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* [[1875年]] - [[ミュンヘン工科大学]]教授に就く。哲学者[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]の孫アンネ・ヘーゲルと結婚。
* [[1875年]] - [[ミュンヘン工科大学]]教授に就く。哲学者[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]の孫アンネ・ヘーゲルと結婚。
* [[1880年]] - [[ライプツィヒ大学]]教授に就く。
* [[1880年]] - [[ライプツィヒ大学]]教授に就く。
* [[1886年]] - [[ゲッティンゲン大学]]教授に就く(-[[1913年]])
* [[1886年]] - [[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン大学]]教授に就く(-[[1913年]])


クラインはプロイセン政府の首長秘書だった父の元に生まれた。この時代のヨーロッパは緊張が続いており[[プロイセン王国]]が[[フランス]]と[[普仏戦争|戦争]]になったときは衛生兵としてプロイセン軍に従事した。<ref>このフランスとドイツの長年に亘る対立はクラインやヒルベルトと共に19世紀を代表するフランスの数学者アンリ・ポアンカレとの確執を生むことになる。</ref>ここで後に[[文部大臣]]となる[[フリードリヒ・アルトホフ]]と出会う。戦争の後の1872年、彼は23歳という異例の若さでエアランゲン大学の教授に就任することになった。この間に彼の大きな業績のひとつであるエルランゲン・プログラムを考案した。[[ライプツィヒ大学]]で教鞭をとっていた[[1881年]]初頭、フランスの[[科学アカデミー]]が[[1878年]]に提示した[[微分方程式]]に関するコンクールの問題についてポアンカレが発表した論文を読んだことで彼と交流を始める。ポアンカレとの文通は最初は温和なものだったが次第に皮肉の混じったものになっていき最終的にはお互いの国にまで批判が及ぶようなものになり[[1882年]]にポアンカレが書いた手紙を最後に文通は途切れることになる。この2人の対立はお互いに相当大きな負担になったといわれる。最後の手紙の数ヵ月後クラインは[[うつ病]]にかかり休養を余儀なくされる。この後クラインは研究よりも教育に力を入れ始めダフィット・ヒルベルトや[[マックス・デーン]]などの数学者を育てた。このときにもクラインのポアンカレへの反感は消えておらずヒルベルトをポアンカレの元に留学させたときもヒルベルトにポアンカレはたいした結果が無い場合でもとにかく論文を書きたがるが、パリでそういう批判は聞かないかと尋ねたりし、デーンがポアンカレが解けなかった予想(ポアンカレ予想のことである)を解いたと思い込んだときには先を越される前に早く発表しろと急がしたりしたという。
クラインはプロイセン政府の首長秘書だった父の元に生まれた。この時代のヨーロッパは緊張が続いており[[プロイセン王国]]が[[フランス]]と[[普仏戦争|戦争]]になったときは衛生兵としてプロイセン軍に従事した。<ref>このフランスとドイツの長年に亘る対立はクラインやヒルベルトと共に19世紀を代表するフランスの数学者アンリ・ポアンカレとの確執を生むことになる。</ref>ここで後に[[文部大臣]]となる[[フリードリヒ・アルトホフ]]と出会う。戦争の後の1872年、彼は23歳という異例の若さでエアランゲン大学の教授に就任することになった。この間に彼の大きな業績のひとつであるエルランゲン・プログラムを考案した。[[ライプツィヒ大学]]で教鞭をとっていた[[1881年]]初頭、フランスの[[科学アカデミー]]が[[1878年]]に提示した[[微分方程式]]に関するコンクールの問題についてポアンカレが発表した論文を読んだことで彼と交流を始める。ポアンカレとの文通は最初は温和なものだったが次第に皮肉の混じったものになっていき最終的にはお互いの国にまで批判が及ぶようなものになり[[1882年]]にポアンカレが書いた手紙を最後に文通は途切れることになる。この2人の対立はお互いに相当大きな負担になったといわれる。最後の手紙の数ヵ月後クラインは[[うつ病]]にかかり休養を余儀なくされる。この後クラインは研究よりも教育に力を入れ始めダフィット・ヒルベルトや[[マックス・デーン]]などの数学者を育てた。このときにもクラインのポアンカレへの反感は消えておらずヒルベルトをポアンカレの元に留学させたときもヒルベルトにポアンカレはたいした結果が無い場合でもとにかく論文を書きたがるが、パリでそういう批判は聞かないかと尋ねたりし、デーンがポアンカレが解けなかった予想(ポアンカレ予想のことである)を解いたと思い込んだときには先を越される前に早く発表しろと急がしたりしたという。

