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'''中村 俊輔'''(なかむら しゅんすけ、[[1978年]][[6月24日]] - )は、[[神奈川県]][[横浜市]]出身の[[プロフェッショナル (サッカー)|プロサッカー選手]]。[[リーガ・エスパニョーラ]]、[[RCDエパニョール]]所属。ポジションは[[ミッドフィールダー]]。「俊輔」「俊さん」などの愛称で親しまれている。海外では「シュンスケ」や「シュン」と呼ばれる事は少なく、「ナカムラ」もしくは愛称として「ナカ」「ナック」と呼ばれる事が多い。
'''中村 俊輔'''(なかむら しゅんすけ、[[1978年]][[6月24日]] - )は、[[神奈川県]][[横浜市]]出身の[[プロフェッショナル (サッカー)|プロサッカー選手]]。[[J1]]、[[横浜F・マリノス]]所属。ポジションは[[ミッドフィールダー]]。「俊輔」「俊さん」などの愛称で親しまれている。海外では「シュンスケ」や「シュン」と呼ばれる事は少なく、「ナカムラ」もしくは愛称として「ナカ」「ナック」と呼ばれる事が多い。


[[2000年]][[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]][[JリーグMVP一覧|MVP]](日本人選手最年少の22歳)、[[アジアカップ2004]]MVP、2006-07[[スコティッシュ・プレミアリーグ]]MVPなどを受賞している。
[[2000年]][[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]][[JリーグMVP一覧|MVP]](日本人選手最年少の22歳)、[[アジアカップ2004]]MVP、2006-07[[スコティッシュ・プレミアリーグ]]MVPなどを受賞している。
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新たなチームの顔として非常に大きな期待を寄せられたエスパニョール加入だったが開幕直後から低調なプレーが続き、[[マウリシオ・ポチェッティーノ|ポチェッティーノ]]監督は調子の上がらない中村に対して、彼の意向を汲んだ上で様々な中盤ポジションで中村を起用する。シーズン前半に出場した試合の11試合の内、大半が後半途中の交代出場でアシストもわずか1つと殆どチームに貢献できず、Goal.com選出のリーガ前半戦のワーストイレブンに選出されてしまった<ref>[http://www.goal.com/en/news/1717/editorial/2009/12/29/1714646/spanish-inquisition-la-liga-worst-team-of-the-season Spanish Inquisition: La Liga Worst Team Of The Season] - Goal.com、2009年12月29日</ref>。また当初は中村に対して協力的であったポチェッティーノ監督もシーズンが進むにつれ期待に応えられない中村に、「チームのみなが、彼が気持ちよくプレーできるように力になる」とコメント。即戦力とみなして獲得した司令塔が「期待外れ」だったことを、公の場で暗に示してしまった。<ref>[http://www.nikkansports.com/soccer/world/news/p-sc-tp3-20091106-563266.html]スポーツナビ|エスパ監督、会見で“俊輔は期待外れ</ref>
新たなチームの顔として非常に大きな期待を寄せられたエスパニョール加入だったが開幕直後から低調なプレーが続き、[[マウリシオ・ポチェッティーノ|ポチェッティーノ]]監督は調子の上がらない中村に対して、彼の意向を汲んだ上で様々な中盤ポジションで中村を起用する。シーズン前半に出場した試合の11試合の内、大半が後半途中の交代出場でアシストもわずか1つと殆どチームに貢献できず、Goal.com選出のリーガ前半戦のワーストイレブンに選出されてしまった<ref>[http://www.goal.com/en/news/1717/editorial/2009/12/29/1714646/spanish-inquisition-la-liga-worst-team-of-the-season Spanish Inquisition: La Liga Worst Team Of The Season] - Goal.com、2009年12月29日</ref>。また当初は中村に対して協力的であったポチェッティーノ監督もシーズンが進むにつれ期待に応えられない中村に、「チームのみなが、彼が気持ちよくプレーできるように力になる」とコメント。即戦力とみなして獲得した司令塔が「期待外れ」だったことを、公の場で暗に示してしまった。<ref>[http://www.nikkansports.com/soccer/world/news/p-sc-tp3-20091106-563266.html]スポーツナビ|エスパ監督、会見で“俊輔は期待外れ</ref>


