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「坂本龍馬」の版間の差分

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* 龍馬の人生・人格形成において多大な影響を与えていったのは、父・八平の後妻である伊興の実家、[[下田屋]](川島家)といわれている。龍馬は姉である乙女とともに浦戸湾を船で漕ぎ、当時[[土佐藩御船蔵]]のあった種崎にある川島家をたびたび訪れては、長崎や下関からの珍しい土産話などを聞いたとされる。また、世界地図や数々の輸入品を見て外の世界への憧れを高めたともいわれている<ref>詳細は[[山田一郎 (評論家)|山田一郎]]『海援隊遺文』([[新潮社]]、1991年)などに、また土佐藩の御船蔵や海事資料については[[吉永豊実]]『土佐海事法制史』(山海堂、1983年)に詳しい。</ref>。
* 龍馬の人生・人格形成において多大な影響を与えていったのは、父・八平の後妻である伊興の実家、[[下田屋]](川島家)といわれている。龍馬は姉である乙女とともに浦戸湾を船で漕ぎ、当時[[土佐藩御船蔵]]のあった種崎にある川島家をたびたび訪れては、長崎や下関からの珍しい土産話などを聞いたとされる。また、世界地図や数々の輸入品を見て外の世界への憧れを高めたともいわれている<ref>詳細は[[山田一郎 (評論家)|山田一郎]]『海援隊遺文』([[新潮社]]、1991年)などに、また土佐藩の御船蔵や海事資料については[[吉永豊実]]『土佐海事法制史』(山海堂、1983年)に詳しい。</ref>。
* 当時土佐藩士の間では長刀をさすことが流行していた。あるとき龍馬の旧友が龍馬と再会したとき、龍馬は短めの刀を差していた。そのことを指摘したところ「実戦では短い刀のほうが取り回しがよい」と言われ、納得した旧友は短い刀を差すようにした。次に再会したとき、旧友が勇んで刀を見せたところ龍馬は懐から[[拳銃]]を出し「銃の前には刀なんて役にたたない」と言われた。納得した旧友はさっそく拳銃を買い求めた。三度再会したとき、旧友が購入した拳銃を見せたところ龍馬は[[万国公法]](国際法)の洋書を取り出し「これからは世界を知らなければならない」といわれた。もはや旧友はついていけなかったという。これは龍馬の性格を鮮やかに描写しているものの、あくまで伝説であって史実ではない。話の起源は、定かではない。
* 当時土佐藩士の間では長刀をさすことが流行していた。あるとき龍馬の旧友が龍馬と再会したとき、龍馬は短めの刀を差していた。そのことを指摘したところ「実戦では短い刀のほうが取り回しがよい」と言われ、納得した旧友は短い刀を差すようにした。次に再会したとき、旧友が勇んで刀を見せたところ龍馬は懐から[[拳銃]]を出し「銃の前には刀なんて役にたたない」と言われた。納得した旧友はさっそく拳銃を買い求めた。三度再会したとき、旧友が購入した拳銃を見せたところ龍馬は[[万国公法]](国際法)の洋書を取り出し「これからは世界を知らなければならない」といわれた。もはや旧友はついていけなかったという。これは龍馬の性格を鮮やかに描写しているものの、あくまで伝説であって史実ではない。話の起源は、定かではない。
* 寺田屋事件直後にお龍と結婚した龍馬は、同事件での傷をいやすことも兼ねてお龍を伴って薩摩に滞在した。これを指して、日本で初めての[[新婚旅行]]とされる<ref>[[小松清廉]]が先であるという異論もある。</ref>。[[File:Smith-et-Wesson-model-1-22-p1030158.jpg|thumb|right|250px|S&W モデル1]]
* 寺田屋事件直後に[[楢崎龍|お龍]]と結婚した龍馬は、同事件での傷をいやすことも兼ねて[[楢崎龍|お龍]]を伴って薩摩に滞在した。これを指して、日本で初めての[[新婚旅行]]とされる<ref>[[小松清廉]]が先であるという異論もある。</ref>。[[File:Smith-et-Wesson-model-1-22-p1030158.jpg|thumb|right|250px|S&W モデル1]]
* 龍馬が愛用した拳銃は2丁ある。ひとつは[[高杉晋作]]から贈呈された'''[[スミス&ウェッソン|S&W]]モデル2アーミー 33口径'''で、寺田屋事件の際に火を噴いたのはこの銃である。しかし同事件の際に紛失し、後に買い求めたのが'''S&Wモデル1 22口径'''で、これは妻・お龍とともに1丁ずつ所持し、薩摩滞在時はこれで狩猟などを楽しんだという。当然この銃は暗殺された時も携帯していたが、発砲することなく殺害されている。
* 龍馬が愛用した拳銃は2丁ある。ひとつは[[高杉晋作]]から贈呈された'''[[スミス&ウェッソン|S&W]]モデル2アーミー 33口径'''で、寺田屋事件の際に火を噴いたのはこの銃である。しかし同事件の際に紛失し、後に買い求めたのが'''S&Wモデル1 22口径'''で、これは妻・[[楢崎龍|お龍]]とともに1丁ずつ所持し、薩摩滞在時はこれで狩猟などを楽しんだという。当然この銃は暗殺された時も携帯していたが、発砲することなく殺害されている。
* 幼少の頃、水練(水泳)に出かける途中、友人に「こんな雨で泳ぐのか」と問われたが、「濡れるのに雨も関係あるか」とそのまま川に行ったという。
* 幼少の頃、水練(水泳)に出かける途中、友人に「こんな雨で泳ぐのか」と問われたが、「濡れるのに雨も関係あるか」とそのまま川に行ったという。
* 身長6尺(約182cm。写真と当時着用していた[[紋付]]のサイズを元に研究者が計算したところでは180cm<ref>「[[爆笑問題のもうひとつの龍馬伝]]」 [[NHK総合テレビ]] 2009年12月30日放送</ref>)と江戸時代の当時としてはかなりな大男であったといえるだろう。なお、他の研究では174cmや169cmという説もある。
* 身長6尺(約182cm。写真と当時着用していた[[紋付]]のサイズを元に研究者が計算したところでは180cm<ref>「[[爆笑問題のもうひとつの龍馬伝]]」 [[NHK総合テレビ]] 2009年12月30日放送</ref>)と江戸時代の当時としてはかなりな大男であったといえるだろう。なお、他の研究では174cmや169cmという説もある。

2010年2月19日 (金) 11:10時点における版

坂本龍馬
坂本龍馬
生年 1836年1月3日
生地 土佐
没年 (1867-12-10) 1867年12月10日(31歳没)
没地 京都
活動 倒幕
土佐藩脱藩
所属 海援隊
京都霊山護国神社霊山墓地
靖国神社
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坂本 龍馬(さかもと りょうま)、天保6年11月15日1836年1月3日) - 慶応3年11月15日1867年12月10日)は、日本の武士土佐藩郷士)、明治維新に影響を与えた政治家グラバー商会ジャーディン・マセソンの日本代理販売店)代理人として武器輸入に関わった実業家。

