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「ラシード・ウッディーン・スィナーン」の版間の差分

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[[ヒジュラ暦]]520年代(西暦1125年~35年)、[[バスラ]]近郊のイスマーイール派の家の生まれ。若い頃にニザール派を信奉するようになり、ニザール派の中心拠点、北部イラン・[[アルボルズ山脈|アルボルズ山中]]の[[アラムート城砦]]に赴き教育を受けた。[[1162年]]、[[ハサン2世 (ニザール派)|ハサン2世]]が[[フッジャ (ニザール派)|フッジャ]]を継いでニザール派の[[ダアワ]]を率いるようになるとシリアに派遣された。その後、シリアにおけるニザール派の指導的ダーイー、シャイフ・アブー・ムハンマドが没するとシリアのニザール派ではその後継をめぐって大混乱に陥いるが、このときアラムートから後継として任じられたのがスィナーンであった。以降約30年にわたって、スィナーンはシリアのニザール派を率いることになる。
[[ヒジュラ暦]]520年代(西暦1125年~35年)、[[バスラ]]近郊のイスマーイール派の家の生まれ。若い頃にニザール派を信奉するようになり、ニザール派の中心拠点、北部イラン・[[アルボルズ山脈|アルボルズ山中]]の[[アラムート城砦]]に赴き教育を受けた。[[1162年]]、[[ハサン2世 (ニザール派)|ハサン2世]]が[[フッジャ (ニザール派)|フッジャ]]を継いでニザール派の[[ダアワ]]を率いるようになるとシリアに派遣された。その後、シリアにおけるニザール派の指導的ダーイー、シャイフ・アブー・ムハンマドが没するとシリアのニザール派ではその後継をめぐって大混乱に陥いるが、このときアラムートから後継として任じられたのがスィナーンであった。以降約30年にわたって、スィナーンはシリアのニザール派を率いることになる。


このころのシリアでは[[ファーティマ朝]]勢力は大きく後退し、[[ザンギー朝]]、十字軍諸国家、ザンギー朝によってファーティマ朝に派遣され軍権を握る[[サラーフッディーン]]の勢力、さらには群小諸勢力が錯綜する状況であった。群小勢力の一つイスマーイール派でも[[ムスタアリー派]]が[[ニザール派]]よりもはるかに優勢な状況であった。このような中でスィナーンはシリア中部ジャバル・バフラー山中の諸城砦を中心に[[フィダーイー]]の育成(後述)など再組織化を図るとともに、シリア諸勢力との合従連衡によるニザール派の生存確保を目指した。
このころのシリアでは[[ファーティマ朝]]勢力は大きく後退し、[[ザンギー朝]]、[[十字軍]]諸国家、ザンギー朝によってファーティマ朝に派遣され軍権を握る[[サラーフッディーン]]の勢力、さらには群小諸勢力が錯綜する状況であった。群小勢力の一つイスマーイール派でも[[ムスタアリー派]]が[[ニザール派]]よりもはるかに優勢な状況であった。このような中でスィナーンはシリア中部ジャバル・バフラー山中の諸城砦を中心に[[フィダーイー]]の育成(後述)など再組織化を図るとともに、シリア諸勢力との合従連衡によるニザール派の生存確保を目指した。


