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[[土佐藩]]脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた[[亀山社中]](後の[[海援隊 (浪士結社)|海援隊]])の結成、[[薩長同盟|薩長連合]]の斡旋、[[大政奉還]]の成立に尽力するなど、[[志士]]として活動した。贈[[正四位]]([[1891年]](明治24年)4月8日)。[[司馬遼太郎]]の小説『[[竜馬がゆく]]』の主人公とされて以来、国民的人気を誇っている。また、その事績についてはさまざまな論議がある。
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[[諱]]は直陰(なおかげ)のち直柔(なおなり)。龍馬<ref>「龍馬」は慣用音(『[[広辞苑]]』第5版)では「りゅうま」だが、漢音は「りょうま」で、同時代人の日記や書簡に「良馬」の当て字で記されていることもあり、また龍馬自身も書簡の中で「りよふ」と自署していることもあるため、「りょうま」と読まれていたことは間違いない。なお、「竜」は「龍」の異体字(「竜」は「龍」の古体字)で、龍馬自身は「竜」の字体を使ったことがないが、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』で使われたことや、「竜」が[[常用漢字]]に採用されたこともあり、慣用化されている。</ref>は[[通称]]。他に才谷梅太郎などの変名がある。
[[諱]]は直陰(なおかげ)のち直柔(なおなり)。龍馬<ref>「龍馬」は慣用音(『[[広辞苑]]』第5版)では「りゅうま」だが、漢音は「りょうま」で、同時代人の日記や書簡に「良馬」の当て字で記されていることもあり、また龍馬自身も書簡の中で「りよふ」と自署していることもあるため、「りょうま」と読まれていたことは間違いない。なお、「竜」は「龍」の異体字(「竜」は「龍」の古体字)で、龍馬自身は「竜」の字体を使ったことがないが、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』で使われたことや、「竜」が[[常用漢字]]に採用されたこともあり、慣用化されている。</ref>は[[通称]]。他に才谷梅太郎(さいだにうめたろう)などの変名がある。


生前より死後に有名になった人物であり、司馬遼太郎の作品を始め、小説やドラマに度々取り上げられる人物ではあるが、それらは実際の龍馬とかなり異なっているのではないかという指摘もある<ref>歴史家の[[松浦玲]]などが代表格である。[[松浦玲]]『検証・龍馬伝説』(論創社、2001年)・[[池田敬正]]「司馬遼太郎「竜馬がゆく」をめぐって」(『歴史評論』317、1976年)・[[絲屋寿雄]]「竜馬の虚像・実像-司馬遼太郎「竜馬がゆく」によせて-」(『[[歴史評論]]』317、1976年)などが参考になる。</ref>。ちなみに、龍馬の伝記を書いた歴史家としては、[[平尾道雄]]・池田敬正・[[飛鳥井雅道]]などが代表的<ref>平尾道雄『龍馬のすべて』(久保書店、1966年。高知新聞社、1985年)・平尾道雄『坂本龍馬海援隊始末記』(白竜社、1968年。中公文庫、1976年)・池田敬正『坂本龍馬』(中公新書、1965年)・飛鳥井雅道『坂本龍馬』([[平凡社]]、1975年。福武文庫、1992年。講談社学術文庫、2000年)。</ref>。その他、詳しくは「文献」の項目を参照のこと。
生前より死後に有名になった人物であり、司馬遼太郎の作品を始め、小説やドラマに度々取り上げられる人物ではあるが、それらは実際の龍馬とかなり異なっているのではないかという指摘もある<ref>歴史家の[[松浦玲]]などが代表格である。[[松浦玲]]『検証・龍馬伝説』(論創社、2001年)・[[池田敬正]]「司馬遼太郎「竜馬がゆく」をめぐって」(『歴史評論』317、1976年)・[[絲屋寿雄]]「竜馬の虚像・実像-司馬遼太郎「竜馬がゆく」によせて-」(『[[歴史評論]]』317、1976年)などが参考になる。</ref>。ちなみに、龍馬の伝記を書いた歴史家としては、[[平尾道雄]]・池田敬正・[[飛鳥井雅道]]などが代表的<ref>平尾道雄『龍馬のすべて』(久保書店、1966年。高知新聞社、1985年)・平尾道雄『坂本龍馬海援隊始末記』(白竜社、1968年。中公文庫、1976年)・池田敬正『坂本龍馬』(中公新書、1965年)・飛鳥井雅道『坂本龍馬』([[平凡社]]、1975年。福武文庫、1992年。講談社学術文庫、2000年)。</ref>。その他、詳しくは「文献」の項目を参照のこと。
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== 手紙と変名 ==
== 手紙と変名 ==
[[画像:Kondo Chojiro Grave2.jpg|thumb|150px|[[近藤長次郎]]の墓<br/>「梅花書屋氏墓」と記されている。筆跡は龍馬のものとされている。]]
[[画像:Kondo Chojiro Grave2.jpg|thumb|150px|[[近藤長次郎]]の墓<br/>「梅花書屋氏墓」と記されている。筆跡は龍馬のものとされている。]]
現存または筆写された龍馬の手紙は、一部で疑問視されるものも含めて、130余通が確認されている。もっとも多いのは姉[[坂本乙女|乙女]]宛のもので13通、次に[[伊藤助太夫]]と[[佐々木高行]]宛の各12通、これに[[三吉慎蔵]]が10通、[[桂小五郎]]が9通と続いている。ほかに乙女宛と推定されるものが2通、乙女・おやべ連名のものも2通、兄の[[坂本権平]]・乙女・おやべ連名のものが1通、乙女と姪の[[坂本春猪]]連名のものも1通あり、乙女を対象としたものが圧倒的に多い。[[楢崎龍|お龍]]宛の手紙はわずか1通残されているのみである。<br/>
現存または筆写された龍馬の手紙は、一部で疑問視されるものも含めて、130余通が確認されている。もっとも多いのは姉[[坂本乙女|乙女]]宛のもので13通、次に[[伊藤助太夫]]と[[佐々木高行]]宛の各12通、これに[[三吉慎蔵]]が10通、[[桂小五郎]]が9通と続いている。ほかに[[坂本乙女|乙女]]宛と推定されるものが2通、[[坂本乙女|乙女]]・おやべ連名のものも2通、兄の[[坂本権平]]・[[坂本乙女|乙女]]・おやべ連名のものが1通、[[坂本乙女|乙女]]と姪の[[坂本春猪]]連名のものも1通あり、[[坂本乙女|乙女]]を対象としたものが圧倒的に多い。[[楢崎龍|お龍]]宛の手紙はわずか1通残されているのみである。<br/>
龍馬の変名といえば、慶応2年11月16日付で[[溝渕広之丞]]に宛てた手紙に、初めて記された「才谷梅太郎」が有名であるが、慶応元年9月9日付で乙女とおやべに宛てた手紙には「西郷伊三郎」と名乗っていることが記されている。他に「高坂龍次郎」「大浜涛次郎(とうじろう)」「取巻の抜六」等がある。なお、これは変名ではないが、慶応3年10月13日付と推定される[[陸奥宗光]]に宛てた手紙では、「自然堂(じねんどう)」の号を署名している。ちなみに、これは現存する龍馬の手紙では最後のものと言われている<ref>「手紙と変名」の項目『坂本龍馬 幕末歴史検定 公式テキストブック』(新人物往来社、2008年)参照</ref>。
龍馬の変名といえば、慶応2年11月16日付で[[溝渕広之丞]]に宛てた手紙に、初めて記された「才谷梅太郎(さいだにうめたろう)」が有名であるが、慶応元年9月9日付で[[坂本乙女|乙女]]とおやべに宛てた手紙には「西郷伊三郎」と名乗っていることが記されている。他に「高坂龍次郎」「大浜涛次郎(とうじろう)」「取巻の抜六(とりまきのぬけろく)」等がある。なお、これは変名ではないが、慶応3年10月13日付と推定される[[陸奥宗光]]に宛てた手紙では、「自然堂(じねんどう)」の[[ (称号)|号]]を署名している。ちなみに、これは現存する龍馬の手紙では最後のものと言われている<ref>「手紙と変名」の項目『坂本龍馬 幕末歴史検定 公式テキストブック』(新人物往来社、2008年)参照</ref>。


== その他 ==
== その他 ==

2010年2月26日 (金) 09:39時点における版

坂本龍馬
坂本龍馬
生年 1836年1月3日
生地 土佐
没年 (1867-12-10) 1867年12月10日(31歳没)
没地 京都
活動 倒幕
土佐藩脱藩
所属 海援隊
京都霊山護国神社霊山墓地
靖国神社
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坂本 龍馬(さかもと りょうま)、天保6年11月15日1836年1月3日) - 慶応3年11月15日1867年12月10日)は、日本の武士土佐藩郷士)、明治維新に影響を与えた政治家実業家

土佐藩脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)の結成、薩長連合の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど、志士として活動した。贈正四位1891年(明治24年)4月8日)。司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の主人公とされて以来、国民的人気を誇っている。また、その事績についてはさまざまな論議がある。

は直陰(なおかげ)のち直柔(なおなり)。龍馬[1]通称。他に才谷梅太郎(さいだにうめたろう)などの変名がある。

生前より死後に有名になった人物であり、司馬遼太郎の作品を始め、小説やドラマに度々取り上げられる人物ではあるが、それらは実際の龍馬とかなり異なっているのではないかという指摘もある[2]。ちなみに、龍馬の伝記を書いた歴史家としては、平尾道雄・池田敬正・飛鳥井雅道などが代表的[3]。その他、詳しくは「文献」の項目を参照のこと。


生涯

幼少年期

高知市の生誕地

龍馬は天保6年(1835年11月15日[4]土佐国土佐郡上街本町筋一丁目(現在の高知県高知市上町一丁目)に土佐藩郷士(下級武士)坂本家の末子として生まれ、父は八平、母は幸、兄(権平)と三人の姉(千鶴、栄、乙女)がいた。坂本家は質屋、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家で、第六代直益の時に長男直海が藩から郷士御用人に召し出されて坂本家を興した[5]。土佐藩の武士階級には上士と下士があり、両者の間には様々な待遇差別が存在し、下士は長い間様々な場面で抑圧されてきた。商家出身の郷士坂本家はこの下士階級に属していたが、分家の際に才谷屋から多額の土地財産を相続しており非常に裕福な家庭だった[6][7]

龍馬が生まれる前の晩に、母親が龍が天を飛ぶ瑞夢を見て[8](または父が駿馬の母が蛟龍の夢を見たとも[9])、それに因んで龍馬と名づけられ、幼い龍馬の背には一塊の怪毛があった[10]という伝説がある。

弘化3年(1846年)、12歳のときに母が死去し、父八平の後妻である伊興に養育された[11]。幼年の龍馬は寝小便癖が直らない[10]泣き虫の惰弱であり、漢学の楠山塾に入学したものの、いじめに遭い抜刀騒ぎを起こして退塾させられてしまい[12]、三姉の乙女が武芸や学問を教えたという[13]

龍馬の人格形成において多大な影響を与えていったのは、父・八平の後妻である伊興の実家、下田屋(川島家)といわれている。龍馬は姉である乙女とともに浦戸湾を船で漕ぎ、当時土佐藩御船蔵のあった種崎にある川島家をたびたび訪れては、長崎や下関からの珍しい土産話などを聞いたとされる。また、世界地図や数々の輸入品を見て外の世界への憧れを高めたともいわれている[14]

嘉永元年(1848年)に日根野弁治の道場に入門して小栗流剣術を学び、非常に熱心に剣術に精励し、5年の修業を経た嘉永6年(1853年)に「小栗流和兵法事目録」[15]を得た。

江戸遊学

小栗流目録を得た嘉永6年、龍馬は剣術修行のための1年間の江戸自費遊学を藩に願い出て許された。出立に際して龍馬は父八平から「修業中心得大意」[15]を授けられ、溝渕広之丞とともに土佐を出立した。4月頃に江戸に到着し、築地の中屋敷[16](または鍛冶橋の土佐藩上屋敷[8])に寄宿し、北辰一刀流千葉定吉道場(現:東京都千代田区)の門人となる。千葉定吉は北辰一刀流創始者千葉周作の弟で、その道場は「小千葉」または「桶町千葉」として知られ、周作の「大千葉」「玄武館」とは別である。道場には定吉の他に長男の重太郎と三人の娘(その内一人は龍馬の婚約者とされる千葉佐那)がいた。

黒船来航

龍馬が小千葉道場で剣術修行を始めた直後の、6月3日ペリー提督率いる米艦隊が浦賀沖に来航した(黒船来航)。自費遊学の龍馬も臨時召集されて品川の土佐藩下屋敷守備の任務に就いた。龍馬が家族に宛てた当時の手紙では「戦になったら異国人の首を打ち取って帰国します」と書き送っている[17]