土佐藩脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)の結成、薩長連合の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど、志士として活動した。贈正四位1891年(明治24年)4月8日)。司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の主人公とされて以来、国民的人気を誇っている。また、その事績についてはさまざまな論議がある。

は直陰(なおかげ)のち直柔(なおなり)。龍馬[1]通称。他に才谷梅太郎などの変名がある。

生前より死後に有名になった人物であり、司馬遼太郎の作品を始め、小説やドラマに度々取り上げられる人物ではあるが、それらは実際の龍馬とかなり異なっているのではないかという指摘もある[2]。ちなみに、龍馬の伝記を書いた歴史家としては、平尾道雄・池田敬正・飛鳥井雅道などが代表的[3]。その他、詳しくは「文献」の項目を参照のこと。

生涯

生誕地の高知市
上野彦馬写真館にて
坂本龍馬座像
  • 天保6年(1835年)11月15日(グレゴリオ暦1836年1月3日)、土佐国土佐郡上街本町筋一丁目(現在の高知県高知市上町一丁目)に生まれた。
  • 弘化3年(1846年)、母・が死去。
  • 12歳の時、小高坂の楠山塾で学ぶが退塾。14歳で高知城下の日根野弁治の道場へ入門し、下士の習う小栗流和兵法を学ぶ。
  • 嘉永6年(1853年)、剣術修行のため江戸東京都)に出て、北辰一刀流剣術開祖千葉周作の弟の千葉定吉の桶町千葉道場(通称:小千葉道場)(現:東京都千代田区)に入門した。12月には佐久間象山の私塾にも通っている。
  • 安政元年(1854年)に土佐に帰郷。画家の河田小龍から西洋事情を学ぶ。
  • 安政2年(1855年)、父・八平が死去。
  • 安政3年(1856年)、再び江戸・小千葉道場に遊学。
  • 安政4年(1857年)、盗みを働き切腹沙汰となった仲間の山本琢磨を逃がす。
  • 安政5年(1858年)、剣術修行を終えて帰国。北辰一刀流免許皆伝[4]
  • 文久元年(1861年)、3月、土佐で井口村刃傷事件が起り、龍馬の属する下士と上士の間で対立が深まる[5]。半年後、下士は武市瑞山をリーダーに土佐勤王党を結成し、龍馬は9番目に加盟した(土佐では加盟第1号)。10月、武市の密使として長州へ向かい、翌年1月、萩で久坂玄瑞と面談。2月末に帰国。
  • 萩からの帰国後、1ヶ月もたっていない文久2年(1862年)3月に沢村惣之丞とともに脱藩した[6]。その直後に勤王党による吉田東洋の暗殺事件が起り、当初は龍馬が実行犯として疑われた。龍馬は九州などを放浪した後、江戸へ入り千葉道場に身を寄せる[7]。その後、千葉重太郎の紹介で、幕府政事総裁職の松平春嶽に面会。春嶽の紹介状を携え、12月、勝海舟に面会して弟子となる[8]
  • 文久3年(1863年)、勝が進める神戸海軍操練所の設立に尽力し、操練所よりも先に開設された神戸海軍塾の塾頭をつとめる[9]。勝・松平春嶽の運動で土佐藩主山内容堂から脱藩の罪を許される。この頃、龍馬は勝の護衛に勤王党の人斬り・岡田以蔵をつけている。八月十八日の政変で京から尊攘派が駆逐され、土佐勤王党も藩によって壊滅状態となる。藩の弾圧は江戸の龍馬にも伸び、龍馬は再脱藩する。
  • 元治元年(1864年)、神戸海軍操練所が創設された[10]。龍馬はこの頃、弾圧が激しさを増していた京の尊攘過激派を救うべく蝦夷地への移住計画を開始するが、池田屋事件によって頓挫した。池田屋事件への報復である禁門の変で、長州側に多数の海軍塾生が加わっていたため、海軍塾は幕府から弾圧され、勝も解任された。勝の庇護を失った龍馬であるが、勝の紹介で西郷吉之助(西郷隆盛)を頼って大阪の薩摩藩邸に保護される[11]
  • 慶応元年(1865年)、京の薩摩藩邸に移った龍馬の元に中岡慎太郎らが訪問。この頃から中岡と共に薩長同盟への運動を開始する。薩摩藩の援助により、土佐脱藩の仲間と共に長崎で社中(亀山社中・のちに海援隊)を組織し、物産・武器の貿易を行った。
  • 龍馬は、長崎のグラバー商会(イギリス武器商会のジャーディン・マセソン商会の直系)と関係が深く信用を得ていたが、8月、薩摩藩名義で香港のジャーディン・マセソン商会の信用状により長崎のグラバー商会から買い付けた銃器弾薬を長州藩に転売することに成功した。この年、「非義勅命は勅命にあらず」という文言で有名な大久保利通の書簡を、長州藩重役に届けるという重大な任務を龍馬が大久保や西郷に任されている[12]
  • 慶応2年(1866年)、1月、坂本龍馬の斡旋により、京都長州桂小五郎(木戸孝允)と薩摩の西郷隆盛が会見し、薩長同盟(薩長盟約)が結ばれた。このとき龍馬は桂に求められて盟約書の裏書を行っている。天下の大藩同士の同盟に一介の素浪人が保証を与えたものであって、彼がいかに信を得ていたかがわかる[13]。裏書を行う直前に寺田屋で幕吏に襲撃されたが、一命を取り留める。その傷を癒すため、妻おりょうと共に鹿児島を旅行する。6月、第二次長州征伐では亀山社中の船・ユニオン号(グラバー商会から薩摩藩名義で買い入れ「桜島丸」となり、長州藩に引き渡され「乙丑丸」となる)で長州藩海軍を支援。
  • 慶応3年(1867年)、土佐藩との関係を修復して海援隊を創設した。4月、いろは丸沈没事件がおこり御三家紀州藩に8万3526両198文の損害を賠償させる。後藤象二郎とともに船中八策を策定し、後藤象二郎が山内容堂を説いて土佐藩の進言による大政奉還を実現させた[14]。12月、京都の旅寓・近江屋(京都市中京区)で何者かに中岡慎太郎と共に暗殺された。旧暦誕生日命日は同じ。暗殺犯は京都見廻組という説が有力である。
  • 明治4年(1871年)、8月20日に龍馬の系統が途絶えるのを防ごうと、綸旨により姉千鶴の長男高松太郎が「坂本直」として龍馬の名跡を継いだ。
  • 墓所は京都市東山区京都霊山護国神社参道中腹。なお、靖国神社に祀られている。

