦項スティーラース 浦項スティールヤードスタジアム 1-1 引分
2009年4月8日 ACL2009グループリーグ オーストラリアの旗 セントラルコースト・マリナーズ ブルータン・スタジアム 5-0 勝利
2009年4月21日 ACL2009グループリーグ オーストラリアの旗 セントラルコースト・マリナーズ 等々力陸上競技場 2-1 勝利
2009年5月5日 ACL2009グループリーグ 中華人民共和国の旗 天津泰達 天津泰達足球場 1-3 敗戦
2009年5月19日 ACL2009グループリーグ 大韓民国の旗 浦項スティーラース 等々力陸上競技場 0-2 敗戦
2009年6月24日 ACL2009ラウンド16 日本の旗 ガンバ大阪 万博記念競技場 3-2 勝利
2009年9月23日 ACL2009決勝T準々決勝 日本の旗 名古屋グランパスエイト 国立競技場 2-1 勝利
2009年9月30日 ACL2009決勝T準々決勝 日本の旗 名古屋グランパスエイト 瑞穂陸上競技場 1-3 敗戦

ユニフォーム

ユニフォームの色
カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st) 水色×黒
FP(2nd)
GK(1st)
GK(2nd) グレー グレー グレー
FP 1st
FP 2nd
GK 1st
GK 2nd
川崎フロンターレオフィシャルショップAZZURRO NERO(アズーロ・ネロ)

ユニフォームスポンサー

掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
富士通 FUJITSU 1997年〜
背中 日興コーディアル証券 日興コーディアル証券 2005年〜 2005年〜2007年途中までは、商品名のピーカブー
富士通ゼネラル 富士通ゼネラルエアコン 1997年〜2003年・2009年〜 1998年はFUJITSU GENERALとアルファベット表記
パンツ PFU PFU 2003年〜2005年・2009年〜

なおスポンサーではないが、2004年から右袖にはJリーグのロゴのほかにホームタウン名「KAWASAKI」の文字が書かれたワッペンが付けられており、選手やスタッフ用にはさらに「市の花」であるツツジ刺繍が添えられている。

なお、AFCチャンピオンズリーグについては規定によりスポンサーは1社のみとされているため胸ロゴ(FUJITSU…同社公式ロゴではなく角ゴシック体表記)のみが表記され、左袖に大会のロゴ、背番号上には選手名(アルファベット表記)を入れている。

ユニフォームサプライの遍歴

歴代ユニフォームスポンサー年表

年度 背中 パンツ サプライヤー
1997年 FUJITSU 富士通ゼネラル NIFTY - PENALTY
1998年 FUJITSU FUJITSU GENERAL Fsas - PENALTY
1999年 FUJITSU 富士通ゼネラル Fsas - asics
2000年 FUJITSU 富士通ゼネラル Fsas - asics
2001年 FUJITSU 富士通ゼネラル Fsas - asics
2002年 FUJITSU 富士通ゼネラル Fsas - asics
2003年 FUJITSU 富士通ゼネラル Fsas PFU asics
2004年 FUJITSU NOEL Fsas PFU asics
2005年 FUJITSU NOEL ピーカブー PFU asics
2006年 FUJITSU NOEL ピーカブー ふくしまの米 asics
2007年 FUJITSU NOEL ピーカブー/日興コーディアル証券 ふくしまの米 asics
2008年 FUJITSU NOEL 日興コーディアル証券 ふくしまの米 asics
2009年 FUJITSU 富士通ゼネラルエアコン 日興コーディアル証券 PFU asics
  • この他、1997-98年は旧JFL、1999年以降はJリーグのロゴが右袖に付く。
  • 1997年背中スポンサーのniftyは英語大文字の"NIFTY" (NIFTY-serve) として事業を展開。
  • ノエルは2005年途中にCIの変更によりロゴが変更になったが、2005年シーズンは旧ロゴのまま変更せず、2006年シーズンより新ロゴに変更になっている。
  • ユニフォームスポンサー時期の富士通エフサス (Fsas) の会社名は「富士通サポートアンドサービス」。
  • 2007年9月30日施行の金融商品取引法に伴い、日興コーディアル証券はユニフォームでの掲示名を商品名の「ピーカブー」から自社名に変更。
  • NOEL(ノエル)社は2008年10月31日に倒産(自己破産) 負債総額417億円。チームも債権を有する。