同年12月、剣術修行の傍ら龍馬は佐久間象山の私塾に入学した。象山は当代の軍学家・思想家で彼の私塾では砲術漢学蘭学などの学問が教授されていた。もっとも、象山は翌年4月に吉田松陰の米国軍艦密航事件に関係したとして投獄されてしまい、龍馬が象山に師事した期間はごく短いものだった。

安政元年(1854年6月23日、龍馬は15カ月の江戸修行を終えて土佐へ帰国した。在郷中に、龍馬は中伝目録に当たる「小栗流和兵法十二箇条並二十五箇条」[15]を取得し、日根野道場の師範代を務めた。また、ジョン万次郎を聴取した際に『漂巽記略』を編んだ絵師河田小龍宅を訪れて国際情勢について学び、河田から海運の重要性について説かれて大いに感銘し、後の同志となる近藤長次郎長岡謙吉らを紹介されている[18]。またこの時期に、徳弘孝蔵の元で砲術と蘭語を学んでいる。

安政2年(1855年12月4日、父の坂本八平が他界し、坂本家の当主は兄の権平が安政3年(1856年)2月に継承した[19]。同年7月、龍馬は再度の江戸剣術修行を申請して8月に藩から1年間の修業が許され、9月に江戸に到着し、武市半平太大石弥太郎らとともに築地の土佐藩邸中屋敷に寄宿した。二度目の江戸遊学では小千葉道場とともにお玉が池の玄武館でも一時期修行している[20]

安政4年(1857年)に藩に一年の修行延長を願い出て許された。同年、盗みを働き切腹沙汰となった龍馬と武市の親戚関係にある山本琢磨を逃がす[21]。安政5年(1858年)1月、師匠の千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられる[22]。千葉佐那の回顧によると、この年に龍馬と佐那が結納を交わしているが[23]、結納は文久2年とする見方もある[24]。同年9月に土佐へ帰国した。

土佐勤王党

武市半平太(瑞山)

土佐藩では幕府からの黒船問題に関する各藩への諮問を機に藩主山内豊信(容堂)が吉田東洋参政に起用して意欲的な藩政改革に取り組んでいた。また、容堂は水戸藩主徳川斉昭薩摩藩主島津斉彬宇和島藩主伊達宗城らとともに将軍継嗣に一橋慶喜を推戴して幕政改革をも企図していた。だが、安政5年(1858年)4月に井伊直弼が幕府大老に就任すると、幕府は一橋派を退けて徳川慶福を将軍継嗣に定め、開国を強行し反対派の弾圧に乗り出した(安政の大獄)。一橋派の容堂も安政6年(1859年)2月に家督を豊範に譲り隠居を余儀なくされた。隠居謹慎したものの藩政の実権は容堂にあり、吉田東洋を中心とした藩政改革は着々と進められた。

万延元年(1860年3月3日、大老井伊直弼が江戸城へ登城途中の桜田門外で水戸脱藩浪士らの襲撃を受けて暗殺される桜田門外の変が起こった。事件が土佐に伝わると、下士の間で議論が沸き起こり尊王攘夷思想が土佐藩下士の主流となった[25]

同年7月、龍馬の朋友である武市半平太が武者修行のために門人の岡田以蔵(後に「人斬り以蔵」の名で知られる幕末四大人斬りの一人となる)、久松喜代馬、島村外内らとともに土佐を出立した。武者修行と称していたが、実際は西国諸藩を巡って時勢を視察することが目的であった。一行はまず讃岐国丸亀藩に入り、備前美作備中備後安芸長州などを経て九州に入り、途中で龍馬の外甥の高松太郎と合流している。

文久元年(1861年)3月、土佐で井口村刃傷事件(永福寺事件)が起り、龍馬の属する下士と上士の間で対立が深まった。『維新土佐勤王史』にはこの事件について「坂本等、一時池田の宅に集合し、敢て上士に対抗する気勢を示したり」とある。なお、事件の当事者で切腹した池田虎之進の介錯を龍馬が行って、その血に刀の下緒を浸しながら下士の団結を誓ったという逸話が流布しているが、これは坂崎紫瀾の小説『汗血千里駒』のフィクションである。

同年4月、武市は江戸に上り、水戸藩、長州藩、薩摩藩などの諸藩の藩士と交流を持ち、土佐藩の勤王運動が諸藩に後れを取っていることを了解し、武市は長州の久坂玄瑞、薩摩の樺山三円と各藩へ帰国して藩内同志の結集を試み、藩論をまとめ、これをもって各藩の力で朝廷の権威を強化し、朝廷を助けて幕府に対抗することで盟約を交わした[26]。これにより、同年8月、武市は江戸で密かに少数の同志とともに「土佐勤王党」を結成し、盟曰(めいえつ)を決めた[27]

武市は土佐に戻って192人の同志を募り、龍馬は9番目、国元では筆頭として加盟した[28]。武市が土佐勤王党を結成した目的は、これを藩内勢力となして、藩の政策(主に老公山内容堂の意向)に影響を与えて、尊王攘夷の方向へ導くことにあった。

土佐勤王党結成以来、武市は藩内に薩長二藩の情勢について説明をするのみならず、土佐もこれに続いて尊王運動の助力となるべきと主張した。しかし、参政吉田東洋をはじめとした当時の藩政府は「公武合体」が藩論の主要な方針であり、土佐勤王党の尊王攘夷の主張は藩内の支持を得ることができなかった。

脱藩

武市は藩論を転換すべく積極的に方策を講じるとともに絶えず諸藩の動向にも注意し、土佐勤王党の同志を四国中国九州などへ動静調査のために派遣しており、龍馬もその中の一人であった。文久元年10月、日根野弁治から小栗流皆伝目録「小栗流和兵法三箇條」[15]を授かった後に、龍馬は丸亀藩への「剣術詮議」(剣術修行)の名目で土佐を出て文久2年(1862年)1月に長州を訪れて長州藩における尊王運動の主要人物である久坂玄瑞と面会し、久坂から武市宛の書簡を託されている[29]

龍馬は同年2月にその任務を終えて土佐に帰着したが、この頃、薩摩藩主国父島津久光の率兵上洛の知らせが土佐に伝わり、土佐藩が二の足を踏んでいると挫折感を感じていた土佐勤王党同志の中には脱藩して京都へ行き、薩摩藩の勤王義挙に参加しようとする者が出て来た。脱藩は藩籍から離れて一方的に主従関係の拘束から脱することであり、浪人となった脱藩者は藩内では罪人となり、更に藩内に留まった家族友人も連座の罪に問われることになる。

武市は藩論を変えて挙藩勤王を希望しており、脱藩して上洛する策には反対していた。だが、一部の同志が脱藩することを止めることはできず、まず吉村虎太郎が、次いで沢村惣之丞等が脱藩し、ここにおいて龍馬も脱藩を決意した[30]

龍馬の脱藩は文久2年3月24日のことで、当時既に脱藩していた沢村惣之丞の手引きを受けていた。龍馬が脱藩を決意すると長兄権平は彼の異状に気づいて強く警戒し、身内や親戚友人に龍馬の挙動に特別に注意することを要求し、龍馬の佩刀は全て権平に取り上げられてしまった。この時、龍馬と最も親しい姉の乙女が権平を騙して倉庫に忍び入り、権平秘蔵の刀「肥前忠広」を龍馬に門出の餞に授けたという逸話がある[31]。龍馬は那須信吾(後の脱藩して天誅組の変に参加)の助けを受けて土佐を抜け出した[32]

脱藩した龍馬と沢村はまず長州下関の豪商白石正一郎を訪ねたが、吉村は二人を待たずに京都へ出立していた。尊攘派志士の期待と異なり、島津久光の真意はあくまでも公武合体であり、尊攘派藩士の動きを知った久光は驚愕して鎮撫を命じ、4月23日寺田屋事件が起こり薩摩藩尊攘派は粛清された。吉村はこの最中に捕縛されて土佐へ送還されている。一般的には龍馬は沢村と別れて薩摩藩の動静を探るべく九州に向かったとされるが、この間の龍馬の正確な動静は詳らかではない[33]

一方、土佐では参政吉田東洋が4月8日に暗殺され(土佐勤王党の犯行とされる)、武市が藩論の転換に成功して藩主の上洛を促していた。龍馬は7月頃に大坂に潜伏している[33]。この時期に龍馬は望月清平と連絡を取り[34]、自らが吉田東洋暗殺の容疑者と見なされていることを知らされる。

勝海舟と神戸海軍操練所

勝海舟

龍馬は文久2年8月に江戸に到着して小千葉道場に寄宿した[35][36]。この期間、龍馬は土佐藩の同志や長州の久坂玄瑞、高杉晋作らと交流している[37][38]12月5日、龍馬は間崎哲馬、近藤長次郎とともに幕府政事総裁職にあった前福井藩主松平春嶽に拝謁した[39][40]12月9日、春嶽から幕府軍艦奉行並勝海舟への紹介状を受けた[41]龍馬と門田為之助、近藤長次郎は海舟宅を訪問して、海舟の門人となった[42]

龍馬と千葉重太郎が開国論者の海舟を斬るために訪れたが、海舟から世界情勢と海軍の必要性を説かれて龍馬は大いに感服し、己の固陋を恥じてその場で海舟の弟子になったという話が広く知られており[43]、この話は海舟本人が明治23年に『追賛一話』で語ったものが出典である[44]。だが、春嶽から正式な紹介状を受けての訪問であること、また海舟の日記に記載されている12月29日の千葉重太郎の訪問時には既に龍馬は弟子であった可能性があることから、近年では前述の龍馬と海舟との劇的な出会の話は海舟の記憶違い、または誇張であるとする見方が強い[44][45][46]。いずれにせよ、龍馬が海舟に心服していたことは姉乙女への手紙で海舟を「日本第一の人物」と称賛していることによく現れている。

海舟は土佐前藩主山内容堂に取り成して、文久3年(1863年2月25日に龍馬の脱藩の罪は赦免され、さらに土佐藩士が海舟の私塾に入門することを追認もした。龍馬は海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走し、土佐藩出身者の千屋寅之助新宮馬之助望月亀弥太、近藤長次郎、沢村惣之丞、高松太郎、安岡金馬らが海舟の門人に加わっている。また、龍馬が人斬りの異名を持つ土佐勤王党の岡田以蔵を海舟の京都での警護役にし、海舟が路上で3人浪士に襲われた際に以蔵がこれを一刀のもとに斬り捨てた事件はこの頃のことである[47]

幕府要人と各藩藩主に海軍設立の必要性を説得するために海舟は彼らを軍艦に便乗させて実地で経験させた。同年4月23日、14代将軍家茂が軍艦「順動丸」に乗艦の後、「神戸海軍操練所」設立の許可を受け同時に海舟の私塾(神戸海軍塾)開設も認められた。幕府から年三千両の経費の支給も承諾されたが、この程度の資金では海軍操練所の運営は賄えず、そのため5月に龍馬は福井藩に出向して松平春獄から千両を借入れした[48]5月17日付の姉乙女への手紙で「この頃は軍学者勝麟太郎大先生の門人になり、ことの外かわいがられ候・・・すこしエヘンに顔をし、ひそかにおり申し候。エヘン、エヘン」[49]と近況を知らせている。

神戸海軍操練所跡碑

龍馬が神戸海軍操練所成立のために方々を奔走していた最中の同年4月、土佐藩の情勢が変わり、下士階層の武市半平太[50]が藩論を主導していることに不満を持っていた容堂は再度実権を取り戻すべく、吉田東洋暗殺の下手人の探索を命じ、土佐勤王党の粛清に乗り出した。6月に土佐勤王党の間崎哲馬、平井収二郎弘瀬健太切腹させられた。平井の妹加尾は龍馬の恋人とされる女性で、龍馬は姉乙女へ「平井収二郎のことは誠にむごい、妹の加尾の嘆きはいかばかりか」[51]と書き送っている。また、6月29日付の手紙では攘夷を決行し米仏軍艦と交戦して苦杯を喫した長州藩の情勢(下関戦争)について強い危機感を抱き「姦吏を打ち殺して、日本を今一度洗濯いたし申し候[52]と後世殊に有名になった言葉を述べている。

同年8月18日に倒幕勢力最有力であった長州藩の京都における勢力を一網打尽にすべく薩摩藩と会津藩が手を組み「八月十八日の政変」と呼ばれる事件が起きた。これにより京都の政情は一変し、佐幕派が再び実権を握った。8月に天誅組大和国で挙兵したが、翌9月に壊滅して吉村虎太郎、那須信吾ら多くの土佐脱藩志士が討ち死にしている(天誅組の変)。土佐では9月に武市半平太が投獄され、土佐勤王党は壊滅状態に陥っていた(武市は1年半の入牢後の慶応元年閏5月に切腹となっている)。