年が明けて移籍1年目シーズンの中間移籍期間には早くもチームの移籍リストに載るまでになり、セルティック時代の恩師[[ゴードン・ストラカン]]が監督を務める[[フットボールリーグ・チャンピオンシップ|イングランド2部]]所属の[[ミドルスブラFC]]より[[レンタル移籍]]のオファーを受ける。しかし2部への移籍となることなどから中村本人が移籍を拒否<ref>[http://wwww.goal.com/jp/news/73/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3/2010/02/02/1771311/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E4%BB%A3%E7%90%86%E4%BA%BA%E3%81%A8%E3%83%9C%E3%83%AD%E7%A7%BB%E7%B1%8D%E3%81%AE%E8%A9%B1%E3%81%97%E5%90%88%E3%81%84%E3%81%B8 中村、代理人とボロ移籍の話し合いへ] - Goal.com、2010年2月2日</ref>、引き続きエスパニョールに残留する事となった。しかし2010年1月からのシーズン中盤以降はエスパニョールの新戦力獲得や若手の台頭などによりこれまで以上に出場機会が激減している状況である。
年が明けて移籍1年目シーズンの中間移籍期間には早くもチームの移籍リストに載るまでになり、セルティック時代の恩師[[ゴードン・ストラカン]]が監督を務める[[フットボールリーグ・チャンピオンシップ|イングランド2部]]所属の[[ミドルスブラFC]]より[[レンタル移籍]]のオファーを受ける。しかし2部への移籍となることなどから中村本人が移籍を拒否<ref>[http://wwww.goal.com/jp/news/73/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3/2010/02/02/1771311/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E4%BB%A3%E7%90%86%E4%BA%BA%E3%81%A8%E3%83%9C%E3%83%AD%E7%A7%BB%E7%B1%8D%E3%81%AE%E8%A9%B1%E3%81%97%E5%90%88%E3%81%84%E3%81%B8 中村、代理人とボロ移籍の話し合いへ] - Goal.com、2010年2月2日</ref>、引き続きエスパニョールに残留する事となった。しかし2010年1月からのシーズン中盤以降はエスパニョールの新戦力獲得や若手の台頭などによりこれまで以上に出場機会が激減している状況となり、“中村は出場機会を求めて移籍を希望してい。Jリーグクラブへのレンタル移籍を模索する意向”といった内容の報道が流れた<ref> [http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2010/02/11/01.html 俊輔J復帰へ! エスパニョールがレンタル移籍の意向] - スポニチ Sponichi Annex、2010年2月11日</ref>。2月26日に古巣の横浜F・マリノス復帰が決まった

2010年2月時点において、“中村は出場機会を求めて移籍を希望している。Jリーグクラブへのレンタル移籍を模索する意向”といった内容の報道が流れた<ref> [http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2010/02/11/01.html 俊輔J復帰へ! エスパニョールがレンタル移籍の意向] - スポニチ Sponichi Annex、2010年2月11日</ref>。これにより中村の去就について、関心が集まっている。


== プレースタイル ==
== プレースタイル ==
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* 2002年8月 - 2005年7月 {{Flagicon|ITA}} [[レッジーナ]]
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* 2005年8月 - 2009年6月 {{Flagicon|SCO}} [[セルティックFC]]
* 2005年8月 - 2009年6月 {{Flagicon|SCO}} [[セルティックFC]]
* 2009年6月 - 現 在 {{Flagicon|ESP}} [[RCDエスパニョール]]
* 2009年6月 - 2010年2月 {{Flagicon|ESP}} [[RCDエスパニョール]]
* 2010年2月 - 現在 {{Flagicon|JPN}} 横浜F・マリノス


== 個人成績 ==
== 個人成績 ==
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* [http://www.shunsukepark.com/ ShunsukePark]
* [http://www.shunsukepark.com/ ShunsukePark]


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|title = 獲得タイトル・記録
|title = 獲得タイトル・記録

2010年2月26日 (金) 13:20時点における版

中村 俊輔
名前
愛称 シュン(日本)、NAKA(海外)
カタカナ ナカムラ シュンスケ
ラテン文字 NAKAMURA Shunsuke
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1978-06-24) 1978年6月24日(46歳)
出身地 神奈川県横浜市戸塚区
身長 178cm
体重 70kg
選手情報
在籍チーム 日本の旗 横浜F・マリノス
ポジション MF(OH, RSH)
利き足 左足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1997-2002
2002-2005
2005-2009
2009-2010
2010-
日本の旗 横浜M / 横浜FM
イタリアの旗 レッジーナ
スコットランドの旗 セルティック
スペインの旗 エスパニョール
日本の旗 横浜F・マリノス
148(33)
81(11)
128(29)
12(0)
代表歴2
2000- 日本の旗 日本 93(24)
1. 国内リーグ戦に限る。2010年1月16日現在。
2. 2009年11月18日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

