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=== 龍馬との結婚まで ===
=== 龍馬との結婚まで ===
天保12年(1841年)、医師の[[楢崎将作]]の長女として京都富小路六角で生まれた。父の将作は[[井伊直弼]]による[[安政の大獄]]で捕らえられ、獄死している。このため、お龍と母、そして幼い4人の弟妹は生活に困るようになり、お龍はそれを養うために旅籠屋で働いた。
天保12年(1841年)、医師の[[楢崎将作]]の長女として京都富小路六角で生まれた。父の将作は[[井伊直弼]]による[[安政の大獄]]で捕らえられ、獄死している。このため、お龍と母、そして幼い4人の弟妹は生活に困るようになり、お龍はそれを養うために旅籠屋で働いた。
龍馬ら土佐亡命志士が京都大仏付近の商家の隠居所に住んでいて、お龍の母貞(てい)がまかないをしていた<ref>中村武生『京都の江戸時代をあるく』(文理閣、2008年)参照</ref>。その娘として坂本龍馬と出会い、龍馬から自由奔放なところを気に入られ恋仲となり、その後[[寺田屋]]に[[奉公]]することとなった。
龍馬ら土佐亡命志士が京都大仏付近の商家の隠居所に住んでいて、お龍の母貞(てい)がまかないをしていた<ref name ="kyotoedo">中村武生『京都の江戸時代をあるく』(文理閣、2008年)参照</ref>。その娘として坂本龍馬と出会い、龍馬から自由奔放なところを気に入られ恋仲となり、その後[[寺田屋]]に[[奉公]]することとなった。


[[慶応]]2年([[1866年]])、[[薩長同盟]]の成立を悟った幕府の[[伏見奉行]]配下の捕り方によって寺田屋が包囲されたとき、お龍は[[風呂]]に入っていたが、[[裸]](実際は浴衣であった)で飛び出して龍馬に危機を知らせて救ったとされる([[寺田屋事件]])。その直後に龍馬と[[結婚]]し、[[小松清廉|小松帯刀]]の誘いで[[薩摩藩]]の温泉への旅行(寺田屋事件での龍馬の傷湯治)を楽しんでいる。これが日本最初の[[新婚旅行]]であったといわれている。
[[慶応]]2年([[1866年]])、[[薩長同盟]]の成立を悟った幕府の[[伏見奉行]]配下の捕り方によって寺田屋が包囲されたとき、お龍は[[風呂]]に入っていたが、[[裸]](実際は浴衣であった)で飛び出して龍馬に危機を知らせて救ったとされる([[寺田屋事件]])。その直後に龍馬と[[結婚]]し、[[小松清廉|小松帯刀]]の誘いで[[薩摩藩]]の温泉への旅行(寺田屋事件での龍馬の傷湯治)を楽しんでいる。これが日本最初の[[新婚旅行]]であったといわれている。
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龍馬と同じく[[土佐藩]]士だった[[佐々木高行]]は、お龍のことを「大変な美人だが、賢婦と言えるかどうかは疑わしい。ただ、悪人でないことは確かである」と評している。
龍馬と同じく[[土佐藩]]士だった[[佐々木高行]]は、お龍のことを「大変な美人だが、賢婦と言えるかどうかは疑わしい。ただ、悪人でないことは確かである」と評している。

=== 風貌 ===
ながく確証のないまま、龍馬の妻お龍の若き日の写真といわれてきたものがあった。2008年5月、[[科学警察研究所]]の鑑定でこの写真が若き日の坂本龍馬の妻と同一人の可能性がある、と報じられた。問題の写真は、井桜直美著「セピア色の肖像ー[[幕末]][[明治]]名刺判写真コレクション」に掲載されていたものである。2000年それは偶然発見された。1983年、これよりも不鮮明な立ち姿の女性の写真が発見されていたので、二枚目の資料となる。</br>
鑑定書は2008年1月付の[[高知県立坂本龍馬記念館]]の依頼により、[[科学警察研究所]]が作成した。お龍本人とみてほぼ間違いない晩年の顔画像と、問題の真偽不詳の若い女性の顔画像を比較し、両者の異同識別、つまり同一人物であるかどうか、顔貌の形態学的検討をしたものである。具体的には、両者をカラーイメージスキャナーでパソコン内に取り込み、画像処理ソフトウェアを用いて、画像サイズの調整などを行う。そのうえで、顔、まゆ、眼、鼻、くちびる、耳など7つの部位の比較を試みた。結果は新聞などで報じられたように、「同一人物の可能性がある」。科警研が一般に使用する検査結果の表現では最低ランクであるが、長年の謎に科学のメスを入れる有意義な成果となった<ref name ="kyotoedo"/>。