暗殺

ファイル:桂浜坂本龍馬像.jpg
坂本龍馬像(高知県の桂浜)
第二次大戦中の金属供出の際もこの銅像だけは供出を免れている。

龍馬は慶応3年11月15日(1867年12月10日)の暗殺当日には風邪を引いて河原町蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいたとされる。当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などに訪問されている。中岡はそのまま龍馬と話していたところ、十津川郷士と名乗る男達数人に切られた。龍馬達は近江屋の人間が入ってきたものと油断しており、帯刀していなかった。龍馬はまず額を深く斬られ、奮戦するもののそれが原因ですぐに死亡。中岡も重傷を負うが、数日間は生存して意識もあり、事件の証言を残した。

死後の評判

前述の通り、坂本龍馬は生前よりも死後に有名になった人物である。

その最初は明治16年(1883年)、高知の『土陽新聞』に坂崎紫瀾が書いた「汗血千里の駒(かんけつせんりのこま)」が掲載され、大評判となった事である。

次に龍馬ブームが起きるのは日露戦争時である。日本海海戦の直前に、龍馬が皇后の夢枕に立ち、「日本海軍は絶対勝てます」と語ったという話である。皇后はこの人物を知らなかったが、宮内大臣の田中光顕が、龍馬の写真を見せたところ、間違いなくこの人物だということになったと言われる。真偽のほどは定かではないが、この話が全国紙に掲載されたため、坂本龍馬の評判が全国に広まる事となる。

その他

京都国立博物館には数箇所の血痕が残る掛け軸が所蔵されている。それは淡海槐堂が暗殺当日に誕生日祝いとして贈った『梅椿図』という作品である。付着した血痕は暗殺された龍馬らのものとされている。

逸話

  • 寺田屋事件で左腕を負傷し、以後、写真撮影などでは左手を隠していることが多い。
  • 龍馬の人生・人格形成において多大な影響を与えていったのは、父・八平の後妻である伊興の実家、下田屋(川島家)といわれている。龍馬は姉である乙女とともに浦戸湾を船で漕ぎ、当時土佐藩御船蔵のあった種崎にある川島家をたびたび訪れては、長崎や下関からの珍しい土産話などを聞いたとされる。また、世界地図や数々の輸入品を見て外の世界への憧れを高めたともいわれている[15]
  • 当時土佐藩士の間では長刀をさすことが流行していた。あるとき龍馬の旧友が龍馬と再会したとき、龍馬は短めの刀を差していた。そのことを指摘したところ「実戦では短い刀のほうが取り回しがよい」と言われ、納得した旧友は短い刀を差すようにした。次に再会したとき、旧友が勇んで刀を見せたところ龍馬は懐から拳銃を出し「銃の前には刀なんて役にたたない」と言われた。納得した旧友はさっそく拳銃を買い求めた。三度再会したとき、旧友が購入した拳銃を見せたところ龍馬は万国公法(国際法)の洋書を取り出し「これからは世界を知らなければならない」といわれた。もはや旧友はついていけなかったという。これは龍馬の性格を鮮やかに描写しているものの、あくまで伝説であって史実ではない。話の起源は、定かではない。
  • 寺田屋事件直後にお龍と結婚した龍馬は、同事件での傷をいやすことも兼ねてお龍を伴って薩摩に滞在した。これを指して、日本で初めての新婚旅行とされる[16]
    S&W モデル1
  • 龍馬が愛用した拳銃は2丁ある。ひとつは高杉晋作から贈呈されたS&Wモデル2アーミー 33口径で、寺田屋事件の際に火を噴いたのはこの銃である。しかし同事件の際に紛失し、後に買い求めたのがS&Wモデル1 22口径で、これは妻・お龍とともに1丁ずつ所持し、薩摩滞在時はこれで狩猟などを楽しんだという。当然この銃は暗殺された時も携帯していたが、発砲することなく殺害されている。
  • 幼少の頃、水練(水泳)に出かける途中、友人に「こんな雨で泳ぐのか」と問われたが、「濡れるのに雨も関係あるか」とそのまま川に行ったという。
  • 身長6尺(約182cm。写真と当時着用していた紋付のサイズを元に研究者が計算したところでは180cm[17])と江戸時代の当時としてはかなりな大男であったといえるだろう。なお、他の研究では174cmや169cmという説もある。
  • 背中に黒毛が生えていた。
  • 少年時は寝小便タレで、泣き虫。勉強についていけず塾を退塾になった。
  • 武市半平太とは「アギ(あご)」「アザ(痣)」とあだ名で呼び合う仲だった。
  • 姉・幸の夫の家によく遊びに行き、屋根に上って太平洋を眺めていた。
  • 西郷に対し「わしは世界の海援隊をやります」と語り、その様子を同席していた陸奥宗光がことあるごとに回想して語ったとされている。しかしこれは後世の創作とも言われている。
  • 龍馬は脱藩後に継続的に接触したトーマス・グラバーの影響を強く受けており、薩長同盟、亀山社中、海援隊、船中八策は龍馬の完全な独創ではないという指摘がある。グラバー商会は、アヘン戦争を推進したイギリスのジャーディン・マセソン商会の直系であり、グラバーの肩書きは、「マセソン商会長崎代理人」であった。龍馬が幅広く権力者と交流できた理由は、彼個人の資質よりも、彼が当時の東洋最大手のイギリス武器商会の「営業マン」だったからだというのが真実に近い、という主張がある。[18]
  • 長崎のグラバー邸には、龍馬ら脱藩志士を匿って住まわせたとされる隠し部屋がある。
  • 龍馬は階級的には土佐藩の武家の最下層にあたる郷士であったが、本家の才谷屋は土佐有数の豪商であり、下手な上士よりは裕福な家庭環境にあった。
  • いろは丸沈没事件の際に、紀州藩に対しミニエー銃400丁など銃火器3万5630や金塊や陶器など4万7896両198を積んでいたと主張しそれらを弁済させた。しかし、近年行われた調査では、坂本竜馬が主張した銃火器などは見つかっていないことが明らかになっている[19]

同時代の龍馬評

「龍馬誠実可也の人物、併せて撃剣家、事情迂闊、何も知らずとぞ」(龍馬江戸修行後)
「元より龍馬は人物なれども、書物を読まぬ故、時として間違ひし事もござ候へば」(龍馬脱藩後)
  • 武市半平太
「土佐一国にはあだたぬ奴」(龍馬脱藩後)
「肝胆もとより雄大、奇機おのずから湧出し、 飛潜だれか識るあらん、ひとえに龍名 に恥じず」(獄中で)
「龍馬面会、偉人なり。奇説家なり」(薩長同盟直前)
  • 勝海舟
「坂本龍馬、彼はおれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着いて、なんとなく冒しがたい威権があってよい男だったよ」(維新後)
  • 西郷隆盛
「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」
「その言行すこぶる意表に出で、時としては大いに馬鹿らしき事を演じたれど、また実に非凡の思想を有し、之を断行し得たり」
「過激なることは豪も無し。かつ声高に事を論ずる様のこともなく、至極おとなしき人なり。容貌を一見すれば豪気に見受けらるるも、万事温和に事を処する人なり。但し胆力が極めて大なり」

