「肥田浜五郎」の版間の差分
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韮山代官[[江川英龍]]の手代見習として、[[伊東玄朴]]に蘭学を学び、[[長崎海軍伝習所]]で機関学を修めた。[[安政]]6年([[1859年]])に[[軍艦操練所]]教授方出役となる。[[万延]]元年([[1860年]])、[[咸臨丸]]蒸気方(機関長)に選ばれ、[[山本金次郎]](副長)、[[岡田井蔵]]、[[小杉雅之進]](機関方見習士官)を率い、太平洋往還を成功に導いた。病気の[[勝海舟]]に代わり、肥田と[[小野友五郎]](測量方)、[[浜口興右衛門]](運用方)が操船の指揮をしていたという。帰国後、[[文久]]元年([[1861年]])、軍艦操練所頭取手伝出役を経て、軍艦頭取出役となる。文久2年([[1862年]])、蒸気軍艦[[千代田形丸|千代田形]]の蒸気機関を設計。文久3年([[1863年]])、[[小十人]]格軍艦頭取、[[元治]]元年([[1864年]])、[[書院番|両番]]格軍艦頭取となる。[[慶応]]元年([[1865年]])、[[横須賀造船所]]の工作機械を購入のため、[[オランダ]]に派遣された。帰途、[[レオンス・ヴェルニー]]と会見している。慶応2年([[1866年]])軍艦役、慶応4年([[1868年]])、軍艦頭に昇進、[[富士山 (軍艦)|富士山丸]]艦長を務めた。 |
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維新後、造船頭、[[岩倉使節団]]理事官、[[工部省|工部]][[大丞]]、[[海軍省|海軍]]大丞、[[海軍少将]]、海軍機技総監、[[宮内省]]御料局長官などを歴任。日本の近代化に尽力した、 |
維新後、造船頭、[[岩倉使節団]]理事官、[[工部省|工部]][[大丞]]、[[海軍省|海軍]]大丞、[[海軍少将]]、海軍機技総監、[[宮内省]]御料局長官などを歴任。日本の近代化に尽力した、 |
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2010年3月8日 (月) 09:41時点における版
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肥田 浜五郎(ひだ はまごろう、文政13年(1830年)1月 - 明治22年(1889年)4月27日)は、豆州肥田氏の末裔で幕末期の幕臣、技術者、明治期の官僚。長崎海軍伝習所第二期生。諱は為良(ためよし)。
略歴
韮山代官江川英龍の手代見習として、伊東玄朴に蘭学を学び、長崎海軍伝習所で機関学を修めた。安政6年(1859年)に軍艦操練所教授方出役となる。万延元年(1860年)、咸臨丸蒸気方(機関長)に選ばれ、山本金次郎(副長)、岡田井蔵、小杉雅之進(機関方見習士官)を率い、太平洋往還を成功に導いた。病気の勝海舟に代わり、肥田と小野友五郎(測量方)、浜口興右衛門(運用方)が操船の指揮をしていたという。帰国後、文久元年(1861年)、軍艦操練所頭取手伝出役を経て、軍艦頭取出役となる。文久2年(1862年)、蒸気軍艦千代田形の蒸気機関を設計。文久3年(1863年)、小十人格軍艦頭取、元治元年(1864年)、両番格軍艦頭取となる。慶応元年(1865年)、横須賀造船所の工作機械を購入のため、オランダに派遣された。帰途、レオンス・ヴェルニーと会見している。慶応2年(1866年)軍艦役、慶応4年(1868年)、軍艦頭に昇進、富士山丸艦長を務めた。
維新後
維新後、造船頭、岩倉使節団理事官、工部大丞、海軍大丞、海軍少将、海軍機技総監、宮内省御料局長官などを歴任。日本の近代化に尽力した、
明治22年(1889年)4月27日、藤枝駅で列車に飛び乗ろうとして転落、死去した。