同年10月に龍馬は神戸海軍塾塾頭に任ぜられたが[53]、翌元治元年(1864年)2月に前年に申請した帰国延期申請が拒否されると、龍馬は海軍操練所設立の仕事を続けるために再び藩に拘束されることを好まず、藩命を無視して帰国を拒絶し再度の脱藩をする。同年2月9日、海舟は前年5月から続いている長州藩による関門海峡封鎖の調停のために長崎出張の命令を受け、龍馬もこれに同行した。熊本で龍馬は横井小楠を訪ねて会合し、小楠はその返書として海舟に「海軍問答」を贈り、海軍建設に関する諸提案をした[54]

楢崎龍(おりょう)

同年5月、龍馬は生涯の伴侶となる楢崎龍(おりょう)と出会い、後に彼女を懇意にしていた寺田屋の女将お登勢に預けている。5月14日、海舟が正規の軍艦奉行に昇進して神戸海軍操練所が発足した[55][56]6月17日、龍馬は下田で海舟と会合し、京摂の過激の輩数十人(或いは200人程)を蝦夷地開拓と通商に送り込む構想を話し、老中水野忠精も承知し、資金三、四千両も集めていると述べている[57]

だが、この時点では龍馬と海舟は知らなかったが[58]6月5日池田屋事件が起きており京都の情勢は大きく動いていた。池田屋事件で肥後宮部鼎蔵、長州の吉田稔麿ら多くの尊攘派志士が落命または捕縛され、死者の中には土佐の北添佶摩と望月亀弥太もいた。北添は龍馬が開拓を構想していた蝦夷地を周遊した経験のある人物で、望月は神戸海軍塾の塾生であった。

八月十八日の政変と池田屋事件の後、長州藩は薩摩・会津勢力によって一掃された。7月19日に京都政治の舞台に戻ることを目標とした長州軍約三千が御所を目指して進軍したが、一日の戦闘で幕府勢力に敗れた(禁門の変)。それから少し後の8月5日、長州は英米仏蘭四カ国艦隊による下関砲撃を受けて大打撃を蒙った(下関戦争)。禁門の変で長州兵が御所に発砲したことで長州藩は朝敵の宣告を受け、幕府はこの機に長州征伐を発令した。二度の敗戦により長州藩には抗する戦力はなく、11月に責任者の三家老が切腹して降伏恭順した(長州征討)。

おりょうの後年の回想によると、これらの動乱の最中の8月1日に龍馬はおりょうと内祝言を挙げている[59]。8月中旬頃[60]に龍馬は海舟の紹介を受けて薩摩の西郷隆盛に面会し、龍馬は海舟に対して西郷の印象を「分からぬ奴で、少し叩けば少し響き、大きく叩けば大きく響く、馬鹿なら大馬鹿、利口なら大利口だろう」と評している[61][62]

望月の件に続き、塾生の安岡金馬が禁門の変で長州軍に参加していたことが幕府から問題視され、さらに海舟が老中阿部正外の不興を買ったこともあり[63]10月22日に海舟は江戸召還を命ぜられ、11月10日には軍艦奉行も罷免されてしまった。これに至って、神戸海軍操練所廃止は避けえなくなり、龍馬ら塾生の後事を心配した海舟は江戸へ出立する前に薩摩藩城代家老小松帯刀に彼らを託して、薩摩藩の庇護を依頼した。慶応元年(1865年)3月18日に神戸海軍操練所は廃止になった。

亀山社中

亀山社中(現亀山社中記念館・長崎市

龍馬ら塾生の庇護を引き受けた薩摩藩は彼らの航海術の専門知識を重視しており[64]慶応元年(1865年)5月頃に龍馬らに出資して「亀山社中[65]を結成させた。これは商業活動に従事する近代的な株式会社に類似した性格を持つ組織であり[66]、当時商売が参集していた長崎の小曾根英四郎家を根拠地として、下関の伊藤助太夫家そして京都の酢屋に事務所を設置した。

長州藩では前年の元治2年(1864年)12月に高杉晋作が挙兵して、恭順派政権を倒して再び尊攘派が政権を掌握していた(功山寺挙兵)。亀山社中の成立は商業活動の儲けによって利潤を上げることの外に、当時、水火の如き関係にあった薩長両藩和解の目的も含まれており、後の薩長同盟成立(後述)に貢献することになる。

中岡慎太郎

幕府勢力から一連の打撃を受けて、長州藩には彼らを京都政治から駆逐した中心勢力である薩摩・会津両藩に対する根強い反感が生じており、一部の藩士は共に天を戴かずと心中に誓い、例えば「薩賊會奸」の四文字を下駄底に書き踏みつけて鬱憤を晴らす者がいたほどだった。この様な雰囲気の元でも、土佐脱藩志士中岡慎太郎とその同志土方久元は薩摩、長州の如き雄藩の結盟を促し、これをもって武力討幕を望んでいた。慶応元年(1865年)5月、先ず土方と龍馬が協同して長州の桂小五郎を説諭し、下関で薩摩の西郷隆盛と会談することを承服させ、同時に中岡は薩摩に赴き西郷に会談を応じるよう説いた。同年閏5月21日、龍馬と桂は下関で西郷の到来を待ったが、「茫然と」した中岡が漁船に乗って現れただけであった[67]。西郷は下関へ向かっていたが、途中で朝議が幕府の主張する長州再征に傾くことを阻止するために急ぎ京都へ向かってしまっていた。桂は激怒して、和談の進展は不可能になったかに見えたが、龍馬と中岡は薩長和解を諦めなかった。

倒幕急先鋒の立場にある長州藩に対して、幕府は国外勢力に対して長州との武器弾薬類の取り引きを全面的に禁止しており、長州藩は近代的兵器の導入が難しくなっていた。一方、薩摩藩は兵糧米の調達に苦慮していた。ここで龍馬は薩摩藩名義で武器を調達して密かに長州に転売し、その代わりに長州から薩摩へ不足していた米を回送する策を提案した。取り引きの実行と貨物の搬送は亀山社中が担当する。この策略によって両藩の焦眉の急が解決することになるので、両藩とも自然これに首肯した。

これが亀山社中の初仕事になり、8月、長崎のグラバー商会からミニエール銃4300挺、ゲベール銃3000挺の薩摩藩名義での長州藩への買い付け斡旋に成功した[68]。これは同時に薩長和解の最初の契機となった。また、近藤長次郎(この当時は上杉宗次郎と改名)の働きにより薩摩藩名義で英国製蒸気軍艦ユニオン号(薩摩名「桜島丸」、長州名「乙丑丸」)の購入に成功し、所有権を巡って紆余曲折はあったが10月と12月に長州藩と桜島丸条約を結び、同船の運航は亀山社中に委ねられることになった[69]

9月には長州再征の勅命には薩摩は従わない旨の「非義勅命は勅命にあらず」という文言で有名な大久保一蔵の書簡を、長州藩重役広沢真臣に届けるという重大な任務を龍馬が大久保や西郷に任されている[70]

薩長同盟

慶応2年(1866年1月8日、薩摩藩城代家老小松帯刀の京都屋敷において、桂と西郷の会談が開かれた。だが、話し合いは難航して容易に妥結しなかった[71]。龍馬が1月20日に下関から[72]京都に到着すると未だ盟約が成立していないことに驚愕し、桂に問い質したところ、長州はこれ以上頭を下げられないと答えた[73]。そこで、その夜に龍馬は西郷を説き伏せて、これにより薩長両藩は1月22日[74]に薩摩側が西郷と小松、長州は桂が代表となり、龍馬が立会人となって列席して、後世薩長同盟と呼ばれることになる盟約を結んだ。盟約成立後も桂の薩摩に対する不信感は根強く、帰国途中で龍馬に盟約履行の裏書きを要求している。天下の大藩同士の同盟に一介の素浪人が保証を与えたものであって、彼がいかに信を得ていたかがわかる[75]

京都伏見寺田屋

盟約成立から程ない1月23日、龍馬は護衛役の長府藩士三吉慎蔵と投宿していた伏見寺田屋へ戻り祝杯を挙げた。だがこの時、伏見奉行が龍馬捕縛の準備を進めていた[76]。明け方2時頃、一階で入浴していた龍馬の恋人のおりょうが窓外の異常を察知して袷一枚のまま二階に駆け上がり二人に知らせた。すぐに多数の捕り手が屋内に押し入ったが龍馬は高杉晋作から贈られた拳銃を三吉は長槍をもって応戦する。多勢に無勢で龍馬は両手指を斬られ、両人は屋外に脱出した。負傷した龍馬は材木場に潜み、三吉は旅人を装って伏見薩摩藩邸に逃げ込み救援を求めた。これにより龍馬は薩摩藩に救出された。寺田屋での遭難の様子を龍馬は12月4日付の手紙で兄権平に報告している。

坂本龍馬。慶応2年または3年に撮影

龍馬が不在の長崎の亀山社中では1月14日にユニオン号購入で活躍した近藤長次郎(上杉宗次郎)が独断で英国留学を企てて露見し自刃させられる事件が起きていた。事件を知らされた龍馬は『手帳摘要』に「術数はあるが誠が足らず。上杉氏(近藤)の身を亡ぼすところなり」[77]と書き残しているが、後年のおりょうの回顧では「自分がいたら殺しはしなかった」と嘆いたという[78]

寺田屋遭難での龍馬の傷は深く、特に左手人差し指が曲がらなくなり、以後、写真撮影などでは左手を隠していることが多い[79]。西郷の勧めにより、刀傷の治療のために薩摩の霧島温泉で療養することを決めた龍馬は2月29日に薩摩藩船「三邦丸」に便乗しておりょうを伴い京都を出立した。3月10日に薩摩に到着し、83日間逗留した。二人は温泉療養の傍ら霧島山日当山温泉塩浸温泉鹿児島などを巡った。温泉で休養を取ると共に左手の傷を治療したこの旅は龍馬とおりょうとの蜜月旅行となり、これが日本最初の新婚旅行とされている[80]

5月1日、薩摩藩からの要請に応えて長州から兵糧500俵を積んだユニオン号が鹿児島に入港したが、この航海で薩摩藩から供与された帆船ワイルウェフ号が遭難沈没し、土佐脱藩の池内蔵太ら12名が犠牲になってしまった。幕府による長州再征が迫っており、薩摩は国難にある長州から兵糧は受け取れないと謝辞し、ユニオン号は長州へ引き返した。

6月、幕府は10万を超える兵力を投入して第二次長州征伐を開始した。6月16日にユニオン号に乗って下関に寄港した龍馬は長州藩の求めにより参戦することになり、高杉晋作が指揮する6月17日小倉藩への渡海作戦で龍馬はユニオン号を指揮して最初で最後の実戦を経験した[81][82]

長州藩は西洋の新式兵器を装備していたのに対して幕府軍は総じて旧式であり、指揮統制も拙劣だった。幕府軍は圧倒的な兵力を投入しても長州軍には敵わず、長州軍は連戦連勝した。思わしくない戦況に幕府軍総司令官の将軍徳川家茂は心労が重なり7月10日大坂城で病に倒れ、7月20日に21歳の短い人生を終えた。このため、第二次長州征伐は立ち消えとなった。

海援隊

龍馬と海援隊士

先に帆船ワイルウェフ号を喪失し、ユニオン号も戦時の長州藩へ引き渡すことになり、亀山社中には船がなくなってしまった。慶応2年(1866年)7月28日付の長府藩士三吉慎蔵宛の手紙で龍馬は「水夫たちに暇を出したが、大方は離れようとしない」と窮状を伝えている[83]。この為、薩摩藩は10月にワイルウェフ号の代船として帆船大極丸を亀山社中に供与した。

将軍徳川家茂の死後、将軍後見職一橋慶喜の第15代将軍就任が衆望されたが、慶喜は軽率に将軍職に就くことを望まず、まずは徳川宗家の地位のみを継承していた。8月末頃[84]、龍馬は長崎に来ていた越前藩士下山尚に政権奉還策を説き松平春獄に伝えるよう頼んだ[85]。龍馬が政権奉還論を述べた最初の記録だが、政権奉還論自体は龍馬の創意ではなく、幕臣大久保一翁がかねてから論じていたことで[86]、龍馬と下山の会見以前の8月14日には春獄当人が慶喜に提案して拒否されていた[87]

後藤象二郎

尊攘派の土佐勤王党を弾圧粛清した土佐藩だが、この頃には時勢の変化を察して軍備強化を急いでおり、参政後藤象二郎を責任者として長崎で武器弾薬の購入を盛んに行っていた。航海と通商の専門技術があり、薩長とも関係の深い龍馬に注目した土佐藩は11月頃から溝渕広之丞(江戸遊学の際に共に上京した人物)を介して龍馬と接触を取り、翌慶応3年(1867年1月13日に龍馬と後藤が会談した。結果、土佐藩は龍馬らの脱藩を赦免し、亀山社中を土佐藩の外郭団体的な組織とすることが決まり、これを機として4月上旬ごろに亀山社中は「海援隊」と改称した。

