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「備辺司」の版間の差分

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'''備辺司(びへんし)'''は、16世紀から19世紀中葉まで、ほぼ300年間存続した朝鮮王朝の軍事行政機関。1555年の乙卯倭変以来、常設機関となり、1865年、大院君によって正式に廃止された。
'''備辺司(びへんし)'''は、16世紀から19世紀中葉まで、ほぼ300年間存続した朝鮮王朝の軍事行政機関。1555年の乙卯倭変以来、常設機関となり、1865年、大院君によって正式に廃止された。




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== 創設までの経緯 ==
== 創設までの経緯 ==


朝鮮王朝の軍事行政は「兵曹」で管轄したが、外敵の侵入などの重大な国家的非常事態が発生した場合、議政府と六曹の大臣及び辺境の軍事責任者(知辺事宰相)から構成された国防会議で議論し決定した。しかしこの会議は事態に即時に対応できず、16世紀に入り、北辺の野人(女真族)や南方の倭寇に対する軍事情勢が緊迫してくると即応できるように臨時機関としての「備辺司」の必要性が高まった。
朝鮮王朝の軍事行政は「兵曹」で管轄したが、外敵の侵入などの重大な国家的非常事態が発生した場合、議政府と六曹の大臣及び辺境の軍事責任者(知辺事宰相)から構成された国防会議で議論し決定した。しかしこの会議は事態に即時に対応できず、16世紀に入り、北辺の野人(女真族)や南方の倭寇に対する軍事情勢が緊迫してくると即応できるように臨時機関としての「備辺司」の必要性が高まった。


1510年(中宗5)の三浦の倭乱の発生をきっかけとして、「備辺司」が最初に設置されたのは、1517年(中宗12)6月のことで、その後1524年(中宗19)北辺の女真族が閭延・茂昌に侵入し、これを撃退したとき、1544年(中宗39)蛇梁倭変の際、さらに1555年(明宗10)乙卯倭変に際し設置され、この年以降、庁舎が創設され、官員が任命されて常設機関となった。
1510年(中宗5)の三浦の倭乱の発生をきっかけとして、「備辺司」が最初に設置されたのは、1517年(中宗12)6月のことで、その後1524年(中宗19)北辺の女真族が閭延・茂昌に侵入し、これを撃退したとき、1544年(中宗39)蛇梁倭変の際、さらに1555年(明宗10)乙卯倭変に際し設置され、この年以降、庁舎が創設され、官員が任命されて常設機関となった。




== 機能の拡大とその撤廃 ==
== 機能の拡大とその撤廃 ==


1592年(宣祖26)の壬辰倭乱の国家的危機のとき、戦争遂行のための最高決定機関として、「備辺司」の機構が強化され、大きな権限を持つことになった。その職務は、論功行賞、徴兵、軍事物資の輸送のほか、官吏の任命、妃嬪の選択などにも及んだ。
1592年(宣祖26)の壬辰倭乱の国家的危機のとき、戦争遂行のための最高決定機関として、「備辺司」の機構が強化され、大きな権限を持つことになった。その職務は、論功行賞、徴兵、軍事物資の輸送のほか、官吏の任命、妃嬪の選択などにも及んだ。


しかしながら、あくまでも「備辺司」は臨時の合議機関であり、法制化されていなかったため他の機関の権益と抵触することもあって、絶えず廃止が議論されてきた。
しかしながら、あくまでも「備辺司」は臨時の合議機関であり、法制化されていなかったため他の機関の権益と抵触することもあって、絶えず廃止が議論されてきた。
しかし、その後も為政者にとって、大変便利な政治的装置であったために、軍事以外の様々な政治課題をも取り扱うようになっていった。
しかし、その後も為政者にとって、大変便利な政治的装置であったために、軍事以外の様々な政治課題をも取り扱うようになっていった。


17世紀に入り、西人政権によってその機能が拡大強化され、後金との抗争の過程で、「備辺司」の堂上官に多くの権限が与えられた。粛宗の時代になって対清関係が
17世紀に入り、西人政権によってその機能が拡大強化され、後金との抗争の過程で、「備辺司」の堂上官に多くの権限が与えられた。粛宗の時代になって対清関係が
融和へ向かうと、「備辺司」には外交や通商の役割が付加されて、その機能はさらに強化された。純祖代の勢道政治の時代にも「備辺司」に権力が集中し、哲宗の時代には、当初20名前後であった堂上官は、60名以上にも増員された。
融和へ向かうと、「備辺司」には外交や通商の役割が付加されて、その機能はさらに強化された。純祖代の勢道政治の時代にも「備辺司」に権力が集中し、哲宗の時代には、当初20名前後であった堂上官は、60名以上にも増員された。


