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=== 創共協定 === |
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公明党の母体である[[創価学会]]とは、[[1974年]][[12月28日]]、[[松本清張]]の仲介で[[池田大作]] |
公明党の母体である[[創価学会]]とは、[[1974年]][[12月28日]]、[[松本清張]]の仲介で[[池田大作]]と[[宮本顕治]]で相互不可侵・共存を約した協定を10年間の約束で結んだ。'''創共協定'''(共創協定)と呼ばれる。しかし、自民党との関係悪化を恐れた公明党の抵抗もあり、協定は翌年の公表とほぼ同時に死文化。[[1980年]]、創価学会による[[宮本顕治宅盗聴事件]]が発覚すると、両者の対立は決定的となり、協定の更新は行われなかった。 |
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=== 部落解放同盟との対立 === |
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[[2008年]]9月、[[麻生内閣]]が発足に伴い、総選挙への総決起体制として第7回中央委員会総会を開いた。席上で志位委員長は、「[[ワーキングプア|働く貧困層]]」の解消など、自党の語ってきた問題が争点になっていること、自公政権が行き詰まっていること、しかし民主党は自民党の政治悪をただす立場にはないから、共産党の躍進が必要であることなどを述べた。また、「民主連合政府」が求められていることを強調したが、現時点で他党との協力はないという認識は変わっていない。ただし、国会では是々非々で「問題ごとに協力していく」としている<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-09-27/2008092701_01_0.html 2008年9月27日(土)「しんぶん赤旗」 日本共産党が第7回中央委員会総会 「国民が主人公」の民主的政権へ大きな一歩踏み出す選挙に]</ref>。また、総選挙体制のため中央委員会は、[[2009年]]1月に予定していた党大会の延期を決定した。 |
[[2008年]]9月、[[麻生内閣]]が発足に伴い、総選挙への総決起体制として第7回中央委員会総会を開いた。席上で志位委員長は、「[[ワーキングプア|働く貧困層]]」の解消など、自党の語ってきた問題が争点になっていること、自公政権が行き詰まっていること、しかし民主党は自民党の政治悪をただす立場にはないから、共産党の躍進が必要であることなどを述べた。また、「民主連合政府」が求められていることを強調したが、現時点で他党との協力はないという認識は変わっていない。ただし、国会では是々非々で「問題ごとに協力していく」としている<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-09-27/2008092701_01_0.html 2008年9月27日(土)「しんぶん赤旗」 日本共産党が第7回中央委員会総会 「国民が主人公」の民主的政権へ大きな一歩踏み出す選挙に]</ref>。また、総選挙体制のため中央委員会は、[[2009年]]1月に予定していた党大会の延期を決定した。 |
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遅くとも[[2009年]]10月までに予定されていた[[第45回衆議院議員総選挙]](実際には2009年[[8月30日]]投開票)の方針では、小選挙区の候補を大幅に減らすことになった。これは、野党共闘目的ではなく、小選挙区では候補者を立てるだけの力がないところがあるという判断から、比例区と支持基盤のある小選挙区に候補を絞り込もうとする方針転換である<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-01-05/2008010501_01_0.html 2008年1月5日(土)「しんぶん赤旗」 新しい政治つくる歴史的転機 総選挙勝利へ意気高く 党名を高く掲げ、日本改革の方針を語ろう 2008年党旗びらき 志位委員長があいさつ]</ref><ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-01-07/2008010704_01_0.html 2008年1月7日(月)「しんぶん赤旗」 今年の国会と選挙にどうのぞむか NHK日曜討論 志位委員長の発言(大要)]</ref>。代わりに、比例区との[[重複立候補制度|重複立候補]]を増やしたので、比例での候補者数は増えた<ref>第44回総選挙までは、共産党は他党が用いている、同一ブロックの重複立候補者の比例順位を同一にして、[[惜敗率]]を競わせる戦術を採用していなかった。第45回総選挙では、東京以外のブロックでは一部同一順位を採用した。</ref>。また、[[大連立構想 (日本 2007)|大連立]]騒動や小沢・鳩山 |
遅くとも[[2009年]]10月までに予定されていた[[第45回衆議院議員総選挙]](実際には2009年[[8月30日]]投開票)の方針では、小選挙区の候補を大幅に減らすことになった。これは、野党共闘目的ではなく、小選挙区では候補者を立てるだけの力がないところがあるという判断から、比例区と支持基盤のある小選挙区に候補を絞り込もうとする方針転換である<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-01-05/2008010501_01_0.html 2008年1月5日(土)「しんぶん赤旗」 新しい政治つくる歴史的転機 総選挙勝利へ意気高く 党名を高く掲げ、日本改革の方針を語ろう 2008年党旗びらき 志位委員長があいさつ]</ref><ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-01-07/2008010704_01_0.html 2008年1月7日(月)「しんぶん赤旗」 今年の国会と選挙にどうのぞむか NHK日曜討論 志位委員長の発言(大要)]</ref>。代わりに、比例区との[[重複立候補制度|重複立候補]]を増やしたので、比例での候補者数は増えた<ref>第44回総選挙までは、共産党は他党が用いている、同一ブロックの重複立候補者の比例順位を同一にして、[[惜敗率]]を競わせる戦術を採用していなかった。第45回総選挙では、東京以外のブロックでは一部同一順位を採用した。</ref>。また、[[大連立構想 (日本 2007)|大連立]]騒動や小沢・鳩山の献金問題などから改めて民主党を自民党と「同質・同類の党」と批判し、明確に共闘を否定してきた。さらに、[[2009年]][[6月5日]]には、志位委員長は「どちらが政権の担い手になるかの選択ではなく、21世紀の日本の「進むべき道」の選択が問われていること、その「旗印」を示せる党は日本共産党をおいてほかになく」「「二大政党」の競い合いによる暗黒政治への逆行を許さない一番たしかな力は日本共産党をのばすこと」<ref>[http://www.shii.gr.jp/pol/2009/2009_06/O2009_0606_1.html 2009年6月6日(土)「しんぶん赤旗」 全党の努力で生み出した変化 選挙勝利に実らせよう 日本共産党 8中総終わる 「二大政党」の悪政に立ち向かう 志位委員長が結語]</ref>と述べ、民主党による政権交代は無意味どころか、暗黒政治への逆行になるとの見解を示した。 |
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しかし、同年7月には[[2009年東京都議会議員選挙|東京都議会議員選挙]]で44年ぶりに議席が1桁(8議席)に落ち込んだ結果を踏まえ、若干路線を修正。民主党内の改憲論や衆院比例定数削減方針に反対する一方で、「一致点での協力を追求」と明記。労働者派遣法や障害者自立支援法の抜本改正、後期高齢者医療制度の撤廃、農家への所得補償、米軍基地の縮小・撤去などを挙げ、「(自公両党による)暗黒政治への逆行を許さない」と強調し、民主党を「暗黒政治」の批判対象から外した<ref>[http://www.asahi.com/politics/update/0716/TKY200907160378.html 民主との政策協力、共産が模索 「基本的立場」に明記]2009年7月16日朝日新聞</ref>。 |
しかし、同年7月には[[2009年東京都議会議員選挙|東京都議会議員選挙]]で44年ぶりに議席が1桁(8議席)に落ち込んだ結果を踏まえ、若干路線を修正。民主党内の改憲論や衆院比例定数削減方針に反対する一方で、「一致点での協力を追求」と明記。労働者派遣法や障害者自立支援法の抜本改正、後期高齢者医療制度の撤廃、農家への所得補償、米軍基地の縮小・撤去などを挙げ、「(自公両党による)暗黒政治への逆行を許さない」と強調し、民主党を「暗黒政治」の批判対象から外した<ref>[http://www.asahi.com/politics/update/0716/TKY200907160378.html 民主との政策協力、共産が模索 「基本的立場」に明記]2009年7月16日朝日新聞</ref>。 |
2010年6月22日 (火) 11:53時点における版
日本共産党 Japanese Communist Party(JCP) | |
---|---|
幹部会委員長 | 志位和夫 |
書記局長 | 市田忠義 |
衆議院議員団長 | 穀田恵二 |
参議院議員団長 | 小池晃 |
成立年月日 |
1922年7月15日 (合法化は1945年) |
本部所在地 |
〒151-8586 東京都渋谷区千駄ヶ谷四丁目26番7号北緯35度40分52.8秒 東経139度42分14.6秒 / 北緯35.681333度 東経139.704056度 |
衆議院議席数 |
9 / 480 (2%) |
参議院議席数 |
7 / 242 (3%) |
党員・党友数 |
党員約40万4,000 (2006年1月現在)(内、党費納入者推定26万1,900[1]) |
政治的思想・立場 |
科学的社会主義 共産主義 社会主義 左派 |
機関紙 | しんぶん赤旗 |
政党交付金 |
0 円 (制度に反対し受給拒否) |
シンボル | 歯車を通した稲穂を乗せた4枚の赤旗 |
国際組織 | なし |
公式サイト | 日本共産党中央委員会 |
日本共産党(にほんきょうさんとう、英: Japanese Communist Party, JCP)は、科学的社会主義を理論的基礎としている日本の政党である。2024年現在国会に議席を有する日本の政党では最も古い。
究極目標として社会主義・共産主義の社会を掲げているが、当面は、資本主義の枠内でアメリカへの従属の放棄と大企業支配の打破を目指すとしている。
概要
党名・呼称・党章
正式な党名は「日本共産党」である。日本のマスメディアでは「共産党」の略称で表記されることが多い。英称のJapanese Communist Partyの頭文字をとってJCPと表記されることもある。なお、英語名はCommunist Party of Japanであったが、1970年代(正確な年をご存知の方は直してください)に、「日本」を強調するために現在のものにあらためられた。
比較的人口に膾炙した呼称として、「日共」などと呼ばれることもある[2]。最寄り駅が代々木駅であることから(党本部の住所表示は千駄ヶ谷である)、「代々木」と呼ぶ者もいる[3]。 数多く存在した他の「日本共産党」を名乗るグループ(日本共産党 (曖昧さ回避)を参照)と特に区別するため「日本共産党(不破派)」または「日本共産党(志位派)」などと表記することもあるが、特殊な事例に限られる。
党章は「一つに合わせられた4枚の赤旗の上に稲穂を通した歯車」。
党勢
日本共産党の2009年8月末現在の国会勢力は、衆議院議員9名、参議院議員7名である。地方議員数は2009年12月15日時点で3,039人と、第一党の地方議会勢力となっている。(自民党所属の地方議員(特に市町村)は無所属で会派を組んでいることも多い。)※後述。また、8人の党員地方自治体首長を抱えている。※後述
党員約40万人(うち、党費納入者推定26万1,900[1])、機関紙「しんぶん赤旗」発行部数約173万部、支部を職場・地域・学園に約2万4000(2005年現在)置くなど、発達した資本主義国の共産主義政党としては、最大の規模を持つ。
1980年代から議員個人の後援会はつくらないことにされており、すべて「日本共産党後援会」となっている。そのため、議員は個人の支持基盤がなく、離党・除名・除籍などで党を離れて無所属で立候補しても当選することがきわめて困難である。
財政
日本共産党の資金源は(1)事業(機関紙)収入(2)党費(3)個人寄付によって成り立っている。一般的に、日本の議員は政治資金面で、党よりも自己の収入や政治献金に多く依存し、組織的には政治家個人を推す後援会を基盤としているが、日本共産党議員の場合は資金・組織の両面で党が主柱になっている。「見返りを求めない企業献金などあり得ず、政治を腐敗させる元凶」として企業献金を受け取らず、団体献金についても「団体に所属する構成員の思想・信条の自由を侵害する」という理由で受け取っていない。
しかし日本共産党員の経営者からの献金を受け取っており、事実上の企業献金と違いはそれほどない[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。。
政党交付金(政党助成金)については憲法違反の制度であるとして受け取りを拒否している唯一の党である。かつて第二院クラブが、登録はしておいて助成金の受け取りを拒否し、自党が受け取るはずの助成金を国庫に戻させることにより、自党分の助成金が他政党へ配分されることを回避していたが、共産党は登録をすること自体が政党助成制度を認めるとして登録をしないため、共産党に割り当てられた政党交付金は他党に配分されている。