家系・家族

京都府霊山墓地

坂本家は清和源氏の一支族美濃源氏土岐氏の庶家、明智光秀の娘婿・明智秀満の末裔を称する[20] 。坂本姓の由来は、本能寺の変以前、明智氏所領であった坂本(現滋賀県大津市坂本)に由来している。しかしこれは後世の創作だろうとする声も強い[21]家紋は「組み合わせ角に桔梗」。

一方で、龍馬自身は紀貫之の子孫と称したという。墓石にも「坂本龍馬 紀直柔」と名が彫られている。

坂本家が主君に差し出した『先祖書指出控』には、「先祖、坂本太郎五郎、生国山城国、郡村未だ詳らかならず、仕声弓戦之難を避け、長岡郡才谷村に来住す。但し年歴、妻之里、且つ病死之年月等未詳」とある。

天正16年(1588年)の才谷村の検地で村の3番目の百姓として登録されているにすぎず、3代目太郎左衛門までは公認の名字をもたぬ百姓身分と考えられる。2代目彦三郎、3代目太郎左衛門まで才谷村で農業を営んだ。4代目守之、5代目正禎は才谷村のの一つである「大浜」を家名として名乗り始める。

寛文6年(1666年)、3代目太郎左衛門の次男・八兵衛は高知城下にでて質屋を開業(屋号は才谷屋)し、酒屋、呉服等を扱う豪商となる。享保15年(1730年)ころ本町筋の年寄役となり、藩主に拝謁を許されるにいたった。明和7年(1770年)、6代目直益は郷士の株を買い長男・直海を郷士坂本家の初代とし分家させ、名字帯刀、すなわち公認の名字を名乗り身分表象として二本差す身分にたどりついた。次男直清には商家才谷屋をつがせている。郷士坂本家3代目直足は白札郷士山本覚右衛門の次男としてうまれ坂本家へ養子として入った。直足の次男が直柔(坂本龍馬)である。妻はおりょう(楢崎龍)、また千葉さな子は婚約者だったといわれる。

郷士坂本家は5代当主の直寛の時の1897年に一族を挙げて北海道に移住した(土佐訣別)ため、現在は高知には龍馬はもとより郷士坂本家の人々はいない。

系図

 
 
八郎兵衛 直益
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
郷士坂本家
(1) 八平 直海
才谷屋坂本家
八次 直清
 
 
(2) 八蔵 直澄
 
 
 
 
 
(3) 八平 直足
(山本覚右衛門の次男)
 
伊予
(北代平助の長女)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(4) 権平 直方千鶴
(高松順蔵の妻)

(柴田作左衛門の妻)
乙女
(岡上新輔の妻)
龍馬 直柔
 
 
お龍
(楢崎将作の長女)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
春猪
(鎌田清次郎の妻)
太郎
(龍馬の養子に)
(5) 南海男 直寛
(権平の養子に)
 
 
 
 
鶴井
(権平の外孫)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
実線は親子関係、破線は夫婦関係、丸に数字は当主。

記念館、顕彰施設

文献

原典

  • 1935年 坂本龍馬、由利公正著、尾佐竹猛解題『近世社会経済学説大系』第14、誠文堂新光社
    • 各巻タイトル: 坂本龍馬・由利公正集 / 尾佐竹猛解題
  • 1978年5月 平尾道雄監修、宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店
    • 限定版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌: p907 - 952
  • 1980年5月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店
    • 増補改訂版
  • 1982年11月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店
    • 増補3訂版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌: p987 - 1032
  • 1988年5月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店、ISBN 4875194005
    • 増補4訂版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌: p1045 - 1090
  • 1988年12月、岩崎英重、日本史籍協会編『坂本龍馬關係文書』1(『日本史籍協会叢書』115)、東京大学出版会、ISBN 4130977156
    • 日本史籍協会1926年刊の複製
  • 1989年1月、岩崎英重、日本史籍協会編『坂本龍馬關係文書』2(『日本史籍協会叢書』116)、東京大学出版会、1926年刊の復刊
    • 日本史籍協会1926年刊の複製
  • 1995年8月 坂本龍馬、宮地佐一郎著『龍馬の手紙 坂本龍馬全書簡集・関係文書・詠草』(『PHP文庫』)、PHP研究所、ISBN 4569567940
  • 1996年9月 坂本龍馬著、日本史籍協会編『坂本竜馬関係文書』1、北泉社、ISBN 4938424665
    • 日本史籍協会 1926年刊の複製
  • 1996年9月 坂本龍馬著、日本史籍協会編『坂本竜馬関係文書』2、北6年刊の複製
  • 1999年8月 京都国立博物館編『坂本龍馬関係資料』京都国立博物館
  • 2003年12月 坂本龍馬、宮地佐一郎著『龍馬の手紙 坂本龍馬全書簡集・関係文書・詠草』(『講談社学術文庫』)、講談社、ISBN 4061596284

龍馬を研究する上で参考になる主な文献(書籍編)

