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戦後、公職追放を受けるが、佐郷屋嘉昭と改名。1954年、[[血盟団事件]]の中心人物である[[井上日召]]と共に右翼団体[[護国団]]を結成、第二代団長となる。1959年には[[児玉誉士夫]]らがいる[[全日本愛国者団体会議]]([[全愛会議]])の初代議長となる。 |
戦後、公職追放を受けるが、佐郷屋嘉昭と改名。1954年、[[血盟団事件]]の中心人物である[[井上日召]]と共に右翼団体[[護国団]]を結成、第二代団長となる。1959年には[[児玉誉士夫]]らがいる[[全日本愛国者団体会議]]([[全愛会議]])の初代議長となる。 |
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弟子に[[黒崎健時]]がいる。のちに空手「[[極真会館]]」のナンバー2となり、日本とオランダでキックボクシングを育てた。<!--『格闘技通信』の黒崎自身の説明によると、母親を心配させるのが苦しくて地元から出ようと考えたときに紹介してくれる人がいたため世話になったが何をしたいのか聞かれても、当時の黒崎は満足に答えられなかったこと。思想的教育を受けた事実もないといつもの如く糞リアリアズムに徹した、殺し屋のような答えで格闘ファンを落胆させている。--> |
弟子に[[黒崎健時]]がいる。黒崎はのちに空手「[[極真会館]]」のナンバー2となり、日本とオランダでキックボクシングを育てた。<!--『格闘技通信』の黒崎自身の説明によると、母親を心配させるのが苦しくて地元から出ようと考えたときに紹介してくれる人がいたため世話になったが何をしたいのか聞かれても、当時の黒崎は満足に答えられなかったこと。思想的教育を受けた事実もないといつもの如く糞リアリアズムに徹した、殺し屋のような答えで格闘ファンを落胆させている。--> |
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2010年3月11日 (木) 07:49時点における版
佐郷屋 留雄(さごや とめお、1908年12月1日 - 1972年4月14日)は、日本の右翼活動家。熊本県出身。別名は佐郷屋嘉昭(よしあき)。
玄洋社系右翼団体愛国社党員。1930年11月、東京駅構内にて、濱口雄幸首相を狙撃、重傷を負わせる。濱口は一命を取り留め「男子の本懐だ」と言った。しかし、翌年この傷が原因で死亡。
佐郷屋は「濱口は社会を不安におとしめ、陛下の統帥権を犯した。だからやった。何が悪い」と言い、背後の右翼団体は隠しての犯行であった。もっとも、「統帥権干犯とは何か」という質問には答えられなかったという。1933年死刑判決、1934年恩赦で無期に減刑、1940年仮出所。
その後、愛国社社長岩田愛之助の娘婿になり後を継ぎ、右翼活動を続けた。
戦後、公職追放を受けるが、佐郷屋嘉昭と改名。1954年、血盟団事件の中心人物である井上日召と共に右翼団体護国団を結成、第二代団長となる。1959年には児玉誉士夫らがいる全日本愛国者団体会議(全愛会議)の初代議長となる。