もっとも優勢であり、[[スンナ派]]護持に厳格であったザンギー朝の[[ヌールッディーン]]はニザール派を十字軍以上の脅威とみなし、ニザール派城砦の包囲・攻撃を繰り返していた。これに対して、スィナーンは十字軍と暗黙の提携を行い、さらに[[1173年]]にはエルサレム王アマルリク1世(アモーリー)に正式な同盟の使者を送っている。[[1174年]]、ヌールッディーンが没すると、今度はヌールッディーンによってファーティマ朝に送られ、さらにファーティマ朝を滅ぼし[[アイユーブ朝]]を興したサラーフッディーンの脅威に直面して、一転ザンギー朝との同盟に踏み切った。[[1176年]]に至る2度にわたってサラーフッディーンの暗殺のためにフィダーイーを派遣したが、いずれも失敗している。
もっとも優勢であり、[[スンナ派]]護持に厳格であったザンギー朝の[[ヌールッディーン]]はニザール派を十字軍以上の脅威とみなし、ニザール派城砦の包囲・攻撃を繰り返していた。これに対して、スィナーンは十字軍と暗黙の提携を行い、さらに[[1173年]]にはエルサレム王アマルリク1世(アモーリー)に正式な同盟の使者を送っている。[[1174年]]、ヌールッディーンが没すると、今度はヌールッディーンによってファーティマ朝に送られ、さらにファーティマ朝を滅ぼし[[アイユーブ朝]]を興したサラーフッディーンの脅威に直面して、一転ザンギー朝との同盟に踏み切った。[[1176年]]に至る2度にわたってサラーフッディーンの暗殺のためにフィダーイーを派遣したが、いずれも失敗している。


これに対する報復のために、アイユーブ朝軍は城砦の一つ[[マスヤーフ]]城砦を包囲するが、すぐに休戦に至り、アイユーブ朝との敵対関係も短期間のものであった。その後、シリアのニザール派を巡る状況は、比較的安定的に推移するが、[[1187年]]のサラーフッディーンによるエルサレム奪還以降、十字軍の活動が活発化し、[[1189年]]には[[第3回十字軍]]が起こる。このころにはニザール派と十字軍との関係はかなり悪化しており、十字軍諸国家へのフィダーイーの派遣が行われていた模様である。たとえば[[1192年]]のモンフェラート侯[[コンラート1世 (モンフェラート侯)|コンラート1世]]の暗殺もフィダーイーによるものといわれている。これに関して[[イブン・アル=アスィール]]などサラーフッディンに敵対的な史家は、サラーフッディーンがスィナーンを使嗾して実行させたものであるとしている。このころ、遅くとも1193年までにスィナーンは没したものと思われる。
これに対する報復のために、アイユーブ朝軍は城砦の一つ[[マスヤーフ]]城砦を包囲するが、すぐに休戦に至り、アイユーブ朝との敵対関係も短期間のものであった。その後、シリアのニザール派を巡る状況は、比較的安定的に推移するが、[[1187年]]のサラーフッディーンによるエルサレム奪還以降、十字軍の活動が活発化し、[[1189年]]には[[第3回十字軍]]が起こる。このころにはニザール派と十字軍との関係はかなり悪化しており、十字軍諸国家へのフィダーイーの派遣が行われていた模様である。たとえば[[1192年]]のモンフェラート侯[[コンラート1世 (モンフェラート侯)|コンラート1世]]の暗殺もフィダーイーによるものといわれている。これに関して[[イブン・アル=アスィール]]などサラーフッディンに敵対的な史家は、サラーフッディーンがスィナーンを使嗾して実行させたものであるとしている。このころ、遅くとも1193年までにスィナーンは没したものと思われる。

2010年8月23日 (月) 05:38時点における版

ラシード・ウッディーン・スィナーンアラビア語: رشید الدین سنان ابن سلمان ابن محمد أبو الحسن البصری Rashīd al-Dīn Sinān ibn Salmān ibn Muḥammad Abū al-Ḥasan al-Baṣrī、?(1125年~1135年) - 1192年/1193年)は、12世紀後半、シリアにおけるシーア派イスマーイール派ニザール派の中核的位置をしめたダーイー。勢力の錯綜するシリアにおいて、彼の指導のもとニザール派は無視できない勢力にまで成長した。また、スィナーンの指示で活躍したフィダーイーから「暗殺教団」伝説が生まれ、彼自身も「山の老人」のモデルとして有名になった。