  • 弘松宣枝『坂本龍馬』(民友社、1896年)
  • 瑞山会編『維新土佐勤王史』(冨山房、1912年。睦書房、1969年。日本図書センター、1977年。マツノ書店、2004年)
  • 千頭清臣『坂本龍馬』(博文館、1914年。土佐史談会、1985年。新人物往来社、1995年新人物往来社版は書名を『坂本龍馬伝』に変更している)
  • 寺石正路『土佐偉人伝』(沢本書店、1914年。歴史図書社、1976年)
  • 尾佐竹猛『維新前後に於ける立憲思想』(文化生活研究会、1925年。『尾佐竹猛全集』1、実業之日本社、1948年に収録。『尾佐竹猛著作集』9、ゆまに書房、2006年に収録)
  • 坂本中岡銅像建設会編『雋傑坂本龍馬』(坂本中岡銅像建設会事務所、1927年。象山社、1981年)
  • 徳富蘇峰『土佐の勤王』(民友社、1929年)
  • 平尾道雄『坂本龍馬海援隊始末』(万里閣書房、1929年)
  • 平尾道雄『維新暗殺秘録』(民友社、1930年。白竜社、1967年。新人物往来社、1978年。河出文庫、1990年)
  • 尾佐竹猛『幕末維新の人物』(学而書院、1935年。『尾佐竹猛著作集』20、ゆまに書房、2006年に収録)
  • 維新史料編纂事務局編『維新史』全5巻(明治書院、1939~1941年。吉川弘文館、1983年)
  • 平尾道雄『海援隊始末記』(大道書房、1941年)
  • 尾佐竹猛『明治維新』上・中・下の一・二(白揚社、1942~1944年・1949年。宗高書房、1978年。『尾佐竹猛著作集』16・17、ゆまに書房、2006年に収録)
  • 平尾道雄『武市瑞山と土佐勤王党』(大日本出版社峯文荘、1943年)
  • 遠山茂樹『明治維新』(岩波全書、1951年。『遠山茂樹著作集』1、岩波書店、1991年に収録。岩波同時代ライブラリー、1995年。岩波現代文庫、2000年)
  • 井上清『日本現代史I 明治維新』(東京大学出版会、1951年)
  • 高橋信司『土佐藩憲政思想成立史』(高知市民図書館、1958年)
  • 市井三郎『哲学的分析』(岩波書店、1963年)
  • 池田諭『坂本竜馬』(大和選書、1964年)
  • 池田敬正『坂本龍馬』(中公新書、1965年)
  • マリアス・ジャンセン、平尾道雄・浜田亀吉訳『坂本龍馬と明治維新』(時事通信社、1965年)
  • 平尾道雄『土佐藩』(吉川弘文館、1965年)
  • 平尾道雄『龍馬のすべて』(久保書店、1966年。高知新聞社、1985年)
  • 小西四郎『日本の歴史19 開国と攘夷』(中央公論社、1966年。中公文庫、1974年。中公バックス、1984年)
  • 平尾道雄『坂本龍馬海援隊始末記』(白竜社、1968年。中公文庫、1975年)
  • 山本大『真説坂本竜馬』(人物往来社、1968年。新人物往来社、1974年。新人物往来社版は書名を『坂本竜馬』に変更)
  • 土居晴夫『坂本家系考』(土佐史談会、1968年)
  • 松浦玲『勝海舟』(中公新書、1968年)
  • 今井幸彦『坂本竜馬を斬った男』(新人物往来社、1971年)
  • 石井孝『勝海舟』(吉川弘文館、1974年)
  • 飛鳥井雅道『坂本龍馬』(平凡社、1975年。福武文庫、1992年。講談社学術文庫、2000年)
  • 絲屋寿雄『坂本龍馬』(汐文社、1975年)
  • 山本大『近世土佐と民権思想』(高知市民図書館、1976年)
  • 尾崎秀樹『歴史文学論』(勁草書房、1976年)
  • 平尾道雄『中岡慎太郎陸援隊始末記』(中公文庫、1977年)
  • 嶋岡晨『龍馬追跡』(新人物往来社、1977年。復刻『坂本龍馬の生涯』新人物往来社、1983年)
  • 市井三郎『歴史を創るもの』(第三文明社レグルス文庫、1978年)
  • 松岡英夫『大久保一翁』(中公新書、1979年)
  • 石尾芳久『大政奉還と討幕の密勅』(三一書房、1979年)
  • 平尾道雄編『坂本龍馬のすべて』(新人物往来社、1979年)
  • 入交好脩『武市半平太』(中公新書、1982年)
  • 宮地佐一郎『坂本龍馬 男の行動論』(PHP研究所、1983年。PHP文庫、1985年)
  • 吉永豊海『土佐海事法制史』(山海堂出版、1983年)
  • 坂本藤良『幕末維新の経済人』(中公新書、1984年)
  • 土居晴夫『坂本龍馬とその一族』(新人物往来社、1985年)
  • 平尾道雄『明治維新と坂本龍馬』(新人物往来社、1985年)
  • 平尾道雄ほか『坂本龍馬読本』(新人物往来社、1985年)
  • 関家新助『近代日本の反権力思想』(法律文化社、1986年)
  • 山田一郎『坂本龍馬 隠された肖像』(新潮社、1987年)
  • 鹿野政直『「鳥島」は入っているか』(岩波書店、1988年)
  • 小西四郎ほか編『坂本龍馬事典』(新人物往来社、1988年。コンパクト版、2007年)
  • 山田一郎ほか『坂本龍馬 海援隊隊士列伝』(新人物往来社、1988年)
  • 石井寛治『大系日本の歴史12 開国と維新』(小学館、1989年。小学館ライブラリー、1993年)
  • 山田一郎『海援隊遺文』(新潮社、1991年)
  • 井上勲『王政復古』(中公新書、1991年)
  • 宮地佐一郎『龍馬百話』(文春文庫、1991年)
  • 下関市立長府博物館編『坂本龍馬と下関』(下関市立長府博物館、1992年)
  • 宮地佐一郎『中岡慎太郎』(PHP研究所、1992年)
  • 田中彰『日本の歴史15 開国と倒幕』(集英社、1992年)
  • 吉村淑甫『近藤長次郎』(毎日新聞社、1992年)
  • 宮地佐一郎『中岡慎太郎』(中公新書、1993年)
  • 木村幸比古『龍馬暗殺の真犯人は誰か』(新人物往来社、1995年)
  • 田中彰『幕末維新史の研究』(吉川弘文館、1996年)
  • 菊地明山村竜也編『坂本龍馬日記』上・下(新人物往来社、1996年)
  • 吉田常吉『幕末乱世の群像』(吉川弘文館、1996年)
  • 青山忠正『幕末維新 / 奔流の時代』(文英堂、1996年)
  • 木村幸比古『龍馬の時代』(高知新聞社、1997年。高知新聞社追補版、2000年。淡交社、2006年)
  • 新人物往来社編『共同研究・坂本龍馬』(新人物往来社、1997年)
  • 松岡司『武市半平太伝』(新人物往来社、1997年)
  • 菊地明『龍馬 最後の真実』(筑摩書房、1998年。ちくま文庫、2009年)
  • 芳即正『坂本龍馬と薩長同盟』(髙城書房、1998年)
  • 松岡司『中岡慎太郎伝』(新人物往来社、1999年)
  • 小美濃清明『坂本龍馬・青春時代』(新人物往来社、1999年)
  • 前田秀徳『龍馬からのメッセージ』(自費出版、2000年/発売:南の風社)写真多数
  • 青山忠正『明治維新と国家形成』(吉川弘文館、2000年)
  • 菊地明『龍馬暗殺完結篇』(新人物往来社、2000年)
  • 下関市立長府博物館編『三吉慎蔵と坂本龍馬』(下関市立長府博物館、2001年)
  • 松浦玲『検証・龍馬伝説』(論創社、2001年)
  • 山本栄一郎『真説・薩長同盟』(文芸社、2001年)
  • 菊地明『坂本龍馬進化論』(新人物往来社、2002年)
  • 家近良樹『孝明天皇と「一会桑」』(文春新書、2002年)
  • 井上勝生『日本の歴史18 開国と幕末変革』(講談社、2002年)
  • 宮川禎一『龍馬を読む愉しさ』(臨川選書、2003年)
  • 松岡司『定本坂本龍馬伝』(新人物往来社、2003年)
  • 成田龍一『司馬遼太郎の幕末・明治』(朝日選書、2003年)
  • 福井市立郷土歴史博物館企画・制作・編集『天下の事成就せり - 福井藩と坂本龍馬 - 』(福井市立郷土歴史博物館、2004年)
  • 菅宗次『龍馬と新選組』(講談社選書メチエ、2004年)
  • 佐々木克『幕末政治と薩摩藩』(吉川弘文館、2004年)
  • 小椋克己土居晴夫監修『図説坂本龍馬』(戎光祥出版、2005年)
  • 京都国立博物館編『龍馬の翔けた時代』(京都新聞社、2005年)
  • 青山忠正『明治維新の言語と史料』(清文堂出版、2006年)
  • 土居晴夫『坂本龍馬の系譜』(新人物往来社、2006年)
  • 井上勝生『シリーズ日本近現代史(1) 幕末・維新』(岩波新書、2006年)
  • 高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』(吉川弘文館、2007年)
  • 木村幸比古『龍馬暗殺の謎』(PHP新書、2007年)

