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2010年3月8日 (月) 10:06時点における版
岡田 井蔵(おかだ せいぞう、天保8年1月20日(1837年2月24日) - 明治37年(1904年)7月28日)は、幕末の幕臣。明治期の海軍技官。諱は敬感。写真が岡田以蔵のものと混同されることがあるが、別人である。
略歴
西丸一番組御徒岡田定十郎と香山氏の四男として江戸に生まれる。両親が早く亡くなり兄、増太郎の厄介となる。天保14年(1843年)に兄が御徒から浦賀奉行所組与力に昇進したため、浦賀に移る。16歳で昌平黌に入学し、漢学を修めた。
安政3年(1856年)に長崎海軍伝習所の第2期生に選ばれ、機関学を学んだ。 その後、安政6年(1859年)に軍艦操練所教授方手伝出役となる。万延元年(1860年)、「咸臨丸」が渡米したときの見習士官赤松大三郎、小杉雅之進、根津欽次郎らの一人であり、蒸気方見習を勤めた。
帰国後は「朝陽丸」の機関士官となり、小笠原諸島の入植、徳川家茂上洛時の警護などに当たる。軍艦蒸気役一等(場所高300俵外役扶持十三人扶持 席軍艦役並の次)にまで昇進した。
幕府の崩壊後は上総に逃れたが、明治3年(1870年)に工部省准十四等出仕として横須賀製鉄所に勤務。明治4年(1871年)に主船少師(十等官)、明治15年(1882年)に海軍一等師(八等官)となる。官員録には明治19年5月以降名前が見当たらないが、墓碑には明治22年(1889年)に退職したとある。横須賀造船所の製図責任者として、製図掛機械部主任、機械課工場長を務めた。砲艦「磐城」(ばんじょう)、巡洋艦「海門」などの設計を手がけたという。
親族
参考文献
- 新人物往来社編『世界を見た幕末維新の英雄たち』、新人物往来社〈別冊歴史読本64〉、2007年3月。ISBN 978-4-404-03364-2、46-47頁