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「後百済」の版間の差分

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[[920年]]、甄萱は、新羅西部の大耶城を攻略し、更に[[高麗]]南端の進礼城に進軍し、高麗との戦端を開いた。当初、勢力は互角であり、[[922年]]、後百済は、日本に参戦を要請したが拒絶された。[[後唐]]にも朝貢したが、名ばかりの官職しか得られず、実質的な援助はなかった。
[[920年]]、甄萱は、新羅西部の大耶城を攻略し、更に[[高麗]]南端の進礼城に進軍し、高麗との戦端を開いた。当初、勢力は互角であり、[[922年]]、後百済は、日本に参戦を要請したが拒絶された。[[後唐]]にも朝貢したが、名ばかりの官職しか得られず、実質的な援助はなかった。


[[926年]]10月、後百済は、[[金城]]を占領し、新羅の景哀王を自殺させた。王建は、新羅の救援に赴いたが大敗した。同年12月、甄萱は休戦を申し入れ、[[927年]]3月、[[太祖 (高麗王)|王建]]はこれを受諾したが、同年5月には再び戦闘が再開された。[[929年]]、後百済は、[[慶尚北道]]で快進撃を収め、再び日本に援助を要請したが、再び拒絶された。
[[926年]]10月、後百済は、[[金城]]を占領し、新羅の景哀王を自殺させた。後の高麗王[[太祖 (高麗王)|王建]]は、新羅の救援に赴いたが大敗した。同年12月、甄萱は休戦を申し入れ、[[927年]]3月、王建はこれを受諾したが、同年5月には再び戦闘が再開された。[[929年]]、後百済は、[[慶尚北道]]で快進撃を収め、再び日本に援助を要請したが、再び拒絶された。


[[930年]]、高麗は反撃に転じ、[[古昌郡]]において後百済を大敗させた。[[934年]]、甄萱は、再び休戦を要請したが、王建はこれを受け入れず、後百済軍に対して攻撃を続行した。
[[930年]]、高麗は反撃に転じ、[[古昌郡]]において後百済を大敗させた。[[934年]]、甄萱は、再び休戦を要請したが、王建はこれを受け入れず、後百済軍に対して攻撃を続行した。

2010年4月18日 (日) 03:52時点における版

朝鮮歷史
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百済

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1948-
朝鮮民主主義
人民共和国

1948-
Portal:朝鮮

後百済(ごくだら、900年 - 936年)は、後三国時代、挙兵した甄萱(キョンフォン)が、新羅によって滅ぼされた百済の復興を唱えて建国した国。

甄萱は、尚州の農民出身で、西南海で軍功をたてて頭角をあらわし、新羅朝廷により将軍に抜擢された。しかし、甄萱は、将軍の位に不満を持ち、根拠地の西南海で勢力を蓄え、挙兵を準備した。892年、農民一揆に乗じて挙兵し、武珍州(全羅南道光州)、更に完山州(全羅北道全州)を占領し、当初、「新羅西面都統治指揮兵馬制置、持節都督全武公等州軍事、行全州刺史兼御使中丞、上柱国、漢南郡開国公」と称した。900年、王となり、国号を百済と定めた。

920年、甄萱は、新羅西部の大耶城を攻略し、更に高麗南端の進礼城に進軍し、高麗との戦端を開いた。当初、勢力は互角であり、922年、後百済は、日本に参戦を要請したが拒絶された。後唐にも朝貢したが、名ばかりの官職しか得られず、実質的な援助はなかった。

926年10月、後百済は、金城を占領し、新羅の景哀王を自殺させた。後の高麗王王建は、新羅の救援に赴いたが大敗した。同年12月、甄萱は休戦を申し入れ、927年3月、王建はこれを受諾したが、同年5月には再び戦闘が再開された。929年、後百済は、慶尚北道で快進撃を収め、再び日本に援助を要請したが、再び拒絶された。

930年、高麗は反撃に転じ、古昌郡において後百済を大敗させた。934年、甄萱は、再び休戦を要請したが、王建はこれを受け入れず、後百済軍に対して攻撃を続行した。

935年、甄萱の長男の神剣は、次男の良剣と三男の龍剣と共謀して父の甄萱を幽閉し、四男の金剛を殺害した。同年6月、甄萱は、娘を連れて高麗に投降した。

936年6月、甄萱は、神剣の討伐を自ら請い、王建は甄萱と共に後百済を滅ぼした。甄萱は、その後暫くして死去した。良剣と龍剣は、晋州に流され、その後殺害された。同時に、王建は、甄萱の娘婿の朴英に爵位を与え、甄氏の懐柔に努めた。

その一方で王建は神剣らが父に背いた事、甄萱が長兄を差し置いて四男に王位を継承させようとした事を、激しく憎んだ。両方とも儒教道徳的には許されない行為だからである。彼は「訓要十条」によって、王位継承の長子優先と、旧百済地域からの人材登用を避けるべく遺言している。旧百済地域からの人材登用の忌避は後々まで悪影響をもたらし、全羅道差別という地域差別となって後代まで残った。