2010年8月27日 (金) 18:31時点における版

フェリックス・クライン

フェリックス・クリスティアン・クラインFelix Christian Klein1849年4月25日 - 1925年6月22日)は、ドイツ数学者群論幾何学との関係、関数論などの発展に寄与した。クラインの壺の考案者として知られる。ヒルベルトポアンカレといった次の世代の数学者に影響を与えた。

略歴

クラインはプロイセン政府の首長秘書だった父の元に生まれた。この時代のヨーロッパは緊張が続いておりプロイセン王国フランス戦争になったときは衛生兵としてプロイセン軍に従事した。[1]ここで後に文部大臣となるフリードリヒ・アルトホフと出会う。戦争の後の1872年、彼は23歳という異例の若さでエアランゲン大学の教授に就任することになった。この間に彼の大きな業績のひとつであるエルランゲン・プログラムを考案した。ライプツィヒ大学で教鞭をとっていた1881年初頭、フランスの科学アカデミー1878年に提示した微分方程式に関するコンクールの問題についてポアンカレが発表した論文を読んだことで彼と交流を始める。ポアンカレとの文通は最初は温和なものだったが次第に皮肉の混じったものになっていき最終的にはお互いの国にまで批判が及ぶようなものになり1882年にポアンカレが書いた手紙を最後に文通は途切れることになる。この2人の対立はお互いに相当大きな負担になったといわれる。最後の手紙の数ヵ月後クラインはうつ病にかかり休養を余儀なくされる。この後クラインは研究よりも教育に力を入れ始めダフィット・ヒルベルトやマックス・デーンなどの数学者を育てた。このときにもクラインのポアンカレへの反感は消えておらずヒルベルトをポアンカレの元に留学させたときもヒルベルトにポアンカレはたいした結果が無い場合でもとにかく論文を書きたがるが、パリでそういう批判は聞かないかと尋ねたりし、デーンがポアンカレが解けなかった予想(ポアンカレ予想のことである)を解いたと思い込んだときには先を越される前に早く発表しろと急がしたりしたという。

功績

彼の幾何学における最も重要な業績ともいわれるのがエルランゲン・プログラム[2]である。彼は幾何学を図形空間)にある変換を施したときに変わらない性質を研究する学問であるとした。[3]例えばユークリッド幾何学では回転鏡映平行移動の3つの変換[4]が許されており、不変量としては長さ角度面積などが挙げられる。また射影幾何学においては射影変換が許されているので角度や長さは不変量とはならないが直線はあくまでも直線であり複比も保存される。(クラインは射影変換群がユークリッド群より本質的に大きいことを示した。つまり射影幾何学とユークリッド幾何学は構造的に異なるということである。この成果は射影幾何学における最後の大発見ともいわれる。)位相幾何学(トポロジー)では連続変換ホメオモルフィズム)が許されておりこのときは図形の連結性以外は保存されない。[5]この特徴付けの最も大きな意味はいままで雑多に創り出されてきた数々の幾何学が分類しなおされたことである。(彼のプログラムに従わなかったものとしてリーマン幾何学がある。この幾何学では空間の普遍性を仮定していないため一般に可能な変換は恒等変換だけになってしまう。この不備はクラインの後に修正された。)この幾何学の分類という問題は彼の教え子であったヒルベルトの公理系による幾何学を含めた数学の諸分野の体系付けという新たな道にも影響を与えることになる。