人物

ヒジュラ暦520年代(西暦1125年~35年)、バスラ近郊のイスマーイール派の家の生まれ。若い頃にニザール派を信奉するようになり、ニザール派の中心拠点、北部イラン・アルボルズ山中アラムート城砦に赴き教育を受けた。1162年ハサン2世フッジャを継いでニザール派のダアワを率いるようになるとシリアに派遣された。その後、シリアにおけるニザール派の指導的ダーイー、シャイフ・アブー・ムハンマドが没するとシリアのニザール派ではその後継をめぐって大混乱に陥いるが、このときアラムートから後継として任じられたのがスィナーンであった。以降約30年にわたって、スィナーンはシリアのニザール派を率いることになる。

このころのシリアではファーティマ朝勢力は大きく後退し、ザンギー朝十字軍諸国家、ザンギー朝によってファーティマ朝に派遣され軍権を握るサラーフッディーンの勢力、さらには群小諸勢力が錯綜する状況であった。群小勢力の一つイスマーイール派でもムスタアリー派ニザール派よりもはるかに優勢な状況であった。このような中でスィナーンはシリア中部ジャバル・バフラー山中の諸城砦を中心にフィダーイーの育成(後述)など再組織化を図るとともに、シリア諸勢力との合従連衡によるニザール派の生存確保を目指した。

もっとも優勢であり、スンナ派護持に厳格であったザンギー朝のヌールッディーンはニザール派を十字軍以上の脅威とみなし、ニザール派城砦の包囲・攻撃を繰り返していた。これに対して、スィナーンは十字軍と暗黙の提携を行い、さらに1173年にはエルサレム王アマルリク1世(アモーリー)に正式な同盟の使者を送っている。1174年、ヌールッディーンが没すると、今度はヌールッディーンによってファーティマ朝に送られ、さらにファーティマ朝を滅ぼしアイユーブ朝を興したサラーフッディーンの脅威に直面して、一転ザンギー朝との同盟に踏み切った。1176年に至る2度にわたってサラーフッディーンの暗殺のためにフィダーイーを派遣したが、いずれも失敗している。

これに対する報復のために、アイユーブ朝軍は城砦の一つマスヤーフ城砦を包囲するが、すぐに休戦に至り、アイユーブ朝との敵対関係も短期間のものであった。その後、シリアのニザール派を巡る状況は、比較的安定的に推移するが、1187年のサラーフッディーンによるエルサレム奪還以降、十字軍の活動が活発化し、1189年には第3回十字軍が起こる。このころにはニザール派と十字軍との関係はかなり悪化しており、十字軍諸国家へのフィダーイーの派遣が行われていた模様である。たとえば1192年のモンフェラート侯コンラート1世の暗殺もフィダーイーによるものといわれている。これに関してイブン・アル=アスィールなどサラーフッディンに敵対的な史家は、サラーフッディーンがスィナーンを使嗾して実行させたものであるとしている。このころ、遅くとも1193年までにスィナーンは没したものと思われる。

このようにスィナーンはシリアをめぐる情勢で大きな役割を果たしたが、一方でニザール派教義面への貢献はあまり伝えられていない。1164年、フッジャのハサン2世はキヤーマを宣言する。これに対しスィナーンはキヤーマについて独自の教義を打ち立てたとされているが、スィナーン自身がイマームを称したとする史料はない。このことは教義面の対立以上にスィナーンのアラムートからの独立傾向を示しているといえよう。

スィナーンがシリア・ニザール派再組織化のなかで最も重視したのがフィダーイーの育成であった。フィダーイーとは「ある理念に忠誠を尽くし自己犠牲をも厭わない人びと」のことであり、スィナーンは戦闘や暗殺において彼らを積極的に用いた。フィダーイーの勇猛さは特に十字軍に恐れられて、彼らによってヨーロッパに伝えられ、やがて「暗殺教団」伝説とその指導者「山の老人」を生み出し、無限のバリエーションを発生させている。

関連項目