龍馬を研究する上で参考になる主な文献(論文編)

  • 岩崎鏡川「坂本龍馬先生に就て」(『土佐史談』15、1926年)
  • 尾佐竹猛「坂本龍馬の『藩論』」(『明治文化研究』9、1934年。『土佐史談』46、1934年に再録)
  • 松村巌「坂本龍馬」(『土佐史談』68、1939年。『続新選組史料集』新人物往来社、2006年に再録)
  • 赤尾藤一「幕末に於ける薩長両藩の提携成立と坂本龍馬等土州藩士の周旋運動に就いて」(『中部日本歴史地理学会論文集』1、飯島書店、1941年)
  • 森銑三「坂本龍馬」(『伝記』1月号、1943年。『森銑三著作集 続編』第1巻、中央公論社、1992年に再録)
  • 塩見薫「才谷屋のことなど」(『寧楽史苑』8、1952年)
  • 塩見薫「文久年間の大政返上論-坂本龍馬伝の一説-」(『日本歴史』95、1956年)
  • 高橋信司「いわゆる「藩論」」(『高知短期大学社会科学論集』2、1956年)
  • 塩見薫「坂本龍馬語録と伝えられる『英将秘訣』について」(『歴史学研究』208、1957年)
  • 塩見薫「坂本龍馬の元治元年-薩摩藩への結びつきを中心に-」(『日本歴史』108、1957年)
  • 池田敬正「土佐藩における討幕運動の展開」(『史林』40‐5、1957年。三宅紹宣編『幕末維新論集4 幕末の変動と諸藩』吉川弘文館、2001年に再録)
  • 平尾道雄「龍馬と勝海舟書翰」(『土佐史談』93、1958年)
  • 井上清「坂本龍馬」(『朝日ジャーナル』157、1962年。『日本の思想家』I、朝日新聞社、1962年、および『新版日本の思想家』上、朝日新聞社、1975年に再録)
  • 原口清「「藩論」覚え書」(『日本歴史』176、1963年)
  • 土居晴夫「神戸海軍操練所考」(『土佐史談』115、1966年)
  • 土居晴夫「兵庫海軍局始末」(『歴史と神戸』25、1967年)
  • 土居晴夫「海軍操練所始末」(『歴史と神戸』26、1967年)
  • 土居晴夫「神戸海軍操練所史考」(『軍事史学』13、1968年。「坂本龍馬の神戸時代」と改題の上、『平尾道雄追悼記念論文集』高知市民図書館、1980年に再録)
  • 広谷喜十郎「勃興期の才谷屋に関する一考察」(『土佐史談』122、1969年)
  • 土居晴夫「神戸海軍塾の青年群像」(『神戸史談』226、1970年)
  • 鵜沢義行「幕末における尊攘的開明論と坂本龍馬の周辺について」(『日本法学紀要』11・12、1970年)
  • 平尾道雄「高杉晋作と坂本龍馬」(『中央公論』86-5、1971年)
  • 飯田嘉郎「伊呂波丸事件について」(『海事史研究』16、1971年)
  • 船津功「「大政奉還」をめぐる政権構想の再検討-坂本龍馬「新官制案」の史料批判を中心に-」(『歴史学研究』375、1971年)
  • 井上勲「大政奉還運動の形成過程(一)(二)」(『史学雑誌』81-11・81-12、1972年)
  • 石井孝「船津功氏「『大政奉還』をめぐる政権構想の再検討」を読んで」(『歴史学研究』380、1972年)
  • 井上勲「激動期の政治リーダー-坂本龍馬と中岡慎太郎-」(『エコノミスト』51-42、1973年)
  • 山本大「坂本龍馬の大義料」(『日本歴史』322、1975年)
  • 池田敬正「司馬遼太郎『竜馬がゆく』をめぐって」(『歴史評論』317、1976年)
  • 絲屋寿雄「竜馬の虚像・実像-司馬遼太郎『竜馬がゆく』によせて-」(『歴史評論』317、1976年)
  • 飛鳥井雅道「「奉還」と「討幕」-坂本龍馬の三つの文書-(上)」(京都大学『人文学報』41、1976年)
  • 鹿野政直「国民の歴史意識・歴史像と歴史学」(『岩波講座日本歴史24別巻1』岩波書店、1977年)
  • 尾崎秀樹「龍馬像の変遷」(『歴史と人物』80号、1978年)
  • 井上勲「坂本龍馬の可能性」(『歴史と人物』80号、1978年)
  • 亀掛川博正「公議政体論と土佐藩の動向(I)(II)(III)」(『政治経済史学』154・156・157、1979年)
  • 鈴木教道「西郷隆盛の思想と人格-幕末における坂本龍馬の人間像との比較において-」(『現代科学論叢』13、1979年)
  • 山本大「坂本龍馬の思想と行動」(『歴史と人物』129、1982年)
  • 井上勝生「維新変革と後発国型権力の形成-王政復古クーデタを中心に-」(『日本史研究』271、1985年。井上勝生『幕末維新政治史の研究』塙書房、1994年に再録)
  • マリアス・ジャンセン、秦郁彦訳「坂本龍馬と近代日本」(『土佐史談』170、1985年)
  • 山本大「海援隊と長崎商会」(『土佐史談』170、1985年)
  • 土居晴夫「坂本龍馬と「北辰一刀流長刀兵法目録」」(『土佐史談』170、1985年)
  • 広谷喜十郎「坂本龍馬と立川関」(『土佐史談』170、1985年)
  • 小西四郎「坂本龍馬とその時代」(『別冊歴史読本-坂本龍馬の謎-』新人物往来社、1985年)
  • 山本大「藩意識をなぜ持たなかったか」(『別冊歴史読本-坂本龍馬の謎-』新人物往来社、1985年)
  • 毛利敏彦「薩長同盟をなぜ画策したか」(『別冊歴史読本-坂本龍馬の謎-』新人物往来社、1985年)
  • 松浦玲「「船中八策」の真意は」(『別冊歴史読本-坂本龍馬の謎-』新人物往来社、1985年)
  • 井上勲「大政奉還立案の真相は」(『別冊歴史読本-坂本龍馬の謎-』新人物往来社、1985年)
  • 青山忠正「薩長盟約の成立とその背景」(『歴史学研究』557、1986年)
  • 石尾芳久「坂本龍馬の死-言論と暴力-」(『関西大学法学論集』36-3・4・5合併号、1986年)
  • 松岡司「初見の坂本龍馬書状と北辰一刀流兵法目録」(『日本歴史』454、1986年)
