「總見寺」の版間の差分
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[[天正]]の頃、廃寺になりかかっていたのを[[織田信雄]]が父の菩提を弔うために清洲北市場(現、[[清須市]]一場)に移し安土[[総見寺]]にならい'''総見寺'''<ref>単に当て字の違いであるが、「'''惣'''見寺」と書かれた文書もある。</ref>と改めた。忠嶽を開祖としたが、忠嶽は虎關を開山と仰ぎ自分は2世となった。 |
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=== 清洲越後 === |
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{{和暦|1611}}[[清洲越し]]により名古屋南寺町(現、大須3丁目)に移る。その際、虎關は[[東福寺派]]であったので、法系を整えるために改めて忠嶽を開山とした<ref>安土総見寺(妙心寺派)を根拠としているので大徳寺派(大徳寺塔頭総見院)ではない。</ref>。 |
{{和暦|1611}}[[清洲越し]]により名古屋南寺町(現、大須3丁目)に移る。その際、虎關は[[東福寺派]]であったので、法系を整えるために改めて忠嶽を開山とした<ref>安土総見寺(妙心寺派)を根拠としているので大徳寺派(大徳寺塔頭総見院)ではない。</ref>。 |
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[[塔頭]]は初め12院あったが、江戸時代には光勝院、陽巖院、東林院、江月軒の5箇所に減少し、その後[[光勝院 (名古屋市)|光勝院]]のみ残るが、[[明治維新]]後に塔頭から直末となっている。 |
[[塔頭]]は初め12院あったが、江戸時代には光勝院、陽巖院、東林院、江月軒の5箇所に減少し、その後[[光勝院 (名古屋市)|光勝院]]のみ残るが、[[明治維新]]後に塔頭から直末となっている。 |
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信長公廟が存在するが、他の墓地は[[第2次大戦]]後の区画整理により[[平和公園]]へ移動している。 |
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== 伽藍 == |
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* 山門 |
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* 織田信長公廟 |
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「[[尾張名所図会]]」には塔頭を含む大伽藍の様子が掲載されている。 |
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== 脚注 == |
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== 参考文献 == |
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* 『名古屋市史』社寺編 |
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* 興聖山[[総見院 (清須市)|総見院]] - 清洲越以前の地に再興された寺 |
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* [[大徳寺]][[塔頭]][[総見院]] - [[豊臣秀吉]]が信長の法要を行った寺 |
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== 外部リンク == |
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* [http://www.oumi-castle.net/oda_yukari/soukenji_nagoya.html近江の城郭 織田信長と織田一族ゆかりの史跡] |
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2010年5月2日 (日) 10:17時点における版
総見寺 | |
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所在地 | 愛知県名古屋市中区大須3丁目 |
位置 | 北緯35度9分35.4秒 東経136度54分10.88秒 / 北緯35.159833度 東経136.9030222度 |
山号 | 景陽山 |
宗旨 | 臨済宗 |
宗派 | 妙心寺派 |
本尊 | 薬師如来 |
創建年 | 天正年間 |
開山 |
虎關師錬 瑞恕忠嶽(清洲越し後) |
正式名 | 景陽山 総見寺 |
法人番号 | 8180005000276 |
総見寺(そうけんじ)は名古屋市中区にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は景陽山。 織田信長ゆかりの寺院である。
歴史
初めは伊勢国大島村(現、三重県川越町[1])に西明寺という講寺であった。 1332年(元弘2年、正慶元年)虎關師錬が景陽山神賛寺と改め後醍醐天皇の勅により官寺となり、後に伊勢国安國寺[2]となった。
天正の頃、廃寺になりかかっていたのを織田信雄が父の菩提を弔うために清洲北市場(現、清須市一場)に移し安土総見寺にならい総見寺[3]と改めた。忠嶽を開祖としたが、忠嶽は虎關を開山と仰ぎ自分は2世となった。
清洲越後
1611年(慶長16年)清洲越しにより名古屋南寺町(現、大須3丁目)に移る。その際、虎關は東福寺派であったので、法系を整えるために改めて忠嶽を開山とした[4]。
開山以来、何人も妙心寺に進住している。 1630年(寛永7年) 3月、方丈が消失したが、1637年(寛永14年)の秋に藩主徳川義直が再建する。
初めは寺領1326石であったが、慶長伊奈備前検地後は300石となる。 1883年(明治16年) 4月、宮内省より本堂、庫裏再建のために金25円が下賜される。
塔頭は初め12院あったが、江戸時代には光勝院、陽巖院、東林院、江月軒の5箇所に減少し、その後光勝院のみ残るが、明治維新後に塔頭から直末となっている。
信長公廟が存在するが、他の墓地は第2次大戦後の区画整理により平和公園へ移動している。
伽藍
- 山門
- 本堂
- 織田信長公廟
文化財・所蔵品
備考
「尾張名所図会」には塔頭を含む大伽藍の様子が掲載されている。
脚注
参考文献
- 『名古屋市史』社寺編
所在地
愛知県名古屋市中区大須3丁目
アクセス
拝観等
常時拝観は行っていない。
関連項目
外部リンク
- 織田信長と織田一族ゆかりの史跡
- 歴史の足跡 - 詳細な周辺地図が掲載されている。