海援隊規約によると、隊の主要目的は土佐藩の援助を受けて土佐藩士や他藩の脱藩者中の海外事業に志を持つ者を引き受け、運輸、交易、開拓、投機等の商業活動を行い土佐藩を助けることされ、隊士は土佐藩士千屋寅之助、沢村惣之丞、高松太郎、安岡金馬、新宮馬之助、長岡謙吉石田英吉中島作太郎ら、他藩の陸奥陽之助紀州藩)、白峰駿馬長岡藩)など16~28人、水夫を加えて約50人から成っていた[88]。同時期、中岡慎太郎は陸援隊を結成している。

海援隊結成から程なく「いろは丸事件」が発生した。4月23日晩、大洲藩籍で海援隊が運用する蒸気船「いろは丸」が瀬戸内海紀州藩船明光丸と衝突し、明光丸が遥かに大型であったために「いろは丸」は大きく損傷して沈没してしまった。その後、龍馬は「万国公法」を基に紀州藩に賠償を要求して談判し、後藤ら土佐藩もこれを支援した結果、薩摩藩士五代友厚の調停によって5月に紀州藩は賠償金8万3526両198文の支払に同意した[89]。(いろは丸沈没事件

海運通商活動以外に龍馬は蝦夷地や竹島の開拓も構想しており[90]、後年妻おりょうも「私も行くつもりで、北海道の言葉の稽古をしていました」と回顧している[91]。一方で、海援隊の経済状態は苦しく、開成館長崎商会主任の岩崎弥太郎三菱財閥創業者)はたびたび金の無心に来る海援隊士を日記に「厄介もの」と書き残している[92]

船中八策と大政奉還

坂本龍馬座像。慶応3年頃撮影

いろは丸事件の談判を終えた龍馬と後藤象二郎は慶応3年(1867年6月9日に藩船夕顔丸に乗船して長崎を発ち兵庫へ向かった。京都では島津久光、伊達宗城、松平春獄そして山内容堂による「四侯会議」が開かれており、後藤はこの為に京都へ呼ばれていた。龍馬はその船上で政治綱領を書き上げ、後藤に提示した。それは以下の内容の八項目であった。

  1. 政権を朝廷に奉還し、政令は朝廷より出すべき事
  2. 上下議政局を設け、議員を配置して政事を参照し、政事は公議を以って決定する事
  3. 有能な公卿諸侯その他の才人を顧問として官爵を賜い、従来の有名無実な官位は除くべき事
  4. 外国との交際は広く公議を採り、新たに至当な規約を成立せしむ事
  5. 古来の律令を折衷し、新たに法典を撰する事
  6. 海軍を拡張する事
  7. 御親兵の設置を以って帝都の守衛をなす事
  8. 金銀物価は外国と均しく法を設ける事

以上「大政奉還」「議会開設」「官制改革」「条約改正」「憲法制定」「海軍」「御親兵」「通貨政策」の八原則は「船中八策」として知られることになる。海援隊士長岡謙吉が筆記したこれは、横井小楠の『国是七条』を原案としたもので、後に成立した維新政府の綱領の実質的な原本となった[93]

龍馬の提示を受けた後藤は直ちに京都へ出向し、建白書の形式で老公山内容堂へ上書しようとしたが、この時既に容堂は土佐に帰国しており、この為、大坂で藩重臣と協議してこれを藩論となした。次いで後藤は6月22日に薩摩藩と会合を持ち薩摩側は西郷隆盛、小松帯刀、大久保一蔵、土佐側からは坂本龍馬、中岡慎太郎、後藤象二郎、福岡孝弟寺村左膳真鍋栄三郎が代表となり、船中八策に基づいた王政復古を目標となす薩土盟約が成立した。後藤は薩摩と密約を成立させる一方で、土佐に帰って容堂に上書を行い、これから程ない6月26日芸州藩が加わって薩土芸盟約が成立した。

7月6日、龍馬が不在中の長崎で英国軍艦イカロス号の水夫が殺害され、海援隊士に嫌疑がかけられる事件が発生した。龍馬と後藤はこの対応のために長崎へ戻り、龍馬は9月まで英国公使パークスとの談判に当たっていた。結局、容疑不十分で海援隊士の嫌疑は晴れている(犯人は福岡藩士金子才吉で事件直後に自刃していた[94])。

「大政奉還図」 邨田丹陵

後藤は9月2日京都へ戻ったが、イカロス号事件の処理に時間がかかったことと薩土両藩の思惑の違いから、9月7日に薩土盟約は解消になってしまった。その後、薩摩は武力討幕の準備を進めることになる。

事件の処理を終えた龍馬は新式小銃1000余挺を船に積んで土佐へ運び、9月23日、5年半ぶりに故郷の土を踏み家族と再会した。10月9日に龍馬は入京し、この間、容堂の同意を受けた後藤が10月3日二条城に登城して老中板倉勝静に王政復古の建白書を提出し、幕府が時勢に従い政権を朝廷に奉還することを提案していた。慶喜がこの建白を受け入れるか否かは不明確で、焦燥した龍馬は後藤に「建白が受け入れらない場合は、あたなはその場で切腹する覚悟でしょうから、後下城なき時は、海援隊同志とともに慶喜を路上で待ち受けて仇を討ちます。地下で相まみえましょう」[95]と激しい内容の手紙を送っている[96]。だが、将軍慶喜は既に決断を下しており、10月13日に二条城で大政奉還を後藤を含む諸藩重臣に通告、翌14日に帝へ上奏、15日に勅許が下された。

正に、この直前の10月13日と14日に討幕の密勅が薩摩と長州に下されていた。大政奉還によって討幕の大義名分が失われ、この密勅は21日に取り消されている。

展望が見えた龍馬は10月16日に戸田雅楽(尾崎三良)と新政府職制案の「新官制擬定書」を策定した。この職制案を見た西郷がその名簿に西郷の名はあるのに龍馬の名が欠けていることを知り、西郷が新政府に入ってはどうかと質問すると龍馬は「わしは世界の海援隊をやります」と答えたという有名な逸話がある。だが、尾崎の史料には龍馬の名は参議候補者として記載されており、この逸話は大正3年に書かれた千頭清臣作の『坂本竜馬』が出典の創作であることが分かっている[97]

また、11月上旬には船中八策を元に「新政府綱領八策[98]を起草し、新政府の中心人物の名は故意に「○○○自ら盟主と為り」と空欄にしておいた。龍馬が誰を意図していたのかは様々な説がある。

暗殺

後藤象二郎の依頼で、慶応3年10月24日に越前へ出向き、松平春獄の上京を促して三岡八郎(由利公正)と会談した後、11月5日に帰京した。

11月15日、龍馬は宿にしていた河原町蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいた。当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などに訪問を受けている。午後8時頃、龍馬と中岡が話していたところ、十津川郷士と名乗る男達数人が来訪し面会を求めて来た。従僕の藤吉が取り次いだところで、来訪者はそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋に押し入った。龍馬達は帯刀しておらず、龍馬はまず額を深く斬られ、その他数か所を斬られて、ほとんど即死に近かった[99][100]。中岡と藤吉も重傷を負うが、藤吉は翌日、中岡は翌々日の17日まで生存して意識もあり、事件の証言を残した。

新選組から分離した御陵衛士伊東甲子太郎(または他の御陵衛士隊士)が現場に残された鞘を新選組の原田左之助のものと証言したこともあり、新選組が強く疑われた[101]。また、海援隊士たちは紀州藩による、いろは丸事件の報復であると疑い、12月6日に陸奥陽之助らが紀州藩御用人三浦休太郎を襲撃して、三浦の護衛に当たっていた新選組と斬り合いになっている(天満屋事件)。慶応4年(1868年)4月に下総国流山で出頭し捕縛された新選組局長近藤勇は土佐藩士の強い主張によって斬首に処された。

明治3年(1870年)、箱館戦争で降伏した元見廻組今井信郎が明治政府の取り調べに対し、与頭佐々木只三郎と自分を含めた部下6人(または7人)が坂本龍馬を殺害したと供述し、これが現在では定説になっている[102][103][104][99][105]が、薩摩藩陰謀説、土佐藩陰謀説、果てはフリーメイソン陰謀説まで様々な異説が生まれ現在まで取り沙汰されている。

年譜

和暦(西暦)
坂本龍馬関連事項 参考事項
天保6年(1835年)   1 11月15日[4])龍馬生まる。
弘化3年(1846年 12 (この年)母死去。
(この年)小高坂の楠山塾で学ぶが退塾。
弘化5年/
嘉永元年(1848年
14 (この年)日根野弁治の道場へ入門し小栗流和兵法を学ぶ。 (12月)山内豊信土佐藩襲封
嘉永5年(1852年 18 (7月)中浜万次郎、アメリカから土佐へ帰国。
嘉永6年(1853年 19 (4月)剣術修行のため江戸に出て、千葉定吉道場(小千葉道場)に入門。
(12月)佐久間象山の私塾に入門。
6月3日黒船来航
6月22日)将軍徳川家慶死去。
11月23日徳川家定将軍宣下
嘉永7年/
安政元年(1854年
20 6月23日土佐に帰郷。
(この年)画家河田小龍から西洋事情を学ぶ。
3月3日日米和親条約締結。
安政2年(1855年 21 12月4日)父八平死去。
安政3年(1856年 22 (9月)再び江戸小千葉道場に遊学。
安政4年(1857年 23 (この年)盗みを働き切腹沙汰となった仲間の山本琢磨を逃がす。
安政5年(1858年 24 (1月)千葉定吉より「北辰一刀流長刀兵法目録」伝授[22]
(9月)剣術修行を終えて帰国。
4月23日井伊直弼大老就任。
6月19日日米修好通商条約
7月6日)将軍家定死去。
(9月)安政の大獄はじまる。
10月25日徳川家茂将軍宣下。
安政6年(1859年 25 2月26日)土佐藩主山内豊信隠居。以後「容堂」と号す。10月に幕府より蟄居謹慎を命じられる。
安政7年/
万延元年(1860年
26 (1月~11月)勝海舟を含む遣米使節を派遣。
3月3日桜田門外の変
文久元年(1861年 27 (3月)土佐で井口村刃傷事件が起り、龍馬の属する下士と上士の間で対立が深まる。
(8月頃)土佐勤王党に加盟。
(10月)武市の密使として長州へ向かう。
(8月)武市半平太が江戸で土佐勤王党を結成。
文久2年(1862年 28 (1月)萩で久坂玄瑞と面談。
3月24日沢村惣之丞とともに脱藩
(8月)九州などを放浪した後、江戸へ入り千葉道場に身を寄せる。
12月5日)幕府政事総裁職の松平春嶽に面会。
(12月)勝海舟に面会して弟子となる[106]
4月8日)土佐藩参政吉田東洋暗殺。
4月23日寺田屋事件
文久3年(1863年 29 2月25日)勝の尽力により脱藩を赦免される。
4月23日)将軍家茂が神戸海軍操練所神戸海軍塾の設立を許可。
(5月)越前に出向し、春獄から千両を借り受ける。[48]
(10月)海軍塾塾頭をつとめる。[53]
5月10日)長州藩が攘夷を決行し外国船を砲撃
(6月)土佐藩で土佐勤王党弾圧が始まる。
(7月)薩英戦争
8月18日八月十八日の政変
(8月~9月)天誅組の変
9月21日)武市半平太投獄。
文久4年/
元治元年(1864年
30 (2月)帰国命令を無視して再脱藩。
5月14日)神戸海軍操練所創設[56]
6月17日)尊攘過激派浪士を蝦夷地へ移住させる開拓構想を勝に説く。
11月10日)勝が軍艦奉行を罷免。龍馬ら塾生は薩摩藩邸に保護される。
6月5日池田屋事件
7月19日禁門の変
7月23日)幕府が長州征討を発令
8月5日7日四国連合艦隊が下関を砲撃
(11月)長州藩が降伏恭順する(第一次長州征伐)。
(12月)長州で高杉晋作が挙兵(功山寺挙兵)。
元治2年/
慶応元年(1865年
31 3月18日)神戸海軍操練所廃止。
(5月)薩摩藩の援助により、長崎で社中(亀山社中)を結成。
閏5月21日中岡慎太郎土方久元とともに長州の桂小五郎と薩摩の西郷隆盛との下関での会談を斡旋するが失敗する。
(8月)長崎のグラバー商会からの薩摩藩名義での銃器弾薬購入を長州藩に斡旋。
(9月)大久保一蔵の書簡を長州藩重役に届ける[70]
閏5月11日)武市半平太切腹
慶応2年(1866年 32 1月22日[74])龍馬の斡旋により、京都で桂と西郷、小松らが会談し、薩長同盟(薩長盟約)が結ばれる。[75]
1月23日)伏見寺田屋で幕吏に襲撃され負傷。(寺田屋遭難
2月5日)桂に求められて盟約書の裏書を行う。
(3月~4月)負傷治療のために妻おりょうと共に鹿児島を旅行する。
(6月)第二次長州征伐で亀山社中の船ユニオン号で長州藩を支援。
(6月~9月)第二次長州征伐。
7月20日)将軍家茂死去。
12月5日徳川慶喜将軍宣下。
12月25日孝明天皇崩御
慶応3年(1867年 33 1月13日)土佐藩参政後藤象二郎と会談。
(4月上旬)亀山社中を土佐藩外郭組織とし「海援隊」と改称。
4月23日)海援隊運用船いろは丸が紀州藩船と衝突して沈没
(5月)御三家紀州藩に8万3526両198文の損害を賠償させる。
6月9日後藤象二郎とともに船中八策を策定。[93]
6月22日薩土盟約成立。
10月16日戸田雅楽と「新官制擬定書」を策定。
(11月上旬)「新政府綱領八策」を起草。
11月15日)京都の近江屋で中岡慎太郎と共に刺客に襲撃され暗殺される。(近江屋事件
1月9日明治天皇即位
10月14日大政奉還
12月9日王政復古の大号令
慶応4年/
明治元年(1868年
1月3日鳥羽伏見の戦い
(4月)江戸開城
(閏4月)海援隊解散。
明治4年(1871年 8月20日綸旨により姉千鶴の長男高松太郎が「坂本直」として龍馬の名跡を継ぐ。
明治16年(1883年 (この年)土陽新聞が坂崎紫瀾作『汗血千里駒』を掲載。
明治24年(1891年 4月8日)贈正四位。