その政治資金の大半は機関紙発行の資金として運用している。特に機関紙『しんぶん赤旗』は、非党員の支持者の読者も多く抱えるが、現在は読者数が減少しており、同党自身「『しんぶん赤旗』の読者数は、1990年に約286万人だったのが、現在、199万人余になっている」(同党第22回党大会決議、2000年11月)としている。
2008年ごろからは格差社会の拡大や雇用情勢の悪化などから、新規入党者及び機関紙の新規購読者は約1万3000人増加したと報じられている[4]。
綱領
現状認識と政治的目標
日本の現状規定は、次の通りである。「わが国は、高度に発達した資本主義国でありながら、国土や軍事などの重要な部分をアメリカに握られた事実上の従属国となっている」。これを踏まえ、当面の主張として、(1)大企業(独占資本)へのさまざまな民主的規制と、軍縮や無駄な公共事業の中止、大企業・資産家優遇税制の見直しを財源とした社会保障の充実。(2)対米従属を批判し、日米安全保障条約の廃棄と非同盟・中立の日本を実現する。特に軍事同盟・軍事ブロックからの離脱を目指す。(3)憲法改定を許さず民主主義の徹底を図る、という3点を挙げている。
「民主連合政府」構想
複数政党と諸団体による「民主連合政府」を政権構想として掲げており、早期の単独政権は目指していない[5]。従来の見解では、民主連合政府は過渡的な政権で、「民族民主統一戦線の政府」によって「革命の政府」を樹立するとしていた。2004年1月の綱領改定で、「革命政府を目指す」という部分を削除した。
党の準綱領的な方針である『自由と民主主義の宣言』では、「3つの自由」として、(1)生存の自由、(2)市民的政治的自由、(3)民族の自由を将来にわたって堅持することを公約している。特に、(2)市民的政治的自由では、旧社会主義諸国の否定的経験も踏まえ、議会制民主主義や三権分立の堅持と発展、言論・出版の自由やその他一切の表現の自由、信教の自由、学問の自由、団結権、人身の自由、文化の自由、芸術の自由の擁護、(以上、自由、自由権、人権も参照のこと)と発展、また少数民族、個人生活の自由の擁護や国定哲学の否定を宣言している。
自衛隊の取扱い
1960年代までは、対米従属の自衛隊は解消し、対米従属解消後に改憲を視野に入れた自衛のための組織を持つという、いわゆる「中立自衛」政策をとっていたが、1994年の第20回大会で、現行の憲法9条(非軍備・非戦)を将来にわたって継承・発展させるべきもの、社会主義・共産主義の理想と合致したものであるとした。その後、現在の同党の自衛隊政策案は、(1)軍事同盟である日米安保条約の解消前はできるかぎり軍縮し、(2)日米安保条約解消後も国民が望めば存続し、(3)国民が国際情勢などから解消しても問題ないと判断すれば自衛隊をなくす、という『段階的解消論』に立っている。
22回大会では、(1)(2)の段階で万が一急迫不正の主権侵害があれば、自衛隊も活用することを正式に決定している。いわば廃止を目指しつつも国民が望めば自衛隊を存続し、必要があれば「活用」する、というのが同党の現在の政策案である。この政策は同じ護憲政党であっても自衛隊容認から転じて「非武装の日本を目指す」(2006年)との政策に戻った社会民主党とは逆である。ただし他党と比べて「専守防衛」の武力行使自体にもかなり慎重である。「自衛隊『活用』」論についてはこの大会前に、党員からの少なくない批判や削除要求が挙げられ、大会でも代議員から批判的な意見も出た[6]。
2001年12月22日、日本の海上保安庁が南シナ海の公海上で国籍不明船を攻撃し沈没させるという事件が起きたが態度を表明せず、委員長志位和夫は、「日本への主権侵害に対応するのは第一義的に警察力である海上保安庁だ。その機能を充実させることは必要だ」とのべ、後に海上での攻撃を可能とする海上保安庁法改定案に賛成した。
2007年6月に陸上自衛隊情報保全隊が密かに収集していたイラク戦争反対の市民団体や著名人のリストを入手し、公表した(情報保全隊の市民活動監視問題を参照されたし)。
天皇制の取扱い
かつては、日本国憲法のうち「民主的」条項のみを認め、天皇制を認めない立場に立っていたが、立場を転換し、天皇制を含む憲法全体を認め、天皇制に関しては第二次世界大戦前の絶対主義的天皇制からの現憲法での根本的転換がなされたとして、また「護憲」の立場から憲法の条文通りの象徴天皇制を容認している。
ただし、天皇制自体については現在においても「世襲制は平等に反する」「封建制の遺物」と否定的であり、将来のある時点で、国民の合意に基づき天皇制が廃止される時が来るだろうと主張している。国会開会式への天皇の出席や皇室外交についても、「憲法違反」として認めておらず、中止を主張している。このため国会議員団は国会開会式に参加しない。こうした立場から天皇の政治利用には反対し、天皇親政への憲法改定にも反対の立場を主張している。
組織
党員
18歳以上の日本国民で、党の綱領と規約[7]を認める人は、2人の党員の推薦を受け、支部の決定と地区委員会の承認を経て、党員になることができる。ただし、地区よりも上級の委員会が直接決定を下すことも可能とされる。入党手続きの前に「党を知る会」が開かれ、党についての説明と、意思確認が行なわれる事が多い。入党に際しては「入党費」を納める必要があり、その金額は2010年現在、300円である。
1955年以前は、在日朝鮮人の党員を多数抱えていたが、1955年の在日本朝鮮人総聯合会結成に伴い在日朝鮮人の党員は多くが朝鮮総聯へ事実上移籍する形で離党した。しかし日本共産党に残った者も存在する[8][9]。1958年の第7回党大会で、日本国民でなければ入党できないと規約で定められた。
反社会的活動に従事する者の入党は党規約6条により認めない。ここで言う反社会的活動というのは、1950年代後半に日本共産党が議会中心の活動へ回帰したとき、武装闘争の継続をめざして分派した新左翼系各組織や、その後に「ニセ「左翼」集団」(後述)と非難されることになったいくつかの団体を想定しているが、オウム真理教のようなテロ組織も含まれる。 また国家権力によるスパイ活動を防止するため、警察官・自衛隊員・公安調査官及び各機関の関係者の入党も規約運用上認めていない。これらの組織を退職後、関係が完全に切れたことを党側が確認した上で入党を認められた元職員は存在する。
規約7条により、他党に所属しつつ入党(重党籍)することはできない。他党の元党員が入党することは可能ではあるが、通常の入党手続き(地区委員会の承認)とは異なり「都道府県委員会または中央委員会の承認を受ける」とされている。2000年以前は規約に「推薦人となる党員2名のうちどちらか1人が党歴3年以上で都道府県委員会、移籍する本人が前の所属政党で幹部だった場合は1人が党歴5年以上で中央委員会の承認」とはっきり規定されていた。
党員は基本的には「支部」に所属して活動する。義務である党費は「実収入の1パーセント」(党規約46条)であるが、失業中または著しく生活に困窮していると認められる党員については減免を行うことができるとされる。このため党籍を持っているにもかかわらず党費(しんぶん赤旗の購読料は別)を納めていない党員が全体の3割近くに達する。
しんぶん赤旗の日刊紙を「読むこと」も一種の努力目標(「4つの大切」[10])となっている(しんぶん赤旗も参照)。もっとも2000年以前は規約2条に「日々の『赤旗』をよく読んで」と記述され義務になっていた。ここでの「読む」というのは、単に「購読料を払って毎日の配達を受ける」だけではなく、紙面に掲載された内容を党員各個人が完全に理解し、日々の活動に生かしたり党会議でたたき台にするところまで要求されている。特に民主集中制の下で最も重要な党大会、中央委員会総会の決定は、規約5条で「速やかに読了」するだけでなく所属する支部の党会議でなされる「討議」に参加することも義務とされ、その決定が掲載されるのは「党中央機関紙」であるしんぶん赤旗日刊紙に他ならないことから、表向きは努力目標としながらも実際は形を変えつつ義務が残っていると解釈することができる。
10条該当党員
党規約11条に「党員の資格を明白に失った党員、あるいはいちじるしく反社会的な行為によって、党への信頼をそこなった党員は、慎重に調査、審査のうえ、除籍することができる」とあり、この規定の具体的運用として党規約10条に「党費(所得割部分でありしんぶん赤旗の購読料は除く)を連続する12ヶ月以上全く納めず、かつその期間中1度も党活動に加わらなかった党員は組織の活動から除外されるか、本人と所属する支部の間の協議(組織側の努力にかかわらずどうしようもない場合は省略することも可能)の上で離党の手続きを取られることがある」と規定されている。これに該当する党員を「10条該当党員」という。1980年以前は許される期間が6ヶ月だった。
10条該当党員がこれらの手続きを経てもなお離党に応じないときは、党として取り得る最後の手段という形で除籍の措置がなされることもあるが、党員数が直接的に減少してしまうほか、将来党活動に復帰して党費を納められるようになるチャンスを摘んでしまう恐れがあると指摘されていることから、実際に都道府県や地区委員会のレベルで10条該当党員を集中的に除籍措置したという報告は滅多にない[11]。万が一除籍が行われた場合、該当者は再入党を希望しても支部や地区ではなく、都道府県委員会の決定を受ける必要があるためもし認められたとしても相当の時間がかかる。2000年以前には推薦人となる2人のどちらかが本人の離党受理ないしは除籍措置後の素行を知っていることという規定もあり再入党は厳しかった。
離党と賞罰
党員本人の意思による離党は党規約10条で「一級上の委員会の承認を受け」ることで可能とされているが、その際、規律違反行為が認められる場合には処分が優先される。
処分には、警告、権利(部分または全面)停止、機関からの罷免[12]、除名がある。
1950年代から60年代にかけては、武装闘争路線の継続を目指すなどの分派行為によって多数の除名者を出してきた(「除名」も参照)。これら除名者が改悛した場合を想定して、党規約第54条には「除名された人の再入党は、中央委員会が決定する」という規定があるが、それ以前に除名の決定自体中央委員会が行う[13]ことが多く、除名を覆すことは実質的には不可能である。また処分を受けた党員は、中央委員会・党大会に至るまで再審を要求することができるが、実際に再審が行われることはまずないと言っていい[14]。
もっとも1990年代以降は除名処分となる者が激減し、代わりに「党員としての資格に明白に欠けているか党の信用を著しく損ねた」者は除籍することができるという上述の規定が拡大解釈される形で反指導部的な党員が多数除籍されてきた[15][16]。除名には明確な反党行為が必要だが、除籍は「党員としての資格に欠けるか党の信頼を損ねた」という、除名よりもはるかに抽象的な理由で可能とされることが大きな理由の1つではないかとみられている。
また10条該当党員に対する支部や地区の決定による除籍では都道府県委員会による再入党決定という形で覆すこともできるが、反指導部的な理由でより上級の組織(都道府県ないしは中央)が除籍を決定した場合は対応が異なり事実上覆せない。その決定的な違いとして除名に認められている再審請求が除籍ではできないことが挙げられる。これは除籍の対象になった者から反論の機会を奪うという点で組織側に有利と判断されている。
永年党員
日本共産党には「永年党員」(党歴30年以上)、「50年党員」(党歴50年以上)と言った党籍長期継続に対する表彰制度があるが、表彰の際に使われる党歴は、あくまでも党費を完納した期間を元に計算する[17]。10条該当党員であった期間は党歴計算から外される。即ち、50年党員であれば(たとえそれが連続していなくても)入党から600ヶ月分、永年党員でも360ヶ月分の党費を完納していることになる。著名な50年党員として俳優の花沢徳衛などがいる。
ただし、永年党員ないし50年党員の表彰経験があっても、規律違反に対する処分には優越しない。規律違反によって権利停止以上の処分を受けると、表彰は取り消される。50年党員だった野坂参三が除名された例や、過去には永年党員でありながら除籍まで行った例もある[18]。
党員候補
入党を希望する各個人の素性の見極めや新入党者教育の徹底のため、1966年の第10回党大会で党員候補の制度が導入された。
入党を希望した者が入党費を納めた時点から5ヶ月を経過するまでは党員候補として扱われ、その間に新入党者教育が行われた。また1976年までは労働者、農民以外の階層に属すると認められた者は3ヶ月延長されて8ヶ月の党員候補期間を過ごす必要があった。その間も正式の党員と同様に党費、赤旗購読料を納める必要があった。期間が経過した後に所属する支部で審査が行われ、そこで入党決定を受けて初めて地区委員会に承認を求めることができるとされ、その承認が下りた時点で晴れて正式の党員と認められた。また党員候補期間の延長や、正式党員に昇格させずに組織の活動から外すことも可能だった。
1980年の第15回党大会で行われた規約改定のときに、党員候補の制度は廃止された。現在は入党申込書の記述に問題がないと判断され、かつ入党費の払い込みが確認された時点で、支部による入党決定と地区委員会の承認を行うことができ、入党決定後すぐに正式の党員になれる。
地方組織
職場、居住地域、学園などに、3人以上の党員で「支部」を形成(労働運動、女性運動などの専従者・役員は支部の代わりに「グループ」を形成)。かつて「支部」は「細胞」と呼ばれていた。支部は「党の基礎組織」とし、支部 - 地区 - 都道府県 - 中央の形で縦割りに組織している。各級は党会議あるいは総会により、指導機関である「委員会」(支部は「支部長」の場合もある)を選出する。
- 「支部」は、企業・団体内につくられるもの(職場支部、労組グループ、婦人運動グループなど)から、市町村などの区域内をいくつかにわけた各地単位(地域支部、居住支部)、大学などに通う学生単位(学園支部)、更には階層ごとに組織されるもの(青年支部[19]、複数の学校にまたがる学生支部など)など、様々な形態で存在する。居住地域の「支部」は、他の政党には見られないきめ細かさで、都市部では比較的身近に存在し、議員主体の政党でない同党の特徴と言える。
