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「總見寺」の版間の差分

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=== 清洲越後 ===
=== 清洲越後 ===
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[[塔頭]]は初め12院あったが、江戸時代には光勝院、陽巖院、東林院、江月軒の5箇所に減少し、その後[[光勝院 (名古屋市)|光勝院]]のみ残るが、[[明治維新]]後に塔頭から直末となっている。


信長公廟が存在するが、他の墓地は[[第2次大戦]]後の区画整理により[[平和公園]]へ移動している。
信長公廟が存在するが、他の墓地は[[第2次大戦]]後の区画整理により[[平和公園 (名古屋市)|平和公園]]へ移動している。

== 伽藍 ==
== 伽藍 ==
* 山門
* 山門
* 本堂
* 本堂
* 織田信長公廟
* 織田信長公廟
== 文化財・所蔵品 ==


== 文化財・所蔵品 ==
=== 備考 ===
=== 備考 ===
「[[尾張名所図会]]」には塔頭を含む大伽藍の様子が掲載されている。
「[[尾張名所図会]]」には塔頭を含む大伽藍の様子が掲載されている。

== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
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* 『名古屋市史』社寺編
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== 所在地 ==
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== アクセス ==
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== 拝観等 ==
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常時拝観は行っていない。
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== 関連項目 ==
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* [[清洲越し]]
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* 興聖山[[総見院 (清須市)|総見院]] - 清洲越以前の地に再興された寺
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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2010年5月2日 (日) 10:17時点における版

総見寺
所在地 愛知県名古屋市中区大須3丁目
位置 北緯35度9分35.4秒 東経136度54分10.88秒 / 北緯35.159833度 東経136.9030222度 / 35.159833; 136.9030222
山号 景陽山
宗旨 臨済宗
宗派 妙心寺派
本尊 薬師如来
創建年 天正年間
開山 虎關師錬
瑞恕忠嶽(清洲越し後)
正式名 景陽山 総見寺
法人番号 8180005000276 ウィキデータを編集
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総見寺(そうけんじ)は名古屋市中区にある臨済宗妙心寺派寺院山号は景陽山。 織田信長ゆかりの寺院である。

歴史

初めは伊勢国大島村(現、三重県川越町[1])に西明寺という講寺であった。 1332年(元弘2年、正慶元年)虎關師錬が景陽山神賛寺と改め後醍醐天皇の勅により官寺となり、後に伊勢国安國寺[2]となった。

天正の頃、廃寺になりかかっていたのを織田信雄が父の菩提を弔うために清洲北市場(現、清須市一場)に移し安土総見寺にならい総見寺[3]と改めた。忠嶽を開祖としたが、忠嶽は虎關を開山と仰ぎ自分は2世となった。

清洲越後

1611年(慶長16年)清洲越しにより名古屋南寺町(現、大須3丁目)に移る。その際、虎關は東福寺派であったので、法系を整えるために改めて忠嶽を開山とした[4]

開山以来、何人も妙心寺に進住している。 1630年(寛永7年) 3月、方丈が消失したが、1637年(寛永14年)の秋に藩主徳川義直が再建する。

初めは寺領1326石であったが、慶長伊奈備前検地後は300石となる。 1883年(明治16年) 4月、宮内省より本堂、庫裏再建のために金25円が下賜される。

本尊薬師如来坐像。山門仁王門となっている。

塔頭は初め12院あったが、江戸時代には光勝院、陽巖院、東林院、江月軒の5箇所に減少し、その後光勝院のみ残るが、明治維新後に塔頭から直末となっている。

信長公廟が存在するが、他の墓地は第2次大戦後の区画整理により平和公園へ移動している。

伽藍

  • 山門
  • 本堂
  • 織田信長公廟

文化財・所蔵品

備考

尾張名所図会」には塔頭を含む大伽藍の様子が掲載されている。

脚注

  1. ^ 「名古屋市史」によると「今三重県三重郡川越村大字縄生村字大島」とある。
  2. ^ 「清洲町史」所収「伊勢州長嶋記」によると「勢州桑名辺大島」となっている。
  3. ^ 単に当て字の違いであるが、「見寺」と書かれた文書もある。
  4. ^ 安土総見寺(妙心寺派)を根拠としているので大徳寺派(大徳寺塔頭総見院)ではない。

参考文献

  • 『名古屋市史』社寺編

所在地

愛知県名古屋市中区大須3丁目

アクセス

名古屋市地下鉄鶴舞線大須観音駅下車、名城線上前津駅下車。

拝観等

常時拝観は行っていない。

関連項目

外部リンク