※年齢は数え歳

死後の評価

ファイル:桂浜坂本龍馬像.jpg
坂本龍馬像(高知県の桂浜)
第二次大戦中の金属供出の際もこの銅像だけは供出を免れている。
ファイル:Maruyama Park Statue.jpg
京都円山公園 龍馬(左)と中岡慎太郎の像

前述の通り、坂本龍馬は生前よりも死後に有名になった人物である。

その最初は明治16年(1883年)、高知の『土陽新聞』に坂崎紫瀾が書いた「汗血千里の駒(かんけつせんりのこま)」が掲載され、大評判となった事である。

次に龍馬ブームが起きるのは日露戦争時である。日本海海戦の直前に、龍馬が皇后の夢枕に立ち、「日本海軍は絶対勝てます」と語ったという話である。皇后はこの人物を知らなかったが、宮内大臣の田中光顕が、龍馬の写真を見せたところ、間違いなくこの人物だということになったと言われる。真偽のほどは定かではないが、この話が全国紙に掲載されたため、坂本龍馬の評判が全国に広まる事となる。

同時代の龍馬評

「龍馬誠実可也の人物、併せて撃剣家、事情迂闊、何も知らずとぞ」(龍馬江戸修行後)
「元より龍馬は人物なれども、書物を読まぬ故、時として間違ひし事もござ候へば」(龍馬脱藩後)
  • 武市半平太
「土佐一国にはあだたぬ奴」(龍馬脱藩後)
「肝胆もとより雄大、奇機おのずから湧出し、 飛潜だれか識るあらん、ひとえに龍名 に恥じず」(獄中で)
「龍馬面会、偉人なり。奇説家なり」(薩長同盟直前)
  • 勝海舟
「坂本龍馬、彼はおれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着いて、なんとなく冒しがたい威権があってよい男だったよ」(維新後)
  • 西郷隆盛
「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」
「その言行すこぶる意表に出で、時としては大いに馬鹿らしき事を演じたれど、また実に非凡の思想を有し、之を断行し得たり」
「過激なることは豪も無し。かつ声高に事を論ずる様のこともなく、至極おとなしき人なり。容貌を一見すれば豪気に見受けらるるも、万事温和に事を処する人なり。但し胆力が極めて大なり」

手紙と変名

近藤長次郎の墓
「梅花書屋氏墓」と記されている。筆跡は龍馬のものとされている。

現存または筆写された龍馬の手紙は、一部で疑問視されるものも含めて、130余通が確認されている。もっとも多いのは姉乙女宛のもので13通、次に伊藤助太夫佐々木高行宛の各12通、これに三吉慎蔵が10通、桂小五郎が9通と続いている。ほかに乙女宛と推定されるものが2通、乙女・おやべ連名のものも2通、兄の坂本権平乙女・おやべ連名のものが1通、乙女と姪の坂本春猪連名のものも1通あり、乙女を対象としたものが圧倒的に多い。お龍宛の手紙はわずか1通残されているのみである。
龍馬の変名といえば、慶応2年11月16日付で溝渕広之丞に宛てた手紙に、初めて記された「才谷梅太郎(さいだにうめたろう)」が有名であるが、慶応元年9月9日付で乙女とおやべに宛てた手紙には「西郷伊三郎」と名乗っていることが記されている。他に「高坂龍次郎」「大浜涛次郎(とうじろう)」「取巻の抜六(とりまきのぬけろく)」等がある。なお、これは変名ではないが、慶応3年10月13日付と推定される陸奥宗光に宛てた手紙では、「自然堂(じねんどう)」のを署名している。ちなみに、これは現存する龍馬の手紙では最後のものと言われている[107]

その他

京都国立博物館には数箇所の血痕が残る掛け軸が所蔵されている。それは淡海槐堂が暗殺当日に誕生日祝いとして贈った『梅椿図』という作品である。付着した血痕は暗殺された龍馬らのものとされている。

逸話

  • 当時土佐藩士の間では長刀をさすことが流行していた。あるとき龍馬の旧友の檜垣清治が龍馬と再会し、龍馬は短めの刀を差していた。そのことを指摘したところ「実戦では短い刀のほうが取り回しがよい」と言われ、納得した檜垣は短い刀を差すようにした。次に再会したとき、檜垣が勇んで刀を見せたところ龍馬は懐から拳銃を出し「銃の前には刀なんて役にたたない」と言われた。納得した檜垣はさっそく拳銃を買い求めた。三度再会したとき、檜垣が購入した拳銃を見せたところ龍馬は万国公法(国際法)の洋書を取り出し「これからは世界を知らなければならない」といわれた。もはや檜垣はついていけなかったという。龍馬の性格を鮮やかに描写している逸話として有名だが、これは大正3年に著された千頭清臣『坂本龍馬』が出典である。だが、当事者の檜垣清治は文久2年(1862年)に人を殺めて投獄され、維新後に赦免されるまで獄中にあり、龍馬と再会することはありえず、創作である。[108]
S&W モデル1
  • 龍馬が愛用した拳銃は2丁ある。ひとつは高杉晋作から贈呈されたS&Wモデル2アーミー 33口径で、寺田屋事件の際に火を噴いたのはこの銃である。しかし同事件の際に紛失し、後に買い求めたのがS&Wモデル1 22口径で、これは妻・お龍とともに1丁ずつ所持し、薩摩滞在時はこれで狩猟などを楽しんだという。当然この銃は暗殺された時も携帯していたが、発砲することなく殺害されている。
  • 幼少の頃、水練(水泳)に出かける途中、友人に「こんな雨で泳ぐのか」と問われたが、「濡れるのに雨も関係あるか」とそのまま川に行ったという。
  • 身長6尺(約182cm。写真と当時着用していた紋付のサイズを元に研究者が計算したところでは180cm[109])と江戸時代の当時としてはかなりな大男であったといえるだろう。なお、他の研究では174cmや169cmという説もある。
  • 武市半平太とは「アギ(あご)」「アザ(痣)」とあだ名で呼び合う仲だった。
  • いろは丸沈没事件の際に、紀州藩に対しミニエー銃400丁など銃火器3万5630や金塊や陶器など4万7896両198を積んでいたと主張しそれらを弁済させた。しかし、近年行われた調査では、坂本竜馬が主張した銃火器などは見つかっていないことが明らかになっている[110]

異説

2000年代頃から坂本龍馬とトーマス・グラバーとの関係を強調して、論者がグラバーがメンバーであったと主張するフリーメイソンと龍馬とを結びつける陰謀論が現れ、テレビ番組でも取り上げられている。

異説の内容は以下のようなものである。

  • 龍馬は脱藩後に継続的に接触したトーマス・グラバーの影響を強く受けており、薩長同盟、亀山社中、海援隊、船中八策は龍馬の完全な独創ではないという指摘がある。グラバー商会は、アヘン戦争を推進したイギリスのジャーディン・マセソン商会の直系であり、グラバーの肩書きは、「マセソン商会長崎代理人」であった。龍馬が幅広く権力者と交流できた理由は、彼個人の資質よりも、彼が当時の東洋最大手のイギリス武器商会の「営業マン」だったからだというのが真実に近い、という主張がある。[111]
  • 長崎のグラバー邸には、龍馬ら脱藩志士を匿って住まわせたとされる隠し部屋がある。

家系・家族

京都府霊山墓地

坂本家は清和源氏の一支族美濃源氏土岐氏の庶家、明智光秀の娘婿・明智秀満の末裔を称する[112] 。坂本姓の由来は、本能寺の変以前、明智氏所領であった坂本(現滋賀県大津市坂本)に由来している。しかしこれは後世の創作だろうとする声も強い[113]家紋は「組み合わせ角に桔梗」。

一方で、龍馬自身は紀貫之の子孫と称したという。墓石にも「坂本龍馬 紀直柔」と名が彫られている。

坂本家が主君に差し出した『先祖書指出控』には、「先祖、坂本太郎五郎、生国山城国、郡村未だ詳らかならず、仕声弓戦之難を避け、長岡郡才谷村に来住す。但し年歴、妻之里、且つ病死之年月等未詳」とある。

天正16年(1588年)の才谷村の検地で村の3番目の百姓として登録されているにすぎず、3代目太郎左衛門までは公認の名字をもたぬ百姓身分と考えられる。2代目彦三郎、3代目太郎左衛門まで才谷村で農業を営んだ。4代目守之、5代目正禎は才谷村のの一つである「大浜」を家名として名乗り始める。

寛文6年(1666年)、3代目太郎左衛門の次男・八兵衛は高知城下にでて質屋を開業(屋号は才谷屋)し、酒屋、呉服等を扱う豪商となる。享保15年(1730年)ころ本町筋の年寄役となり、藩主に拝謁を許されるにいたった。明和7年(1770年)、6代目直益は郷士の株を買い長男・直海を郷士坂本家の初代とし分家させ、名字帯刀、すなわち公認の名字を名乗り身分表象として二本差す身分にたどりついた。次男直清には商家才谷屋をつがせている。郷士坂本家3代目直足は白札郷士山本覚右衛門の次男としてうまれ坂本家へ養子として入った。直足の次男が直柔(坂本龍馬)である。妻はおりょう(楢崎龍)、また千葉さな子は婚約者だったといわれる。

郷士坂本家は5代当主の直寛の時の1897年に一族を挙げて北海道に移住した(土佐訣別)ため、現在は高知には龍馬はもとより郷士坂本家の人々はいない。

系図

 
 
八郎兵衛 直益
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
郷士坂本家
(1) 八平 直海
才谷屋坂本家
八次 直清
 
 
(2) 八蔵 直澄
 
 
 
 
 
(3) 八平 直足
(山本覚右衛門の次男)
 
伊予
(北代平助の長女)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(4) 権平 直方千鶴
(高松順蔵の妻)

(柴田作左衛門の妻)
乙女
(岡上新輔の妻)
龍馬 直柔
 
 
お龍
(楢崎将作の長女)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
春猪
(鎌田清次郎の妻)
太郎
(龍馬の養子に)
(5) 南海男 直寛
(権平の養子に)
 
 
 
 
鶴井
(権平の外孫)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
実線は親子関係、破線は夫婦関係、丸に数字は当主。

記念館、顕彰施設

高知龍馬空港

高知県内経済団体などから成る「高知・龍馬空港」を実現する会の請願活動により、平成15年(2003年)8月に橋本大二郎高知県知事高知空港愛称を「高知龍馬空港」とすることを表明。同年11月15日に愛称が公式化された。