- 「地区」は、東京都23区では特別区単位で存在し、人口と党員の少ない地域では、県を2 - 3つにわけた程度の広範囲の名称を冠する「地区」も存在する。地区委員会は3名の専従を置くことが原則とされているが、専従が2名しかいない地区も存在する。
- トヨタ自動車や東京大学、立命館大学など多くの党員を抱える職場・学園、一つの市町村区域内に2つ以上の支部がある場合、地方議員を抱える場合などに補助機関として「委員会」が組織されている(党規約[20][21]など)。
現在の日本共産党規約[20]では、「地方的な性質の問題については、その地方の実情に応じて、都道府県機関と地区機関で自治的に処理する。」とし、民主集中制でありながら、一定の党内自治権を謳っている。かつては上意下達的な指揮命令権が確立されており地域の実情が考慮されていない傾向が強かった。その傾向により活動や自治体運営のうえで障害が発生する事もあった。
事務所・施設
日本共産党の事務所・施設は、本部、伊豆学習会館、都道府県委員会事務所、地区委員会事務所の党機関事務所と、衆議院議員ブロック事務所、参議院議員都府県事務所がある。他に補助機関(市委員会)の事務所や党地方議員(議員団)の事務所が存在する場合がある。選挙事務所は別の場合が多い。なおしんぶん赤旗の編集局と支局は党事務所とは別に存在する。
本部
代々木駅・北参道駅に近い東京都渋谷区千駄ヶ谷四丁目の東日本旅客鉄道中央本線沿いにある。地上8階・地下2階の「2期棟」(2005年2月1日竣工)と、地上11階・地下1階の「1期棟」(2002年完成)で構成され、延べ床面積は約16000m²で、延べ床面積では日本の政党本部ビルで最大規模である[22]。総工費は85億円で、多くは党員・支持者からの寄付や無利子借入金による。
この場所は、元々映画館であった建物を党の合法化以降使用し始めたものであり、後に党勢拡大に応じて改築・建て増しを繰り返し、8棟のビルからなる本部であった。1995年の阪神淡路大震災の後で行った耐震診断で一部の建物が同地震クラスの地震で倒壊の恐れがあると診断されたため、1998年に建て替えを決定し、2000年から工事を開始した。
「日本共産党中央委員会」を掲げ、中央委員会の諸機関が入居しており、中央委員会総会などが開催できる500人収容可能の「大会議室」を有する。一方で、党大会は収容人数の問題から本部ビルでは行わず、またしんぶん赤旗編集局は向かいの別のビルに入居している。
この他エントランスホールは8時から20時まで自由に出入りできるようにするなど、一部が一般に開放されている点が特徴[23]。本部見学も行われている。本部内は「平成日本のよふけ」で放送された。
党による指名見積もり方式の結果、基礎建築の施行者は戸田建設となった。共産党は政治腐敗一掃の一環として「ゼネコン(総合建設業者)と自民党との癒着追及」を掲げるため、大手建設業者との関係は概して良くないが、総合建設委員会の責任者となった上田耕一郎副委員長は、『戸田建設百年史』を見ると全国建設業協会の設立時に会長候補へ推されたのは戸田建設二代目社長の戸田利兵衛で、戸田は業界はいたずらに国政の権力者や特定の政界の庇護を受けるべきでないとの持論だったとし、「政党との癒着に反対する社史があるというのは、なかなかいい伝統だなと感じました」と結んで、準大手ゼネコンである戸田建設を好意的に紹介した[24]。
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本部ビル
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本部入口
伊豆学習会館
静岡県熱海市上多賀の伊豆多賀駅西方約2kmの山中にある。科学的社会主義や公式党史などを学ぶ「党学校」などが開かれる他、党大会が付属大講堂で開催される。この場所は、江戸城築城の際に石を切り出したところであるという。
地方
都道府県委員会、地区委員会は事務所を有しており、場所を公開し、勤務員が常勤している。地区委員会の事務所は概ね一般的な民家・小商店くらいの建物規模或いはオフィスビルの一フロア程度の規模が多く、ほとんどはしんぶん赤旗の新聞販売店(配達拠点・管理)の機能を併せ持っている。県庁所在地の場合、県委員会と地区委員会の事務所が同じ建物内にある場合もある。
機関紙誌
中央
日本共産党は多くの中央機関紙誌を発行しており、党員・後援会員以外の人も購読する事ができる。
中央機関紙として日刊の『しんぶん赤旗』(ブランケット判)と週刊の『しんぶん赤旗日曜版』(タブロイド判)を発行している。かつては学生向けの『学生新聞』も発行されていた。
『前衛』、『女性のひろば』、『議会と自治体』、『月刊学習』などの月刊機関誌を発行している。これら雑誌は、日本国内一般書店での取扱が可能である。
かつては、『世界政治 - 論評と資料』(『世界政治資料』。1992年12月の第875号をもって廃刊)、『理論政策』(『理論政策資料』。1993年1月の第300号をもって廃刊)などの刊行物もあり、1983年に開始された写真誌『グラフこんにちは日本共産党です』は2000年12月17日の第372号をもって「休刊」している。
なお、『世界政治 - 論評と資料』は、日本共産党に敵対的な勢力にも貴重な情報源として用いられていた。
なお、1989年の消費税導入当初には新聞などの広告に「日本共産党は消費税廃止を主張していますが、流通取り扱い上価格は税込みとします」という文言が入っていた。
地方
都道府県委員会等の地方指導機関が発行する地方機関紙がある。『○○民報』(○○には当該地名が入る)という名称が非常に多い。中には党関連の別組織が発行している例(『京都民報』、『大阪民主新報』)もある。その他、地方議会議員(団)が発行する広報紙がある。
普及協力
新日本出版社の発行する月刊『経済』の普及(宣伝)に協力しており、党の事務所では販売や定期購読の申し込みを受け付けている。かつて雑誌としては『文化評論』[25]『あすの農村』『労働運動』(以上、毎月発行)『科学と思想』(年2回刊)も発行していたが、休刊もしくは廃刊している。
また、日本民主青年同盟の発行する『民主青年新聞』『われら高校生』(いずれも週刊紙)の購読の仲介もしている。
かつて学生新聞社(所在地は新日本出版社とおなじ)が発行していた『学生新聞』も普及していたが、2002年に廃刊となった。小中学生向けの『少年少女新聞』(少年少女新聞社)の仲介もしていたが、休刊中である。
歴史
結党
1922年7月15日、堺利彦、山川均、荒畑寒村といった日本社会党の元党員を中心に日本共産党が設立(9月創立説もある)され、一般には「第一次日本共産党」と称されている。設立時の幹部には野坂参三、徳田球一、佐野学、鍋山貞親、赤松克麿らがいる。
しかし創設当時から、治安警察法などの治安立法により非合法活動という形を取って行動せざるを得なかった。ほかの資本主義国では既存の社会民主主義政党からの分離という形で共産党が結成され、非合法政党となったのとは違い、日本では逆に非合法政党である共産党から離脱した労農派などが、合法的な社会民主主義政党を産みだしていった。これはかなり異質である。
11月にはコミンテルンに加盟し、コミンテルン日本支部・日本共産党となった。この時、コミンテルンから綱領として「日本共産党綱領草案」が示されたが、日本での議論がまとまらず、結局草案のまま終わった。
「天皇制廃止」と「私有財産制度の否定」を目的としたため、日本共産党は繰り返し政府から取り締まりを受け、運動が困難となった。堺利彦らは解党を唱え、結果1924年に解党された。堺や山川らは共産党運動から離れ、労農派政党の結成を目指した。また、後に日本革新党を結党する赤松など、国家社会主義等の右翼に転向する者もいた。
その後、1925年には普通選挙法と治安維持法が制定された。この二つは後の共産党の運動に大きな影響を与える事になる。
再結党と戦前の活動
1926年、かつて解党に反対していた荒畑寒村が事後処理のために作った委員会(ビューロー)の手で共産党は再結党された(第二次日本共産党)。福本和夫、佐野学、徳田球一らが幹部となっている。1927年には「27年テーゼ」がコミンテルンから通告される。これにより、社会民主主義との闘争の強調や、ファシズムと社会民主主義を同列に置く「社会ファシズム」論を採用することになる。この理論は、山川や福本和夫の理論を否定するものであったため、労農派と論争が起こり、両者は決裂することになる。この対立は1938年の人民戦線事件で労農派が消滅するまで続いた。(日本民主革命論争・日本資本主義論争)。
当時の党組織は、非合法の党本体と、合法政党や労働団体など諸団体に入って活動する合法部門の2つの柱を持ち、非合法の地下活動を展開しながら、労働農民党(労農党)などの合法政党に顔を出して選挙活動を支えた。共産党員であった野呂栄太郎らの『日本資本主義発達史講座』などの理論活動、小林多喜二や宮本百合子らのプロレタリア文学活動は多大な影響を与えた。
1927年の第16回衆議院議員総選挙では徳田球一、山本懸蔵をはじめとする何人かの党員が労農党から立候補し、選挙戦のなかで「日本共産党」を名乗る印刷物を発行した。総選挙では労働農民党京都府連合会委員長の山本宣治が当選した。彼は非公式にではあるが共産党の推薦を受けており、初めての「日本共産党系の国会議員」が誕生した。しかし1928年の三・一五事件や1929年の四・一六事件で治安維持法に基づく一斉検挙を受け、党はダメージを受けた。また同年、山本宣治は右翼団体構成員に刺殺された。
当時(いわゆる「武装共産党」時代)の指導部内では革命近しの気運が高まっていた。そのため1930年には川崎武装メーデー事件、東京市電争議における幹部暗殺計画・車庫放火事件等の暴発事件を起こしている。
「武装共産党」に続く、「非常時共産党」時代の1931年8月1日、反戦デーにおいて非合法集会・デモ行進を組織した。
1931年、コミンテルンより「31年政治テーゼ草案」が提出される。この草案は当面する日本革命の課題を社会主義革命としていた。
1931年9月に発生した満州事変に際しては「奉天ならびに一切の占領地から、即時軍隊を撤退せよ」「帝国主義日本と中国反動の一切の軍事行動に反対せよ」とするステートメントを出している。このころには、戦争反対の活動に力をいれ、1932年には「兵士の友」や「聳ゆるマスト」などの陸海軍兵士にむけたパンフレットを発行した。軍隊内部への浸透を図ったものだったが、この計画は弾圧を受けて失敗に終わった。
1932年5月、コミンテルンにて32年テーゼが決定され、戦前における活動方針が決定された。このテーゼは日本の支配構造を絶対主義的天皇制を主柱とし、寄生地主制と財閥による独占資本主義という3つのブロックの結合だと規定。ブルジョア民主主義革命を通じて社会主義革命に至るとする二段階革命論の革命路線を確立した。民主主義革命の主要任務を、絶対主義的天皇制の打倒、寄生的土地所有の廃止、7時間労働制と規定し、「帝国主義戦争と警察的天皇制反対、米と土地と自由、労働者・農民の政府のための人民革命」を中心スローガンとするものであった。
しかし同月、全協の活動家である宮上則武が「超スパイ(プロヴァカートル、挑発者)」としてリンチされ、一命を取り留めたが除名されるという事件が起こる。8月15日、朝鮮人活動家の尹基協が「スパイ」容疑で射殺された。松原も尹も、スパイ容疑は濡れ衣というのが有力である。この頃から内部でのスパイ狩りが始まり出した。
10月には熱海で極秘裏に全国代表者会議が開催されたが、当局により代表者達が逮捕されている(熱海事件)。また同日、赤色ギャング事件が発生。多くの活動家が逮捕された。松本清張は『昭和史発掘』の中で、これら共産党へのマイナスイメージとなる事件は当局が潜入させた「スパイM」が主導したとしている。「スパイM」の存在は現在の日本共産党の公式見解でもあり、政府と特別高等警察が、共産党を壊滅させるための戦略として、共産党内部に協力者をつくり出して工作を行わせたとしている。また、それらの協力者や工作員のが主要幹部になり、彼らの働きで暴力的事件を起こさせ、共産党の社会的信用を失墜させることにより、後継の加入を阻止する壊滅作戦を図ったとしている。実際にスパイであったことを公判で「自白」して、治安維持法違反の容疑を否定したものもいた[26]。
さらに1933年6月12日、委員長であった佐野学、幹部の鍋山貞親が獄中から転向声明を出した(共同被告同志に告ぐる書)。こうした一連の事件によって、獄中でも党員に動揺が走り大量転向が起きた。書記長であった田中清玄の転向・離党もこの時期である。闘争方針の中心に「スパイ・挑発者の党からの追放」が据えられ、党内の疑心暗鬼は深まり、結束は大いに乱れた。
12月、中央委員である宮本顕治らが「スパイ」として同じ中央委員の小畑達夫と大泉兼蔵を監禁し、小畑が死亡する事件が発生した。宮本らを始めとする活動家は逮捕され、また世間にも事件は大きく報道された。
党内の動揺はいよいよ激しくなり、1935年3月に獄外で活動していたただひとりの中央委員であった袴田里見の検挙によって中央部が壊滅、統一的な運動は不可能になった。
戦時下の活動
1936年のフランスやスペインで「人民戦線」とよばれる統一戦線政府が成立し、コミンテルンでも人民戦線戦術が提唱された。モスクワから帰国した日本共産党幹部によって「人民戦線運動」が呼びかけられたが、大きな広がりにはならなかった。
日中戦争に際しては、戦争反対とともに、出征兵士の家族の生活保障や国防献金徴収反対などの「生活闘争」との結合を企図した。
その後も、関西には同党の再建をめざす運動や、個々の党員による活動は存在したが、いずれも弾圧の対象となった[27]また、国外に亡命していた野坂参三は、延安で日本軍捕虜の教育活動をして、戦後の運動再建に備えていた。また宮本顕治は、裁判の中で日本において共産党の活動が生まれるのは必然的なものだと主張するなど、法廷や裁判で獄中闘争を続けていた。
終戦と合法化
1945年8月15日の第二次世界大戦の終戦後、日本共産党は徳田球一を書記長として合法政党として再建された(戦前の共産党(第二次共産党)との断絶を重視する立場(加藤哲郎など)からは、これ以降の共産党を「戦後共産党」(第三次共産党)と称することもある)。出獄した幹部は、釈放を喜び、はじめのうち連合国軍を「解放軍」と規定した(現在は否定している)。1946年の第22回総選挙では5議席を獲得し、初めて帝国議会に議席を得た。
