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'''南京大虐殺'''(なんきんだいぎゃくさつ)は、[[日中戦争]]([[支那事変]])初期の[[1937年]]([[昭和]]12年)に日中間で行われた[[南京攻略戦]]後、[[日本軍]]が[[中華民国]]の首都[[南京市]]を占領した際、約6週間 - 2ヶ月にわたって中国軍[[捕虜]]、[[敗残兵]]、[[便衣兵]]及び一般市民を不法に虐殺したとされる事件。<!-- 出典は、<ref>[(URLある場合はURLと半角スペース) 出典元、著者、日付]</ref>-->
'''南京大虐殺'''(なんきんだいぎゃくさつ)は、[[日中戦争]]([[支那事変]])初期の[[1937年]]([[昭和]]12年)に日中間で行われた[[南京攻略戦]]後、[[日本軍]]が[[中華民国]]の首都[[南京市]]を占領した際、約6週間 - 2ヶ月にわたって中国軍[[捕虜]]、[[敗残兵]]、[[便衣兵]]及び一般市民を不法に虐殺したとされる事件。<!-- 出典は、<ref>[(URLある場合はURLと半角スペース) 出典元、著者、日付]</ref>-->


2010年の日中共同研究公表に際し、中国側主席委員・歩平氏が「単に被害者数の問題だけでなく、最も重要なのは大規模な残虐行為(が行われた)という認識を持つことである」との発言を残したことからも伺えるように、事実存否や規模、殺害人数などを巡って現在でも議論が続けられている([[南京大虐殺論争]]を参照)。<ref>http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0201&f=politics_0201_005.shtml 日中歴史研究「中間~右」の学者と認識一致は大成果―中国メディア(サーチナ 2010/02/01)</ref>
2010年の[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/rekishi_kk.html 日中歴史共同研究]公表に際し、中国側主席委員・歩平氏が「単に被害者数の問題だけでなく、最も重要なのは大規模な残虐行為(が行われた)という認識を持つことである」との発言を残した<ref>http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0201&f=politics_0201_005.shtml 日中歴史研究「中間~右」の学者と認識一致は大成果―中国メディア(サーチナ 2010/02/01)</ref>ことからも伺えるように、事実存否や規模、殺害人数に諸説あり、これらを巡って現在も議論が続けられている([[南京大虐殺論争]]を参照)。





2010年3月13日 (土) 14:03時点における版

南京大虐殺(なんきんだいぎゃくさつ)は、日中戦争支那事変)初期の1937年昭和12年)に日中間で行われた南京攻略戦後、日本軍中華民国の首都南京市を占領した際、約6週間 - 2ヶ月にわたって中国軍捕虜敗残兵便衣兵及び一般市民を不法に虐殺したとされる事件。

2010年の日中歴史共同研究公表に際し、中国側主席委員・歩平氏が「単に被害者数の問題だけでなく、最も重要なのは大規模な残虐行為(が行われた)という認識を持つことである」との発言を残した[1]ことからも伺えるように、事実存否や規模、殺害人数に諸説あり、これらを巡って現在も議論が続けられている(南京大虐殺論争を参照)。


名称

東京裁判で初めて名称が登場した際には「南京暴行事件」と呼称され、その派生名として「南京虐殺事件」という呼称もなされた。

「南京大虐殺」という名称は本多勝一が『中国の旅』の中で使用したのが最初とされ以降広まった。今日の歴史教科書では単に「南京事件」と表記されることが多い。「南京虐殺」という表記も一般に使用される場合がある。

中国では南京大屠殺と呼び、欧米ではNanking AtrocitiesあるいはRape of Nankingと呼ぶ。南京事件という呼び方は、不法殺害の他に暴行・略奪・放火の意味も含めて事件全体を広く論じる場合によく使われる。