公共インフラや出版物等においてはかなりその名称が普及してきているが、航空会社ウェブサイトなどでは「高知」の表記が残されたままである。

文献

原典

  • 1935年 坂本龍馬、由利公正著、尾佐竹猛解題『近世社会経済学説大系』第14、誠文堂新光社
    • 各巻タイトル: 坂本龍馬・由利公正集 / 尾佐竹猛解題
  • 1978年5月 平尾道雄監修、宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店
    • 限定版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌: p907 - 952
  • 1980年5月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店
    • 増補改訂版
  • 1982年11月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店
    • 増補3訂版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌: p987 - 1032
  • 1988年5月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店、ISBN 4875194005
    • 増補4訂版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌: p1045 - 1090
  • 1988年12月、岩崎英重、日本史籍協会編『坂本龍馬關係文書』1(『日本史籍協会叢書』115)、東京大学出版会、ISBN 4130977156
    • 日本史籍協会1926年刊の複製
  • 1989年1月、岩崎英重、日本史籍協会編『坂本龍馬關係文書』2(『日本史籍協会叢書』116)、東京大学出版会、1926年刊の復刊
    • 日本史籍協会1926年刊の複製
  • 1995年8月 坂本龍馬、宮地佐一郎著『龍馬の手紙 坂本龍馬全書簡集・関係文書・詠草』(『PHP文庫』)、PHP研究所、ISBN 4569567940
  • 1996年9月 坂本龍馬著、日本史籍協会編『坂本竜馬関係文書』1、北泉社、ISBN 4938424665
    • 日本史籍協会 1926年刊の複製
  • 1996年9月 坂本龍馬著、日本史籍協会編『坂本竜馬関係文書』2、北6年刊の複製
  • 1999年8月 京都国立博物館編『坂本龍馬関係資料』京都国立博物館
  • 2003年12月 坂本龍馬、宮地佐一郎著『龍馬の手紙 坂本龍馬全書簡集・関係文書・詠草』(『講談社学術文庫』)、講談社、ISBN 4061596284

書籍編

  • 弘松宣枝『坂本龍馬』(民友社、1896年)
  • 瑞山会編『維新土佐勤王史』(冨山房、1912年。睦書房、1969年。日本図書センター、1977年。マツノ書店、2004年)
  • 千頭清臣『坂本龍馬』(博文館、1914年。土佐史談会、1985年。新人物往来社、1995年新人物往来社版は書名を『坂本龍馬伝』に変更している)
  • 寺石正路『土佐偉人伝』(沢本書店、1914年。歴史図書社、1976年)
  • 尾佐竹猛『維新前後に於ける立憲思想』(文化生活研究会、1925年。『尾佐竹猛全集』1、実業之日本社、1948年に収録。『尾佐竹猛著作集』9、ゆまに書房、2006年に収録)
  • 坂本中岡銅像建設会編『雋傑坂本龍馬』(坂本中岡銅像建設会事務所、1927年。象山社、1981年)
  • 徳富蘇峰『土佐の勤王』(民友社、1929年)
  • 平尾道雄『坂本龍馬海援隊始末』(万里閣書房、1929年)
  • 平尾道雄『維新暗殺秘録』(民友社、1930年。白竜社、1967年。新人物往来社、1978年。河出文庫、1990年)
  • 尾佐竹猛『幕末維新の人物』(学而書院、1935年。『尾佐竹猛著作集』20、ゆまに書房、2006年に収録)
  • 維新史料編纂事務局編『維新史』全5巻(明治書院、1939~1941年。吉川弘文館、1983年)
  • 平尾道雄『海援隊始末記』(大道書房、1941年)
  • 尾佐竹猛『明治維新』上・中・下の一・二(白揚社、1942~1944年・1949年。宗高書房、1978年。『尾佐竹猛著作集』16・17、ゆまに書房、2006年に収録)
  • 平尾道雄『武市瑞山と土佐勤王党』(大日本出版社峯文荘、1943年)
  • 遠山茂樹『明治維新』(岩波全書、1951年。『遠山茂樹著作集』1、岩波書店、1991年に収録。岩波同時代ライブラリー、1995年。岩波現代文庫、2000年)
  • 井上清『日本現代史I 明治維新』(東京大学出版会、1951年)
  • 高橋信司『土佐藩憲政思想成立史』(高知市民図書館、1958年)
  • 市井三郎『哲学的分析』(岩波書店、1963年)
  • 池田諭『坂本竜馬』(大和選書、1964年)
  • 池田敬正『坂本龍馬』(中公新書、1965年)
  • マリアス・ジャンセン、平尾道雄・浜田亀吉訳『坂本龍馬と明治維新』(時事通信社、1965年)
  • 平尾道雄『土佐藩』(吉川弘文館、1965年)
  • 平尾道雄『龍馬のすべて』(久保書店、1966年。高知新聞社、1985年)
  • 小西四郎『日本の歴史19 開国と攘夷』(中央公論社、1966年。中公文庫、1974年。中公バックス、1984年)
  • 平尾道雄『坂本龍馬海援隊始末記』(白竜社、1968年。中公文庫、1975年)
  • 山本大『真説坂本竜馬』(人物往来社、1968年。新人物往来社、1974年。新人物往来社版は書名を『坂本竜馬』に変更)
  • 土居晴夫『坂本家系考』(土佐史談会、1968年)
  • 松浦玲『勝海舟』(中公新書、1968年)
  • 今井幸彦『坂本竜馬を斬った男』(新人物往来社、1971年)
  • 石井孝『勝海舟』(吉川弘文館、1974年)
  • 飛鳥井雅道『坂本龍馬』(平凡社、1975年。福武文庫、1992年。講談社学術文庫、2000年)
  • 絲屋寿雄『坂本龍馬』(汐文社、1975年)
  • 山本大『近世土佐と民権思想』(高知市民図書館、1976年)
  • 尾崎秀樹『歴史文学論』(勁草書房、1976年)
  • 平尾道雄『中岡慎太郎陸援隊始末記』(中公文庫、1977年)
  • 嶋岡晨『龍馬追跡』(新人物往来社、1977年。復刻『坂本龍馬の生涯』新人物往来社、1983年)
  • 市井三郎『歴史を創るもの』(第三文明社レグルス文庫、1978年)
  • 松岡英夫『大久保一翁』(中公新書、1979年)
  • 石尾芳久『大政奉還と討幕の密勅』(三一書房、1979年)
  • 平尾道雄編『坂本龍馬のすべて』(新人物往来社、1979年)
  • 入交好脩『武市半平太』(中公新書、1982年)
  • 宮地佐一郎『坂本龍馬 男の行動論』(PHP研究所、1983年。PHP文庫、1985年)
  • 吉永豊海『土佐海事法制史』(山海堂出版、1983年)
  • 坂本藤良『幕末維新の経済人』(中公新書、1984年)
  • 土居晴夫『坂本龍馬とその一族』(新人物往来社、1985年)
  • 平尾道雄『明治維新と坂本龍馬』(新人物往来社、1985年)
  • 平尾道雄ほか『坂本龍馬読本』(新人物往来社、1985年)
  • 関家新助『近代日本の反権力思想』(法律文化社、1986年)
  • 山田一郎『坂本龍馬 隠された肖像』(新潮社、1987年)
  • 鹿野政直『「鳥島」は入っているか』(岩波書店、1988年)
  • 小西四郎ほか編『坂本龍馬事典』(新人物往来社、1988年。コンパクト版、2007年)
  • 山田一郎ほか『坂本龍馬 海援隊隊士列伝』(新人物往来社、1988年)
  • 石井寛治『大系日本の歴史12 開国と維新』(小学館、1989年。小学館ライブラリー、1993年)
  • 山田一郎『海援隊遺文』(新潮社、1991年)
  • 井上勲『王政復古』(中公新書、1991年)
  • 宮地佐一郎『龍馬百話』(文春文庫、1991年)
  • 下関市立長府博物館編『坂本龍馬と下関』(下関市立長府博物館、1992年)
  • 宮地佐一郎『中岡慎太郎』(PHP研究所、1992年)
  • 田中彰『日本の歴史15 開国と倒幕』(集英社、1992年)
  • 吉村淑甫『近藤長次郎』(毎日新聞社、1992年)
  • 宮地佐一郎『中岡慎太郎』(中公新書、1993年)
  • 木村幸比古『龍馬暗殺の真犯人は誰か』(新人物往来社、1995年)
  • 田中彰『幕末維新史の研究』(吉川弘文館、1996年)
  • 菊地明山村竜也編『坂本龍馬日記』上・下(新人物往来社、1996年)
  • 吉田常吉『幕末乱世の群像』(吉川弘文館、1996年)
  • 青山忠正『幕末維新 / 奔流の時代』(文英堂、1996年)
  • 木村幸比古『龍馬の時代』(高知新聞社、1997年。高知新聞社追補版、2000年。淡交社、2006年)
  • 新人物往来社編『共同研究・坂本龍馬』(新人物往来社、1997年)
  • 松岡司『武市半平太伝』(新人物往来社、1997年)
  • 菊地明『龍馬 最後の真実』(筑摩書房、1998年。ちくま文庫、2009年)
  • 芳即正『坂本龍馬と薩長同盟』(髙城書房、1998年)
  • 松岡司『中岡慎太郎伝』(新人物往来社、1999年)
  • 小美濃清明『坂本龍馬・青春時代』(新人物往来社、1999年)
  • 前田秀徳『龍馬からのメッセージ』(自費出版、2000年/発売:南の風社)写真多数
  • 青山忠正『明治維新と国家形成』(吉川弘文館、2000年)
  • 菊地明『龍馬暗殺完結篇』(新人物往来社、2000年)
  • 下関市立長府博物館編『三吉慎蔵と坂本龍馬』(下関市立長府博物館、2001年)
  • 松浦玲『検証・龍馬伝説』(論創社、2001年)
  • 山本栄一郎『真説・薩長同盟』(文芸社、2001年)
  • 菊地明『坂本龍馬進化論』(新人物往来社、2002年)
  • 家近良樹『孝明天皇と「一会桑」』(文春新書、2002年)
  • 井上勝生『日本の歴史18 開国と幕末変革』(講談社、2002年)
  • 宮川禎一『龍馬を読む愉しさ』(臨川選書、2003年)
  • 松岡司『定本坂本龍馬伝』(新人物往来社、2003年)
  • 成田龍一『司馬遼太郎の幕末・明治』(朝日選書、2003年)
  • 福井市立郷土歴史博物館企画・制作・編集『天下の事成就せり - 福井藩と坂本龍馬 - 』(福井市立郷土歴史博物館、2004年)
  • 菅宗次『龍馬と新選組』(講談社選書メチエ、2004年)
  • 佐々木克『幕末政治と薩摩藩』(吉川弘文館、2004年)
  • 小椋克己土居晴夫監修『図説坂本龍馬』(戎光祥出版、2005年)
  • 京都国立博物館編『龍馬の翔けた時代』(京都新聞社、2005年)
  • 青山忠正『明治維新の言語と史料』(清文堂出版、2006年)
  • 土居晴夫『坂本龍馬の系譜』(新人物往来社、2006年)
  • 井上勝生『シリーズ日本近現代史(1) 幕末・維新』(岩波新書、2006年)
  • 高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』(吉川弘文館、2007年)
  • 木村幸比古『龍馬暗殺の謎』(PHP新書、2007年)