独自の憲法草案として、日本国憲法の制定前の時期に「日本人民共和国憲法草案」を発表。日本国憲法制定時の採決では、「天皇制の存続による民主化の不徹底」や内閣総理大臣吉田茂の「自衛戦争の否定」発言などを理由に、反対票を投じている。
連合軍に解放された党は、急激にその勢力を増していった。各地域や職場・学校では党員による細胞(現在の「支部」)が組織され、学生運動や労働運動を活発に展開した。1947年には、階級闘争の高揚の中で「吉田内閣打倒」を掲げる二・一ゼネストと呼ばれる大規模なゼネラル・ストライキが計画されていたが、前日のダグラス・マッカーサーの中止命令を受け全官公庁共同闘争委員会の伊井弥四郎議長が同日夜、ゼネラル・ストライキ中止指令をラジオ放送を通じて発し、これによって二・一ストは敗北し、戦後の労働運動の大きなつまずきとなった。
日本国憲法施行により実施された一連の選挙、第23回衆議院議員総選挙・第1回参議院議員通常選挙・第1回統一地方選挙では、天皇制廃止や食糧・炭鉱の人民管理などを主張する共産党は急進的すぎると見られ、党の思惑通りの議席数は得られなかったが[28]、その後も国民の生活困窮を背景に活発な大衆運動を続けた事で党勢を拡大し、片山・芦田内閣の迷走で社会党に失望した有権者層の一部を吸収したために、1949年の第24回総選挙では従来の約9倍にあたる35議席を獲得した。特に東京都区内の7選挙区全てで当選者を出すなど、大都市部やその周辺だけでなく、農民運動のさかんだった鳥取県全県区や山梨県全県区など、ほかにも新潟や石川など、東北・四国地方以外のすべての地域で当選者をだした。
1950年問題(分裂、武装闘争方針)
米ソの冷戦が激化し、中国で中国共産党が勝利し朝鮮半島での緊張が高まると、米国は、「日本を中立・非武装化して中国をアジアの拠点とする」というそれまでの戦略を転換させ、日本を「反共の砦」と位置づけるようになる。反共・封じ込め政策に基づくいわゆる「逆コース」である。このため日本の朝鮮戦争(1950年)の出撃基地化、日米安保条約の締結(1951年)、「戦犯」の復帰、警察予備隊(のちの自衛隊、1950年)の創設がおこなわれ、共産主義者とその同調者とされたものにレッドパージがかけられた。1950年にマッカーサーは共産党の国会議員など24人の公職追放・政治活動の禁止を指令。幹部だった徳田球一らは中央委員会を解体し、非合法活動に移行。中国に渡航して「北京機関」とよばれる機関をつくった。日本には徳田らが指名した臨時中央指導部が残った。
一方、この頃、中国共産党の勝利により、武装闘争による革命という路線を普遍化しようとしていたスターリンと毛沢東らは、コミンフォルムを通じて、当時の日本共産党の「占領下での革命」論(平和革命論)を批判していた。このコミンフォルム論評の評価をめぐり、党内で意見が別れた。さらに後にソ連・中国が徳田らの主流派を支持する形で他の反主流派を批判するキャンペーンを展開し、資金などの応援もしたため、占領軍による弾圧とあいまって、日本共産党は分裂・混乱に陥った。
党は、徳田ら主流派(所感派)、宮本顕治ら国際派、春日庄次郎、野田弥三郎ら日本共産党国際主義者団、福本和夫ら統一協議会、中西功ら団結派など大小数派に分裂した。また1950年には徳田要請問題が発生し、徳田が証人喚問される事態になった。
1951年10月の第5回全国協議会(5全協)で、党は〈統一を回復〉したが、第6回党大会で選出された中央委員会の機能は回復せず、〈臨時中央指導部〉の方針によって行動することになった。5全協は、「農村部でのゲリラ戦」を規定した新たな方針「日本共産党の当面の要求」(当時、「51年綱領」と呼ばれた)「軍事方針」を採択。「山村工作隊」「中核自衛隊」などの武装組織を建設し、武装闘争の戦略を記した「球根栽培法」や、武器製造法を記載した「栄養分析法」等を密かに発刊した。その方針に基づき、全国各地で火焔瓶闘争を繰り広げ、米軍基地、警察署、裁判所などを襲撃したものもあらわれた。その中には、1951年12月、東京都練馬区においての印藤(伊藤)巡査殺害事件がある。また、1952年1月、北海道札幌においての白鳥警部殺害事件や、5月の血のメーデー事件や、6月の吹田・枚方事件等の騒擾事件の原因が日本共産党に擬されることもあった。
徳田を中心とした主流派の主導した武装闘争路線は到底、国民の支持を得られた出来事ではなく、それと同時に離党者を生む結果となった。1952年に行われた第25回総選挙では公認候補が全員落選するなど、著しい党勢の衰退を招くことになっていった。この1950年代の同党の分裂と混乱を、同党自身は「五〇年問題」(50年問題)・「五〇年分裂」(50年分裂)と呼んでいる。
1952年、政府はこれら武装闘争を取り締まるためとして、破壊活動防止法(破防法)を制定した。日本共産党は同法の「調査対象団体」に指定された。六全協や第7回党大会による総括・第8回党大会以来の綱領路線を確立した現在も、敵の出方論を主張しているという理由から公安警察や公安調査庁により“調査活動”が現在も続けられている。特に警察は日本共産党幹部宅盗聴事件、アジトからの隠しカメラを用いた党本部監視、果ては菅生事件など、明るみに出ただけでも複数の非合法な手段を用いてスパイ行為及び組織破壊工作をしており、党はその不当性を訴えているが、『警察白書』では、2006年現在も共産党を調査対象団体とし、数ページを割いて動静を追跡している。警察学校での「初任科教養」においても、党の綱領や決定について、きわめて批判的な講義がなされている。一方、破壊活動防止法に基づく調査活動を行っている公安調査庁では、現在では公然情報の整理と分析に留まっているが、時々職員によるスパイ工作が発覚し、党組織や日本国民救援会などの人権団体を通じて抗議活動が行なわれている。
1955年、武装闘争路線を完全に清算し、ふたたび議会政党に復帰することを決断した。後に共産党の公式見解上ではこのことを契機に自分自身の力によって中ソなどの大国の干渉を払拭して自主独立の路線を確立するに至ったとされている。さらに徳田に統率された主流派も書記長である徳田が亡命先の北京で客死したことや、その後の指導権争いなど一連の騒動で疲弊しており、国内にいた宮本らの国際派と合流せざるを得ない状態になったとしている。
その後開催された党の第6回全国協議会(六全協)および1958年の第7回党大会で党の団結と統一を果たすに至ったが、そこに達するまでは相当の紆余曲折があった。後に選挙において得票率は徐々に回復してきたが、商業ジャーナリズムに取り上げられることも少なく、インテリに対しての大きな威信と指導力を取り戻すことはなかなかできなかった。宮本顕治(のちに、幹部会委員長・議長にも)が書記長に就任後はいわゆる宮本体制を整えていったが、自主独立といわれる路線を構築する要因となったきっかけは、ニキータ・フルシチョフの修正主義を批判したことと、友党関係を築いていた当時の中国共産党とでの反米反ソ統一戦線論による干渉がおき、またインドネシア9月30日事件でのインドネシア共産党への弾圧が、支配層の動きを研究する必要性を呼び起こし、、以降はソ連共産党と中国共産党などの外国勢力の影響を受けず、外部の意向に拠らず独自に活動を展開することになる。
これを契機に不破哲三や上田耕一郎といった改革派を次々と党の中央の要職に抜擢し「自由と民主主義の宣言」や「宗教についての日本共産党の見解と態度」(宗教決議)を打ち出したり、マルクス・レーニン主義を科学的社会主義、プロレタリア独裁の放棄など名称の変更や改訂を行ったり当時ヨーロッパで提唱されていたユーロコミュニズムの主張と類似するような動きを開始した。上田耕一郎などはユーロ・ジャポ・コミュニズムなどと発言し、欧州諸党との親和性を強調した。これはソ連に主導された国際共産主義運動の動向・意向に敏感に従っていたそれまでの党のあり方と異なる点で、以後の日本共産党の特徴になった。
なお、大武礼一郎は第7回党大会の代議員として出席したが、第7回大会の方針は日和見主義であるとして党を離れ、「日本マルクス・レーニン主義運動」を通じて日本共産党 (行動派)(下部組織に日本人民戦線)を結成した。
自主独立路線の確立
中ソに盲従することで党組織に壊滅的な打撃を受けた経験から、同党は「自主独立の重大性を認識させる契機」(同党第20回大会報告)となったという。しかし、同党が「ソ連などの覇権主義にたいする認識は、はじめから全面的であったわけではありません」(同)とのべているように、50年問題解決後も、ソ連のユーゴスラビア非難への同調、ソ連のハンガリー侵攻への支持をした。ハンガリー事件を契機に、学生などが共産党の影響をはなれ、全日本学生自治会総連合などにいた学生党員を中心に日本共産党に反対する共産主義グループがつくられていった。
合法活動路線への転換や1956年のスターリン批判を経て、元党員のトロツキー主義者らは日本トロツキスト聯盟(後の革命的共産主義者同盟)を結成、全日本学生自治会総連合の一部活動家らは共産主義者同盟を結成した。1960年の安保闘争では強硬な運動を主張する全学連指導部を一時簒奪した勢力が日本共産党を主要な打倒対象として激しく対立。共産党は彼らをまとめて「トロツキスト」と非難した(必ずしも批判された側すべてが「トロツキー」主義者であったわけではない)。
1961年には綱領草案を巡る論争の中から日本独占資本を主敵とし、当面する革命を社会主義革命とする「一つの敵」論を主張する春日庄次郎、山田六左衛門ら構造改革派が離脱し、その中の一派共産主義労働者党を結成。春日らは、宮本の専横的な党運営を批判し、「一時離党」するとして「日本共産党万歳!」と声明したが、党は離党届を受け付けず除名処分とした。
1964年には中・ソ対立の中で党の「中国共産党寄り路線に反対する」とし、国会での部分的核実験停止条約批准に党の決定に反して賛成票を投じた衆議院議員の志賀義雄や、参議院議員の鈴木市蔵ら親ソ連派が除名され、「日本共産党 (日本のこえ)」を結成。文化人では、中野重治・野間宏らがこの時志賀鈴木らに同調して党に離反している。ソ連は志賀グループを公然と支持し、日ソ両党は激しい論争となった。
この時期、日本共産党員は競って中国語を習い、自分の名前を中国語読みし、「北京周報」を読むなど中国共産党への支持が強まっていった。
4.17ゼネスト問題で、スト破り的行為をとった日本共産党は、その後の自己批判にもかかわらず総評からの支持も失い、新左翼諸党派から厳しく非難された。
また、1966年、「文化大革命」発生と同時期に中国共産党と中国政府から日本共産党へ「修正主義」との批判が加えられ、ここでも激しい論争となった。世界各国の共産党でも同じような現象がおきたが中国文革に同調し毛沢東を個人崇拝するグループが各地でつくられ、山口県委員会などは一時中国派の中心になった。「共産党は一九六六年に、従来の非妥協的親中共路線とたもとをわかち、“現代修正主義”〔ソ連〕と“左派教条主義”〔中国〕との断絶ははっきりし、両派はこのうえない痛烈な表現で直接お互いに指導者に攻撃を加えた。八月には最後に残った二人の日本共産党代表が北京を離れたが、出発のさい紅衛兵に激しく殴打された」(アメリカ国務省情報調査局年次報告1968年版)。この過程で西沢隆二、安斎庫治、原田長司、大隈鉄二、福田正義ら親中共派が党規約にそむいたかどで除名された。その後「日本労働党」、「日本共産党 (左派)」、「日本共産党革命左派神奈川県委員会」、「日本共産党 (マルクス・レーニン主義)」(後の労働者共産党)、「日本共産党 (解放戦線)」、「日本労働者党」などを結成した。
国民の支持を仰ぎ議会多数を得ての革命路線への転換以後のこれらの党内闘争はにおいて、コミンテルン支部時代に掲げていたプロレタリア国際主義理念などを日本共産党を飛び出した側が総じて掲げていたものの、実質的には武装闘争路線への回帰や外国の政権党の指導を受け入れることを路線として掲げていたもので、とりわけ中国からの日本共産党内部への干渉、多数派工作とその破綻と見ることができる。
こうして、ソ連と中国との激烈な論争で大量の除名や分派を生み出しながら、同党は1960年代半ばごろに「自主独立」路線を確立し、むしろ50年以来傷ついた威信と党勢力を70年代前半にかけて長期的に回復・拡大していった。以後、ソ連によるチェコスロバキア侵略・アフガニスタン侵略、中国によるベトナム侵攻を批判した。また、カンボジアのポル・ポト政権、北朝鮮指導部(朝鮮労働党)による日本人拉致事件・大韓航空機爆破事件・ラングーン事件・日本漁船銃撃事件などにも厳しい態度をとり、「共産党イコール既存社会主義国の手先」というコミンテルン以来のイメージとはまったく違った国際問題での対応をとることになる。
1968年の「プラハの春」に際して、日本共産党はソビエト連邦共産党を明確に批判した。一方でソ連派が党内に潜伏していたと見られ、ソ連崩壊後、ソ連共産党内部文書の公開が始まると日本共産党は独自調査団を派遣したが、明らかになった事実をもとに野坂参三はソ連内通者として除名された。
自党からの分派は勿論、共産党は新左翼の共産同・ブントや革共同中核派、革共同革マル派、革労協、社会主義労働者党(社労党)などの政治団体・運動を1980年頃までは「トロツキスト暴力集団」、それ以降は「ニセ「左翼」暴力集団」と呼んで非難し、政治などの問題で共闘を拒絶し、排斥した。(党派闘争参照)
1972年には中央委員で青年学生対策部長であった広谷俊二と日本民主青年同盟(民青同盟)幹部であった川上徹を結節点とするいわゆる「新日和見主義事件」が発生した。民青同盟の党組織、全学連内の党組織に結成された共産党中央の「人民的議会主義」を修正主義として反対するインフォーマル組織であった。「ジャパンプレスサービス」グループ、平和運動グループ、婦人運動グループなどにも波及した。高野孟・山川暁夫などが処分され、全学連の早乙女・松尾なども第一線から身を引いた。あまりに広範囲にこの分派組織が広がったため油井喜夫ら無実の処分者もいたという。またこの分派組織の摘発・査問にかかわって無実の党員の弾圧に加わった側に、警察のスパイで民青同盟に潜入していた別の分派組織があったことが数年後に発覚している。新日和見主義分派は摘発されたほとんどの党員が反省の態度をとったことで除名者の数は少なく、公然とした反発による離党者も当時はほとんどいない党内問題であった。が、そのために面従腹背で(党会議で党路線に異論を公然と唱えることはせず自己の秘密分派を温存させ続けた)党内に残った川上徹らが分派組織を温存し25年後の1997年になって著書発行を期に市民的感覚に訴える『査問』キャンペーンを開始し、10年間ほどこの攻撃は続いた。
