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2010年1月17日 (日) 16:43時点における版

日本の旗衆議院議員 渡部 恒三
生年月日 (1932-05-24) 1932年5月24日(92歳)
出身地 日本の旗福島県南会津郡田島町(現:南会津町)
出身校 早稲田大学第一文学部
学位・資格 文学士
前職 福島県議会議員
所属委員会 衆・決算行政監視委員会委員
衆・国家基本政策委員会委員
世襲 父・渡部又左衛門(元福島県議)※先代
兄・渡部又左衛門(元福島県田島町長)
選出選挙区 福島県第4区
当選回数 14回
所属党派自由民主党→)
新生党→)
新進党→)
無所属→)
無所属の会→)
民主党羽田グループ
会館部屋番号 衆・第二議員会館202号室
ウェブサイト 人間政治家 渡部恒三のHP
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渡部 恒三わたなべ こうぞう1932年5月24日 ‐ )は、日本政治家衆議院議員(14期)。勲一等旭日大綬章復旦大学経済管理学院名誉教授。

衆議院副議長(第70代)、厚生大臣第68代)、自治大臣第39代)、国家公安委員長第70代)、通商産業大臣第48代)、民主党最高顧問を歴任。自由民主党所属時は竹下派七奉行の一人。

自民党出身で、細川護煕羽田孜政権に参加後、鳩山由紀夫政権までの間、自民党との連立政権(自社さ・自自公等)に参加することなく、一貫して選挙による政権交代を目指した国会議員の一人である。

概要

政界入り

  • 福島県南会津郡田島町(現南会津町)出身。
  • 父・渡部又左衛門は福島県議会議員や福島県田島町長を務めた。父の死後、又左衛門を襲名した長兄は福島県田島町長を2期務めている[1][2]
  • 福島県立会津高等学校時代、後に評論家となる小室直樹弁護士渡部喬一(第二東京弁護士会所属)と知り合う。この3名は校内で「誇大妄想狂」と呼ばれるほど目立つ存在だった。
  • 早稲田大学在学中は雄弁会に所属。同期に藤波孝生、同じ学部の2年先輩に政治評論家三宅久之がいた。
  • 八田貞義国会議員秘書から福島県議会議員となり、自由民主党福島県支部連合会政務調査会長も務めるが、公職選挙法違反のため有罪判決を受け県議会議員を辞職する。1969年第32回総選挙に「県議ならばカムバックできる。衆議院は無理」という後援者の説得を振り切って無所属で立候補。「会津のケネディ(「ワタスは東北のケネデイダす」)を自称して、初当選した。
  • 自由民主党から公認を得られなかったが、当選したのち田中角栄が不明を恥じて渡部を追加公認した。しかし、後に田中は「公認しなかったのは作戦で、社会党層の票を入れるために、わざと無所属で出した。公認していたら負けていただろう」と渡部に語っている。渡部は佐藤栄作に対しては批判的であり無派閥だったが、田中派が結成されると、すぐにこれに参加した。

竹下派七奉行

衆議院副議長

  • 新生党から新進党結党参加、幹事長代理、政務会長兼国会運営委員長、総務会長、副党首を歴任し、1996年に衆議院副議長に就任。2000年に再任された。副議長在任日数は衆議院創設以来最長(2498日)。本当は副議長になる気はなかったが、「早稲田大学雄弁会の後輩である小渕恵三が自民党から衆議院議長に就任するので」といわれてやむなく引き受けた。しかし、当の小渕は地元後援会や同僚議員の説得により就任を固辞し、結局伊藤宗一郎が議長になった。
  • 自民党と民主党の間に立つため無所属の会(会派は民主党・無所属クラブ、選挙では与党の公明党保守新党の推薦も受ける)であったが、2005年9月の第44回衆院選では民主党の公認を得て立候補、そのため公明党の支持を得られなかったものの、次点議員と6637票差で当選。自派の選挙違反が摘発され、運動員が逮捕された。

民主党時代

国対委員長

  • 2006年2月堀江メール問題で、民主党国会対策委員長であり、当時民主党代表だった前原誠司の側近である野田佳彦が辞任すると、鳩山由紀夫幹事長の要請を受けて後任の国対委員長に就任した。菅直人山岡賢次ら国対に精通したベテランが相次いで就任を固辞したための苦肉の策であった。
  • 衆院副議長を経験した党内最長老の国対委員長就任は異例のことであり、与党・自民党からも驚きの声が聞かれた(過去には園田直が衆院副議長経験後に自民党国対委員長に就任した例があった)。渡部の国対委員長就任について、当時小泉内閣の一員であった麻生太郎は、平均年齢の若い前原執行部を引き合いに出して「貫禄が違う」と渡部を持ち上げた。
  • 就任直後から生放送のテレビラジオ番組に相次いで出演し、9月に行われる民主党代表選の前倒しや、永田議員へ辞職要求などを発言、鳩山幹事長はその火消しに追われた。
  • 堀江メール問題に関して、2006年3月15日放送のTBS系「みのもんたの朝ズバッ!」で涙を流して謝罪した。