論文

  • 岩崎鏡川「坂本龍馬先生に就て」(『土佐史談』15、1926年)
  • 尾佐竹猛「坂本龍馬の『藩論』」(『明治文化研究』9、1934年。『土佐史談』46、1934年に再録)
  • 松村巌「坂本龍馬」(『土佐史談』68、1939年。『続新選組史料集』新人物往来社、2006年に再録)
  • 赤尾藤一「幕末に於ける薩長両藩の提携成立と坂本龍馬等土州藩士の周旋運動に就いて」(『中部日本歴史地理学会論文集』1、飯島書店、1941年)
  • 森銑三「坂本龍馬」(『伝記』1月号、1943年。『森銑三著作集 続編』第1巻、中央公論社、1992年に再録)
  • 塩見薫「才谷屋のことなど」(『寧楽史苑』8、1952年)
  • 塩見薫「文久年間の大政返上論-坂本龍馬伝の一説-」(『日本歴史』95、1956年)
  • 高橋信司「いわゆる「藩論」」(『高知短期大学社会科学論集』2、1956年)
  • 塩見薫「坂本龍馬語録と伝えられる『英将秘訣』について」(『歴史学研究』208、1957年)
  • 塩見薫「坂本龍馬の元治元年-薩摩藩への結びつきを中心に-」(『日本歴史』108、1957年)
  • 池田敬正「土佐藩における討幕運動の展開」(『史林』40‐5、1957年。三宅紹宣編『幕末維新論集4 幕末の変動と諸藩』吉川弘文館、2001年に再録)
  • 平尾道雄「龍馬と勝海舟書翰」(『土佐史談』93、1958年)
  • 井上清「坂本龍馬」(『朝日ジャーナル』157、1962年。『日本の思想家』I、朝日新聞社、1962年、および『新版日本の思想家』上、朝日新聞社、1975年に再録)
  • 原口清「「藩論」覚え書」(『日本歴史』176、1963年)
  • 土居晴夫「神戸海軍操練所考」(『土佐史談』115、1966年)
  • 土居晴夫「兵庫海軍局始末」(『歴史と神戸』25、1967年)
  • 土居晴夫「海軍操練所始末」(『歴史と神戸』26、1967年)
  • 土居晴夫「神戸海軍操練所史考」(『軍事史学』13、1968年。「坂本龍馬の神戸時代」と改題の上、『平尾道雄追悼記念論文集』高知市民図書館、1980年に再録)
  • 広谷喜十郎「勃興期の才谷屋に関する一考察」(『土佐史談』122、1969年)
  • 土居晴夫「神戸海軍塾の青年群像」(『神戸史談』226、1970年)
  • 鵜沢義行「幕末における尊攘的開明論と坂本龍馬の周辺について」(『日本法学紀要』11・12、1970年)
  • 平尾道雄「高杉晋作と坂本龍馬」(『中央公論』86-5、1971年)
  • 飯田嘉郎「伊呂波丸事件について」(『海事史研究』16、1971年)
  • 船津功「「大政奉還」をめぐる政権構想の再検討-坂本龍馬「新官制案」の史料批判を中心に-」(『歴史学研究』375、1971年)
  • 井上勲「大政奉還運動の形成過程(一)(二)」(『史学雑誌』81-11・81-12、1972年)
  • 石井孝「船津功氏「『大政奉還』をめぐる政権構想の再検討」を読んで」(『歴史学研究』380、1972年)
  • 井上勲「激動期の政治リーダー-坂本龍馬と中岡慎太郎-」(『エコノミスト』51-42、1973年)
  • 山本大「坂本龍馬の大義料」(『日本歴史』322、1975年)
  • 池田敬正「司馬遼太郎『竜馬がゆく』をめぐって」(『歴史評論』317、1976年)
  • 絲屋寿雄「竜馬の虚像・実像-司馬遼太郎『竜馬がゆく』によせて-」(『歴史評論』317、1976年)
  • 飛鳥井雅道「「奉還」と「討幕」-坂本龍馬の三つの文書-(上)」(京都大学『人文学報』41、1976年)
  • 鹿野政直「国民の歴史意識・歴史像と歴史学」(『岩波講座日本歴史24別巻1』岩波書店、1977年)
  • 尾崎秀樹「龍馬像の変遷」(『歴史と人物』80号、1978年)
  • 井上勲「坂本龍馬の可能性」(『歴史と人物』80号、1978年)
  • 亀掛川博正「公議政体論と土佐藩の動向(I)(II)(III)」(『政治経済史学』154・156・157、1979年)
  • 鈴木教道「西郷隆盛の思想と人格-幕末における坂本龍馬の人間像との比較において-」(『現代科学論叢』13、1979年)
  • 山本大「坂本龍馬の思想と行動」(『歴史と人物』129、1982年)
  • 井上勝生「維新変革と後発国型権力の形成-王政復古クーデタを中心に-」(『日本史研究』271、1985年。井上勝生『幕末維新政治史の研究』塙書房、1994年に再録)
  • マリアス・ジャンセン、秦郁彦訳「坂本龍馬と近代日本」(『土佐史談』170、1985年)
  • 山本大「海援隊と長崎商会」(『土佐史談』170、1985年)
  • 土居晴夫「坂本龍馬と「北辰一刀流長刀兵法目録」」(『土佐史談』170、1985年)
  • 広谷喜十郎「坂本龍馬と立川関」(『土佐史談』170、1985年)
  • 小西四郎「坂本龍馬とその時代」(『別冊歴史読本-坂本龍馬の謎-』新人物往来社、1985年)
  • 山本大「藩意識をなぜ持たなかったか」(『別冊歴史読本-坂本龍馬の謎-』新人物往来社、1985年)
  • 毛利敏彦「薩長同盟をなぜ画策したか」(『別冊歴史読本-坂本龍馬の謎-』新人物往来社、1985年)
  • 松浦玲「「船中八策」の真意は」(『別冊歴史読本-坂本龍馬の謎-』新人物往来社、1985年)
  • 井上勲「大政奉還立案の真相は」(『別冊歴史読本-坂本龍馬の謎-』新人物往来社、1985年)
  • 青山忠正「薩長盟約の成立とその背景」(『歴史学研究』557、1986年)
  • 石尾芳久「坂本龍馬の死-言論と暴力-」(『関西大学法学論集』36-3・4・5合併号、1986年)
  • 松岡司「初見の坂本龍馬書状と北辰一刀流兵法目録」(『日本歴史』454、1986年)
  • 土居晴夫「検証・坂本龍馬の書状」(『歴史と神戸』144、1987年)
  • 荒尾親成「検証・坂本龍馬の書状-土居晴夫氏に答える-」(『歴史と神戸』145、1987年)
  • 遠山茂樹「坂本龍馬が活動した時代」(小西四郎ほか編『坂本龍馬事典』新人物往来社、1988年。のち、『遠山茂樹著作集』第1巻、岩波書店、1991年に再録)
  • 井上清「明治維新と中岡慎太郎-坂本龍馬とくらべて-」(『明治維新と中岡慎太郎』北川村、1990年。『井上清史論集1明治維新』岩波現代文庫、2003年に再録)
  • 松浦玲「坂本龍馬の実像」(『日本近代史の虚像と実像』第1巻、大月書店、1990年。松浦玲『検証・龍馬伝説』論創社、2001年に再録)
  • 梶輝行「幕末土佐藩における西洋砲術の導入・伝習-徳弘孝蔵を中心に-」(『史叢』50、1993年)
  • 箱石大「坂本龍馬の人物像をめぐって」(『歴史評論』530、1994年)
  • 堤克彦「横井小楠の交友関係-小楠と龍馬を中心として-」(『熊本史学』70・71合併号、1995年)
  • 一坂太郎「薩長同盟の新事実-坂本龍馬周旋説の虚実-」(『歴史読本』41-19、1996年。のち、新人物往来社編『共同研究・坂本龍馬』新人物往来社、1997年に再録)
  • 家近良樹「「大政奉還論」の系譜」(『歴史読本』42-8、1997年)
  • 三上一夫「福井時代の坂本龍馬」(『歴史読本』42-8、1997年)
  • 岸本覚「幕末海防論と「境界」意識-「志士」集う「場」を中心に-」(『江戸の思想9 空間の表象』ぺりかん社、1998年)
  • 木村幸比古「龍馬関係資料について」(『霊山歴史館紀要』13、2000年)
  • 青山忠正「土佐山内家重臣・寺村左膳-薩土盟約と政権奉還建白-」(佐々木克編『それぞれの明治維新』吉川弘文館、2000年。青山忠正『明治維新の言語と史料』清文堂出版、2006年に再録)
  • 青山忠正「文体と言語-坂本龍馬書簡を素材に-」(『佛教大学総合研究所紀要』8、2001年。青山忠正『明治維新の言語と史料』清文堂出版、2006年に再録)
  • 木村幸比古「海舟と龍馬」(『霊山歴史館紀要』14、2001年)
  • 福田一彰「大政奉還に至る坂本龍馬の尊王思想について」(『霊山歴史館紀要』15、2002年)
  • 木村幸比古「龍馬の剣術」(『霊山歴史館紀要』15、2002年)
  • 松下祐三「薩長商社計画と坂本龍馬-坂崎紫瀾の叙述をめぐって-」(『駒沢史学』59、2002年)[1]
  • 三宅紹宣「薩長盟約の歴史的意義」(『日本歴史』647、2002年)
  • 高橋秀直「「公議政体派」と薩摩倒幕派-王政復古クーデター再考-」(『京都大学文学部研究紀要』41、2002年。高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』吉川弘文館、2007年に再録)
  • 高橋秀直「幕末史の中の薩長同盟」(『幕末から明治へ』同志社大学人文科学研究所、2004年)
  • 北野雄士「横井小楠と坂本龍馬-その共通性と異質性-」(『大坂産業大学人間環境論集』3、2004年)
  • 田中彰「天保の青年たちの「明」と「暗」」(『歴史読本』49-7、2004年)
  • 三野行徳「坂本竜馬と幕府浪士取立計画-杉浦梅潭文庫「浪士一件」の紹介を兼ねて-」(『歴史読本』49-7、2004年)
  • 松下祐三「薩長商社計画の虚実」(『歴史読本』49-7、2004年)
  • 前田宣裕「竜馬暗殺と会津藩」(『歴史読本』49-7、2004年)
  • 井上勲「開国と幕末の動乱」(井上勲編『日本の時代史20 開国と幕末の動乱』吉川弘文館、2004年)
  • 中城正堯「龍馬ゆかりの襖絵や宣長の短冊-『中城文庫』誕生の発端と内容」(『大平山』第30号、2004年)
  • 小林和幸「谷干城の慶応三年」(『駒沢史学』第64号、2005年)
  • 高橋秀直「薩長同盟の展開-六ヶ条盟約の成立-」(『史林』452、2005年。高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』吉川弘文館、2007年に再録)
  • 青山忠正「文久・元治年間の政局と龍馬」(京都国立博物館編『龍馬の翔けた時代』京都新聞社、2005年)
  • 宮川禎一「坂本龍馬の生涯と書簡」(京都国立博物館編『龍馬の翔けた時代』京都新聞社、2005年)
  • 三浦夏樹「土佐と坂本龍馬」(京都国立博物館編『龍馬の翔けた時代』京都新聞社、2005年)
  • 古城春樹「下関と坂本龍馬」(京都国立博物館編『龍馬の翔けた時代』京都新聞社、2005年)
  • 青山忠正「龍馬は『暗殺』されたのか」(NHK学園機関紙『れきし』第92号、2005年)
  • 松岡司「坂本龍馬「京都日誌」」(『歴史読本』51-7、2006年)
  • 大塚桂「大政奉還論・再考(1)(2)」(『駒澤法学』第18・19号、2006年)
  • 桐野作人「龍馬遭難事件の新視角-海援隊士・佐々木多門書状の再検討- 第1回・第2回・最終回」(『歴史読本』第51巻第10号・第51巻第11号・第51巻第12号、2006年)
  • 桐野作人「同盟の実相と龍馬の果たした役割とは?」(『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)
  • 濱口裕介「師とともに目指したアジア諸国共有海軍への夢」(『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)
  • 松浦玲「『万機公論ニ決スヘシ』は維新後に実現されたか?」(『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)