さらに、1976年に「自由と民主主義の宣言」という準綱領文書を採択し、ここでソ連モデルとは違う社会主義像を提起した。この流れは「ユーロ・ニッポコミュニズム」(欧州(西欧)的・日本的な共産主義)と言われた。
1970年代後半から1990年代前半に掛けて名古屋大学教授田口富久治などのネオ・マルクス主義学者党員が除籍された。
ただし、ソ連を覇権主義と批判しつつもその解体にいたるまで「社会主義の生成期」がソ連社会であるとして、ソ連を社会主義社会として規定しつづけた。だが、1994年の第20回党大会で、「社会主義の生成期」とは「過渡期社会」を意味するものであったという再意義づけがなされた。また、核兵器問題など外交問題での一致点に限定して、ソ連やルーマニアの指導者と共同声明を出したこともあった。
こうして、日本共産党を離れた人が結成したグループからの日本共産党への集団的な「復党」の動きは見られない(個人はある)。民主統一同盟や元第四インターナショナル・中核派活動家村岡到の個人党派「政治グループ稲妻」など、元は「日本共産党打倒」を掲げていた勢力が、共産党の側の新左翼への譲歩を前提として日本共産党との共闘を呼びかけた動きや、第四インター各グループが「よりまし」として選挙で共産党への投票を呼びかける動きもあるが、共産党側は「反省も無しに共闘には応じられない」と拒否している。もっとも1990年代以降、日米安保新ガイドライン改定反対、有事法制反対、憲法改正反対などの運動で、両者が集会を共にする機会は増えている。
スターリン支配のコミンテルンの「各国運動の自主独立」を標榜した解散から、戦後の「諸国共産党連絡調整機関」を標榜したコミンフォルムの実態、そしてコミンフォルム解散後も、政権党であったソ連共産党ならびに中国共産党が、各国の共産党を金銭的援助とともに「指導」する傾向が続いたにもかかわらず、日本共産党が資金援助を受けず、未だ政権党ではない中で、自主独立の立場を鮮明に出来たのは民主集中制の堅持と、戦前からの日本のマルクス主義研究の独自の伝統と、機関紙発行中心の近代議会主義にマッチした財政活動の確立が決定的なものであったと党は主張している。
「55年体制」下
1955年頃から宮本顕治が事実上の指導者になり、1960年代半ばには党の指導者と実務面の指導者を二重にして継承する体制を確立、不破哲三に実務面を継承させた(議長宮本、委員長不破体制)。これにより一枚岩体制が確立し、戦前から問題であった内部抗争や金銭的腐敗を一掃し、「クリーンな党のイメージ」の確立に成功する。
合法路線復帰以後は党勢を拡大し、1960年の第29回総選挙からは、原則として全選挙区に公認候補を擁立するようになった。その後1970年代初めまで得票率を伸ばし続け、1972年の第33回衆議院議員総選挙では38名の候補者が当選し、議会第3党、野党第2党に躍進する。また、同年には田代文久が特別委員会の石炭対策委員会委員長に選出され、共産党議員として初の国会委員長が誕生した。
共産党の躍進は地方自治体の首長・議会選挙にも及び、1967年に長野県塩尻市で初の党員市長(高砂政郎)が誕生したのに続き、1973年の東京都議会議員選挙では当選者数が日本社会党を上回り[29]、1975年の統一地方選挙では大阪府知事選挙で黒田了一を共産党の単独推薦で再選させた[30]。
1975年、文藝春秋誌上で立花隆の日本共産党の研究が連載開始される。翌年、この連載に「共産党査問リンチ事件」の裁判記録が掲載された。当時委員長であった宮本顕治と副委員長であった袴田里見が被告となったこの裁判の記事は国会でも取り上げられ、大きな話題となった。この結果、1976年の第34回総選挙では共産党の議席は17議席にまで落ち込んだ。翌年には袴田が党と宮本を批判し、除名処分となっている。しかしその後盛り返し、1979年の第35回総選挙では最高の39議席を得る。
1979年10月に林百郎が衆議院懲罰委員長に選出され、共産党議員として初の国会常任委員会委員長が誕生した。その後は自民党や産経新聞を中心とする「自由社会を守れ」キャンペーンやサンケイ新聞事件などの強烈なネガティブキャンペーンの影響で落ち込む。この当時、『小説吉田学校』を執筆した戸川猪佐武が、『小説自民党対共産党』という本を出している。「70年代は自共対決の時代」と持て囃されたこともあった。
日本社会党と日本共産党は、日本政治の中では革新陣営に属し、中道の民社党、公明党をはさんで保守の自由民主党に対峙する位置にあった。「55年体制」の成立以来、政権は一貫して自民党の手にあり、社共共闘、あるいは全野党共闘により政権交代を樹立するというのが当初の社共の方針であった。共産党は、「70年代の遅くない時期に民主連合政府を樹立する」と主張していた。
しかし、社会党内部には社共の協力より社公民の協力を重視すべきだという意見があり、これがしだいに力を持った。民公、特に強い反共主義姿勢を持つ民社の側(特に春日一幸)からの、共産排除要求もあった。これに同調したのが、社会党内の構造改革派・社公民路線派の一部が社会党左派に追われる形で独立した社会民主連合であった[31]。共産党が勢力を伸ばすにつれて、総評系労組(特に官公労)など、各種運動団体で社共の主導権争いが激化し、それらの団体を主な支持基盤とした社会党との関係にも悪影響を及ぼした。
1979年4月、東京都知事選挙で革新統一候補の元総評議長太田薫が敗れると、社会党は公明党との関係強化(1980年1月にいわゆる〈社公合意〉を締結した)による右傾化を進め社共共闘は瓦解した(社会党側からは「共闘を通じて社会党員・支持者が共産党に流れてゆき、票と議席が減っていったことに不信感を持った」とも言われている)。1980年代には、「自民党と“共産党を除く”全野党の国会対策委員長による会談」(国対政治)が常態化して、共産党の排除が進んだ。
1980年代、日本共産党は「民主連合政府」のスローガンを事実上棚上げして、「非核の政府」という路線にきりかえた。これは、当時ソ連共産党が全世界的に展開していた「反核運動」と一定程度呼応するものであり、日本共産党とソ連共産党の一定の接近を意味した。
だが、1989年元旦の「赤旗」の宮本顕治議長のインタビューを機に、党は事実上社会主義革命を放棄し、「資本主義のもとでの民主的改革」を強調するようになった。
日本共産党は1960年代から、国政選挙では当選の可能性を度外視して全ての選挙区で候補を擁立する戦術を取っていた。社共共闘の破綻後は、地方選挙でも独自候補を積極的に擁立し、日本全国で少数派としての存在を示した。この戦術は、当選者が複数の中選挙区制では有効であった。定数1(小選挙区制)の選挙区では自民党と競り合う社会党の票を奪うことで、しばしば自民党候補の過半数以下での当選という結果をもたらした。自民党の長期支配が続く中、共産党の独自擁立も結果として自民党政権継続に有利に作用する要素として取り込まれていったと見られることもある。
その一方、地方の首長選挙で自民党と社会党が同調して、日本共産党以外全政党相乗りの候補が出現するようになると、「日本共産党の存在によって選択肢が確保され」ているとして「オール与党」批判の宣伝を行うようになった。ただ、滋賀県の武村正義、神奈川県の長洲一二、岡山県の長野士郎、世田谷区の大場啓二など、日本共産党も相乗りに加わっている候補も一部に存在した。それについては「革新首長に自民党が同調し、乗っ取っていく過程に生じた一時期のものであり、次の出馬の際には共産党は排除されていった」と主張している。事実、共産党を含む相乗りは長続きせず、後に相乗り候補対共産党候補という構図が出来上がっている。
創共協定
公明党の母体である創価学会とは、1974年12月28日、松本清張の仲介で池田大作と宮本顕治で相互不可侵・共存を約した協定を10年間の約束で結んだ。創共協定(共創協定)と呼ばれる。しかし、自民党との関係悪化を恐れた公明党の抵抗もあり、協定は翌年の公表とほぼ同時に死文化。1980年、創価学会による宮本顕治宅盗聴事件が発覚すると、両者の対立は決定的となり、協定の更新は行われなかった。
部落解放同盟との対立
部落問題も参照
他に目立ったのが部落解放同盟との対立である。解放同盟は元々、共産党の影響力が強く、1960年代前半までは両者は友好的な関係にあったが、1965年10月8日、内閣同和対策審議会答申が出されたことが大きな転換点となった。社会党員など同盟内の他の潮流は、部落差別の存在を認め、「その早急な解決こそ、国の責務であり、同時に国民的課題である」と明記した答申の内容をおおむね肯定的に評価し、同対審答申完全実施要求国民運動を提起することで一致したのに対し、共産党や同党員である解放同盟の活動家はこの答申を「毒まんじゅう」と批判した。その結果、同盟内で急速に支持を失い、同年の第20回大会では、共産党系代議員の提出した修正案は否決、同対審答申完全実施要求国民運動の展開を骨子とした運動方針が採択され、役員選挙では共産党員である中央執行委員のほとんどが解任された。共産党はこの動きを「一部反党修正主義者、右翼社会民主主義者の幹部」による策動として強く非難した。
大会以後間もなく、京都府連の分裂が表面化、その余波で、府連書記局が設置されていた文化厚生会館の帰属をめぐり、解放同盟京都府連と部落問題研究所との間で紛争が発生した(文化厚生会館事件)。さらに同和対策事業特別措置法制定が急ピッチで進んでいた1969年2月、党農民漁民部編『今日の部落問題』を刊行し、その中で解放同盟指導部を「改良主義的、融和主義的偏向から自民党政府と安上がりの時限立法による特別措置で妥協した」と批判。同盟中央は抗議の意志を示すため、同書刊行直後に開かれた全国大会に来賓として出席した共産党議員を紹介だけにとどめ、祝辞を読ませないとする対抗措置がとられるなど、さらに関係は悪化した。同年大阪で起きた「矢田教育事件」では、当時の解放同盟や教職員組合、地方行政が取り組んでいた越境入学問題に消極的だった共産党員教員が、解放同盟大阪府連矢田支部による糾弾の対象となり、刑事事件に進展。共産党は、党組織を挙げて解放同盟と対決する姿勢を明確にし、両者の対立は決定的なものになった。同盟中央は、共産党に呼応する動きを見せた同盟員に対して除名・無期限権利停止などの処分で対抗した。こうして、1970年には部落解放同盟正常化全国連絡会議(のちの全国部落解放運動連合会)が発足した。共産党やその支持者たちはこの経緯について「本来、部落差別にたいして、大同団結して活動をすすめるべき部落解放運動に暴力や利権、組織分断を持ち込み、路線対立から親戚や親子関係の分断をはじめとした地域の人びとを二分する大きな誤りを持ち込む結果となった」と主張している。その頂点としていわれる事件が、1974年の兵庫県立八鹿高等学校における、八鹿高校事件の発生であった。
現在でも共産党・解放同盟両者の関係は極めて険悪である。共産党は、「部落解放同盟」の呼称の使用を極力避け、「解同」と必ず鉤括弧書きで表記する(なお、解放同盟側は「解放同盟」「同盟」の略称を用いる)。1990年代初頭までは「朝田・松井派」と、解放同盟側を分派として糾弾する姿勢をとっていた。すなわち、「解放同盟を自称しているが、実態は利権あさりの集団に過ぎない」という党見解を反映したものである[32]。また、共産党は「志賀義雄一派と結びついた反共勢力が指導部を占拠(「解同」朝田派)し、「部落民以外はすべて差別者」とする部落排外主義を振りかざして、反対勢力を組織から排除しました。」[33]という認識を示している。裏返せば、共産党内の親ソ派を排除した抗争が、解放同盟に飛び火したと認識していることになる。
現在一部の自治体では、地域の街づくり会議などで、互いの陣営が同席することも見られるようになった。これらは、地域の過疎化や世代交代によって、それぞれの勢力が減少傾向にあることや、部落差別の早期解消に向けて、一致点での共同を進めようとする努力の結果だともいえる。しかし、政治戦においては、支持政党の違いによる軋轢は今なお強く残っている。特定の選挙で野党共闘が成立した場合、結果的に同一の候補を支援することがあっても、一定の距離を保ちつつ、互いに独自の支援活動をすることが多いのが現状である。
ソ連解体後と現在
1991年8月のクーデター後に発表されたソ連共産党の解散に際しては、ソ連共産党の解散を「もろ手を上げて歓迎する」という宮本顕治の発言が発表された(8月31日付毎日新聞によるインタビューでの発言)。この発言の翌日、常任幹部会はこの宮本発言を受けて「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する - ソ連共産党の解体にさいして」という声明を発表した。その一方、ソ連・東欧諸国の脱社会主義への動きを「歴史の逆行」とも評しており、その整合性に疑問の声も上がった。1980年代には、中国共産党に反論する形で、「社会主義完全変質論」を否定し、「社会主義の復元力」を主張していたこととは明らかに矛盾していた。ほぼ時を同じくして、政府与党や社会党(現在の社会民主党)を含む他の野党、マスコミなどにより「体制選択論」「冷戦終結論」「保革対立消滅論」が大々的に宣伝され、党員の所属する労組・団体の弱体化が進み、党・労組・団体の解散と政治・社会運動からの撤退などの要求を突きつけられるなど、その後の選挙では苦戦を強いられた。
戦後60年間国会では小政党の域に留まっており、国政与党になったことはないが、ソ連解体後、世界で多くの共産党が改名または解散する中で、共産党の名と議会勢力をともに維持している。1990年代後半には日本社会党からの離反層を取り込み、集合離散の続いた他党候補者の濫立も有利に作用して衆議院で一時的に勢力を回復し、1998年の参議院選挙では、15議席を獲得し、非改選議員とあわせて予算を伴う法案の提出権を初めて獲得した。その後は小選挙区制の定着による二大政党制指向の強まりや総議員定数の削減、昨今の日本周辺の国際情勢も相まって国会の議席が後退した。『しんぶん赤旗』の発行部数も、ピーク時の半分ほどにまで減少している。また、当選人数が1人であり大政党に有利な傾向の強い小選挙区制では共産党候補の当選はきわめて難しいものとなっている。1996年の第41回総選挙では、小選挙区で2議席(京都3区の寺前巌と高知1区の山原健二郎)を獲得したが、それ以降、小選挙区での当選はない。