事件の概要

南京攻略戦

1937年8月9日から始まった第二次上海事変の戦闘に破れた中国軍は撤退を始め、当時、中華民国の首都であった南京を中心として防衛線(複郭陣地)を構築し、抗戦する構えを見せた。日本軍は、撤退する中国軍に対し追及を始めたが、兵站が整わない、多分に無理のある進撃であった。日本軍は、中国軍の複郭陣地を次々と突破し、12月9日、南京城を包囲し、翌日正午を期限とする投降勧告を行った。中国軍がこの投降勧告に応じなかったため、12月10日より日本軍の総攻撃が始り、12月13日、南京は陥落した。

残虐行為について

日本軍入城以前の南京は、日本軍の南京接近にともなって南京市民が恐慌状態となり、親日派の中国人、日本人留学生などを「漢奸狩り」と称して中国人が虐殺する事件が相次いでいた。

日本軍は、南京への進撃中から諸種の残虐行為を行ったと言われ、南京周辺の町村において、被害の報告が挙げられている。また、1937年12月13日の南京陥落の翌日から約6週間にわたって行われた南京城の城内・城外の掃討でも、大規模な残虐行為が行われたと言われている(城内は主に第16師団(師団長:中島今朝吾)が掃討を行った)[2]

市民への虐殺
市民への虐殺については、そのことを直接指示する命令書は確認できない。ただ、戦闘に参加した日本軍将兵の一部が後に、女性、子供を含めた市民を無差別に殺害するような指示があったと証言をしている。中国人側からも、理由もなく暴行を受けたり、家族や周辺の人々が殺害されたと証言が出ている[3]
当時南京に残留して南京国際安全区委員長を務めていたジョン・ラーベは、安全区の警護のために残されていた中国軍や発電所の技術者が、日本軍によって大量殺害されたことを記録に書き残している。ただし、ドイツ大使館やイギリス大使館など、報告する大使館によって被害者数が6万人から50人以下まで報告の内容がころころ変わっている上、全て伝聞の情報を元にした数字であって本人は一度も虐殺とされるものを目撃していないことから、信憑性を疑う説もある[4]
捕虜・投降兵の虐殺
第16師団長である中島今朝吾中将は、日記において、「捕虜ハセヌ方針」、即ち捕虜を取らない方針であることを書いている。この方針に基づいて、南京城内外での掃討で、中国軍の中の多くの捕虜や投降兵が殺害されたのではないかと見られている。南京の北方に位置する幕府山では、山田支隊(第65連隊基幹、長・山田栴二少将)が捕虜約14,000名を殺害したと言われている。山田少将は上部組織からの命令があったことを日記に書いているが、最終的な虐殺と数字については疑問視されている[5]。南京北部の下関では、捕虜が収容された後に殺害され長江に捨てられたことが、日本側、中国側、そして残留外国人の記録や証言に示されている。第114師団第66連隊第1大隊の戦闘詳報では、旅団命令によって捕虜を殺害したことが記録されている[6]

外国メディアによる報道

この事件は主に軍人や外国の情報に触れる事の多かった外交官などに南京の欧米人から報告がなされている。(前者の代表的な例としては陸軍中将 岡村寧次関係の記録が、後者の代表的な例としては外務省欧亜局長 石井猪太郎の日記が、それぞれ挙げられる)軍人が戦地から内地に宛てた手紙がもとで日本国内でも流言になっていたという説もある。また、日本の外へ目を向けてみると、アメリカでは『シカゴ・デイリーニューズ』や『ニューヨークタイムズ』、中国では『大公報』などのマスコミによって“Nanking Massacre Story”,“The Rape of Nanking”,“Nanking Atrocities”として報道されていた。南京に在留していたジャーナリストは日本軍の南京占領後しばらくして脱出したため、事件の全容が報じられたわけではないが、事件初期における日本軍が行ったとされる殺人、傷害、強姦、略奪などの犯罪行為がほぼリアルタイムで伝えられていた。無線が日本軍によって管理されていたため、彼らは南京を脱出して日本軍の占領後に行なわれたとされる略奪や殺人を船舶の無線を使って報道した[7]