創作物

小説

漫画

映画

TVドラマ

坂本龍馬を主人公とした作品
その他の作品

舞台

脚注

  1. ^ 「龍馬」は慣用音(『広辞苑』第5版)では「りゅうま」だが、漢音は「りょうま」で、同時代人の日記や書簡に「良馬」の当て字で記されていることもあり、また龍馬自身も書簡の中で「りよふ」と自署していることもあるため、「りょうま」と読まれていたことは間違いない。なお、「竜」は「龍」の異体字(「竜」は「龍」の古体字)で、龍馬自身は「竜」の字体を使ったことがないが、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』で使われたことや、「竜」が常用漢字に採用されたこともあり、慣用化されている。
  2. ^ 歴史家の松浦玲などが代表格である。松浦玲『検証・龍馬伝説』(論創社、2001年)・池田敬正「司馬遼太郎「竜馬がゆく」をめぐって」(『歴史評論』317、1976年)・絲屋寿雄「竜馬の虚像・実像-司馬遼太郎「竜馬がゆく」によせて-」(『歴史評論』317、1976年)などが参考になる。
  3. ^ 平尾道雄『龍馬のすべて』(久保書店、1966年。高知新聞社、1985年)・平尾道雄『坂本龍馬海援隊始末記』(白竜社、1968年。中公文庫、1976年)・池田敬正『坂本龍馬』(中公新書、1965年)・飛鳥井雅道『坂本龍馬』(平凡社、1975年。福武文庫、1992年。講談社学術文庫、2000年)。
  4. ^ a b 別説に10月15日生(坂崎紫瀾『汗血千里駒』)と11月10日(瑞山会『維新土佐勤王史』)がある。
  5. ^ 松浦玲『坂本龍馬』p2
  6. ^ 松浦玲『坂本龍馬』p3
  7. ^ 『坂本龍馬とその時代』p19
  8. ^ a b 坂崎紫瀾『汗血千里駒』(明治16年)
  9. ^ 弘松宣枝『阪本龍馬』(大正元年)
  10. ^ a b 千頭清臣『坂本龍馬』(大正3年)
  11. ^ 松浦玲『坂本龍馬』p5-7
  12. ^ 『坂本龍馬歴史大事典』p58
  13. ^ 『坂本龍馬と海援隊』p47
  14. ^ 詳細は山田一郎『海援隊遺文』(新潮社、1991年)などに、また土佐藩の御船蔵や海事資料については吉永豊実『土佐海事法制史』(山海堂、1983年)に詳しい。
  15. ^ a b c d 京都国立博物館蔵
  16. ^ 『坂本龍馬歴史大事典』p242
  17. ^ 『坂本龍馬歴史大事典』p72
  18. ^ 河田小龍回顧録『藤陰略話』(明治20年代)
  19. ^ 松浦玲『坂本龍馬』p12
  20. ^ 『坂本龍馬歴史大事典』p60
  21. ^ 松浦玲『坂本龍馬』p12-13
  22. ^ a b 北辰一刀流免許皆伝と言われる事もあるが、実際には「北辰一刀流長刀兵法・目録」を与えられた物であり、一般にいう剣術では無く、正しくは薙刀兵法であり、免許でもなければ皆伝でもなく、北辰一刀流としては一番低い「初目録」であった。ただ千葉道場で塾頭を勤めたことや同世代の人物の証言に「免許皆伝を伝授された」という証言も残るため、免許皆伝状は単に現存していないものと思われる(龍馬の遺品は災害や盗難等で幾つか損失している)。ちなみに、「北辰一刀流長刀兵法・目録」が薙刀の目録であることについては、松岡司「初見の坂本龍馬書状と北辰一刀流長刀兵法目録」(『日本歴史』454号、1986年)、土居晴夫「北辰一刀流とその免許皆伝」(『坂本龍馬事典』新人物往来社、1988年)が詳しい。
  23. ^ 『土佐史談』収録「千葉灸治院」
  24. ^ 『坂本龍馬歴史大事典』p61
  25. ^ 飛鳥井雅道『坂本龍馬』p122-123
  26. ^ 飛鳥井雅道『坂本龍馬』p127-128
  27. ^ 飛鳥井雅道『坂本龍馬』p128-130
  28. ^ 松浦玲『坂本龍馬』p17-18
  29. ^ 松浦玲『坂本龍馬』p18-19
  30. ^ 脱藩理由は定かではないが、龍馬が吉田東洋暗殺を企てる武市瑞山の方針に反対だったからではないかとの指摘もある。飛鳥井雅道『坂本龍馬』(平凡社、1975年)・石尾芳久大政奉還討幕密勅』(三一書房、1979年)などを参照。
  31. ^ 従来の通説では、刀を授けたのは二姉の栄になっているが、これは才谷屋七代坂本源三郎の養女宍戸茂の証言(『土佐史談』115号)を採用した司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』(1963年)以降に信じられた話で、これ以前の史料では刀を授けたのは三姉の乙女になっていた。昭和63年に柴田佐衛門に嫁いでいた栄の墓が発見されて彼女の没年が脱藩の17年前の弘化2年(1845年)と明らかになり、通説は覆されている。『坂本龍馬歴史大事典』p62-63、p139-140
  32. ^ 瑞山会『土佐勤王維新史』
  33. ^ a b 松浦玲『坂本龍馬』p20
  34. ^ 飛鳥井雅道『坂本龍馬』p168
  35. ^ 「坂本は飄然として江戸に下り、彼の旧識なる鍛冶橋外桶町の千葉重太郎方に草蛙を解きぬ」瑞山会『維新土佐勤王史』
  36. ^ 千葉佐那の回顧(「千葉灸治院」)では安政5年に帰国した以降、龍馬は小千葉道場に現れていないと述べており、脱藩後の小千葉道場寄宿を疑問視する見方もある。『坂本龍馬と海援隊』p52
  37. ^ 松浦玲『坂本龍馬』p20-21
  38. ^ 『坂本龍馬歴史大事典』p344
  39. ^ 福井藩記録『続再夢紀事』
  40. ^ 拝謁の紹介者については明らかではなく、龍馬史研究家の平尾道雄は千葉重太郎と推定し、池田敬正(『坂本龍馬』中公新書)と松浦玲(『勝海舟』中公新書)は横井小楠、飛鳥井雅道は間崎哲馬と推定している。飛鳥井雅道『坂本龍馬』p173-176
  41. ^ 『枢密備忘』
  42. ^ 『海舟日記』
  43. ^ 『坂本龍馬と海援隊』p80
  44. ^ a b 『坂本龍馬歴史大事典』p142-143
  45. ^ 松浦玲『坂本龍馬』p24-25
  46. ^ 飛鳥井雅道『坂本龍馬』p172-173
  47. ^ 『氷川清話』p24
  48. ^ a b 『土佐勤王維新史』を典拠に一般には五千両として知られているが、より信頼性の高いこの時に龍馬と対面した横井小楠の記録では千両になっている(『横井小楠関係史料』)。『坂本龍馬歴史大事典』p30
  49. ^ 原文「この頃ハ天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、大先生にことの外かはいがられ候て、(中略)すこしエヘンがをしてひそかにおり申候。達人の見るまなこハおそろしきものとや、つれづれニもこれあり。猶エヘンエヘン、」
  50. ^ 文久3年3月に「留守居組」になり上士に取り立てられている。
  51. ^ 原文「平井の収二郎ハ誠にむごい いもふとかをなげき、いか計か」
  52. ^ 原文「(前略)右申所の姦吏を一事に軍いたし、打殺、日本を今一度せんたくいたし申候事二いたすくとの神願二て候。(以下略)」
  53. ^ a b ただし、勝海舟の研究者として著名な歴史家の松浦玲をはじめとして何人かの歴史家は、龍馬が塾頭を務めたという説には懐疑的である。詳しくは松浦玲『検証・龍馬伝説』(論創社、2001年)・濱口裕介「師とともに目指したアジア諸国共有海軍への夢」(『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)を参照。
  54. ^ 松浦玲『坂本龍馬』p57-60
  55. ^ 松浦玲『坂本龍馬』p60-61
  56. ^ a b しかし浪人は入所資格を認められなかったこともあり、龍馬は入所できなかったのではないかと指摘している研究者もいる(松浦玲『検証・龍馬伝説』など)。
  57. ^ 『海舟日誌』、松浦玲『坂本龍馬』p61-63
  58. ^ 松浦玲『坂本龍馬』p61
  59. ^ 『反魂香』。『坂本龍馬大事典』p348、『坂本龍馬伝』p139
  60. ^ 『大西郷全集』。『坂本龍馬歴史大事典』p348
  61. ^ 『氷川清話』p51
  62. ^ この西郷と龍馬との初対面の逸話について時期的に疑問とする見方もある。佐々木克『坂本龍馬とその時代』p62-68
  63. ^ 松浦玲『坂本龍馬』p69
  64. ^ 松浦玲『検証・龍馬伝説』など
  65. ^ 「亀山社中」の名称は同時期の記録にはなく単に「社中」と記されていた。「亀山社中」の名称は明治期の文献以後に生じている。『坂本龍馬歴史大事典』p144-145
  66. ^ 『坂本龍馬と海援隊』p125
  67. ^ 飛鳥井雅道『坂本龍馬』p256
  68. ^ 『坂本龍馬と海援隊』p126
  69. ^ 松浦玲『坂本龍馬』p82-84、p87-93
  70. ^ a b 佐々木克『幕末政治と薩摩藩』(吉川弘文館、2004年)。
  71. ^ 松浦玲『坂本龍馬』p96-98
  72. ^ ユニオン号所有権問題の談判を行っていた。松浦玲『坂本龍馬』p92-94
  73. ^ 松浦玲『坂本龍馬』p96-97
  74. ^ a b 1月21日とする説もある。松浦玲『坂本龍馬』p100
  75. ^ a b なお薩長同盟については龍馬最大の功績と言われるが、実際には、西郷や小松帯刀ら薩摩藩の指示を受けて動いていたという説もあり(青山忠正など)、薩長連合に果たした役割の重要性については評価が分かれている。その後、青山忠正を皮切りに、芳即正三宅紹宣宮地正人高橋秀直・佐々木克などの研究者を中心に薩長同盟についての議論が盛んである。薩長同盟研究の動向については、桐野作人「同盟の実相と龍馬の果たした役割とは?」(『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)が詳しくまとめている。
  76. ^ 上京した際に会見した大久保一翁から警句されていた。『三吉慎蔵日記』
  77. ^ 原文「術数有余而至誠不足、上杉氏之身ヲ亡ス所以ナリ」
  78. ^ 『千里駒後日譚』(明治32年)
  79. ^ 『坂本龍馬伝』p42
  80. ^ 小松清廉が先であるという異論もある。
  81. ^ 松浦玲『坂本龍馬』p110-112
  82. ^ 『維新土佐勤王史』などの記述をもとに龍馬本人は実戦には参加せずに陸上で観戦していたとする説もある。『坂本龍馬歴史大事典』p110-117、『坂本龍馬と海援隊』p91
  83. ^ 佐々木克『坂本龍馬とその時代』p132-133
  84. ^ 『坂本龍馬歴史大事典』p353
  85. ^ 松浦玲『坂本龍馬』p119-120
  86. ^ 『坂本龍馬と海援隊』p110-111
  87. ^ 松浦玲『坂本龍馬』p120-121、p126
  88. ^ 『坂本龍馬歴史大事典』p150-151、『坂本龍馬と海援隊』p128
  89. ^ 佐々木克『坂本龍馬とその時代』p153-154
  90. ^ 松浦玲『坂本龍馬』p129-130
  91. ^ 『千里駒後日譚』
  92. ^ 『坂本龍馬と海援隊』p129
  93. ^ a b ただし、「船中八策」には原文書も写本も存在しないため、本当に龍馬が作成したのか疑問視している研究者も存在する(青山忠正、松浦玲など)。龍馬が「船中八策」を作成したことは通説になっているが、史料的根拠は見当たらないのである。詳しくは、青山忠正『明治維新の言語と史料』(清文堂出版、2006年)・松浦玲「『万機公論ニ決スヘシ』は維新後に実現されたか?」(『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)を参照。
  94. ^ 『坂本龍馬歴史大事典』p176
  95. ^ 原文「建白の議、万一行はれざれば固より必死の後覚悟故、御下城これ無き時は、海援隊の一手を以て、大樹参内の道路に待受け、社稷の為、不戴天の讐を報じ、事の成否二論なく、先生に地下に御面会仕り候」
  96. ^ 佐々木克『坂本龍馬とその時代』p197
  97. ^ 『坂本龍馬101の謎』p242-244
  98. ^ 国立国会図書館下関市立長府博物館
  99. ^ a b 佐々木克『坂本龍 馬とその時代』p209
  100. ^ 『坂本龍馬と海援隊』p96
  101. ^ 『坂本龍馬101の謎』p303-305
  102. ^ 松浦玲『坂本龍馬』p186-187
  103. ^ 『坂本龍馬と海援隊』p97
  104. ^ 飛鳥井雅道『坂本龍馬』p309
  105. ^ 『坂本龍馬101の謎』p309、1994年の初版時ではやや薩摩藩陰謀説に含みを持たせた構成だったが、2008年の文庫版のあとがきで著者の一人の菊池明はその後の新史料の発見から京都見廻組であると断定している。同書p350-351
  106. ^ 一説には勝を暗殺するために面会に行ったとされるが、これには色々と異説があり、正確な史実は確定していない。ただし、勝を殺そうとして、逆に諭されて勝の弟子になった人間がたくさんいるのは事実。また、入門時期や、一緒に勝を訪問した人物についても諸説ある。諸説を、春名徹「勝海舟」(『坂本龍馬事典』新人物往来社、1988年)が詳しくまとめている。
  107. ^ 「手紙と変名」の項目『坂本龍馬 幕末歴史検定 公式テキストブック』(新人物往来社、2008年)参照
  108. ^ 『坂本龍馬101の謎』p220-222
  109. ^ 爆笑問題のもうひとつの龍馬伝NHK総合テレビ 2009年12月30日放送
  110. ^ リーフレット京都 No.216(2006年12月) - (財)京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館
  111. ^ 加治将一 (2004). 石の扉 フリーメーソンで読み解く歴史. 新潮社 
  112. ^ これは坂崎紫瀾の小説『汗血千里駒』のフィクションである。
  113. ^ 土居晴夫『坂本龍馬の系譜』(新人物往来社、2006年)などが詳しい。

参考文献

  • 佐々木克『坂本龍馬とその時代』(河出書房新社、2009年)ISBN 978-4309225197
  • 松浦玲『坂本龍馬』(岩波書店、2008年)ISBN 978-4004311591
  • 飛鳥井雅道『坂本龍馬』(講談社学術文庫、2002年)ISBN 978-4061595460
  • 勝安芳 『勝海舟全集〈21〉氷川清話』(講談社、1973年)
  • 菊地明、伊東成郎、山村竜也『坂本龍馬101の謎』(新人物往来社、2009年)ISBN 978-4404037572
  • 『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2009年)ISBN 978-4404037626
  • 『坂本龍馬と海援隊』 (新・歴史群像シリーズ 20)(学研パブリッシング、2009年)ISBN 978-4056057515
  • 『坂本龍馬伝』(新人物往来社、2009年)ISBN 978-4404036476
  • 『幕末土佐の群像』(学研パブリッシング、2009年)

関連人物

関連項目

外部リンク