こうして、「備辺司」への権力の集中は、親族間での継承・不正の温床・売官の横行・民衆の反発などの弊害により、朝鮮後期の政治的混乱の主要な要因の一つとなった。
こうして、「備辺司」への権力の集中は、親族間での継承・不正の温床・売官の横行・民衆の反発などの弊害により、朝鮮後期の政治的混乱の主要な要因の一つとなった。
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== 会議録としての騰録==
== 会議録としての騰録==


会議の記録である、『備辺司謄録』は、1617年(光海君9)から1892年(高宗29)までの、273冊が残存している。(1865年以降は、『議政府謄録』という)
会議の記録である、『備辺司謄録』は、1617年(光海君9)から1892年(高宗29)までの、273冊が残存している。(1865年以降は、『議政府謄録』という)




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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==


李成茂 『朝鮮王朝史』 (2006 日本評論社)
李成茂 『朝鮮王朝史』 (2006 日本評論社)


朴永圭 『朝鮮王朝実録』(1997 新潮社)
朴永圭 『朝鮮王朝実録』(1997 新潮社)

2010年5月5日 (水) 16:34時点における版

備辺司(びへんし)は、16世紀から19世紀中葉まで、ほぼ300年間存続した朝鮮王朝の軍事行政機関。1555年の乙卯倭変以来、常設機関となり、1865年、大院君によって正式に廃止された。


創設までの経緯

朝鮮王朝の軍事行政は「兵曹」で管轄したが、外敵の侵入などの重大な国家的非常事態が発生した場合、議政府と六曹の大臣及び辺境の軍事責任者(知辺事宰相)から構成された国防会議で議論し決定した。しかしこの会議は事態に即時に対応できず、16世紀に入り、北辺の野人(女真族)や南方の倭寇に対する軍事情勢が緊迫してくると即応できるように臨時機関としての「備辺司」の必要性が高まった。

1510年(中宗5)の三浦の倭乱の発生をきっかけとして、「備辺司」が最初に設置されたのは、1517年(中宗12)6月のことで、その後1524年(中宗19)北辺の女真族が閭延・茂昌に侵入し、これを撃退したとき、1544年(中宗39)蛇梁倭変の際、さらに1555年(明宗10)乙卯倭変に際し設置され、この年以降、庁舎が創設され、官員が任命されて常設機関となった。


機能の拡大とその撤廃

1592年(宣祖26)の壬辰倭乱の国家的危機のとき、戦争遂行のための最高決定機関として、「備辺司」の機構が強化され、大きな権限を持つことになった。その職務は、論功行賞、徴兵、軍事物資の輸送のほか、官吏の任命、妃嬪の選択などにも及んだ。

しかしながら、あくまでも「備辺司」は臨時の合議機関であり、法制化されていなかったため他の機関の権益と抵触することもあって、絶えず廃止が議論されてきた。 しかし、その後も為政者にとって、大変便利な政治的装置であったために、軍事以外の様々な政治課題をも取り扱うようになっていった。

17世紀に入り、西人政権によってその機能が拡大強化され、後金との抗争の過程で、「備辺司」の堂上官に多くの権限が与えられた。粛宗の時代になって対清関係が 融和へ向かうと、「備辺司」には外交や通商の役割が付加されて、その機能はさらに強化された。純祖代の勢道政治の時代にも「備辺司」に権力が集中し、哲宗の時代には、当初20名前後であった堂上官は、60名以上にも増員された。

こうして、「備辺司」への権力の集中は、親族間での継承・不正の温床・売官の横行・民衆の反発などの弊害により、朝鮮後期の政治的混乱の主要な要因の一つとなった。

大院君の時代に、国家機構の再整備の際、「備辺司」の機能を外交・防衛・治安関係に限定したうえ、1865年には「備辺司」は廃止された。


会議録としての騰録

会議の記録である、『備辺司謄録』は、1617年(光海君9)から1892年(高宗29)までの、273冊が残存している。(1865年以降は、『議政府謄録』という)


参考文献

李成茂 『朝鮮王朝史』 (2006 日本評論社)

朴永圭 『朝鮮王朝実録』(1997 新潮社)