中村 俊輔(なかむら しゅんすけ、1978年6月24日 - )は、神奈川県横浜市出身のプロサッカー選手J1横浜F・マリノス所属。ポジションはミッドフィールダー。「俊輔」「俊さん」などの愛称で親しまれている。海外では「シュンスケ」や「シュン」と呼ばれる事は少なく、「ナカムラ」もしくは愛称として「ナカ」「ナック」と呼ばれる事が多い。

2000年JリーグMVP(日本人選手最年少の22歳)、アジアカップ2004MVP、2006-07スコティッシュ・プレミアリーグMVPなどを受賞している。

来歴

学生時代

深園SCに入団、サッカーを始める。市立深谷中学時代には日産(現・横浜F・マリノス)のジュニアユースのエースとして全国優勝を果たすも[1]ユースへ昇格が出来ず[2]、ジュニアユース時代の先輩に誘われて桐光学園高等学校へ進学しサッカー部に所属[3]、高校2年の全国高校サッカー選手権で頭角を現し、高校3年の全国高校サッカー選手権で準優勝を収めた[4]。またアジアユースにも高校サッカー部からの唯一の選出選手として出場した。

Jリーグでの活躍

1997年横浜マリノスに入団。同年のワールドユースに出場。1997年のJリーグ優秀新人賞を受賞する。1998年初頭にはA代表合宿に初参加する。1999年Jリーグベストイレブンを初受賞する。

2000年U-23代表の主力としてシドニーオリンピックに出場。同年、日本人選手最年少でJリーグ最優秀選手賞日本年間最優秀選手賞を受賞。A代表にも初招集され、アジアカップでは優勝とベストイレブンを受賞、日本代表として定着していった。

セリエA・レッジーナ移籍

2002年5月、代表合宿で痛めていた足首のケガが長引いていたものの、直前に治って親善試合で活躍し、日韓W杯本大会メンバーへの招集が有力視されていたが、当時の日本代表監督であったトルシエの選考基準に合致しなかったことなどで落選した(トルシエはW杯後に「負けているときに誰を投入しようかとベンチをみた。その時中村だけが試合をみず髪の毛ばかりをいじっていた。」と発言、未選出の一因をあげている)。スペインの名門、レアル・マドリードからもオファーがあった(このオファーはレアル・マドリードのカンテラ(下部組織)からプレーさせるというものだった)が、W杯に出場することが条件にあったため、立ち消えになった。しかし同年7月、イタリアのセリエAレッジーナに移籍。レギュラーを確保し、キッカーを任されセリエA残留に貢献した。

2003年6月、コンフェデレーションズカップフランス大会で、3得点を挙げて『ブロンズシュー賞』を受賞。2003シーズンは出来うる限り代表戦に出場したが、コンディションを崩してしまったこと、故障を繰り返したことが響いて、リーグ戦出場は激減した。

2004年2月、横浜マリノス時代のチームメート奥大介の夫人・佐伯日菜子の紹介で知り合ったタレント経験のある元ペットショップ店員と結婚。同年7月から8月に行われたアジアカップ中国大会で、最優秀選手に選ばれた。

3年目となったセリエAの2004-05シーズンは、終盤こそ恥骨炎や膝の負傷などで途中出場があったがほぼ先発出場し、クラブ創設以来の最高順位に貢献。レッジーナ歴代ベストイレブンに選出される。2005年6月、コンフェデレーションズカップドイツ大会で、1得点2アシストをあげ、グループリーグで敗退したチームの選手で構成されるベストイレブンに選出された[5]