クラブ名称の変遷

  • 1955年 - 1995年: 富士通(株)サッカー部
  • 1996年: 富士通川崎サッカークラブ
  • 1997年 - 現 在: 川崎フロンターレ

運営会社

  • 1997年 - 2001年: 富士通川崎スポーツマネージメント(株)
  • 2002年 - 現 在: (株)川崎フロンターレ

応援番組

コラボレーション・パロディー

  • 2009年、TVアニメ『天体戦士サンレッド(作:くぼたまことヤングガンガン連載)』とコラボ。
    • 中村、井川、谷口の3選手、武田社長、マスコットキャラクター・ふろん太とその家族との共演アニメ(全4話)が制作され、『ファイト!川崎フロンターレ』内で放送された[1]。『サンレッド』のDVD2〜5巻に映像特典として収録されている。また、そのコラボレーション企画の一環として、タレントの髭男爵の2人(山田ルイ53世、ひぐち君)が開幕戦の始球式に登場した(両者とも、同作のアニメに声優として出演)。
  • 2007年のホームゲーム開催時(等々力スタジアム)に様々なパロディーやコラボレーションを実施。
    • エースをねらえ!4月15日清水エスパルス戦。Jリーグ加盟以来勝利を挙げていなかったエスパルスを相手に「エース」ならぬ「エス(パルス)をねらえ!」と題して初勝利を目指そうという企画を行った。この時はアニメの「エースをねらえ!」で岡ひろみ役を演じた高坂真琴が「このゲームは絶対に負けられない!! 打倒オレンジ、ついに完結よ!!」といったフレーズの宣伝を行った。
    • 川崎麻世(タレント)/6月30日ヴィッセル神戸戦で、川崎市のスポンサードマッチ(7月1日の市制施行記念日に合わせた記念試合)を実施。その試合で川崎麻世が「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」をハーフタイムショーとして熱唱。2006年までは西城秀樹が、川崎市内在住の縁でほぼ毎年招聘されていた。
    • 朝日放送テレビ・パネルクイズアタック258月25日ガンバ大阪戦の試合において、同番組とのコラボレーション「アタック25日」を開催。博多華丸児玉清の物まねで「フロンターレ!! 大事なアタックチャーンス!!」とPRした他、同番組の特徴である回答者のカラーの入れ替わり(ガンバの青からフロンターレの水色)のパフォーマンスをバックスタンドのフロンターレ応戦席で行った。
    • あいのり5月11日のAFCチャンピオンズリーグ・アレマ・マラン(インドネシア)戦で、同大会初出場・初の決勝ラウンド進出決定の時にサポーターがそれをパロディー化した「はつのり」のTシャツを着用し祝福。
    • プロジェクトX〜挑戦者たち〜9月に行われるアウェーでの鹿島アントラーズ9月1日)、柏レイソル9月22日)の試合を、ホームタウンの頭文字が全て「K」(川崎=Kawasaki、鹿島=Kashima、柏=Kashiwa)で始まるということ、更に「決戦の9月」という意味合いも込めて、大応援団を川崎から繰り出そうという**「プロジェクトK(打倒!! 鹿島&柏)」なる試みを行った。なお、2006年のホーム鹿島戦ではスキージャンプ競技の極限点になぞらえた「K点越え」キャンペーンを実行した。

また、こういったコラボレーションで、スポンサーの一つであるとんかつ和幸協賛の下、パロディー弁当が発売された。

  • 清水エスパルス戦/「カツのよ!!フロンターレ弁当」(オレンジデザート入りのとんかつ弁当)
  • ヴィッセル神戸戦/「マヨわずカツ弁当」(とんかつにタルタルマヨネーズソースが添付されている)
  • ガンバ大阪戦/「アカッツ!! チャンス!!弁当」(当日発売されたカツ弁当の半数に幸運をもたらすといわれる「ラッキーメンチカツ」が挿入されている)

※このパロディー弁当が発売されると必ずチームは勝利を挙げている(2008年8月25日現在)。

選手・サポーターによるイベント

近年、等々力競技場での試合で勝利した場合、試合後に選手たちがサポーターの前で、イベントを行うことが恒例となっている。これは、2002年から3年間在籍したDF岡山一成が試合後、「岡山劇場」と呼ばれる試合後のマイク(メガホン)パフォーマンス(これは後に岡山が在籍する柏レイソルベガルタ仙台でもやっており、サポーターからの評価を得た)をやって以降、試合後のイベントは定着。等々力競技場はピッチとの間にトラックがあるため、そこまで近くないものの、選手とハイタッチが出来るほどにサポーター席が低い事などが影響し、選手とサポーターが一体化しており、現在でもイベントを盛り上げている。