ただしこれらの報道にも反論があり、まず外交官への報告であるが唯一確認できる報告がイギリス人外交官の外電でありその内容は「頻発する殺人」と伝えているが当時南京の欧米人が目撃した殺人事件は存在せず全て中国人からの伝聞によるものであるため虚偽報告の可能性が指摘されている。虚偽報告を伝えた要因として当時の中国政府から大量の献金を受け取りそれにより買収され反日的報道をした可能性が東中野らの研究で明らかになっている。[8]

渡部昇一の主張によれば欧米人は便衣兵攪乱兵の存在を知らずそれらの掃討を市民の殺害と誤認した可能性があると指摘されている[9]。また当時『ニューヨークタイムズ』に掲載された「南京虐殺の証拠写真」とされる写真も虚偽写真の可能性が指摘されている[10]。無線を通じた報道も全て中国人からの伝聞をもとにして報道していたためその正確性には問題があるという主張もある[11]。また内地への手紙も手紙自体は確認できるもののその正確性や信憑性に疑問が呈されている。(例えば虐殺行為を内地へ手紙で送ったとしても検閲で落とされるため。)[12]

また上海から南京まで追撃される中国軍に従軍していたニューヨークタイムズのティルマン・ダーディン通信員は、1989年10月号の「文藝春秋」においてインタビューに答え、「(上海から南京へ向かう途中に日本軍が捕虜や民間人を殺害していたことは)なかった」と断言し、「私は当時、虐殺に類することは何も目撃しなかったし、聞いたこともありません」と述べていることが伝えられている。

被害者数と事実在否について

2010年1月公表にされた日中歴史共同研究によれば、中国側は南京戦犯裁判の30万人説や東京裁判の20万人説と、いづれも戦後行われた裁判の判決に依った犠牲者数を主張している。いっぽう、日本側の研究では20万人・4万人・2万人と、様々な推測がなされている。 [13]

なお日本国内において、南京大虐殺そのものを「まぼろし」「デッチ上げ」とする論もある。(南京大虐殺論争

事件の背景について

事件の背景として、南京の前にも、日本軍は移動中に上海蘇州無錫嘉興杭州紹興常州のような場所でも捕虜や市民への虐殺・略奪を続けていたとされ、日本軍兵士・将校の従軍日記や回想録から、進軍中にそれらが常態化していたのではないかと疑われている[14]。ただし、「中国軍が民間人を巻き込むため国際法で禁止されている便衣戦術(ゲリラ戦術)を採っていたため」(南京大虐殺論争#虐殺の範囲を参照)という理由や、中国軍が後退する中で後に来る日本軍に陣地構築の資材や建物など、利用できるものを何も与えない為に、中国人自身による民間人の虐殺、民家焼却を行う空室清野戦術によると見る向きもある[15]。また兵士の日記についても通常一兵卒が所持する事が出来ないはずの万年筆で毎日の様に記録されていることから、従軍中にそのような余裕はなく捏造ないしは誇張されたものであるとする指摘もある[16]

戦争裁判

この事件は第二次世界大戦後、戦争犯罪として極東国際軍事裁判南京軍事法廷で審判された。

極東国際軍事裁判では、事件当時に中支那方面軍司令官であった松井石根(当時、陸軍大将)が、不法行為の防止や阻止、関係者の処罰を怠ったとして死刑となった。

南京軍事法廷では、当時、第6師団長だった谷寿夫(当時、陸軍中将)が起訴され死刑となった。谷は申弁書の中で虐殺は中島部隊(第16師団)で起きたものであり、自分の第6師団は無関係と申し立てを行っている。その他、百人斬り競争として報道された野田毅(当時、陸軍少尉)と向井敏明(当時、陸軍少尉)、非戦闘員の三百人斬りを行ったとして田中軍吉(当時、陸軍大尉)が死刑となった。