セルティック移籍

セリエAで3年間プレーした後、2005年7月にスコティッシュ・プレミアリーグの2強の一角であるセルティックへ移籍。リーグ優勝と国内カップ戦優勝の2冠を獲得した。

2006年4月、フットボールスクール「Shunsuke Park Soccer School」を出身地・横浜に開校。6月、ドイツW杯に選出された。W杯直前に風邪をひいたが、ジーコは中村を中心選手として重要視していたため、結局グループリーグ全3試合にフル出場。2敗1分で敗退したが、第1戦のオーストラリア戦ではクロスボールが直接得点となった。9月、2006-07シーズンのUEFAチャンピオンズリーグに初出場。グループリーグ第1戦、オールドトラフォードで開催されたマンチェスター・ユナイテッド戦でフリーキックによる得点をあげ、UEFAチャンピオンズカップからUEFAチャンピオンズリーグ(以下CL)に改編されてからの日本人初得点者となった[6]。続く対マンチェスター・ユナイテッド戦でも得点、決勝トーナメント進出を果たす。これはセルティックにとって現行のCLとなって初[7]、日本人選手としても初めての快挙である[8]。2006年10月14日、ダンディー・ユナイテッド戦で海外リーグ戦における自身初のハットトリックを決めた[9]2007年3月24日、キリンチャレンジカップペルー戦において、オシムジャパン発足以来の初選出。2アシストで勝利に貢献した。4月、セルティックのリーグ戦連覇が決まり、日本人で初めて欧州リーグで連覇を経験した選手となった[10]。2006-07シーズンではリーグトップの12アシストを挙げ、スコットランドPFA年間最優秀選手賞、スコティッシュ・プレミアリーグベストイレブン、スコットランド・サッカー記者協会年間最優秀選手賞を受賞、年間ベストゴール賞[11]も獲得した。また、2007年のバロンドール候補にもノミネートされた[12]

エスパニョール移籍

2009年6月22日、Jリーグ横浜F・マリノスなどからオファーを受けていたが、スペインエスパニョールへの移籍が決定した[13]。背番号は7、プロデビューしてから1桁の背番号を着用するのは初めて。背番号を7に決めた理由については「(空き番号に)7とか14とかあったんだけれど、着けたことがない番号で新鮮な気持ちで、ということで。」選んだと語っている[14]

新たなチームの顔として非常に大きな期待を寄せられたエスパニョール加入だったが開幕直後から低調なプレーが続き、ポチェッティーノ監督は調子の上がらない中村に対して、彼の意向を汲んだ上で様々な中盤ポジションで中村を起用する。シーズン前半に出場した試合の11試合の内、大半が後半途中の交代出場でアシストもわずか1つと殆どチームに貢献できず、Goal.com選出のリーガ前半戦のワーストイレブンに選出されてしまった[15]。また当初は中村に対して協力的であったポチェッティーノ監督もシーズンが進むにつれ期待に応えられない中村に、「チームのみなが、彼が気持ちよくプレーできるように力になる」とコメント。即戦力とみなして獲得した司令塔が「期待外れ」だったことを、公の場で暗に示してしまった。[16]

年が明けて移籍1年目シーズンの中間移籍期間には早くもチームの移籍リストに載るまでになり、セルティック時代の恩師ゴードン・ストラカンが監督を務めるイングランド2部所属のミドルスブラFCよりレンタル移籍のオファーを受ける。しかし2部への移籍となることなどから中村本人が移籍を拒否[17]、引き続きエスパニョールに残留する事となった。しかし2010年1月からのシーズン中盤以降はエスパニョールの新戦力獲得や若手の台頭などによりこれまで以上に出場機会が激減している状況となり、“中村は出場機会を求めて移籍を希望している。Jリーグクラブへのレンタル移籍を模索する意向”といった内容の報道が流れた[18]。2月26日に古巣の横浜F・マリノス復帰が決まった。

プレースタイル

フリーキックを蹴る中村俊輔

プレースキックの名手として報道されており、特に直接フリーキックを得意としている[19]。 ゴールに対して角度のあまりない位置から助走するのが特徴で、軸足を地面に滑り込ませるように踏み込み、勢いそのままに上半身を押し出しながら巻き上げるように足を振り抜く、独特のフォームである。

フィールドプレーにおいては、中盤で溜めをつくりながら正確な中・長距離のパスでボールを散らし、隙を見て前線へスルーパスを送る。また、スピードは無いもののフェイントを織り交ぜた柔らかいタッチのドリブルが特徴。レッジーナ時代にはその創造性とテクニックを駆使するプレースタイルから「東洋のバッジョ」と称された[20]。さらに、ゴードン・ストラカンは、フィジカル面を問題視しながらも中村について「タックルができない。ヘディングもできない。それがどうした、彼は天才だ」という言葉を残している。

しかし、対人での守備や積極性、フィジカル面に課題を残す。近年では運動量の増加、守備に対する意識も向上しているものの、それに比例するかのように攻撃面で決定的な違いを生む場面が少なくなり、特にエスパニョール移籍後においてはそれ以前のような個人での突破や得点に絡むプレーもほぼ見られなくなり、バックパス主体の消極的なプレーが非難されている。 また、日本代表においてコーナーキックからのアシストは2006年2月28日のボスニア・ヘルツェゴビナ[21]以来、フリーキックからのアシストは2007年9月11日のスイス[22]以来記録されていないなど、間接的なプレースキックにおいては直接フリーキックほど成果を見ていない。

