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「クマン人」の版間の差分

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元来は[[キプチャク草原]]と呼ばれる現在の[[カザフスタン]]から東ヨーロッパまでの平原地帯に広がって遊牧生活を行った[[キプチャク]]のうちの西部、[[黒海]]北岸から[[ベッサラビア]](現[[モルドバ]])の方面に遊牧していた[[テュルク系]][[遊牧民]]たちのことであった。これらの人々は、クマン(ポロヴェツ)は[[11世紀]]頃に黒海北岸にあらわれ、[[ルーシ]]や[[モルダヴィア]]、[[ワラキア]]、[[トランシルヴァニア]]にたびたび侵入して略奪を行った。11世紀後半から12世紀前半には[[ハンガリー王国]]の[[ラースロー1世]]、[[キエフ大公国]]の[[ウラジーミル・モノマフ]]などの強力な君主が出てクマン(ポロヴェツ)を打ち破ったが、その後も両国はクマン(ポロヴェツ)と時に戦い、時に和平を結んだりして関係を続けた。クマン人は[[クリミア半島]]に進出してきた[[イタリア]]諸国の人々とも密接な交渉を持ち、[[イタリア人]]によって[[クマン語]]の辞書『[[コーデクス・クマニクス]]』(''[[:en:Codex Cumanicus]]'')が編纂された。
元来は[[キプチャク草原]]と呼ばれる現在の[[カザフスタン]]から東ヨーロッパまでの平原地帯に広がって遊牧生活を行った[[キプチャク]]のうちの西部、[[黒海]]北岸から[[ベッサラビア]](現[[モルドバ]])の方面に遊牧していた[[テュルク系]][[遊牧民]]たちのことであった。これらの人々は、クマン(ポロヴェツ)は[[11世紀]]頃に黒海北岸にあらわれ、[[ルーシ]]や[[モルダヴィア]]、[[ワラキア]]、[[トランシルヴァニア]]にたびたび侵入して略奪を行った。11世紀後半から12世紀前半には[[ハンガリー王国]]の[[ラースロー1世]]、[[キエフ大公国]]の[[ウラジーミル・モノマフ]]などの強力な君主が出てクマン(ポロヴェツ)を打ち破ったが、その後も両国はクマン(ポロヴェツ)と時に戦い、時に和平を結んだりして関係を続けた。クマン人は[[クリミア半島]]に進出してきた[[イタリア]]諸国の人々とも密接な交渉を持ち、[[イタリア人]]によって[[クマン語]]の辞書『[[コーデクス・クマニクス]]』(''[[:en:Codex Cumanicus]]'')が編纂された。


12世紀に入るとルーシではキエフ大公国を頂点とする統一が揺らいで各地に小公国が乱立し、領土を巡る争いが絶えなかったので、[[公]]の中には敵対者と戦うためにポロヴェツ人(クマン人)をルーシに積極的に招き入れる者もあり、ルーシの混乱に拍車をかけた。ポロヴェツとの戦いはルーシ諸公にとって重要な問題となり、[[1185年]]に行われたノヴゴロド・セヴェルスキーの公[[イーゴリ2世]]のポロヴェツに対する遠征は中世[[ロシア文学]]の記念碑的な叙事詩『[[イーゴリ軍記]]』に描かれた。『イーゴリ軍記』をもとに[[アレクサンドル・ボロディン]]が作曲した歌劇「[[イーゴリ公]]」中に「[[ダッタン人の踊り]]」という邦題で知られる有名な曲があるが、その原題は直訳すれば「ポロヴェツ人の踊り」である。
12世紀に入るとルーシではキエフ大公国を頂点とする統一が揺らいで各地に小公国が乱立し、領土を巡る争いが絶えなかったので、[[公]]の中には敵対者と戦うためにポロヴェツ人(クマン人)をルーシに積極的に招き入れる者もあり、ルーシの混乱に拍車をかけた。ポロヴェツとの戦いはルーシ諸公にとって重要な問題となり、[[1185年]]に行われたノヴゴロド・セヴェルスキーの公[[イーゴリ2世]]のポロヴェツに対する遠征は中世[[ウクライナ文学]]の記念碑的な叙事詩『[[イーゴリ軍記]]』に描かれた。『イーゴリ軍記』をもとに[[アレクサンドル・ボロディン]]が作曲した歌劇「[[イーゴリ公]]」中に「[[ダッタン人の踊り]]」という邦題で知られる有名な曲があるが、その原題は直訳すれば「ポロヴェツ人の踊り」である。