クラインはガウスリーマンの創始した多様体論にも大きな功績を残している。彼は微分幾何学の分野では多様体に持たせる幾何構造は剛体変換を可能にすることができる自然なものにすべきだとし[6]2次元多様体は全て3種類の自然な幾何構造を持つと信じた。(クラインは正しさを確信していたが、結局証明はできなかった。これの完全な証明1907年にポアンカレとケーベによってそれぞれ独立になされ一意化定理と呼ばれている。)これは幾何化予想[7]などその後の幾何構造の研究に大きな影響を与えた。さらに位相幾何学の分野では向き付け不可能閉曲面を初めて発見した。この多様体はクラインの壺といわれている。[8]

著書

  • 『独逸ニ於ケル数学教育 ふぇりっくす・くらいん講演』林鶴一武辺松衛訳、大日本図書、1921年。 
  • 『高い立場からみた初等数学』 第1、遠山啓監訳、商工出版社〈数学選書〉、1959年。 
  • 『高い立場からみた初等数学』 第2、遠山啓監訳、商工出版社〈数学選書〉、1960年。 
  • 『高い立場からみた初等数学』 第3、遠山啓監訳、商工出版社〈数学選書〉、1961年。 
  • 『高い立場からみた初等数学』 第4、遠山啓監訳、東京図書〈数学選書〉、1961年。 
  • ヒルベルト、クライン『幾何学の基礎/エルランゲン・プログラム寺阪英孝大西正男訳・解説、共立出版〈現代数学の系譜 7〉、1970年。ISBN 4-320-01160-0http://www.kyoritsu-pub.co.jp/series/keifu.html#7 
  • ペリー、クライン『数学教育改革論』丸山哲郎訳、明治図書出版〈世界教育学選集 70〉、1972年。 
  • クライン:19世紀の数学石井省吾渡辺弘訳、共立出版、1995年9月。ISBN 4-320-01493-6http://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookhtml/0201/000078.html 
  • 『正20面体と5次方程式』関口次郎訳、シュプリンガー・フェアラーク東京〈シュプリンガー数学クラシックス〉、1997年4月。ISBN 4-431-70692-5 

関連項目

注釈

  1. ^ このフランスとドイツの長年に亘る対立はクラインやヒルベルトと共に19世紀を代表するフランスの数学者アンリ・ポアンカレとの確執を生むことになる。
  2. ^ 変換不変量を基にした幾何学の特徴付け、クラインがエアランゲン大学の教授だった頃に作られたことに因む。
  3. ^ 集合論の言葉を用いれば与えられた集合変換群が与えられ、その変換に対して変化しない集合の性質を調べることと言い換えられる。
  4. ^ 正確には単位元として全く動かさない変換である恒等変換がある。これらは合わせてユークリッド変換剛体変換などと呼ばれ、それらのなすユークリッド群と呼ぶ。
  5. ^ トポロジーにおける不変量としてはオイラー標数ベッチ数ホモトピー群などがあるが完全な分類に使えるものは発見されていない。これは有名なポアンカレ予想にもつながるものだが、前述のようにクラインはトポロジーの基礎を築き上げたポアンカレと対立していたためこの問題の解決にも相当な知恵を傾けたといわれる。
  6. ^ これは前述のエアランゲン・プログラムで扱うことができる「幾何学」である。
  7. ^ 3次元で同じことを考えられないかという予想でポアンカレ予想の最終的解決に大きな意味を持った予想。
  8. ^ 「クライン」にはドイツ語で「小さい」という意味があることからクラインの壺のことを「小さい壺」と書いた本がしばしば見受けられる。これはトポロジーでは大きさを考えないことに掛けたジョークである。

外部リンク