「恭帝 (西魏)」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
m ロボットによる 追加: ru:Гун-ди (Западная Вэй) |
編集の要約なし |
||
22行目: | 22行目: | ||
|注釈 = |
|注釈 = |
||
}} |
}} |
||
'''恭帝'''(きょうてい)は[[南北朝時代 (中国)|北朝]][[西魏]]の末代[[皇帝]]。 |
'''恭帝'''(きょうてい)は、[[南北朝時代 (中国)|北朝]][[西魏]]の末代[[皇帝]]。 |
||
==略歴== |
==略歴== |
||
[[文帝 (西魏)|文帝]]の四男として生まれた。[[548年]]に斉王に封ぜられた。[[554年]]1月に異母兄の高欽([[廃帝 (西魏)|廃帝]])が[[宇文泰]] |
[[文帝 (西魏)|文帝]]の四男として生まれた。[[548年]]に斉王に封ぜられた。[[554年]]1月に異母兄の高欽([[廃帝 (西魏)|廃帝]])が[[宇文泰]]によって廃位されると、代わって皇帝に擁立された。 |
||
[[556年]]1月、[[周礼]]にならって六官を建て、宇文泰を[[太師]]・大冢宰とし、[[李弼]]を[[司徒|大司徒]]とし、[[趙貴]]を[[太保]]・大宗伯とし、[[独孤信]]を[[大司馬]]とし、[[于謹]]を大司寇とし、[[侯莫陳崇]]を[[司空|大司空]]とした。 |
[[556年]]1月、[[周礼]]にならって六官を建て、宇文泰を[[太師]]・大冢宰とし、[[李弼]]を[[司徒|大司徒]]とし、[[趙貴]]を[[太保]]・大宗伯とし、[[独孤信]]を[[大司馬]]とし、[[于謹]]を大司寇とし、[[侯莫陳崇]]を[[司空|大司空]]とした。 |
||
31行目: | 31行目: | ||
10月に宇文泰が没すると、12月に[[宇文護]]に迫られて、恭帝は周公[[宇文覚]]に帝位を[[禅譲]]する詔を発した。ここに西魏は滅亡した。恭帝は宮中を出て、大司馬府にうつった。 |
10月に宇文泰が没すると、12月に[[宇文護]]に迫られて、恭帝は周公[[宇文覚]]に帝位を[[禅譲]]する詔を発した。ここに西魏は滅亡した。恭帝は宮中を出て、大司馬府にうつった。 |
||
[[557年]]1月、宇文覚が天王の位につき、[[北周]]を建 |
[[557年]]1月、宇文覚が天王の位につき、[[北周]]を建てると、恭帝は宋公に封ぜられた後、間もなく殺害された。 |
||
{{先代次代|[[西魏]]の[[中国帝王一覧|皇帝]]|第3代:554年 - 556年|[[廃帝 |
{{先代次代|[[西魏]]の[[中国帝王一覧|皇帝]]|第3代:554年 - 556年|[[廃帝 (西魏)|廃帝]]|―}} |
||
{{DEFAULTSORT:きようてい}} |
{{DEFAULTSORT:きようてい}} |
2010年7月28日 (水) 00:30時点における版
恭帝 元廓 | |
---|---|
西魏 | |
3皇帝 | |
王朝 | 西魏 |
在位期間 | 554年 - 556年 |
姓・諱 | 元廓 |
生年 | 537年 |
没年 | 557年 |
父 | 文帝(第4子) |
略歴
文帝の四男として生まれた。548年に斉王に封ぜられた。554年1月に異母兄の高欽(廃帝)が宇文泰によって廃位されると、代わって皇帝に擁立された。
556年1月、周礼にならって六官を建て、宇文泰を太師・大冢宰とし、李弼を大司徒とし、趙貴を太保・大宗伯とし、独孤信を大司馬とし、于謹を大司寇とし、侯莫陳崇を大司空とした。
10月に宇文泰が没すると、12月に宇文護に迫られて、恭帝は周公宇文覚に帝位を禅譲する詔を発した。ここに西魏は滅亡した。恭帝は宮中を出て、大司馬府にうつった。
557年1月、宇文覚が天王の位につき、北周を建てると、恭帝は宋公に封ぜられた後、間もなく殺害された。
|
|