アウェイゲーム観戦ツアー

川崎フロンターレはサポーターのアウェイゲーム観戦ツアーに、他チームとは一風変わった企画を行うことが多い。

  • 2007年10月28日のFC東京ホームゲームの多摩川クラシコで、多摩川の「丸子の渡し」を約70年ぶりに復活させて船で東京へ乗り込むアウェイツアーを実施[11]
  • 2009年5月24日のFC東京ホームゲームの多摩川クラシコでは、試合前日の23日の夜に横浜から伊豆大島フェリーで行き、試合当日の24日に大島空港から飛行機で味の素スタジアムの隣にある調布飛行場へ行くという遠回りなアウェイツアー「多摩川クラシコエアーツアー」を実施[12]
  • 2009年7月11日のアルビレックス新潟ホームゲームのアウェイツアーではそれまで新潟に11連敗していたため、「新潟戦11連敗阻止キャンペーン『11回目のプロポーズ』」と題し、全員そろいの川崎のチームカラーパジャマを着て貸切列車で移動するというツアーを実施。帰りの貸切夜行列車では、わざわざ新潟まで来たふろん太らが見送っていた。[13]
  • 2009年10月7日の鹿島アントラーズとの16分間の再試合では、千円という格安のバスツアーを実施。平日にもかかわらず応募が殺到し、最終的にバス25台という大規模なものとなった。なお、この際には鹿島サポーターと思われる客は排除するという徹底ぶりだった[14]

関連項目

脚注

  1. ^ その後、城福はFC東京設立準備室からの勧誘を受け、1998年に富士通を退社して同室に所属し、FC東京の創設時から関わる事になった。2008年にはFC東京のトップチーム監督となり、フロンターレとは「多摩川クラシコ」で対戦した。
  2. ^ 正確には、0-0のまま延長戦に突入した時点で山形のJ1昇格失敗とベガルタ仙台の逆転昇格が決定していた
  3. ^ 同年、ガンバ大阪がタイ記録を樹立。
  4. ^ この試合後にはサポーターが選手らと一緒になって、応援席に吊るされたくす玉を割り、フジテレビジョンあいのり』のパロディー「はつのり」と書かれたTシャツを着用して祝福した。
  5. ^ 特に、時差の関係で川崎の敗北が決まった後も、サウジアラビアリヤドにいた川崎のスカウトは準々決勝のアル・ヒラルvsアル・ワフダ戦を観戦し、勝ち上がったアル・ワフダのデータを浦和に提供した。アル・ワフダは準決勝でセパハンに敗れたが、JリーグチームのACL優勝を目指すための美談として伝えられた。
  6. ^ AFCチャンピオンズリーグ出場のためにシード。
  7. ^ a b 弊クラブ所属選手の行為について(お詫び)、川崎フロンターレ公式サイト、2009年11月4日
  8. ^ 鬼武チェアマン川崎Fに激怒、nikkansports.com、2009年11月4日
  9. ^ 【ナビスコ杯】準優勝の川崎、賞金自主返還へ 表彰後の悪態問題で、MSN産経ニュース、2009年11月5日
  10. ^ 地方競馬全国協会ニュースリリース川崎競馬場ニュースリリース
  11. ^ J'sGOALニュース|オフィシャルニュース|多摩川クラシコ「アウェイ舟ツアー」参加者募集のお知らせ
  12. ^ J'sGOALニュース|【無事に味スタヘ到着!】多摩川クラシコ:川崎F「エアーツアー」レポート(2009年5月24日)
  13. ^ J'sGOALニュース|川崎フロンターレ新潟戦アウェイツアー「11回目のプロポーズ」写真レポート(2009年7月12日)なお、この中にふろん太らが「交渉の末、JR東日本さんのご好意により、なんとかホームに入れて頂けることに。」とあるが、JR東日本はJリーグの他チーム(ジェフ千葉)の親会社である。
  14. ^ 「16分間」観戦ツアーにサポ殺到 豪雨中断の鹿島-川崎戦(MSN産経 2009年9月29日

外部リンク