[[13世紀]]前半、[[バトゥ]]率いる[[モンゴル帝国]]の遠征軍が東方のキプチャクを併合し、さらに黒海北岸に迫ると、4万戸のクマン人はハンガリー国王[[ベーラ4世]]を頼ってヨーロッパに移り、[[ハンガリー平原]]に住み着いた。彼らは次第に[[ハンガリー人]]に同化していったが、その後も数世紀にわたって独自の文化を保ちつづけ、現在[[クマン人]]と呼ばれるハンガリーの少数民族となっている。
[[13世紀]]前半、[[バトゥ]]率いる[[モンゴル帝国]]の遠征軍が東方のキプチャクを併合し、さらに黒海北岸に迫ると、4万戸のクマン人はハンガリー国王[[ベーラ4世]]を頼ってヨーロッパに移り、[[ハンガリー平原]]に住み着いた。彼らは次第に[[ハンガリー人]]に同化していったが、その後も数世紀にわたって独自の文化を保ちつづけ、現在[[クマン人]]と呼ばれるハンガリーの少数民族となっている。

2010年10月2日 (土) 06:22時点における版

13世紀前半におけるクマン人の諸ハン国(地図の左上)。

クマン人は、東欧中央亜草原地帯で活動したテュルク系遊牧民族である。

民族名

ルーシ年代記』で見られるクマン人の一家。
  • 欽察族(きんさつぞく):漢字文化圏の記録による。
  • ポーロヴェツィ人Половци;意訳:「黄人」・「野原の人」:ルーシの記録による。ポロヴェツとも。
  • クマン人KumanCuman):ビザンツ帝国ハンガリー王国の記録による。
  • キプチャク人Kypchak):カザフスタンの記録による。

歴史

「バーバ」と呼ばれるクマン人が立てた石像(ドニプロペトロウシクウクライナ)。

元来はキプチャク草原と呼ばれる現在のカザフスタンから東ヨーロッパまでの平原地帯に広がって遊牧生活を行ったキプチャクのうちの西部、黒海北岸からベッサラビア(現モルドバ)の方面に遊牧していたテュルク系遊牧民たちのことであった。これらの人々は、クマン(ポロヴェツ)は11世紀頃に黒海北岸にあらわれ、ルーシモルダヴィアワラキアトランシルヴァニアにたびたび侵入して略奪を行った。11世紀後半から12世紀前半にはハンガリー王国ラースロー1世キエフ大公国ウラジーミル・モノマフなどの強力な君主が出てクマン(ポロヴェツ)を打ち破ったが、その後も両国はクマン(ポロヴェツ)と時に戦い、時に和平を結んだりして関係を続けた。クマン人はクリミア半島に進出してきたイタリア諸国の人々とも密接な交渉を持ち、イタリア人によってクマン語の辞書『コーデクス・クマニクス』(en:Codex Cumanicus)が編纂された。

12世紀に入るとルーシではキエフ大公国を頂点とする統一が揺らいで各地に小公国が乱立し、領土を巡る争いが絶えなかったので、の中には敵対者と戦うためにポロヴェツ人(クマン人)をルーシに積極的に招き入れる者もあり、ルーシの混乱に拍車をかけた。ポロヴェツとの戦いはルーシ諸公にとって重要な問題となり、1185年に行われたノヴゴロド・セヴェルスキーの公イーゴリ2世のポロヴェツに対する遠征は中世ウクライナ文学の記念碑的な叙事詩『イーゴリ軍記』に描かれた。『イーゴリ軍記』をもとにアレクサンドル・ボロディンが作曲した歌劇「イーゴリ公」中に「ダッタン人の踊り」という邦題で知られる有名な曲があるが、その原題は直訳すれば「ポロヴェツ人の踊り」である。

13世紀前半、バトゥ率いるモンゴル帝国の遠征軍が東方のキプチャクを併合し、さらに黒海北岸に迫ると、4万戸のクマン人はハンガリー国王ベーラ4世を頼ってヨーロッパに移り、ハンガリー平原に住み着いた。彼らは次第にハンガリー人に同化していったが、その後も数世紀にわたって独自の文化を保ちつづけ、現在クマン人と呼ばれるハンガリーの少数民族となっている。

一方、モルダヴィアやベッサラビアに住み着いたクマン人は13世紀にキリスト教を受け入れ、まもなく他の民族に同化して消滅した。

関連地名

ウクライナ

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参考文献

  • (日本語) 『ポーランド・ウクライナ・バルト史 』/ 伊東孝之,井内敏夫,中井和夫. 山川出版社, 1998.12. (新版世界各国史 ; 20)