2000年の第22回党大会第7回中央委員会総会(7中総)では、党規約から「前衛党」規定を削除する規約改定案が提案され採択された。また、同年不破哲三に代わり志位和夫が委員長となり、不破は宮本に代わり議長となった。この不破・志位体制の成立により、宮本の影響力は低下した。2006年1月11日 - 1月14日に開催された第24回党大会で、いわゆる「現実・柔軟路線」を指導してきた不破哲三が、議長職を高齢と健康などを理由に退き、「委員長志位・書記局長市田体制」が確立した。
共産党の全選挙区擁立戦術は、与党である自民党・公明党の選挙協力体制が緊密化するにつれて、結果的に野党間の候補共倒れ、連立与党候補の過半数に満たない得票率での当選という結果を激増させた。また、共産党候補の供託金没収選挙区も大幅に増え、党の財政を圧迫する要因となった(このため党内でも政党として政党交付金を受け取るべきであるとの意見が党大会前の公開討論の中でも主張されるようになっている)。この間、日本社会党・新進党に代わり民主党が野党第一党となった。
2001年の第19回参議院議員選挙で東京都選挙区から当選者を出したのを最後に、2003年の第43回衆議院議員総選挙、2004年の第20回参議院議員選挙、2005年の第44回衆議院議員総選挙、2007年の第21回参議院議員選挙では、選挙区での当選者を出すことができなかった。
2003年札幌市長再選挙では日本共産党は公認候補青山慶二を擁立したが、告示後5日目に選挙運動を中止した(公選法で立候補取消不可能)。党道委員会は地元紙のインタビューでは政策の近い中尾則幸支持をほのめかしたが、民主党・横路孝弘側近の上田文雄に票が集まり、安倍晋三シンパの元ニュースキャスターで前清和研代議士石崎岳を逆転し当選。2007年は共産党が上田市政を一定評価し候補者を立てず、上田は再選した。
第44回総選挙では47年ぶりに全選挙区擁立(推薦を含む)を中止したため、25選挙区の「共産空白区」が出てきた。「共産空白区」では与党候補と野党候補が大差の付く選挙区が多く、選挙への影響は小さかった。共産党の小選挙区候補者全275名のうち、223名が10%の得票に届かず供託金を没収された。全300選挙区に候補者を立て235選挙区で没収された前回とさほど変わらない結果だった。共産党自身については、得票数の減少に歯止めがかかった。投票率が上がったため得票率は下がっている。
2006年の国政選挙では、4月と10月に計三選挙区で行われた衆議院議員補欠選挙で、いずれも独自の公認候補を擁立したが、すべての選挙区で落選、供託金も没収されている。また、2007年4月に行われた参議院議員補欠選挙では、福島県選挙区で公認候補を、沖縄県選挙区では、民主党や社民党などと共同推薦候補を擁立したが、いずれも落選、福島県では供託金を没収されている[34]。
2007年の参院選東京都選挙区で公認候補が落選したことで、東京都でそれまで51年間に渡って維持してきた参議院での共産党の議席を完全に失った。現在、共産党が擁している国会議員(衆議院9名、参議院7名)の中に選挙区での当選者は存在せず、すべて比例代表区からの選出である。
今のところ国政選挙で単独での小選挙区当選は難しい現状にあるが、民主党はもとより、護憲という立場で政策距離が近い社民党との選挙協力の目処も現時点では立っていない[35]。その一方、最近の市町村合併にともなう各地の地方選挙では着実に当選者を出し、政党所属の地方議員の総数では第1党の位置を保っている。また他党との協力については東京都多摩地区や青森県、沖縄県などで一定の共闘が実現している。国会内では、2007年9月4日に野党の国対委員長会談に復帰し、他の野党との共闘を強化することになった。
2007年9月8日の第5回中央委員会総会で、次の総選挙から、すべての小選挙区に候補を擁立するのではなく、その小選挙区での比例区の得票率が8%以上の選挙区に擁立する選挙区を絞り込む(ただし、各都道府県で最低1人は候補の擁立を目指す)方針を幹部会は提案した。9月9日、中央委員会はこの提案に賛成し、決定した。この背景には、得票率が10%を割ると供託金が没収されることによって、党財政の悪化の原因となっていることが背景にあるとされる。方針に従い、次期衆議院選挙では前回の05年総選挙の39人(重複を含む)を大幅に上回る70人の候補者の擁立を目標としている。
有権者の投票行動から見た場合、共産党は与党(自民党・公明党)とはもちろん他の野党とも、特に国政に於いては政策的距離がきわめて大きいため、いわゆる無党派層の支持者において特に、選挙のたびに候補者選択に苦慮することになり、野党間の選挙共闘が成立しにくい。小選挙区制の性質上、現在の共産党の戦術が野党に極めて不利に働くことも事実である。得票総数では与党(自民・公明)を上回りながら、野党候補が落選するという事態が多発し、与党批判票が分散する事態となっている。そのため、政策的に遠い民主党とはともかく、社共共闘の復活への待望論は少なからずある。
支持者の一部には「当選の可能性がない以上、選挙区では民主党候補に投票する」動き(戦略投票)が一定数出ていることに対する警戒感は選挙の度に機関紙上で強調されている。
都道府県知事選挙や国政選挙などで独自候補を擁立しても、自民党や民主党の候補と比べると報道は少ないため、機関紙などの自前メディアや街頭演説・ビラ配布など自前の活動が政策提言や意見表明を届ける大きな手段となっている。一方で、葛飾区や豊後高田市などでビラ配布を理由に党員や議員が逮捕される事件も起きている(葛飾政党ビラ配布事件参照)。党はこれらの事件を「言論弾圧事件」として厳しく批判し、裁判闘争を行なっている。
革新懇運動
「社公合意」など日本社会党が右傾化していく状況の中で、日本共産党は「軍事費を削って福祉にまわせ」「非核の一点で結集を」などと呼びかけ、政党の組み合わせによる「革新共闘」を模索するのではなく、「思想、信条、支持政党、の違いを超えた国民多数の革新的な運動の結集」により、新たな革新戦線を全国的に追求する「革新懇話会=革新懇運動」をすすめた。だがこれも、社会党と共産党との間で揺れ動く革新浮動層を共産党に取り込むための方便と見られることも多く、成瀬昇(元愛知県評議長)、西岡瑠璃子(元参議院議員・歌人)、栗原透(元社会党高知県委員長・愛知県議)、矢山有作(元衆議院議員)ら元社会党員も多数参加しているにもかかわらず、具体的な選挙共闘としては愛知県・高知県などを除いて現在まで余り大きな成果は得られていない。
革新懇は全国組織の「全国革新懇」、都道府県や市区町村、学区などの単位で結成されている「地域革新懇」、職場ごとの「職場革新懇」など、様々な単位で結成され、活動している。
小選挙区制下での他党との関係
小選挙区制下、党は「現在の政党に共闘可能な政党は見あたらない」とし、多くの選挙区に独自候補をたてる戦術は、事実上、与党に有利に作用し、野党候補の一本化(主に民主党候補)により政権交代を望む者からは、「与党批判票の分散」、「利敵行為」、「隠れ自民党応援団」などと非難されることがある。
他党との政策的な違いと共に、主に二つの理由も挙げられる。
こうした態度が、時に旧社会党やその後継である民主党・社民党、さらには、部落解放同盟、新左翼などからも「独善的体質」「セクト主義」として非難されており、また新聞紙上でもそういったイメージで取り上げられることがしばしばある(主なものとして山口二郎や天木直人、筆坂秀世、森田実などの論、日刊ゲンダイの記事など)。
前述したような権力闘争の歴史的遺恨というだけでなく、日本共産党が過去に特に労働運動の分野で社会民主主義の労使協調路線や御用組合(と共産党が判断した組合)に対して痛烈な批判を行ったこと、現在も社民主義や「第三の道」路線に対して決して友好的な態度を取っていないことも背景にある。
2006年1月23日に書記局長市田忠義と社民党全国連合幹事長の又市征治が会談し、平和憲法維持を目指すべく関係改善し共闘を示唆する報道がされた。
5月20日には「平和共同候補」(護憲派の統一候補)擁立運動を「新社会党の手先の役割を果たしている」として、痛烈に批判した[36]。さらに、2007年5月1日号「しんぶん赤旗」では、擁立運動の確認団体「9条ネット」と新社会党や部落解放同盟との関係を重ねて強調し、全否定する見解を載せた[37]。解放同盟の支援を受ける候補は新社会党のみならず、民主、社民、自民、公明にも存在する。
他党の反応とその事例
同様に他の野党も、共産党との連携に消極的な事が多い。この傾向は小選挙区となる以前からも一定程度みられる現象である。
1990年の総選挙の際には、定数3で共産党議員が長く議席を保持してきた選挙区に、当時の社会党が新人候補を立てたケース(東京9区や和歌山1区など。和歌山1区では社会党候補が共産党に代わって当選)、現在の民主党が定数1の沖縄県議補欠選挙で泡沫候補を立てて野党票を割り革新系無所属候補の当選を「阻害」したケースも見受けられる。前者は自党の議席獲得を狙ったものとも言えるが[38]、後者のケースは、まさにここで問題とされている「共産党的行動パターン」を、他の野党が行った事例といえよう。
小選挙区制となって以降、国政・地方選を問わず、共産党は孤立する傾向をより深めている。以下、いくつかの事例を挙げる。
2006年の沖縄県知事選では、糸数慶子を推すことで、主要選挙では稀な事実上の国政全野党共闘が成立した。民主党内部では長島昭久など右派などから「共産と手を組んでいる」候補への批判が公然と行われ、与党側も「共産と手を組んだ民主」など他の野党への攻撃材料にした。結果は与党推薦の仲井眞弘多に敗れた。このように、与党側を中心とした「共産と手を組むことが悪なのは自明」論の影響力は大きく、他の野党は与党やマスコミに共産との協力を批判されると、容易に動揺する傾向が見られる。
こういった社会的風潮もあり、表だった協力関係ではなく共産党側に「内部に対しては共闘先の候補者の選挙活動を行ない、その候補へ投票するよう指導・動員を強めるべきだが、対外的には推薦・支持などを公式には表明せず、党員はあくまでも無党派の支援者として振舞うべき」などの「配慮」を求める動きも見られる。しかし、このことが共産党側の神経を逆なでし、野党間の泥仕合となるケースがままある。
2004年には、参議院大阪府選挙区で、当時辞職中の辻元清美を共同候補にするために、現職議員の宮本岳志に引退を「強要」する言動が、辻元の支持者からなされたとされる(宮本岳志の項目参照)。結果、辻元も宮本も落選した。
2007年2月に行われた愛知県知事選挙もほぼこのパターンである。共産党は当初、民主党の候補予定者であった前犬山市長の石田芳弘を共同で推そうとして協議を呼びかけた。石田本人は含みを持たせていたものの、陣営はこれを拒絶。共産党は急遽自前の候補者を推薦させざるを得なくなった。民主党が共産支持票による得票の増加よりも自民・公明両党からの「ネガティブキャンペーン」による票の減少を恐れたためとされる。選挙結果は、共産党推薦候補の阿部精六が予想を上回る票を獲得し(もっとも同党が愛知県で持つとされるいわゆる「基礎票」には遠く及ばなかったが)、現職で3選を目指していた神田真秋を急激に追い上げていた石田は僅差で敗北した。
2007年3月の東京都知事選では、共産党推薦の吉田万三と、市民団体が擁立し民主・社民の実質的な支援を受ける浅野史郎、現職知事の石原慎太郎の有力三候補が競う形となった。共産党は現職の石原都知事を批判しており、浅野もまた反石原という点では一致していた。石原都知事の圧倒的優勢を覆すため、市民団体は「反石原」で吉田の出馬取り下げを要求した。これに対し、話し合いもないまま取り下げを強要されたと吉田陣営が反発(ただし市民団体側は事前の申し入れはしていたと反論)。志位和夫は「(浅野と)石原都政はうり二つ」[39]と断言しこれを拒否した。
その理由は、民主党が都議会において「オール与党」体制の一翼を占めており、吉田候補は集会等で「他に共闘対象となる候補者が出れば、自分は降りてその人を支援しても良い」と発言していたが、同席していた民主党都議は共産党との共闘を明確に拒否した。このような足並みの乱れもあり、選挙は石原が前回に続いて大勝した。
- その直後の都議会では、民主党や東京・生活者ネットワークは、知事提案の議案にすべて賛成した(社民党は都議会の議席をもっていないが、議席のあった2001年までは知事提案にすべて賛成する石原与党であった)と、共産党側は批判している。
この三例の共通点は、民主党が共産党側に何の利益も与えず、「無償で」自候補への協力を強制したと共産党側が主張していることにある。その真偽は定かでないものの、共産党の反応が極めて厳しいことは確かである。このような真偽不明な双方の見解の相違が頻出し、特に共産党側が事態の打開を望まないともとれる態度を示す点が特徴的である。
また、他党が共産党候補の支持を表明したのは、保坂展人が狛江市長矢野裕を応援した例や、新社会党や沖縄社会大衆党などによる推薦・支持など、ある程度限られる。
- ちなみに、「大規模開発計画撤回」を公約に掲げ当選した、共産党員である陸前高田市長中里長門は、「反小沢一郎」を志向する自民党陸前高田支部の支援をうけていた。共産党の候補を自民党が応援し、民主党と対決したのは全国でもここだけである。このように地方の市町村では、リバタリアン志向の一部の民主党員よりもむしろコミュニタリアン志向の一部の自民党員との間で共闘関係になる場合もある。例えば、京都府城陽市でも、前市長大西忠を自民党京都府連と共産党が支えるという構図になっていた。自民党市議団と民主党は対立候補を支援)。