最高顧問 - 無役 - 最高顧問 - 無役

  • 2006年9月に国会対策委員長辞任(後任は髙木義明)。民主党最高顧問に就任した。
  • 2006年11月12日に投開票された福島県知事選挙において、渡部の秘書を長く勤め、当時参議院議員(民主党所属)だった渡部の甥(姉の長男)である佐藤雄平を擁立。佐藤は当選を果たした。前任の佐藤栄佐久も、渡部の盟友的存在の一人であった。
  • 週刊新潮』において賭けゴルフ疑惑を報道されている横峯良郎議員らが2007年8月31日の民主党両院議員総会を欠席したことについて、「公人である以上は説明責任をキチッと果たさなければならない、総会を欠席するのもけしからん」と苦言を呈した。
  • 2007年10月3日、関連政治団体である新時代の会が、1993年から2004年政治資金収支報告書で甥の佐藤現福島県知事のマンションを事務所として使っていなかったのにもかかわらず、「主たる事務所」として総務省に届け出ていたことが明らかになった[3]。また、会の代表者は2000年に、会計責任者は2004年にそれぞれ死亡していたにもかかわらず、後任者への変更の届け出がされていなかったこと、さらに、収支報告書に死亡した会計責任者の署名・捺印がなされた宣誓書が添付されていたことが明らかになった。渡部の秘書は「事務所の実態は議員会館にあり、実態に即していないと言われればそうかも知れない」とコメント。党の若手議員からは「与党の追及がやりにくくなる」と不満の声も出始めた。そのため、渡部はこの問題の責任を取る形で、翌4日付で党最高顧問などの役職を辞任した。
  • 2008年1月8日、民主党最高顧問に復帰。無役であった期間は約3ヶ月にとどまった。復帰が認められた理由について、党幹部の1人は「年が改まったので」とコメントした。
  • 2009年10月26日、民主党の両院議員総会で最高顧問に再任されなかった。このことについて、小沢一郎幹事長は同日の記者会見で「功成り名を遂げて高いレベルでアドバイスするのが最高顧問だ。ところが、最高顧問だった藤井裕久さん(財務相)は引退宣言もしていたのに、一番大事な国務大臣になった。現役でやれる能力のある人は最高顧問のイメージと違う、渡部氏はまだまだ現役として、前線でやれる能力も意欲もある」と、再任に至らなかった経緯を説明した。が、小沢と渡部との間には以前から確執が噂されているため、恣意的人事という声も上がっている。これについては、渡部自身も小沢の意向によって議長にもなれず、最高顧問もクビになったと述べており、遺恨は深い。
  • 2009年12月天皇特例会見問題で、「政治主導は天皇陛下の問題では全く関係ない。これは日本国体に関する問題で、慎まなければならない[4]」「太平洋戦争の歴史を考えれば、政治家はどんなことがあっても天皇陛下を自分たちの都合のいいことに利用するなんてことは考えてはいけない」と述べ、会見を宮内庁に要請した鳩山由紀夫内閣総理大臣や、仲介したとされる小沢一郎民主党幹事長の対応を民主党内部から批判した[5]
  • 2010年1月小沢の元秘書石川知裕が逮捕された問題について、遠まわしに小沢の幹事長辞任を求めた。また、かねてから目をかけていた岡田克也外務大臣前原誠司国土交通大臣七奉行の会と会合を持つなど水面下で反小沢活動を活発化させている。