代表歴

出場大会など

試合数

  • 国際Aマッチ 93試合 24得点(2000年 - )


日本代表国際Aマッチ
出場得点
2000 16 3
2001 1 0
2002 6 2
2003 8 4
2004 15 3
2005 11 2
2006 6 2
2007 10 4
2008 9 2
2009 7 2
通算 93 24

ゴール

# 開催年月日 開催地 対戦国 勝敗 試合概要
1. 2000年2月16日 中国 ブルネイの旗 ブルネイ ○ 9-0 AFCアジアカップ2000予選
2. 2000年6月11日 日本 スロバキアの旗 スロバキア △ 1-1 キリンカップ
3. 2000年8月16日 日本 アラブ首長国連邦の旗 アラブ首長国連邦 ○ 3-1 キリンチャレンジ2000
4. 2002年5月2日 日本 ホンジュラスの旗 ホンジュラス △ 3-3 キリンカップ
5. 2002年5月2日 日本 ホンジュラスの旗 ホンジュラス △ 3-3 キリンカップ
6. 2003年3月28日 日本 ウルグアイの旗 ウルグアイ △ 2-2 親善試合
7. 2003年6月18日 フランス ニュージーランドの旗 ニュージーランド ○ 3-0 FIFAコンフェデレーションズカップ2003
8. 2003年6月18日 フランス ニュージーランドの旗 ニュージーランド ○ 3-0 FIFAコンフェデレーションズカップ2003
9. 2003年6月20日 フランス フランスの旗 フランス ● 1-2 FIFAコンフェデレーションズカップ2003
10. 2004年6月9日 日本 インドの旗 インド ○ 7-0 2006 FIFAワールドカップ・アジア地区予選
11. 2004年7月20日 中国 オマーンの旗 オマーン ○ 1-0 AFCアジアカップ2004
12. 2004年7月24日 中国 タイ王国の旗 タイ ○ 4-1 AFCアジアカップ2004
13. 2005年6月22日 ドイツ ブラジルの旗 ブラジル △ 2-2 FIFAコンフェデレーションズカップ2005
14. 2005年9月7日 日本 ホンジュラスの旗 ホンジュラス ○ 5-4 キリンチャレンジカップ
15. 2005年10月8日 ラトビア ラトビアの旗 ラトビア △ 2-2 親善試合
16. 2006年6月12日 ドイツ オーストラリアの旗 オーストラリア ● 1-3 2006 FIFAワールドカップ
17. 2007年7月13日 ベトナム アラブ首長国連邦の旗 アラブ首長国連邦 ○ 3-1 AFCアジアカップ2007
18. 2007年7月16日 ベトナム ベトナムの旗 ベトナム ○ 4-1 AFCアジアカップ2007
19. 2007年9月11日 オーストリア スイスの旗 スイス ○ 4-3 親善試合
20. 2007年9月11日 オーストリア スイスの旗 スイス ○ 4-3 親善試合
21. 2008年6月2日 日本 オマーンの旗 オマーン ○ 3-0 2010 FIFAワールドカップ・アジア地区予選
22. 2008年9月6日 バーレーン バーレーンの旗 バーレーン ○ 3-2 2010 FIFAワールドカップ・アジア地区予選
23. 2009年3月28日 日本 バーレーンの旗 バーレーン ○ 1-0 2010 FIFAワールドカップ・アジア地区予選
24. 2009年11月18日 香港 香港の旗 香港 ○ 4-0 AFCアジアカップ2011 (予選)