かつての国労のような労使闘争に際しては、共産党と民主党左派や社民党の共闘が成立することもある。逆に、組合間の対立感情などで両者が対立した場合は、相対的に組合との関係が薄い自民党と協力関係が生じることもある。また、解放同盟批判については、自共共闘が成立しやすい。もっとも、自民党は解放同盟の支援を受けることもあり、同党にとっての解放同盟批判は、多分に圧力団体に服従を求める意味合いが強い。世羅高校事件のように、結果として自民党に一方的に有利な解決(国旗及び国歌に関する法律の成立)が図られたこともある。
現在の状況
共産党は、綱領で当面は単独政権ではなく、「統一戦線の勢力」と協力しての「民主連合政府」を目指すとしている(#「民主連合政府」構想)。しかし、現在の野党に、「統一戦線の勢力」として協力できる相手は存在しないというのが現状認識である。
民主党は、小沢一郎が代表になってからは、小沢が共産党との協力の可能性に言及する変化も見られるが[40]、選挙では実態として、両党の協力はほとんど行われていない。なお、2007年参院選後、2007年9月の首班指名選挙では共産党は参議院の決選投票では直近の民意を重視し、小沢一郎に投票している。なお、小沢一郎は1993年に自民党を離党するまで有力派閥田中派及び竹下派の有力人物であり自由民主党幹事長を経験するなど政権中枢の中心人物であり、当時は日本共産党は小沢一郎と大きく対立していた。
2008年9月、麻生内閣が発足に伴い、総選挙への総決起体制として第7回中央委員会総会を開いた。席上で志位委員長は、「働く貧困層」の解消など、自党の語ってきた問題が争点になっていること、自公政権が行き詰まっていること、しかし民主党は自民党の政治悪をただす立場にはないから、共産党の躍進が必要であることなどを述べた。また、「民主連合政府」が求められていることを強調したが、現時点で他党との協力はないという認識は変わっていない。ただし、国会では是々非々で「問題ごとに協力していく」としている[41]。また、総選挙体制のため中央委員会は、2009年1月に予定していた党大会の延期を決定した。
遅くとも2009年10月までに予定されていた第45回衆議院議員総選挙(実際には2009年8月30日投開票)の方針では、小選挙区の候補を大幅に減らすことになった。これは、野党共闘目的ではなく、小選挙区では候補者を立てるだけの力がないところがあるという判断から、比例区と支持基盤のある小選挙区に候補を絞り込もうとする方針転換である[42][43]。代わりに、比例区との重複立候補を増やしたので、比例での候補者数は増えた[44]。また、大連立騒動や小沢・鳩山の献金問題などから改めて民主党を自民党と「同質・同類の党」と批判し、明確に共闘を否定してきた。さらに、2009年6月5日には、志位委員長は「どちらが政権の担い手になるかの選択ではなく、21世紀の日本の「進むべき道」の選択が問われていること、その「旗印」を示せる党は日本共産党をおいてほかになく」「「二大政党」の競い合いによる暗黒政治への逆行を許さない一番たしかな力は日本共産党をのばすこと」[45]と述べ、民主党による政権交代は無意味どころか、暗黒政治への逆行になるとの見解を示した。
しかし、同年7月には東京都議会議員選挙で44年ぶりに議席が1桁(8議席)に落ち込んだ結果を踏まえ、若干路線を修正。民主党内の改憲論や衆院比例定数削減方針に反対する一方で、「一致点での協力を追求」と明記。労働者派遣法や障害者自立支援法の抜本改正、後期高齢者医療制度の撤廃、農家への所得補償、米軍基地の縮小・撤去などを挙げ、「(自公両党による)暗黒政治への逆行を許さない」と強調し、民主党を「暗黒政治」の批判対象から外した[46]。
一方、自民党の松浪健四郎は、第45回総選挙において、共産党の独自候補擁立が自党有利になるとの見解を示している[47]。選挙区によっては、自民党が直接共産党に擁立を働きかけた事例もある[48]。
結果として議席数は現状維持であり得票率は郵政選挙の7・25%から7・03%に後退したものの、得票数では491万9000票から494万4000票と増加した。選挙後発足した民主党を中心とする非自民非共産連立政権に対しては、「建設的野党」として「良いことには協力、悪いことにはきっぱり反対、問題点はただす」と是々非々の立場を貫くと主張している[49]。
永住外国人の地方参政権付与問題への立場
日本共産党は永住外国人に対する外国人参政権付与問題について、選挙権だけでなく被選挙権も与えるべきであると、地方参政権を付与すべきとの積極的な立場を表明している[50]。2009年の在日本大韓民国民団中央本部主催の新年会において志位委員長は、「日本共産党は永住外国人に選挙権だけでなく、被選挙権も付与する立場でがんばっています。」と党の方針を表明した[51]。
政策
財源
(1)日本共産党は、大企業減税の穴埋めの消費税増税には絶対反対と主張している。
(2)歳出
- 年間5兆円にのぼる防衛費に抜本的な縮減のメスを入れるとしている。
- 「1メートル1億円」かかる東京外環道計画を中止するとしている。
- 高速増殖炉「もんじゅ」への財政支出をやめるとしている。
- 政党助成金を撤廃するとしている。
(3)歳入
- 現在10%の証券優遇税制を20%に戻し、さらに諸外国なみに富裕層は30%以上に引き上げるとしている。
- 下げすぎた所得税・相続税の最高税率を元に戻すとしている。
- 大企業への優遇税制をあらためるとともに、下げすぎた大企業の法人税率を段階的に元に戻すとしている。
- 大企業の過剰な内部留保と利益を、雇用と中小企業など社会に還元し、家計・内需主導の経済成長の軌道にのせるとしている。
(4)以上の歳入と歳出の改革によって7兆円~12兆円程度の財源をつくることができ、さらに日本経済が家計・内需主導の成長の軌道にのれば安定的な税収増が見込めるので、消費税に頼らなくても安心できる社会保障の財源をつくることができると主張している。[52]
現在の執行体制
中央委員会
中央委員会は、最高機関である党大会に次ぐ機関であり、全党を指導し対外的に党を代表する機関であるが、中央委員会総会は規約では年2回以上の開催という規定であるので、日常的には中央委員会常任幹部会が最高指導機関である。日本共産党規約に役職としての最高職の明文規定は無いが、中央委員会議長、中央委員会幹部会委員長、同副委員長、中央委員会書記局長が党三役(党首を含む)である。中央委員会常任幹部会は毎週開かれ、日常党活動を指導している。
- 中央委員:163 人
- 准中央委員:35 人[53](中央委員に欠員ができた場合は、中央委員会総会の決定によって准中央委員が中央委員になることがある。)
- 中央役員
- 中央委員会議長: 空席
- 中央委員会幹部会委員長: 志位和夫
- 中央委員会書記局長: 市田忠義
- 中央委員会幹部会副委員長: 緒方靖夫、浜野忠夫、広井暢子
- 中央委員会常任幹部会
- 中央委員会幹部会
- 委員数 57。委員長、副委員長を含む。
- 中央委員会政策委員会責任者: 小池晃
- 衆議院議員団団長: 穀田恵二
- 参議院議員団団長: 小池晃
- 衆議院国会対策委員長: 穀田恵二
- 参議院国会対策委員長: 井上哲士
所属国会議員
- 衆議院(9名)
- 比例代表
- 参議院(7名)
- 全国比例代表
歴代執行部
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1922年~1923年
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1923年~1945年
1945年~1958年
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1958年~
|
党勢の推移
衆議院
選挙 | 当選/候補者 | 定数 | 備考 |
---|---|---|---|
(結党時) | -/- | 464 | 結党時は非合法 |
第22回総選挙 | ○ 5/143 | 468 | 追加公認+1 |
第23回総選挙 | ● 4/120 | 466 | |
第24回総選挙 | ○ 35/115 | 466 | |
第25回総選挙 | ● 0/107 | 466 | |
第26回総選挙 | ○ 1/85 | 466 | |
第27回総選挙 | ○ 2/60 | 467 | |
第28回総選挙 | ● 1/114 | 467 | |
第29回総選挙 | ○ 3/118 | 467 | |
第30回総選挙 | ○ 5/118 | 467 | |
第31回総選挙 | ○ 5/123 | 486 | |
第32回総選挙 | ○ 14/123 | 486 | |
第33回総選挙 | ○ 38/122 | 491 | 追加公認+1、沖縄人民党より合流+1 |
第34回総選挙 | ● 17/128 | 511 | 追加公認+2 |
第35回総選挙 | ○ 39/128 | 511 | 追加公認+2 |
第36回総選挙 | ● 29/129 | 511 | |
第37回総選挙 | ● 26/129 | 511 | 追加公認+1 |
第38回総選挙 | ○ 26/129 | 512 | 追加公認+1 |
第39回総選挙 | ● 16/131 | 512 | |
第40回総選挙 | ● 15/129 | 511 | |
第41回総選挙 | ○ 26/321 | 500 | |
第42回総選挙 | ● 20/332 | 480 | |
第43回総選挙 | ● 9/316 | 480 | |
第44回総選挙 | ○ 9/292 | 480 | |
第45回総選挙 | ○ 9/171 | 480 |
参議院
選挙 | 当選/候補者 | 非改選 | 定数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
(結党時) | -/- | - | - | 参議院は存在せず |
第1回通常選挙 | ○ 4/42 | - | 250 | 第1回のみ全員選挙 |
第2回通常選挙 | ○ 2/50 | 2 | 250 | |
第3回通常選挙 | ● 0/16 | 1 | 250 | |
第4回通常選挙 | ○ 2/34 | 0 | 250 | |
第5回通常選挙 | ○ 1/36 | 2 | 250 | |
第6回通常選挙 | ○ 3/47 | 1 | 250 | |
第7回通常選挙 | ○ 3/48 | 1 | 250 | |
第8回通常選挙 | ○ 4/49 | 3 | 250 | |
第9回通常選挙 | ○ 6/51 | 4 | 252 | |
第10回通常選挙 | ○ 13/54 | 5 | 252 | |
第11回通常選挙 | ● 5/52 | 11 | 252 | |
第12回通常選挙 | ● 7/52 | 5 | 252 | |
第13回通常選挙 | ○ 7/71 | 7 | 252 | |
第14回通常選挙 | ○ 9/71 | 7 | 252 | |
第15回通常選挙 | ● 5/71 | 9 | 252 | |
第16回通常選挙 | ● 6/71 | 5 | 252 | |
第17回通常選挙 | ○ 8/72 | 6 | 252 | |
第18回通常選挙 | ○ 15/70 | 8 | 252 | |
第19回通常選挙 | ● 5/72 | 15 | 247 | |
第20回通常選挙 | ● 4/71 | 5 | 242 | |
第21回通常選挙 | ● 3/63 | 4 | 242 |
(参考文献:石川真澄(一部山口二郎による加筆)『戦後政治史』2004年8月、岩波書店・岩波新書、ISBN 4-00-430904-2)
- 当選者に追加公認は含まず。追加公認には会派に加わった無所属を含む。
- 第22回総選挙の定数には、選挙を実施できなかった沖縄選挙区(定数2)含む。
- 『戦後政治史』にない追加公認は2 国会議員会派別議員数の推移(召集日ベース)(衆議院、1990年~1999年)・2 国会議員会派別議員数の推移(召集日ベース)(衆議院、1996年~2003年)、2 国会議員会派別議員数の推移(召集日現在)(衆議院、2001年~2008年)、(2) 参議院(1990年~1999年)(2) 参議院(1994年~2004年)・(2)参議院 (召集日現在) (2001年~2008年)にある、選挙直後の国会召集日の会派所属者数から判断した。ただし、第20回通常選挙直後の召集はない。
地方政治
- 与党の自治体:65(2010年3月3日現在)[55]
- 地方議員:3,007人(2010年4月5日現在)[56]
- 党地方議員(団)は、中央における国会議員団と同様に、当該級の委員会(指導機関)の指導を受ける。
関連団体
- 新日本出版社 - 党幹部の著書やしんぶん赤旗関連の書籍を多く発行する。
- ジャパンプレスサービス - しんぶん赤旗の記事を英訳
- 日本民主青年同盟(民青同盟) - 日本共産党が相談相手であると同組織自身が規定[58]している。
参加(加盟)している団体・運動
- 日本国民救援会[59]
- 平和・民主・革新の日本をめざす全国の会(全国革新懇)[60] - 党と無党派による革新統一戦線運動
- 憲法改悪阻止各界連絡会議(憲法会議)
- 中央社会保障推進協議会(中央社保協)[61] - 社会保障の拡充を求める労働組合や生活協同組合などとの共闘組織
- 消費税廃止各界連絡会(各界連)
- 安保破棄中央実行委員会
- 非核の政府を求める会
共同関係等
恒常的な協力・共同闘争関係にあるか執行部に党員が多いと見られている党外諸団体。●印の団体代表は団体内日本共産党後援会の代表を兼ねる例が多く、また全国革新懇に代表世話人[62]を送り出している。執行部の党員についてはしんぶん赤旗日刊紙の訃報欄に於ける経歴で判明する。
- 全日本民主医療機関連合会(全日本民医連)●[63]
- 全国商工団体連合会(全商連)●[64]
- 農民運動全国連合会(農民連)●
- 全国労働組合総連合(全労連)●
- 新日本婦人の会(新婦人)●[65]
- 自由法曹団
- 日本平和委員会
- 新日本スポーツ連盟
- 全国地域人権運動総連合(全国人権連) - 全国部落解放運動連合会(全解連)後継団体
- 民主主義科学者協会(民科)
- 日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会(日本AALA)
- 原水爆禁止日本協議会(日本原水協)
- 婦人民主クラブ(婦民。旧・婦民(再建))