親族

人物

  • 会津訛りの喋り方が特徴的である。愛称は「おしゃべり恒三」。
  • 民主党の中で最高齢の議員であるため、大御所水戸黄門などの渾名が付き、テレビで、「政界の水戸黄門」を自称したため、ドラマ『水戸黄門』で実際に小道具として使用された印籠をプレゼントされた。また、ドラマに出演している由美かおるからおしゃれな電報を受けた。また、以来ニックネームが「黄門様」となった。
  • 当選14回は、羽田孜小沢一郎と並んで民主党内最多。また、県議時代から選挙において一度も落選したことがない。
  • 厚生大臣在任中には「タバコがおいしく感じられるのは健康であるということ」と発言したため、マスコミに「タバコは健康のもと」と誤報され、波紋を呼んだ。また、いわゆる「トルコ風呂問題」が持ち上がったのは、彼の在任中であった。
  • 堀江メール問題」で党の幹部が落ち込んでいるなか、激励のために会津名物「起き上がりこぼし」をプレゼントする気配りを見せたが、党代表であった前原誠司の起き上がり小法師だけは起き上がらなかったため、座が凍りつく一幕もあった。その後、前原執行部は責任をとり、総退陣。小沢代表就任への流れとなったため、渡部がわざと不良品を前原の前に置き、暗に代表辞任を促したとする説が一部で出たが、真偽は不明である[要出典]エラー: タグの中に無用な文字が含まれていないか、{{要出典範囲}}と{{要出典}}を間違えていないかを確認してください。貼り付け年月は「date=yyyy年m月」、チップテキストに表示する文字列は「title=文字列」と指定してください。
  • 今も旧党の感覚が抜けきっていない幹部が多い民主党にあって、早くからニューリーダーの育成に目を向け、岡田克也前原誠司枝野幸男野田佳彦ら民主党の中堅・若手七人を、かつて渡部も属した竹下派七奉行になぞらえ「民主党七奉行」に指名している。
  • 赤いネクタイを愛用する。しかし、渡部が赤いネクタイばかり着用していると気づいた浅香光代から、青いネクタイをプレゼントされた[6]
  • 2006年10月に、眼鏡の似合う著名人として第19回日本メガネベストドレッサー賞受賞、同年11月には、ユーモアで楽しい話題を社会に提供したことで、平成18年度ゆうもあ大賞を受賞した。
  • 第21回参議院議員通常選挙について、党代表が、野党で過半数議席獲得ができない場合、政界を引退すると表明したのに続き、「野党が自民・公明を上回る議席を取れなかったら、小沢代表だけでなく私も辞める」と決意を示し、結果民主党は大勝するに至った。
  • 民主党の道路族議員で、最高顧問辞任後、党の道路特定財源の暫定税率撤廃方針・一般財源化に反対する署名に協力。渡部が反主流派状態で、署名に参加したことに危機感を抱いた執行部は、渡部の最高顧問復帰への道筋を作った。
  • 民主党内では自由民主党に連なる保守系の重鎮であり、中堅・若手の多い党内の保守系グループの後見人格として永住外国人の地方参政権を慎重に考える勉強会のメンバーにも名を連ねている。
  • 2008年春に、日本銀行総裁人事において、政府側が示した、元財務事務次官である武藤敏郎副総裁を昇格させる人事について、民主党としては「財務省幹部の天下り人事である」・「財金分離の観点から不適切」として反対したが、テレビ朝日系列の『サンデープロジェクト』において、「小沢一郎は武藤氏に賛成だったのか」と問い詰められた渡部は、「それはいえません」と答えていた。
  • 講演会などでよく「26歳で県会議員に当選するまでは童貞だった」と発言し、聴衆の笑いを取っている[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。

エピソード

  • 衆議院議員として自民党の国対委員長だった1986年、秘書に「ケーサツチョウチョウカン」と会津なまりで頼み事をした所、秘書が警察庁長官に電話をつないだ。しかし、当の渡部は「今朝の朝刊」と言ったつもりであったので、首をかしげてしまったとの逸話がある[7]

所属議員連盟

略歴

経歴

政歴

文献

著書

  • 『水芭蕉日記:国政十二年の歩み』千代田永田書房、1981年7月
  • 『政治家につける薬』東洋経済新報社、1995年10月、ISBN 4492210784

関連文献

  • 『人間政治家・渡部恒三』豊田行二著、徳間書店、1984年10月、ISBN 4191429981
  • 『人間・渡部恒三―政界再編の鍵を握る男』大下英治著、ぴいぷる社、2003年7月、ISBN 4893741756
  • 『渡部恒三 民主党を救った会津魂 ならぬことはならぬ』板垣英憲著、ごま書房、2006年7月、ISBN 4341172190

脚注

  1. ^ 『人間・渡部恒三 政界再編の鍵を握る男』大下英治・著(ぴいぷる社)より
  2. ^ 週刊読売」1997年6月8日号 より
  3. ^ 民主・渡部氏の政治団体 名義借り、事務所費1.7億円
  4. ^ 天皇会見、小沢氏を批判=「慎むべきだ」-渡部氏時事ドットコム(時事通信社)2009年12月18日
  5. ^ 特例会見で首相や小沢氏批判…渡部元副議長YOMIURI ONLINE(読売新聞社)2009年12月18日
  6. ^ 時事放談TBS2007年7月8日
  7. ^ 「政態拝見 恒三氏の効用」(朝日新聞、2006年3月21日付朝刊、15頁)
  8. ^ 小数点は渡部行雄(日本社会党公認)との按分票があるため。

関連項目

外部リンク

議会
先代
鯨岡兵輔
日本の旗 衆議院副議長
第60・61代:1996年 - 2003年
次代
中野寛成
公職
先代
中尾栄一
日本の旗 通商産業大臣
第48代:1991年 - 1992年
次代
森喜朗
先代
坂野重信
日本の旗 自治大臣
第39代:1989年 - 1990年
次代
奥田敬和
先代
坂野重信
日本の旗 国家公安委員会委員長
第70代:1989年 - 1990年
次代
奥田敬和
先代
林義郎
日本の旗 厚生大臣
第64代:1983年 - 1984年
次代
増岡博之
党職
先代
野田佳彦
民主党国会対策委員長
第11代 : 2006年
次代
高木義明
先代
新設
新進党総務会長
初代 : 1996年
次代
神崎武法
先代
市川雄一
新進党政務会長
第2代 : 1995年 - 1996年
次代
最終
先代
神崎武法
新進党国会運営委員長
第2代 : 1995年 - 1996年
次代
最終
先代
藤波孝生
自由民主党国会対策委員長
第32代 : 1987年 - 1989年
次代
奥田敬和

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