  • 土居晴夫「検証・坂本龍馬の書状」(『歴史と神戸』144、1987年)
  • 荒尾親成「検証・坂本龍馬の書状-土居晴夫氏に答える-」(『歴史と神戸』145、1987年)
  • 遠山茂樹「坂本龍馬が活動した時代」(小西四郎ほか編『坂本龍馬事典』新人物往来社、1988年。のち、『遠山茂樹著作集』第1巻、岩波書店、1991年に再録)
  • 井上清「明治維新と中岡慎太郎-坂本龍馬とくらべて-」(『明治維新と中岡慎太郎』北川村、1990年。『井上清史論集1明治維新』岩波現代文庫、2003年に再録)
  • 松浦玲「坂本龍馬の実像」(『日本近代史の虚像と実像』第1巻、大月書店、1990年。松浦玲『検証・龍馬伝説』論創社、2001年に再録)
  • 梶輝行「幕末土佐藩における西洋砲術の導入・伝習-徳弘孝蔵を中心に-」(『史叢』50、1993年)
  • 箱石大「坂本龍馬の人物像をめぐって」(『歴史評論』530、1994年)
  • 堤克彦「横井小楠の交友関係-小楠と龍馬を中心として-」(『熊本史学』70・71合併号、1995年)
  • 一坂太郎「薩長同盟の新事実-坂本龍馬周旋説の虚実-」(『歴史読本』41-19、1996年。のち、新人物往来社編『共同研究・坂本龍馬』新人物往来社、1997年に再録)
  • 家近良樹「「大政奉還論」の系譜」(『歴史読本』42-8、1997年)
  • 三上一夫「福井時代の坂本龍馬」(『歴史読本』42-8、1997年)
  • 岸本覚「幕末海防論と「境界」意識-「志士」集う「場」を中心に-」(『江戸の思想9 空間の表象』ぺりかん社、1998年)
  • 木村幸比古「龍馬関係資料について」(『霊山歴史館紀要』13、2000年)
  • 青山忠正「土佐山内家重臣・寺村左膳-薩土盟約と政権奉還建白-」(佐々木克編『それぞれの明治維新』吉川弘文館、2000年。青山忠正『明治維新の言語と史料』清文堂出版、2006年に再録)
  • 青山忠正「文体と言語-坂本龍馬書簡を素材に-」(『佛教大学総合研究所紀要』8、2001年。青山忠正『明治維新の言語と史料』清文堂出版、2006年に再録)
  • 木村幸比古「海舟と龍馬」(『霊山歴史館紀要』14、2001年)
  • 福田一彰「大政奉還に至る坂本龍馬の尊王思想について」(『霊山歴史館紀要』15、2002年)
  • 木村幸比古「龍馬の剣術」(『霊山歴史館紀要』15、2002年)
  • 松下祐三「薩長商社計画と坂本龍馬-坂崎紫瀾の叙述をめぐって-」(『駒沢史学』59、2002年)[1]
  • 三宅紹宣「薩長盟約の歴史的意義」(『日本歴史』647、2002年)
  • 高橋秀直「「公議政体派」と薩摩倒幕派-王政復古クーデター再考-」(『京都大学文学部研究紀要』41、2002年。高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』吉川弘文館、2007年に再録)
  • 高橋秀直「幕末史の中の薩長同盟」(『幕末から明治へ』同志社大学人文科学研究所、2004年)
  • 北野雄士「横井小楠と坂本龍馬-その共通性と異質性-」(『大坂産業大学人間環境論集』3、2004年)
  • 田中彰「天保の青年たちの「明」と「暗」」(『歴史読本』49-7、2004年)
  • 三野行徳「坂本竜馬と幕府浪士取立計画-杉浦梅潭文庫「浪士一件」の紹介を兼ねて-」(『歴史読本』49-7、2004年)
  • 松下祐三「薩長商社計画の虚実」(『歴史読本』49-7、2004年)
  • 前田宣裕「竜馬暗殺と会津藩」(『歴史読本』49-7、2004年)
  • 井上勲「開国と幕末の動乱」(井上勲編『日本の時代史20 開国と幕末の動乱』吉川弘文館、2004年)
  • 中城正堯「龍馬ゆかりの襖絵や宣長の短冊-『中城文庫』誕生の発端と内容」(『大平山』第30号、2004年)
  • 小林和幸「谷干城の慶応三年」(『駒沢史学』第64号、2005年)
  • 高橋秀直「薩長同盟の展開-六ヶ条盟約の成立-」(『史林』452、2005年。高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』吉川弘文館、2007年に再録)
  • 青山忠正「文久・元治年間の政局と龍馬」(京都国立博物館編『龍馬の翔けた時代』京都新聞社、2005年)
  • 宮川禎一「坂本龍馬の生涯と書簡」(京都国立博物館編『龍馬の翔けた時代』京都新聞社、2005年)
  • 三浦夏樹「土佐と坂本龍馬」(京都国立博物館編『龍馬の翔けた時代』京都新聞社、2005年)
  • 古城春樹「下関と坂本龍馬」(京都国立博物館編『龍馬の翔けた時代』京都新聞社、2005年)
  • 青山忠正「龍馬は『暗殺』されたのか」(NHK学園機関紙『れきし』第92号、2005年)
  • 松岡司「坂本龍馬「京都日誌」」(『歴史読本』51-7、2006年)
  • 大塚桂「大政奉還論・再考(1)(2)」(『駒澤法学』第18・19号、2006年)
  • 桐野作人「龍馬遭難事件の新視角-海援隊士・佐々木多門書状の再検討- 第1回・第2回・最終回」(『歴史読本』第51巻第10号・第51巻第11号・第51巻第12号、2006年)
  • 桐野作人「同盟の実相と龍馬の果たした役割とは?」(『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)
  • 濱口裕介「師とともに目指したアジア諸国共有海軍への夢」(『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)
  • 松浦玲「『万機公論ニ決スヘシ』は維新後に実現されたか?」(『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)

