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「シャルロッテ・フォン・リーグニッツ=ブリーク」の版間の差分

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2010年8月22日 (日) 13:01時点における版

トシェブニツァに残る墓所の彫像

カロリナまたはシャルロッテポーランド語:Karolina Piastówna;ドイツ語:Charlotte von Liegnitz-Brieg-Wohlau、1652年12月2日 - 1707年12月24日)は、シュレースヴィヒホルシュタインゾンダーブルクヴィーセンブルク公フリードリヒの妃。レグニツァブジェクヴォウフオワヴァフリスティアンの長女で、母はアンハルト=デッサウ公ヨハン・カジミ-ルの娘ルイーゼ

生涯

カロリナはレグニツァ公爵夫妻の長子として生まれた。両親はそれまでピャスト家の女性たちが誰も名乗らなかった「カロリナ」を娘の名前にした。カロリナの洗礼式は1653年1月1日に行われた。洗礼の代父には一族の長老である大叔父のレグニツァ公イェジ・ルドルフが選ばれたが、イェジ・ルドルフはこの時重病を患っており(この13日後の1月14日に死亡)、結局伯父のルドヴィク4世が代父を務めた。

カロリナはしばらくの間父フリスティアンにとって唯一の子供だった。1653年にイェジ・ルドルフが死ぬとイェジ3世、ルドヴィク4世、フリスティアンの3兄弟が共同統治者として遺領を相続したが、翌1654年には領土を分割することになった。この分割相続において、カロリナの父親は最も貧しい土地であるヴォウフオワヴァを与えられた。しかし1663年、1664年に2人の兄が相次いで死んだため、フリスティアンはレグニツァ=ブジェクの統一公国の支配者となった。

レグニツァ公爵夫妻は娘に厳格なカルヴァン主義教育を受けさせた。1657年7月28日、カロリナの妹ルドヴィカが生まれ、ポーランド王妃ルドヴィーカ・マリアが洗礼の代母を務めた。しかしこの妹は1660年2月6日に幼くして亡くなった。その7か月後、公爵夫人ルイーゼは長男イェジ・ヴィルヘルムを出産した。1664年1月15日、公爵夫妻には次男フリスティアン・ルドヴィクが生まれたが、この公子は1667年2月27日に死んだ。結局、レグニツァ公夫妻の子供で幼年期を生き延びたのはカロリナとイェジ・ヴィルヘルムだけだった。

公爵フリスティアンは1672年2月28日に没し、息子のイェジ・ヴィルヘルムが後継者となった。公爵は幼いために母親が摂政となった。数ヵ月後、カロリナはシュレースヴィヒホルシュタインゾンダーブルクヴィーセンブルク公フリードリヒと結婚した。フリードリヒはデンマーク王クリスティアン3世の男系の玄孫にあたっていたため、「デンマーク王子」の称号を有していた。新郎はカトリック貴族の家系の出で、帝国軍に胸甲騎兵として仕える軍人だった。カロリナはおそらく、母の取り巻きだったイエズス会士を通じてフリードリヒと知り合ったものと思われる。愛情というよりは政略的な理由から、カロリナはカトリックに改宗した。1672年7月4日、カロリナとフリードリヒは密かに結婚し、それから1年近く経った1673年5月3日に公式の結婚式が行われた。1674年1月12日、カロリナは一人息子レオポルトを出産した。しかし夫婦関係は上手くいかず、皇帝レオポルト1世の同意のもとで1680年8月に夫妻は離別した。離別時の法的な取り決めにより、息子は父親に引き取られた。

1675年11月21日、カロリナの弟で、ピャスト家最後の統治者であるイェジ・ヴィルヘルムが15歳で未婚のまま亡くなった。カロリナは公国を相続できる可能性を模索した。しかし皇帝レオポルト1世は彼女の願いを聞き届けなかった。1680年9月14日、皇帝の勅令によってカロリナは年6000ターラーの年金を与えられることが決まった(後に4000ターラーに減額された)。カロリナは先祖が築いた古都ヴロツワフに居を定めた。彼女は慈善事業に熱心で、信心深く孤独な生活を続けた。

カロリナは1707年12月24日にヴロツワフで亡くなった。彼女の心臓は銀製の壺に収められて同市の聖クララ教会に安置され、遺骸はトシェブニツァの修道院に埋葬された。この埋葬は、「ピャステウム(Piasteum)」と呼ばれるレグニツァ公家代々の墓所に娘の墓を用意していた母ルイーゼ(1680年没)の遺志に反したものだった。カロリナが埋められる予定だった場所は現在も空のままである。

子孫

カロリナの一人息子であるシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=ヴィーセンブルク公レオポルト(1674年 - 1744年)は、リヒテンシュタイン公ハンス・アダム1世の娘マリー・エリーザベトと結婚し、5人の娘を授かった。

  1. テレジア…エッティンゲンエッティンゲンシュピールベルク公ヨハン・アロイス1世と結婚、孫娘の1人マリア・エレオノーラ・フォン・カウニッツ=リートベルク伯爵夫人は、クレメンス・フォン・メッテルニヒ公の最初の妻となった。
  2. エレオノーラ…最後のグアスタッラジュゼッペ・ゴンザーガと結婚した。
  3. ガブリエーラ…カール・フリードリヒ・フォン・フュルステンベルク=メースキルヒと結婚した。
  4. シャルロッテ…カール・トマス・フォン・レーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム=ローゼンベルクと結婚した。一人娘のレオポルディーネはホーエンローエヴァルデンブルクシリングフュルスト家の先祖の1人である。
  5. アントーニア…14歳で没

参考文献