コンテンツにスキップ

「阿蘇惟澄」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目: 1行目:
'''阿蘇 惟澄'''(あそ これずみ、[[1309年]]([[延慶 (日本)|延慶]]2年)? - [[1364年]][[10月15日]]([[貞治]]3年/[[正平 (日本)|正平]]19年[[9月20日 (旧暦)|9月20日]]))は[[鎌倉時代]]末期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけての[[武将]]。[[阿蘇氏]]の第10代当主。
'''阿蘇 惟澄'''(あそ これずみ、[[延慶 (日本)|延慶]]2年[[1309年]])? - [[貞治]]3年/[[正平 (日本)|正平]]19年[[9月20日 (旧暦)|9月20日]]([[1364年]][[10月15日]]))は[[鎌倉時代]]末期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけての[[武将]]。[[阿蘇氏]]の第10代当主。第6代当主・[[阿蘇惟景]]の子とも第7代当主・[[阿蘇惟国]]の子ともいわれるが、阿蘇氏の支族である[[恵良氏]]の出身であり、第8代当主・[[阿蘇惟時]]の婿養子となって家督を継いだとも言われており、出自は定かではない。[[阿蘇惟村|惟村]]、[[阿蘇惟武|惟武]]の父。通称は小次郎


惟澄は第6代当主・[[阿蘇惟景]]の子とも第7代当主・[[阿蘇惟国]]の子ともいわれるが、阿蘇氏の支族である[[恵良氏]]の出身であり、第8代当主・[[阿蘇惟時]]の婿養子となって家督を継いだとも言われており、出自は定かではない。通称は阿蘇小次郎。[[1333年]]、幕命を受けて[[楠木正成]]が立て籠もる[[千早城]]攻めに参戦しようとしたが、その途上で[[護良親王]]の令旨を受けて官軍側に寝返った。[[1336年]]、九州に落ちてきた[[足利尊氏]]と[[多々良浜の戦い]]にて戦ったが、敗れた。その後も[[菊池氏]]と協力して九州における北朝勢力と戦った。その経緯で[[北朝 (日本)|北朝]]側に与した阿蘇惟時など同族とも対立したが、惟澄の勢威は大いに拡大したと言われている。
[[元弘]]3年([[1333年]]、幕命を受けて[[楠木正成]]が立て籠もる[[千早城]]攻めに参戦しようとしたが、その途上で[[護良親王]]の令旨を受けて官軍側に寝返った。[[建武 (日本)|建武]]3年([[1336年]]、九州に落ちてきた[[足利尊氏]]と[[多々良浜の戦い]]にて戦ったが、敗れた。その後も[[南朝 (日本)|南朝]]方として[[菊池氏]]と協力して九州における[[北朝 (日本)|北朝]]勢力と戦った。その経緯で北朝側に与した阿蘇惟時など同族とも対立したが、惟澄の勢威は大いに拡大したと言われている。


13647月、長男の[[阿蘇惟村]]に家督を譲り、その2ヵ月後に死去した。
貞治3/正平19年(1364年)7月、長男の惟村に家督を譲り、2ヵ月後に死去した。


{{DEFAULTSORT:あそ これすみ}}
{{DEFAULTSORT:あそ これすみ}}

2010年8月28日 (土) 01:57時点における版

阿蘇 惟澄(あそ これずみ、延慶2年(1309年)? - 貞治3年/正平19年9月20日1364年10月15日))は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将阿蘇氏の第10代当主。第6代当主・阿蘇惟景の子とも第7代当主・阿蘇惟国の子ともいわれるが、阿蘇氏の支族である恵良氏の出身であり、第8代当主・阿蘇惟時の婿養子となって家督を継いだとも言われており、出自は定かではない。惟村惟武の父。通称は小次郎。

元弘3年(1333年)、幕命を受けて楠木正成が立て籠もる千早城攻めに参戦しようとしたが、その途上で護良親王の令旨を受けて官軍側に寝返った。建武3年(1336年)、九州に落ちてきた足利尊氏多々良浜の戦いにて戦ったが、敗れた。その後も南朝方として菊池氏と協力して九州における北朝勢力と戦った。その経緯で北朝側に与した阿蘇惟時など同族とも対立したが、惟澄の勢威は大いに拡大したと言われている。

貞治3年/正平19年(1364年)7月、長男の惟村に家督を譲り、2ヵ月後に死去した。