一方、上海派遣軍の司令官であった朝香宮鳩彦王(当時、陸軍中将)については訴追されなかった。これは朝香宮が皇族であり、天皇をはじめ皇族の戦争犯罪を問わないというアメリカの方針に基づいている。

南京陥落までの状況

日本側

1937年11月、第二次上海事変に投入された上海派遣軍第10軍は、上海で中国軍を撃ち破った勢いに乗り、軍中央の不拡大方針を無視して首都 南京に攻め上った。12月1日、軍中央は、現地軍の方針無視を追認する形で、新たに両軍の上位に編成した中支那方面軍に対し南京攻略命令を下達した。12月8日、中支那方面軍は南京を包囲、12月9日、同軍司令官の陸軍大将松井石根は、中国軍に対し開城(降伏)を勧告した。

中国軍が開城勧告に応じなかったため、12月10日、日本軍は攻撃を開始し、12月13日に南京城を陥落させた。

中国(中華民国)側

1937年11月5日、上海に攻め込んでいた中国軍は、杭州湾に上陸した日本陸軍第10軍に背後を襲われる形となり、指揮命令系統に混乱を来たしたまま総退却した。11月15日から11月18日にかけて、南京において高級幕僚会議が行われ、トラウトマン和平調停工作の影響の考慮から、南京固守作戦の方針が決まった。11月20日蒋介石は南京防衛司令官に唐生智を任命し、同時に重慶に遷都することを宣言し、暫定首都となる漢口に中央諸機関の移動を始めた。

11月下旬、南京防衛作戦のため、緊急的(場当たり的)な増兵を行なった結果、南京防衛軍の動員兵力は約10万人に達したと言われる(台湾の公刊戦史他)。12月7日、南京郊外の外囲陣地が突破され、南京は日本軍の砲撃の射程内に入り、また、空爆が激しくなってきたことから、蒋介石は南京を離れた。この後、中国軍の戦線は崩壊し続け、12月11日、蒋介石は南京固守を諦め、唐生智に撤退を命令した。一方、唐生智は死守作戦にこだわったが、12月12日夕方には撤退命令を出した。しかし、すでに命令伝達系統が破壊されつつあり、命令は全軍に伝わらなかった。12月13日、南京城壁は突破され、中国軍は総崩れとなった。

中支那方面軍の編成

中支那方面軍は上海派遣軍と第10軍から構成される。南京攻略時の主な部隊を示した。攻略に参加していない部隊、通信隊や鉄道隊、航空隊、工兵隊、兵站部隊などは略している。

脚注

  1. ^ http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0201&f=politics_0201_005.shtml 日中歴史研究「中間~右」の学者と認識一致は大成果―中国メディア(サーチナ 2010/02/01)
  2. ^ 南京事件調査研究会・編『南京大虐殺否定論13のウソ』柏書房
  3. ^ http://www.news-pj.net/request/2009/ka-20090205.html 夏淑琴氏の名誉毀損の裁判
  4. ^ 東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』
  5. ^ http://latemhk.hp.infoseek.co.jp/syougen/60-02-08.jpg 証言による「南京戦史」
  6. ^ 南京事件調査研究会・編『南京大虐殺否定論13のウソ』柏書房
  7. ^ 南京事件調査研究会・編『南京大虐殺否定論13のウソ』柏書房
  8. ^ 東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』」
  9. ^ 渡部昇一「昭和史」
  10. ^ 東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』」
  11. ^ 東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』」
  12. ^ 東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』」
  13. ^ http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf 「日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦」波多野澄雄 庄司潤一郎 p.7
  14. ^ 南京事件調査研究会・編『南京大虐殺否定論13のウソ』柏書房
  15. ^ 東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』
  16. ^ 大井満「仕組まれた“南京大虐殺”」

南京大虐殺に関する研究書

南京大虐殺を扱った漫画

南京大虐殺を描いた作品

映画
ドキュメンタリー映画

関連項目

外部リンク