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==来歴・人物==
==来歴・人物==
[[1949年]]の[[選抜高等学校野球大会]]で[[兵庫県立芦屋高等学校|芦屋高校]]のエースとして準優勝に導いた。[[慶應義塾大学]]進学後は[[二塁手]]に転向。卒業後は[[スポーツニッポン新聞社]]に入社し、プロ野球を中心としたスポーツの取材を実施。その後[[テレビ東京|東京12ch(現・テレビ東京)]]の[[全力闘球|戦国ナイター]]・[[ラジオ日本ジャイアンツナイター]]の解説者を担当するようになる。その綿密な取材活動の集大成として[[1992年]]〜[[1993年]]に「プロ野球三国志」をスポニチ紙上に執筆。[[毎日新聞社]]から出版された。
[[1949年]]の[[選抜高等学校野球大会]]で[[兵庫県立芦屋高等学校|芦屋高校]]のエースとして準優勝に導いた。[[慶應義塾大学]]進学後は[[二塁手]]に転向。東京六大学リーグ通算29試合出場、65打数13安打、打率.200、0本塁打、5打点。卒業後は[[スポーツニッポン新聞社]]に入社し、プロ野球を中心としたスポーツの取材を実施。その後[[テレビ東京|東京12ch(現・テレビ東京)]]の[[全力闘球|戦国ナイター]]・[[ラジオ日本ジャイアンツナイター]]の解説者を担当するようになる。その綿密な取材活動の集大成として[[1992年]]〜[[1993年]]に「プロ野球三国志」をスポニチ紙上に執筆。[[毎日新聞社]]から出版された。


[[1993年]]〜[[1995年]]に、プロ選手経験のないまま、[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]の[[二軍監督]]を歴任する珍しい試みに挑戦した。
[[1993年]]〜[[1995年]]に、プロ選手経験のないまま、[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]の[[二軍監督]]を歴任する珍しい試みに挑戦した。

2010年3月13日 (土) 16:10時点における版

有本 義明(ありもと よしあき、1931年6月1日-)は、日本スポーツライター野球解説者。現在はスポーツニッポン特別編集委員。主にプロ野球を中心に取材している。

来歴・人物

1949年選抜高等学校野球大会芦屋高校のエースとして準優勝に導いた。慶應義塾大学進学後は二塁手に転向。東京六大学リーグ通算29試合出場、65打数13安打、打率.200、0本塁打、5打点。卒業後はスポーツニッポン新聞社に入社し、プロ野球を中心としたスポーツの取材を実施。その後東京12ch(現・テレビ東京)戦国ナイターラジオ日本ジャイアンツナイターの解説者を担当するようになる。その綿密な取材活動の集大成として1992年1993年に「プロ野球三国志」をスポニチ紙上に執筆。毎日新聞社から出版された。

1993年1995年に、プロ選手経験のないまま、福岡ダイエーホークス二軍監督を歴任する珍しい試みに挑戦した。

出演番組

※解説者として出演していたプロ野球中継番組。

背番号

※ダイエー二軍監督時代

関連項目

  • 根本陸夫
  • 田口周 - 有本同様に、プロ経験ゼロでヤクルト2軍監督を経験(スポーツ紙記者出身という点でも共通している)。