タイトル

クラブタイトル

横浜Fマリノス
セルティックFC

個人タイトル

その他

経歴

所属クラブ

ユース経歴

プロ経歴

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 ナビスコ杯天皇杯 期間通算
1997 横浜M 25 J 27 5 3 0 1 0 31 5
1998 33 9 4 1 0 0 37 10
1999 横浜FM 10 J1 26 7 4 0 3 1 33 8
2000 30 5 4 1 2 0 36 6
2001 24 3 6 2 1 0 31 5
2002 8 4 - - 8 4
イタリア リーグ戦 イタリア杯オープン杯 期間通算
2002-03 レッジーナ 10 セリエA 32 7 4 1 - 36 8
2003-04 16 2 2 0 - 18 2
2004-05 33 2 0 0 - 33 2
スコットランド リーグ戦 S・リーグ杯スコティッシュ杯 期間通算
2005-06 セルティック 25 S・プレミア 33 6 4 0 1 0 38 6
2006-07 37 9 0 0 4 0 41 9
2007-08 26 6 0 0 4 1 30 7
2008-09 32 8 2 0 3 1 37 9
スペイン リーグ戦 国王杯オープン杯 期間通算
2009-10 エスパニョール 7 プリメーラ 12 0 -
通算 日本 J1 148 33 21 4 7 1 176 38
イタリア セリエA 81 11 6 1 - 87 12
スコットランド S・プレミア 128 29 6 0 12 2 146 31
スペイン プリメーラ 12 0 -
総通算 357 73 33 5 19 3 409 81
国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
UEFAUEFA CL
2006-07 セルティック 25 8 2
2007-08 4 0
2008-09 5 0
通算 UEFA 17 2

CM出演

PV出演

  • Hi-Fi CAMP 「だから一歩前に踏み出して」(2009年)

出版

執筆書籍

関連書籍

DVD

  • SHUNSUKE
  • FANTASISTA Shunsuke Nakamura IN SCOTLAND GLASGOW
  • 中村俊輔の“I Love Soccer”サッカー教室〈永久保存版〉
  • 中村俊輔DVDバイオグラフィー 2002 - 2005
  • セルティック 2005 - 2006シーズン リーグチャンピオンへの軌跡

脚注

  1. ^ ただし、同チームが2年連続全国優勝を果たした3年生時は10番を背負いながら控え選手だった(『中村俊輔物語』より)。
  2. ^ 中村本人は、当時のプレーが悪かったから昇格できなかったのだと語っているが(著書 察知力)、当時の担当者は160cmに満たない身長が原因だったと述壊している。『中村俊輔物語』では体格差を個人技を補おうとしたが、そのプレイスタイルがチームの方針に合わなかったことから出場機会を失っていったという。
  3. ^ 1学年上には須藤大輔、同級生に佐原秀樹、1学年下に宇留野純井手口純がいる。
  4. ^ この時、横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)のサポーターが応援に来た。
  5. ^ ドイツキッカー誌の選定による。
  6. ^ 1992年からCLとして再編成される以前のチャンピオンズカップにおける初得点者は、1978-79年大会の奥寺康彦
  7. ^ UEFAチャンピオンズカップだった40年前に優勝している。
  8. ^ 1992年からCLとして再編成される以前のチャンピオンズカップでは1979年に奥寺康彦が進出している。
  9. ^ スポーツ報知 (2006年10月15日). “俊輔ハット!オシム監督見たか…スコットランド・プレミアリーグ”. 2009年3月1日閲覧。
  10. ^ 近年の欧州リーグでの優勝に関しては中田英寿がセリエA・ASローマで優勝。
  11. ^ ダンディーユナイテッド戦のループシュート。
  12. ^ 日本人としては中田英寿、稲本潤一に次ぎ3人目。
  13. ^ 日刊スポーツ (2009年6月24日). “俊輔、14クラブからオファー来ていた”. 同日閲覧。accessdateの記入に不備があります。
  14. ^ 【俊輔トーク】新鮮な気持ちで背番号「7」に - SANSPO.COM、2009年7月13日
  15. ^ Spanish Inquisition: La Liga Worst Team Of The Season - Goal.com、2009年12月29日
  16. ^ [1]スポーツナビ|エスパ監督、会見で“俊輔は期待外れ
  17. ^ 中村、代理人とボロ移籍の話し合いへ - Goal.com、2010年2月2日
  18. ^ 俊輔J復帰へ! エスパニョールがレンタル移籍の意向 - スポニチ Sponichi Annex、2010年2月11日
  19. ^ FIFA 公式サイトで行われた意見公募企画、/newsid=625416.html FKの名手は誰?にて、名手の一人として写真入りで紹介されている。
  20. ^ 指揮官絶賛「俊輔はバッジオ」 – SerieA.jp、2004年9月14日
  21. ^ [2]スポーツナビ|試合速報/詳細|サッカー日本代表 国際親善試合 ボスニア・ヘルツェゴビナ戦
  22. ^ [3]スポーツナビ|試合速報/詳細|サッカー日本代表 国際親善試合 スイス戦
  23. ^ 1992年の再編成後、UEFAチャンピオンズリーグ本戦における、日本人初得点。

外部リンク