コンテンツにスキップ

「楢林鎮山」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m 参考文献の追加
2行目: 2行目:


[[長崎市|長崎]]の出身。9歳より[[オランダ語]]を学び、19歳の時に[[出島]]出入の者300名による試験に合格して小通詞、39歳で大通詞となる。[[オランダ商館長]]の江戸入りに8回通詞として同行したほか、[[リターン号事件]]などの大事件の際に通詞として交渉に参加した。また、[[オランダ商館]]医官より[[蘭方医学]]を学んだ。ところが、[[元禄]]11年[[9月27日 (旧暦)|9月27日]]([[1698年]][[10月30日]])、突如[[オランダ人]]との内通の疑いをかけられて閉戸([[武家]]の[[閉門]]と同義)に処せられて通詞を解任される。その後許されて出家した後は、医師として開業、診察の傍ら多くの門人を育て、彼の子孫及び門人達の流派は「楢林流」と称された。宝永3年([[1706年]])には、[[フランス]]の外科医[[アンブロワーズ・パレ]]の著書のオランダ語版を翻訳した『[[紅夷外科宗伝]]』を刊行しており、同書には[[本草学者]]・[[朱子学者]]として名高かった[[貝原益軒]]が序文を寄せている。なお、宝永5年([[1708年]])には名声を聞いた[[征夷大将軍|将軍]][[徳川綱吉]]が招聘をしているが、咎人であることを理由にこれを辞退している。また、[[福岡藩|福岡藩主]][[黒田綱政]]の招聘を同様の理由で辞退している。
[[長崎市|長崎]]の出身。9歳より[[オランダ語]]を学び、19歳の時に[[出島]]出入の者300名による試験に合格して小通詞、39歳で大通詞となる。[[オランダ商館長]]の江戸入りに8回通詞として同行したほか、[[リターン号事件]]などの大事件の際に通詞として交渉に参加した。また、[[オランダ商館]]医官より[[蘭方医学]]を学んだ。ところが、[[元禄]]11年[[9月27日 (旧暦)|9月27日]]([[1698年]][[10月30日]])、突如[[オランダ人]]との内通の疑いをかけられて閉戸([[武家]]の[[閉門]]と同義)に処せられて通詞を解任される。その後許されて出家した後は、医師として開業、診察の傍ら多くの門人を育て、彼の子孫及び門人達の流派は「楢林流」と称された。宝永3年([[1706年]])には、[[フランス]]の外科医[[アンブロワーズ・パレ]]の著書のオランダ語版を翻訳した『[[紅夷外科宗伝]]』を刊行しており、同書には[[本草学者]]・[[朱子学者]]として名高かった[[貝原益軒]]が序文を寄せている。なお、宝永5年([[1708年]])には名声を聞いた[[征夷大将軍|将軍]][[徳川綱吉]]が招聘をしているが、咎人であることを理由にこれを辞退している。また、[[福岡藩|福岡藩主]][[黒田綱政]]の招聘を同様の理由で辞退している。



== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*酒井シヅ「楢林鎮山」 (『科学史技術史事典』より、[[弘文堂]]、1983年) ISBN 978-4-335-75003-8
*[[酒井シヅ]]「楢林鎮山」 (『科学史技術史事典』より、[[弘文堂]]、1983年) ISBN 978-4-335-75003-8
*片桐一男「楢林鎮山」 (日蘭学会編 『洋学史事典』より、[[雄松堂出版]]、1984年) ISBN 978-4-841-90002-6
*[[片桐一男]]「楢林鎮山」 (日蘭学会編 『洋学史事典』より、[[雄松堂出版]]、1984年) ISBN 978-4-841-90002-6
*片桐一男 『阿蘭陀通詞の研究』 ([[吉川弘文館]]、1985年) 第8回[[角川源義賞]]
*片桐一男 『阿蘭陀通詞の研究』 ([[吉川弘文館]]、1985年) 第8回[[角川源義賞]]
*W・ミヒェル「楢林新右衛門(鎮山) ─ 外科医になった通詞─」。[[ヴォルフガング・ミヒェル]]・[[鳥井裕美子]]・[[川嶌眞人]] 共編『九州の蘭学 ー 越境と交流』[[思文閣出版]]、京都、2009年、34-40頁。(ISBN 978-4-7842-1410-5)



{{DEFAULTSORT:ならはやしちんさん}}
{{DEFAULTSORT:ならはやしちんさん}}

2010年4月7日 (水) 04:04時点における版

楢林 鎮山(ならばやし ちんざん、慶安元年12月14日1649年1月26日)-宝永8年3月29日1711年5月16日)))は、江戸時代前期の阿蘭陀通詞医師。諱は時敏、法号は栄休。通称は彦五郎・新右衛門・新五兵衛・得生軒。子に楢林栄久がいる。

長崎の出身。9歳よりオランダ語を学び、19歳の時に出島出入の者300名による試験に合格して小通詞、39歳で大通詞となる。オランダ商館長の江戸入りに8回通詞として同行したほか、リターン号事件などの大事件の際に通詞として交渉に参加した。また、オランダ商館医官より蘭方医学を学んだ。ところが、元禄11年9月27日1698年10月30日)、突如オランダ人との内通の疑いをかけられて閉戸(武家閉門と同義)に処せられて通詞を解任される。その後許されて出家した後は、医師として開業、診察の傍ら多くの門人を育て、彼の子孫及び門人達の流派は「楢林流」と称された。宝永3年(1706年)には、フランスの外科医アンブロワーズ・パレの著書のオランダ語版を翻訳した『紅夷外科宗伝』を刊行しており、同書には本草学者朱子学者として名高かった貝原益軒が序文を寄せている。なお、宝永5年(1708年)には名声を聞いた将軍徳川綱吉が招聘をしているが、咎人であることを理由にこれを辞退している。また、福岡藩主黒田綱政の招聘を同様の理由で辞退している。


参考文献