国際党間交流
アジア
- インド共産党
- インド共産党 (マルクス主義)(CPIM)
欧州・アフリカ
米州
- ブラジル共産党(PCdoB)
- ブラジル社会主義人民党
- ファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN)
- サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)
主催行事
関連項目
人物
Category:日本共産党の人物も参照のこと
その他
参考文献
党の公式文献
- 日本共産党中央委員会『日本共産党の八十年』(日本共産党中央委員会出版局、2003年) ISBN 4530043932
- 日本共産党中央委員会『日本共産党第23回党大会決定集』(日本共産党中央委員会出版局、2004年)
- 日本共産党中央委員会『自由と民主主義の宣言』(日本共産党中央委員会出版局)
党員による著作
- 不破哲三『私の戦後六〇年 日本共産党議長の証言』(新潮社、2005年8月)
- 不破哲三『日本共産党史を語る』(新日本出版社)
- 宮本顕治『日本革命の展望』上下(新日本出版社)
- 宮本顕治『日本共産党の立場』(新日本出版社)
- 犬丸義一『日本共産党の創立』(青木書店、1982年9月) ISBN 4250820394
党外部の人の著作
- 朝日新聞社編『日本共産党』(朝日新聞社)
- 立花隆『日本共産党の研究』全三巻(講談社文庫)
- 戸川猪佐武 『小説自民党対共産党』(角川文庫)
- 小泉信三『共産主義批判の常識』(講談社学術文庫/新潮社)
- 思想運動研究所編『日本共産党事典(資料編)』(全貌社)
- テリー伊藤『お笑い革命日本共産党』(飛鳥新社)
離党した・除名された人の著作
- 袴田里見『昨日の同志宮本顕治へ』 新潮社、1978年
- 兵本達吉『日本共産党の戦後秘史』(産経新聞社)
- 油井喜夫『汚名』(毎日新聞社 1999年 287頁)ISBN 4620313513。
- 油井喜夫『虚構 - 日本共産党の闇の事件 - 』(社会評論社 2000年 286頁)ISBN 4784514090
- 筆坂秀世『日本共産党』(新潮新書/新潮社) ISBN 4106101645
当局側の文献
- 警備研究会『日本共産党101問』(立花書房)
- 著者の実態不明。公安警察関係者のグループと見られる。
- 『日本共産党 - その路線とジレンマ - 』(別冊治安フォーラム 立花書房)
- 田代則春『日本共産党の変遷と過激派集団の理論と実践』(立花書房)
- 弘津恭輔『共産主義運動の研究』(立花書房)
その他
- 大野達三『警備公安警察の素顔』(新日本出版社)ISBN 4406015922
- 塩田庄兵衛『日本社会運動史』(岩波書店)
脚注
- ^ a b 括弧内は2006年党費納入者推定実人数。同党の政治資金収支報告書は、月ごとの党費納入者数を延べ数で報告しているため、政治資金収支報告書に記載されている人数3,142,808から12を割った数が党費納入者数ということができる。
- ^ 「日共」の使用例:青木陽子『雪解け道』新日本出版社、2008年、48ページ、「革マル派の活動家の演説が記されていますが、その中に「新入生諸君の歓迎セレモニィを、大学当局と結託して、欺瞞的お祭り行事に堕落せしめた、日共民青教養部自治会をォ、糾弾する」。 片島紀男『三鷹事件:1949年夏に何が起きたのか』新風社、2005年(初版1999年、日本放送出版協会刊行)の49ページ「・・・・と石田は急に声を細めた。「はっきり記憶してないんですけれども、近くの人に、『どうしたんだ』と聞いたら、例によって『日共さんがやったんだ』というようなこと言ってるように私は聞いた記憶なんです」」。続く50ページ1行目「間髪入れず『日共さんだ』と言うところは、・・・・」。
- ^ 〈代々木〉の使用例として、次の文章がある。「ある人々が、代々木なんぞに鼻汁もひっかけるもんか、鼻汁だけでもひっかけそうな連中にさえ鼻汁もひっかけるもんかといっているのを私は知っている」(中野重治「緊急順不同」『新日本文学』1972年3月号、西沢舜一「続・変節者の党誹謗と文学的荒廃」『中野重治批判』共産党出版局、1974年、pp115より孫引き)
- ^ テレビ朝日『サンデープロジェクト』(2008年12月14日放送)における、田原総一郎及び志位和夫の説明より。
- ^ 日本共産党綱領
- ^ しんぶん赤旗別刷り学習党活動版
- ^ 日本共産党規約 - 日本共産党公式ホームページ 2010年6月16日閲覧。
- ^ この実例として東京都委員会委員長を経験した遠坂良一がいるが、遠坂は1950年、分派を理由に除名されている。
- ^ 当時の在日朝鮮人党員の中には、北朝鮮への帰還事業によって日本を離れるまで党籍を持ち続け、北朝鮮に渡った後に生活面で優遇を得た者もいる。
- ^ 入党のよびかけより
- ^ バブル後期の1990年代初めには党費や赤旗購読料の収入がそれなりにあったため、党費を納められない10条該当党員を容赦なしに切り捨てたこともある。
1992年版警察白書第6章 困難な情勢に直面した日本共産党 - 警察庁ホームページ 2010年6月9日閲覧。 - ^ この実例として国会外でのセクハラ疑惑で中央委員を罷免され議員辞職した筆坂秀世がいる。
- ^ 国会議員経験者、著名な文化人ないしは同等クラスの党員に対する除名処分の決定はすべて中央委員会によってなされている。ただし地方議会議員では都道府県委員会による除名決定もあり得る。中央委員会が決定した除名の実例として1990年代以降では野坂参三や兵本達吉らがいる。
フジテレビ12日夜放映「完全再現!北朝鮮拉致“25年目の真実”」「ノンフィクションドラマ」を謳った番組は日本共産党に関する事実をどう偽ったか - 日本共産党公式ホームページ 2010年5月31日閲覧。 - ^ この実例として1976年、愛知県委員会から機関罷免処分を受けた宮地健一が第14回党大会に再審を請求したが、大会はこれを審議せずに却下した。さらに宮地はこの問題を司法の場に出したため、中央委員会は「党内部の問題は党内で解決する」と定めた党規約5条に違反するという理由で宮地を除名した(民主集中制も参照)。
- ^ この実例として新日本出版社OBでもある有田芳生がいる。
- ^ 除籍への萩原抗議文と批判メールへの党中央回答文 - 宮地健一HP「共産党、社会主義問題を考える」 2010年6月8日閲覧。
- ^ ただし、1973年以前の沖縄に存在した沖縄人民党に在籍していた人については人民党への入党まで遡って通算する。この規定を適用されて50年党員となった例に瀬長亀次郎がいる。
- ^ この実例として赤旗編集局OBの萩原遼がおり、萩原は不当な仕打ちだとして取り消しを求めているが認められていない。
- ^ 日本共産党の青年支部って? 2000年11月9日(木)「しんぶん赤旗」
- ^ a b 日本共産党規約(2000年11月24日改定)
- ^ 第18条 例:つくば市委員会
- ^ 共産党の新本部ビル完成 自民を上回り最大
- ^ 「用がなくても、通行人がどちらからでも通り抜けたり、休憩もしてもいいことにしているというのには驚きました」(日本共産党会津若松市議会議員 斎藤もとお)
- ^ しんぶん赤旗2000年4月3日付 日本共産党本部ビル建設本格着工へ準備着々 上田副委員長・総合建設委員会責任者に聞く
- ^ 1961年12月号の発刊当時は日本共産党中央委員会の発行。1976年以降は新日本出版社の発行
- ^ 立花隆『日本共産党の研究(二)』〈講談社文庫〉講談社、1983年、224頁、「大泉の主張の力点は、自分はスパイとして党活動をしたのだから、治安維持法違反に問われるべきではないというところにあった。」
- ^ 『日本共産党の七十年』には、1936年1月に関西地方委員会の検挙、11月に名古屋での検挙、1937年12月にコミンテルンの指示で日本に入国して活動していた小林陽之助の検挙、1940年5月に山代吉宗(作家山代巴の夫)や戦後国会議員になった春日正一らの検挙が記録されている。
- ^ 総選挙では466議席中で1議席減の4議席、統一地方選挙では都道府県議会で合計793議席中の3議席のみ(東京都議・長野県議・三重県議が各1人)。どちらの選挙でも120-150議席台を確保した社会・自由・進歩の3大政党には大きく水を開けられていた。なお、衆議院の選挙制度は共産党の勢力拡大を抑えるという目的も込められて、第22回総選挙でのみ実施された大選挙区制限連記制から帝国議会と同じ中選挙区制へ戻されていた。
- ^ 都議会では自民党・公明党に続く第3党。当時の美濃部亮吉革新都政を与党として支えた両党の議会内勢力が逆転した事は、都政の主導権争いで共産党が優勢に立った事を示していた。
- ^ 1971年の初当選時には共同推薦した社会党が、別の候補(竹内正己)を民社党や公明党と共に推薦した。
- ^ 安東仁兵衛 「日本における新しい社会民主主義を創造しよう」
- ^ 「「解同」横暴・利権あさり どこまで追い込んできたか 不公正な同和行政の完全終結を」しんぶん赤旗 2007年3月4日付。なお、同記事によれば、解放同盟の推薦候補は与野党にまたがっており、民主党を中心に、社民党、自民党、公明党、新社会党にも推薦候補が存在する。
- ^ 2007年1月4日(木)「しんぶん赤旗」 崩れ出した「解同」タブー
- ^ 共産党は公明党ほどではないが、浮動票の影響を受けにくいため、投票率が下がるほど得票率は上がると言われている。ただし無党派層に限定すれば3割程度得票しているため一概には言えない。例えば、1996年 - 1998年の躍進は、左派系の浮動票の受け皿になったものとの指摘もある。なお、元党地方役員の宮地健一によれば、共産党は『しんぶん赤旗』日曜版発行部数の2倍を基礎票として計算しているという。「2)、HN合計数増減とHN比率」。Hは日刊紙(本紙(Honshi)の頭文字)、Nは日曜版(Nichiyo-ban)を意味する。
- ^ ただし、憲法問題などの個別の分野では、他党との協力・共同が行われている場合もある。また、地方選挙については市町村長選や地方議員選挙で現在も1人区での当選があり、高知やかつての長野など、無所属候補と連携しながらも政党としては単独与党の県もある。首長選による公認候補の当選は、兵庫県南光町で町長となった山田兼三の例がある。
- ^ 「参院選での「平和共同候補」を求める運動について」
- ^ 「「9条ネット」とは どんな団体ですか?」
- ^ 当時の社会党は長期低落傾向にあった。そのため土井ブームによる復調は千載一遇の好機と見られており、また政権交代を狙う党に、候補の空白区があるのはおかしいとする逆の批判もあったのである
- ^ (2007年3月13日(火)「しんぶん赤旗」 日本共産党躍進の 流れを首都・東京から 明治公園での志位委員長の訴えから)
- ^ 参院選候補選定「直接やる。カギは1人区」
- ^ 2008年9月27日(土)「しんぶん赤旗」 日本共産党が第7回中央委員会総会 「国民が主人公」の民主的政権へ大きな一歩踏み出す選挙に
- ^ 2008年1月5日(土)「しんぶん赤旗」 新しい政治つくる歴史的転機 総選挙勝利へ意気高く 党名を高く掲げ、日本改革の方針を語ろう 2008年党旗びらき 志位委員長があいさつ
- ^ 2008年1月7日(月)「しんぶん赤旗」 今年の国会と選挙にどうのぞむか NHK日曜討論 志位委員長の発言(大要)
- ^ 第44回総選挙までは、共産党は他党が用いている、同一ブロックの重複立候補者の比例順位を同一にして、惜敗率を競わせる戦術を採用していなかった。第45回総選挙では、東京以外のブロックでは一部同一順位を採用した。
- ^ 2009年6月6日(土)「しんぶん赤旗」 全党の努力で生み出した変化 選挙勝利に実らせよう 日本共産党 8中総終わる 「二大政党」の悪政に立ち向かう 志位委員長が結語
- ^ 民主との政策協力、共産が模索 「基本的立場」に明記2009年7月16日朝日新聞
- ^ 「健四郎代議士日記 擁立」
- ^ 『朝日新聞』愛知版 自民 求む共産出馬 2009年07月28日
- ^ 総選挙の結果について 2009年8月31日 日本共産党中央委員会常任幹部会
- ^ 永住外国人の地方参政権/法案要綱 永住外国人に地方参政権を保障するための日本共産党の提案(1998年11月17日)
- ^ 民団の新年会に志位委員長が出席 しんぶん赤旗2009年1月10日
- ^ 参院選公約“アメリカ・財界いいなり”から「国民が主人公」の政治への転換を--そうしてこそ「政治を変えたい」という願いが生かせます
- ^ 日本共産党25回党大会/大会で選出された新中央委員会
- ^ 名称は第一書記
- ^ 日本共産党が与党の自治体
- ^ 日本共産党/議員数 地方議員数
- ^ 2008年4月、党所属だった県議早川昌枝が離党届を提出するも、同年5月1日、除籍処分。同日早川は新会派(1人会派)結成。共産党会派消滅。
- ^ 「日本共産党のみちびきをうけ、科学的社会主義と日本共産党の綱領、一般的民主的な教養をひろく学び、次代のすぐれたにない手として成長することをめざします」(民青同盟「目的」)
- ^ 2009年6月17日(水)「しんぶん赤旗」「足利事件」への償いをどう考える?
- ^ 「団体・個人が、政党として革新の立場を堅持する日本共産党とともに生みだした」(全国革新懇)
- ^ 中央社保協加盟団体
- ^ 全国革新懇の代表世話人
- ^ 全日本民医連有志後援会代表世話人(鈴木篤)との写真
- ^ 「全国業者後援会代表委員の国分稔」(2005年8月20日(土)「しんぶん赤旗」)
- ^ 「新婦人内後援会の高田公子代表委員」(2003年6月20日(金)「しんぶん赤旗」)
外部リンク
- 公式
- 日本共産党中央委員会 - 各議員・地方機関リンク
- 日本共産党Movieチャンネル - YouTubeチャンネル
- 日本共産党志位和夫チャンネル - ニコニコ動画 事実上党の公式チャンネル
- 政党チャンネル 日本共産党 - JANJAN
- 日本共産党チャンネル - Yahoo!JAPAN
- その他
- 全国共産党議員ブログリンク集
- 日本共産党資料館(日本共産党の主要資料を紹介)