==演じた女優==
==演じた女優==

2010年2月22日 (月) 07:14時点における版

科学警察研究所の鑑定により楢崎龍であるとされた女性写真。明治5年頃撮影。

楢崎 龍(ならさき りょう、天保12年6月6日1841年7月23日) - 明治39年(1906年11月15日)は坂本龍馬と結婚した女性である。名は一般におりょう(お龍)と呼ばれることが多い。龍馬がつけた名は鞆(とも)である。

生涯

龍馬との結婚まで

天保12年(1841年)、医師の楢崎将作の長女として京都富小路六角で生まれた。父の将作は井伊直弼による安政の大獄で捕らえられ、獄死している。このため、お龍と母、そして幼い4人の弟妹は生活に困るようになり、お龍はそれを養うために旅籠屋で働いた。 龍馬ら土佐亡命志士が京都大仏付近の商家の隠居所に住んでいて、お龍の母貞(てい)がまかないをしていた[1]。その娘として坂本龍馬と出会い、龍馬から自由奔放なところを気に入られ恋仲となり、その後寺田屋奉公することとなった。

慶応2年(1866年)、薩長同盟の成立を悟った幕府の伏見奉行配下の捕り方によって寺田屋が包囲されたとき、お龍は風呂に入っていたが、(実際は浴衣であった)で飛び出して龍馬に危機を知らせて救ったとされる(寺田屋事件)。その直後に龍馬と結婚し、小松帯刀の誘いで薩摩藩の温泉への旅行(寺田屋事件での龍馬の傷湯治)を楽しんでいる。これが日本最初の新婚旅行であったといわれている。

龍馬の死後

慶応3年(1867年)、龍馬が暗殺されたとき、お龍は豪商伊藤助太夫のもとにいた為、難を逃れた。

龍馬死後、三吉慎蔵が面倒をみていたが、慶応4年(1868年)3月にはお龍を土佐の坂本家に送り届けている。龍馬の姉・坂本乙女の元に身を寄せたが、間もなくそこを立ち去る。このとき、龍馬からの数多くの手紙は坂本家とは関係ない二人だけのものとし、すべて燃やしてしまっている。

その後は土佐から京へ行き、近江屋を頼ったり、また、西郷隆盛や海援隊士を頼り東京にでたりした。神奈川宿旅館・田中屋で仲居をしていたところ旧知の商人西村松兵衛と出会い、30歳のとき再婚し、横須賀に流れた。晩年はアルコール依存症状態で、酔っては「私は龍馬の妻だ」と松兵衛にこぼしていたという。龍馬との間に子はなかったが、明治7年(1874年)34歳の時に松兵衛との間に男児を出産後入籍(戸籍に届けた名前は西村ツル、お龍の妹の中沢光枝の前夫の子と言う説もある)するも、その息子は明治24年(1897年)17歳で死去。以降、酒をあおったり昔からの無理がたたり、明治39年(1906年)、横須賀にて66歳で死去。墓は横須賀市大津の信楽寺(しんぎょうじ)にある。妹の中本光枝と西村松兵衛がこの墓を作ったが、墓碑にはおりょうを「贈正四位阪本龍馬の妻龍子」と刻んでいる。また、龍馬の眠る京都霊山護国神社にも分骨された。

ちなみに、お龍自身は龍馬の事業や仕事には全く興味が無く、知らされるまで彼の業績を知らずにいた。全てを知るのは明治政府から伝えられたときだったという。

龍馬と同じく土佐藩士だった佐々木高行は、お龍のことを「大変な美人だが、賢婦と言えるかどうかは疑わしい。ただ、悪人でないことは確かである」と評している。

風貌

ながく確証のないまま、龍馬の妻お龍の若き日の写真といわれてきたものがあった。2008年5月、科学警察研究所の鑑定でこの写真が若き日の坂本龍馬の妻と同一人の可能性がある、と報じられた。問題の写真は、井桜直美著「セピア色の肖像ー幕末明治名刺判写真コレクション」に掲載されていたものである。2000年それは偶然発見された。1983年、これよりも不鮮明な立ち姿の女性の写真が発見されていたので、二枚目の資料となる。
鑑定書は2008年1月付の高知県立坂本龍馬記念館の依頼により、科学警察研究所が作成した。お龍本人とみてほぼ間違いない晩年の顔画像と、問題の真偽不詳の若い女性の顔画像を比較し、両者の異同識別、つまり同一人物であるかどうか、顔貌の形態学的検討をしたものである。具体的には、両者をカラーイメージスキャナーでパソコン内に取り込み、画像処理ソフトウェアを用いて、画像サイズの調整などを行う。そのうえで、顔、まゆ、眼、鼻、くちびる、耳など7つの部位の比較を試みた。結果は新聞などで報じられたように、「同一人物の可能性がある」。科警研が一般に使用する検査結果の表現では最低ランクであるが、長年の謎に科学のメスを入れる有意義な成果となった[1]

演じた女優

映画
テレビドラマ
舞台

脚注

  1. ^ a b 中村武生『京都の江戸時代をあるく』(文理閣、2008年)参照