コンテンツにスキップ

「栗本鋤雲」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
46行目: 46行目:
[[Category:幕末徳川側人物]]
[[Category:幕末徳川側人物]]
[[Category:江戸幕府勘定奉行]]
[[Category:江戸幕府勘定奉行]]
[[Category:幕府の海事官僚]]
[[Category:江戸幕府旗本]]
[[Category:江戸幕府旗本]]
[[Category:日本の外交官]]
[[Category:日本の外交官]]

2010年3月8日 (月) 09:54時点における版

栗本 鋤雲(くりもと じょうん、文政5年3月10日1822年5月1日)- 明治30年(1897年3月6日)は、幕末期の幕臣。幕府の外国奉行。名は鯤。初名は哲三。瑞見。通称は瀬兵衛。

経歴

幕府の典医を務めていた喜多村槐園の三男として生まれる。長兄の喜多村直寛は幕府医学館考証派の重鎮として著名である。1843年(天保14年)、幕府の学問所である昌平坂学問所に入学し黌試(校試)において優秀な成績を修め褒賞を得ている。1848年(嘉永元年)、栗本氏の家督を継ぎ、ついで奥詰医師となる。安政年中、医学館で講書を務めており、各年末には褒美を与えられている。のち医師に関する禁令に触れた廉で、一時謹慎となる(先輩の奥医師(岡櫟仙院とも)の讒言によるという)。1858年(安政5年)2月24日、蝦夷地在住を命じられ箱館に赴任する。

以後、鋤雲は箱館で医学院の建設、薬園経営に尽力した。その実力を認められて、1862年(文久2年)には箱館奉行組頭に任じられ、樺太や南千島の探検を命じられた。1863年(文久3年)、探検から戻ると即座に幕府より江戸に戻るように命令が出る。幕府も箱館における鋤雲の功績を評価していたため、鋤雲は昌平坂学問所の頭取、目付に登用されたのである。さらに製鉄所御用掛を経て、外国奉行に昇進する。1866年(慶応2年)正月14日には従五位下・安芸守に叙任されている。勘定奉行小栗忠順らと親交を結ぶ。

鋤雲はフランス駐日公使ロッシュの通訳を務めるメルメ・カションと箱館時代に面識があったため、その経緯からロッシュとも仲が良くなった。そのため、幕府よりフランスとの橋渡し役として外国奉行に任じられ、幕府による製鉄所建設や軍事顧問招聘などに尽力している。徳川昭武の一行がパリにおける万博博覧会に訪問していたときには、その補佐を命じられたため、鋤雲もフランスに渡った。渡仏中はフランスによる借款中止などにより悪化した日仏関係の修復や、イギリスとの外交交渉に務めた。そしてそこで、日本の大政奉還と江戸幕府の滅亡を知る。

1868年(明治元年)にフランスより帰国する。鋤雲の才能は新政府からも評価されていたため、出仕の誘いがあったが、幕臣として幕府に忠義を誓い、重用された恩があった鋤雲は新政府に仕えることを潔しとせず、それを謝絶して隠退した。1873年(明治6年)、「報知新聞」の主筆を務め、以降はジャーナリストとして活躍した。


1897年(明治30年)、76歳で死去。

人物

  • 登山家としても知られ、渡仏中、日本人としては初めてアルプスに足を踏み入れた。
  • 晩年、旧幕臣の会合で同席した勝海舟に対して、「下がれ」と怒鳴りつけ、その場は凍りついたとされる。

著書

  • 匏庵遺稿 1900年 没後に出版

関連項目

参考文献

  • 栗本鋤雲『栗本鋤雲遺稿』栗本瀬兵衛編、慧文社、2007年6月。ISBN 978-4-905849-77-3 
  • 成島柳北、栗本鋤雲『幕末維新パリ見聞記――成島柳北『航西日常』・栗本鋤雲『暁窓追録』』井田進也校注、岩波書店岩波文庫緑117-2〉、2009年10月。ISBN 978-4-00-311172-7 
  • 『唯今戦争始め候。明治十年のスクープ合戦』黄民基 洋泉社 2006年

外部リンク