コンテンツにスキップ

「本多庸一」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
20行目: 20行目:
本多の先祖は、徳川家[[譜代]]の[[本多氏]]の流れを汲む。[[本多久元|本多八郎左衛門久元]](1823年-1896年)と[[本多とも]]の長男として1848年(嘉永元年)に[[弘前]]に生まれる。幼名を徳蔵と言った。[[津軽藩]]士として幼少より[[儒学]]を学び、[[兵法]]・剣術の達人として[[幕末]]の困難な政局の中でさまざまな活動を行った。
本多の先祖は、徳川家[[譜代]]の[[本多氏]]の流れを汲む。[[本多久元|本多八郎左衛門久元]](1823年-1896年)と[[本多とも]]の長男として1848年(嘉永元年)に[[弘前]]に生まれる。幼名を徳蔵と言った。[[津軽藩]]士として幼少より[[儒学]]を学び、[[兵法]]・剣術の達人として[[幕末]]の困難な政局の中でさまざまな活動を行った。


[[手回組士]]として出仕して[[藩校司監]]になる。[[菊池九郎]]らと[[奥羽越列藩同盟]]のために奔走する。1868年津軽藩が薩長同盟側に付く。慶応4年(1868年)7月11日に、津軽藩の重役会議に出席しているときに官軍側につくことが明らかにされる。<ref>工藤威著『奥羽越列藩同盟の基礎的研究』420-421ページ</ref>土壇場で脱藩して[[幕府軍]]の中心の[[庄内藩]]に加わり、[[秋田戦争]]に従軍する、薩摩軍三番小隊と交戦する。庄内藩降伏後、津軽藩に帰藩、1869年[[函館戦争]]では[[青森湊]]で参謀になる。
[[手回組士]]として出仕して[[藩校司監]]になる。[[菊池九郎]]らと[[奥羽越列藩同盟]]のために奔走する。1868年津軽藩が薩長同盟側に付く。慶応4年(1868年)7月11日に、津軽藩の重役会議に出席しているときに官軍側につくことが明らかにされる。<ref>工藤威著『奥羽越列藩同盟の基礎的研究』420-421ページ</ref>土壇場で脱藩して[[幕府軍]]の中心の[[庄内藩]]に加わり、[[秋田戦争]]に従軍する、薩摩軍三番小隊と交戦する。庄内藩降伏後、津軽藩に帰藩、1869年[[函館戦争]]では[[青森港|青森湊]]で参謀になる。


===横浜ブラウン塾時代===
===横浜ブラウン塾時代===

2010年10月24日 (日) 08:02時点における版

本多庸一
日本メソジスト教会初代監督時代
生誕 1849年1月7日
陸奥国弘前(現、青森県弘前市)
死没 1912年3月26日
長崎県長崎市(客死)
出身校 ブラウン塾ドルー神学校
職業 牧師監督
テンプレートを表示


本多 庸一(ほんだ よういつ[1]1849年1月7日嘉永元年12月13日) - 1912年明治45年)3月26日)は、日本のキリスト教伝道者・牧師教育家政治家日本メソヂスト教会の初代監督青森県弘前市生まれ。新島襄内村鑑三新渡戸稲造本間俊平と並び、明治期日本におけるキリスト教主義教育の先駆者とされる。

来歴・人物

津軽藩士時代

本多の先祖は、徳川家譜代本多氏の流れを汲む。本多八郎左衛門久元(1823年-1896年)と本多ともの長男として1848年(嘉永元年)に弘前に生まれる。幼名を徳蔵と言った。津軽藩士として幼少より儒学を学び、兵法・剣術の達人として幕末の困難な政局の中でさまざまな活動を行った。

手回組士として出仕して藩校司監になる。菊池九郎らと奥羽越列藩同盟のために奔走する。1868年津軽藩が薩長同盟側に付く。慶応4年(1868年)7月11日に、津軽藩の重役会議に出席しているときに官軍側につくことが明らかにされる。[2]土壇場で脱藩して幕府軍の中心の庄内藩に加わり、秋田戦争に従軍する、薩摩軍三番小隊と交戦する。庄内藩降伏後、津軽藩に帰藩、1869年函館戦争では青森湊で参謀になる。