龍馬に関する創作物

小説

漫画

映画

TVドラマ

坂本龍馬を主人公とした作品
その他の作品

舞台

高知龍馬空港

関連人物

注釈

  1. ^ 「龍馬」は慣用音(『広辞苑』第5版)では「りゅうま」だが、漢音は「りょうま」で、同時代人の日記や書簡に「良馬」の当て字で記されていることもあり、また龍馬自身も書簡の中で「りよふ」と自署していることもあるため、「りょうま」と読まれていたことは間違いない。なお、「竜」は「龍」の異体字(「竜」は「龍」の古体字)で、龍馬自身は「竜」の字体を使ったことがないが、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』で使われたことや、「竜」が常用漢字に採用されたこともあり、慣用化されている。
  2. ^ 歴史家の松浦玲などが代表格である。松浦玲『検証・龍馬伝説』(論創社、2001年)・池田敬正「司馬遼太郎「竜馬がゆく」をめぐって」(『歴史評論』317、1976年)・絲屋寿雄「竜馬の虚像・実像-司馬遼太郎「竜馬がゆく」によせて-」(『歴史評論』317、1976年)などが参考になる。
  3. ^ 平尾道雄『龍馬のすべて』(久保書店、1966年。高知新聞社、1985年)・平尾道雄『坂本龍馬海援隊始末記』(白竜社、1968年。中公文庫、1976年)・池田敬正『坂本龍馬』(中公新書、1965年)・飛鳥井雅道『坂本龍馬』(平凡社、1975年。福武文庫、1992年。講談社学術文庫、2000年)。
  4. ^ 北辰一刀流免許皆伝と言われる事もあるが、実際には「北辰一刀流長刀兵法・目録」を与えられた物であり、一般にいう剣術では無く、正しくは薙刀兵法であり、免許でもなければ皆伝でもなく、北辰一刀流としては一番低い「初目録」であった。ただ千葉道場で塾頭を勤めたことや同世代の人物の証言に「免許皆伝を伝授された」という証言も残るため、免許皆伝状は単に現存していないものと思われる(龍馬の遺品は災害や盗難等で幾つか損失している)。ちなみに、「北辰一刀流長刀兵法・目録」が薙刀の目録であることについては、松岡司「初見の坂本龍馬書状と北辰一刀流長刀兵法目録」(『日本歴史』454号、1986年)、土居晴夫「北辰一刀流とその免許皆伝」(『坂本龍馬事典』新人物往来社、1988年)が詳しい。
  5. ^ 『維新土佐勤王史』「坂本等、一時池田の宅に集合し、敢て上士に対抗する気勢を示したり」。なお、事件の当事者で切腹した池田虎之進の介錯を龍馬が行って、その血に刀の下緒を浸しながら下士の団結を誓ったという逸話が流布しているが、これは坂崎紫瀾の小説『汗血千里駒』のフィクションである。
  6. ^ 脱藩理由は定かではないが、龍馬が吉田東洋暗殺を企てる武市瑞山の方針に反対だったからではないかとの指摘もある。飛鳥井雅道『坂本龍馬』(平凡社、1975年)・石尾芳久大政奉還討幕密勅』(三一書房、1979年)などを参照。
  7. ^ 『維新土佐勤王史』「坂本は飄然として江戸に下り、彼の旧識なる鍛冶橋外桶町の千葉重太郎方に草蛙を解きぬ」
  8. ^ 一説には勝を暗殺するために面会に行ったとされるが、これには色々と異説があり、正確な史実は確定していない。ただし、勝を殺そうとして、逆に諭されて勝の弟子になった人間がたくさんいるのは事実。また、入門時期や、一緒に勝を訪問した人物についても諸説ある。諸説を、春名徹「勝海舟」(『坂本龍馬事典』新人物往来社、1988年)が詳しくまとめている。
  9. ^ ただし、勝海舟の研究者として著名な歴史家の松浦玲をはじめとして何人かの歴史家は、龍馬が塾頭を務めたという説には懐疑的である。 詳しくは松浦玲『検証・龍馬伝説』(論創社、2001年)・濱口裕介「師とともに目指したアジア諸国共有海軍への夢」(『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)を参照。
  10. ^ しかし浪人は入所資格を認められなかったこともあり、龍馬は入所できなかったのではないかと指摘している研究者もいる(松浦玲『検証・龍馬伝説』など)。
  11. ^ これには、薩摩藩側が龍馬らの航海技術に利用価値を感じた点も大きいと指摘されている(松浦玲『検証・龍馬伝説』など)
  12. ^ 佐々木克『幕末政治と薩摩藩』(吉川弘文館、2004年)。
  13. ^ なお薩長同盟については龍馬最大の功績と言われるが、実際には、西郷や小松帯刀ら薩摩藩の指示を受けて動いていたという説もあり(青山忠正など)、薩長連合に果たした役割の重要性については評価が分かれている。その後、青山忠正を皮切りに、芳即正三宅紹宣宮地正人高橋秀直・佐々木克などの研究者を中心に薩長同盟についての議論が盛んである。薩長同盟研究の動向については、桐野作人「同盟の実相と龍馬の果たした役割とは?」(『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)が詳しくまとめている。
  14. ^ ただし、「船中八策」には原文書も写本も存在しないため、本当に龍馬が作成したのか疑問視している研究者も存在する(青山忠正、松浦玲など)。龍馬が「船中八策」を作成したことは通説になっているが、史料的根拠は見当たらないのである。詳しくは、青山忠正『明治維新の言語と史料』(清文堂出版、2006年)・松浦玲「『万機公論ニ決スヘシ』は維新後に実現されたか?」(『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)を参照。
  15. ^ 詳細は山田一郎『海援隊遺文』(新潮社、1991年)などに、また土佐藩の御船蔵や海事資料については吉永豊実『土佐海事法制史』(山海堂、1983年)に詳しい。
  16. ^ 小松清廉が先であるという異論もある。
  17. ^ 爆笑問題のもうひとつの龍馬伝NHK総合テレビ 2009年12月30日放送
  18. ^ 加治将一 (2004). 石の扉 フリーメーソンで読み解く歴史. 新潮社 
  19. ^ リーフレット京都 No.216(2006年12月) - (財)京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館
  20. ^ これは坂崎紫瀾の小説『汗血千里駒』のフィクションである。
  21. ^ 土居晴夫『坂本龍馬の系譜』(新人物往来社、2006年)などが詳しい。

関連項目

外部リンク