横浜ブラウン塾時代

本多庸一監督
和服

維新後は津軽藩の命令で、英語を学ぶために横浜に留学した。1872年5月、オランダ改革派アメリカ人宣教師S.R.ブラウンの私塾で英語を学び、秋に一時帰郷して、1872年には自費で留学して、1872年5月13日にJ・H・バラから受洗し、キリスト者となる。

弘前教会・東奥義塾時代

1873年弘前に帰郷して、故郷である東北地方の伝道を志して、廃藩置県の影響で廃校となっていた東奥義塾を再興し、塾長を勤める。その傍らで1876年、東北最古のプロテスタント教会である弘前教会ジョン・イングと共に開き、牧師を兼務する。

その後、弘前教会を牧会しながら、自由民権運動に関わり指導的な立場になった。1878年に、初めて府県会が開かれた時、初代青森県会議長に選出された。1879年には、国会請願書が出され、1881年には、国会開設の詔が下された。本多の支持者は、本多を第一期の衆議院議員にすることを希望して、本多もそれを希望していた。しかし、当時の政府は宗教家が代議士になることを禁止していたので、本多は政治家になるか、宗教家になるか悩んだ。[3]

アメリカ留学時代

1886年には仙台美以(美以はメソジスト監督の意)教会の牧師になっているため、このときまでに教派を転じたものと思われる。築地の教会で長老(正教師)になり、青山美以教会牧師と東京英和学校の教師になる。1888年長嶺サダ(本多貞子)と再婚した。1888年9月より米国に洋行した。

ある日ペンシルベニア州スクラントンの郊外を友人の岩村透と共に散歩して、鉄橋の上で佇んでいると、列車が来た。岩村が叫んでも、列車が間近に迫るまで本多は気が付かなかった。危機一髪で気が付いて、とっさに枕木に身を伏せた。すると、列車は本多の頭をかすめて、本多の上着の端が裂けただけで助かった。この体験がきっかけで、本多は政界に進出することをやめて、キリスト教の伝道に生涯をささげる決心をした。後に、ドルー神学校で本格的に神学を学ぶ。[4]

青山学院校長時代

1890年6月に帰国後、東京英和学校の校主(校長)に就任し、1894年青山学院と改称し第2代院長となり、17年間院長職に就く。1904年日露戦争が始まると、キリスト教各派は連合して、戦時伝道部を設け、戦地を慰問することになった。福音同盟会は、本多と中田重治を委員として、韓国にある諸教会を訪問した。

日本メソジスト教会監督時代

また、日本では統一的な組織でキリスト教宣教にあたったほうが合理的と考えるようになり、1907年日本メソヂスト教会を設立する。同年青山学院の院長を退いて、初代監督となり、日本独自の宣教組織を確立した。

1909年宣教開始50年記念会の感謝と、第十講演会「過去及将来に於ける宣教師の事業」の講演を担当。

1912年3月26日、メソジスト教会西部年会のために長崎市に滞在中、両肺気管支カタル、腸出血等の病気で死去した。1912年4月12日夜、青山学院の弘道館で、追悼会が行われ、植村正久、中田重治らが出席した。

日本メソジスト教会最後の監督で本多の甥の阿部義宗が本多の業績を記念して、本多記念教会を設立した。

弟子

脚注

  1. ^ 本多の妻の姉の孫に当たる作曲家の柴田南雄は、「本多庸一の読みは、ほとんどの人名辞典や伝記で『よういつ』となっているが、わたくしも従兄弟たちも『よういち』以外の呼び方を聞いた記憶はない。本人の孫に当たる人が、親族の一人である外国人のためにローマ字で作製した一家の系統樹でも、その名はYoichiとなっている。本人のローマ字署名で確認する必要があるが、未見である」と述べている(柴田南雄『わが音楽 わが人生』pp.366-367、岩波書店1995年)。
  2. ^ 工藤威著『奥羽越列藩同盟の基礎的研究』420-421ページ
  3. ^ 米田勇『中田重治伝』28ページ
  4. ^ 高野勝夫『キリスト教逸話例話集』309ページ

参考文献

  • 米田勇『中田重治伝』中田重治伝刊行委員会、1959年

外部リンク

先代
ロバート・S・マクレイ
青山学院院長
第2代:1890 - 1907年
次代
小方仙之助
先代
初代
日本メソヂスト教会監督
初代:1907-1912
次代
平岩愃保