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==クイーンと交流のあったアーティスト==
==クイーンと交流のあったアーティスト==
*[[エルトン・ジョン]] - [[1992年]]には「[[ボヘミアン・ラプソディ]]を、[[1997年]]には「[[ショウ・マスト・ゴー・オン]]」をクイーンと演奏した。
*[[エルトン・ジョン]] - [[1992年]]には「[[ボヘミアン・ラプソディ]]を、[[1997年]]には「[[ショウ・マスト・ゴー・オン]]」をクイーンと演奏した。
*[[メタリカ]] - クイーンと親交があったロックバンド。フレディの追悼コンサートではクイーンと共に演奏に参加した。
*[[メタリカ]] - クイーンと親交があったロックバンド。フレディの追悼コンサートではクイーンと共に演奏に参加した。「ストーン・コールド・クレイジー([[シアー・ハート・アタック]]収録)」をカヴァーしている
* [[アル・ヤンコビック]] -「ボヘミアン・ラプソディ」のポルカバージョン「ボヘミアン・ポルカ」を歌っている。
* [[アル・ヤンコビック]] -「ボヘミアン・ラプソディ」のポルカバージョン「ボヘミアン・ポルカ」、「[[地獄へ道づれ]]」の替え歌「遅刻へ道連れ」を歌っている。
* [[マイケル・ジャクソン]] - かつてフレディと交友があった。非公式であるがフレディとのコラボ曲の音源も残っている。
* [[マイケル・ジャクソン]] - かつてフレディと交友があった。非公式であるがフレディとのコラボ曲の音源も残っている。
* [[デヴィッド・ボウイ]] - 1981年にクイーンと「[[アンダー・プレッシャー]]」を共作・レコーディングしている。また、ロジャーが尊敬しているシンガーの一人である。
* [[デヴィッド・ボウイ]] - 1981年にクイーンと「[[アンダー・プレッシャー]]」を共作・レコーディングしている。また、ロジャーが尊敬しているシンガーの一人である。

2010年12月2日 (木) 13:53時点における版

ファイル:QueenPortraits81.jpg
基本情報
出身地 イングランドの旗 イングランド ロンドン
ジャンル ハードロック
グラムロック
プログレッシヴ・ロック
ピアノ・ロック
ロック
活動期間 1970年 -
レーベル パーロフォン
ハリウッド
公式サイト クイーン公式サイト
旧メンバー フレディ・マーキュリーヴォーカルピアノ
ブライアン・メイギター、ヴォーカル)
ロジャー・テイラードラムス、ヴォーカル)
ジョン・ディーコンベース

クイーン(Queen)は、1973年から活動している、イギリスハードロックバンド

1973年にデビューし、現在までに15枚のオリジナル・アルバム、その他多くのライヴ・アルバムやベスト・アルバムを発表している。

2001年にはマイケル・ジャクソンエアロスミスらと共にロックの殿堂入りをした。

1991年リードヴォーカルフレディ・マーキュリーが死去してからも、残されたメンバーによる「クイーン」名義での活動は断続的に続いており、正式に解散表明したことはない。また、ベースジョン・ディーコンが引退してからも、ギターブライアン・メイドラムスロジャー・テイラーの二人がクイーンの名を受け継ぐ形で活動を展開し、2005年から2009年までポール・ロジャースと組み「クイーン+ポール・ロジャース」として活動を行った。

メンバーと主な担当楽器

基本的に全員がある程度作詞作曲・ギターキーボードピアノができるため、上記に当てはまらないケースも多い。誰が何を演奏したか詳細なクレジットがある曲、不明な曲がある。ライブにおいても曲によってスポット的な担当をすることもあるのでここでは割愛する。また各メンバーのページを参照のこと。

1982年4月のヨーロッパ・ツアーから、サポート・メンバーを加え、サイドギターやキーボード、一部バッキングヴォーカルを担当。

レコードデビューまでの経緯

ファイル:Quuen band.jpg
左からジョン・ディーコン、フレディ・マーキュリー、ロジャー・テイラー、ブライアン・メイ

メイとテイラーの在籍していたバンド「スマイル」がクイーンの母体となった。スマイルは、1969年9月にシングル「Earth」(B面は「Step On Me」)をリリース。これはまったく成功せず、ヴォーカル兼ベースのティム・スタッフェルが脱退。その後任として、マーキュリーが加入。1970年7月12日のライヴよりクイーンと名乗り始める。何人かのベーシストが加入と脱退を繰り返し、最終的に(メンバーの紹介だったが)オーディションの形で加入したのが、ジョン・ディーコンであった。1971年2月のことである。

スマイルはこの当時はリリースに至らなかったものの数曲をレコーディングし、1980年代中ごろには、これらの楽曲を集めた形でLP(アルバム)として日本でのみ再発売された。スマイル時代に既に、3部のコーラス、リードヴォーカルを分担する方式、エレキギターとアコースティックギターを使い分ける「静と動」といった曲の構成、ドラムのスタイルなど、ピアノサウンド以外ほとんどが確立されていた。

一方学生時代インドでの寄宿舎生活の長かったマーキュリーは、いくつかのアマチュアバンドでヴォーカルを経験。クイーンのファースト・アルバムを制作している間に、「ラリー・ルレックス」名義でシングルレコードをリリース。バック演奏にはクイーンのメイとテイラーも担当。

サウンドの特徴

エレクトリックギターをダビングすることによって作られる「ギターオーケストレーション」と、マーキュリー、メイ、テイラーの3人のメンバーが声のパートを重ねることによって作られる重厚な「コーラス」が、特に初期に目立ったサウンド上の特徴といわれている。

そのギターオーケストレーションを生み出す源、メイのハンドメイドギター、「レッド・スペシャル」は、友人の家の暖炉の素材として当時100年以上使われていた木材から作られたといわれ、各ピックアップに対し独立したオンオフスイッチ、極性を入れ替えるフェイズスイッチ等、今までにないギターの音を作ることに成功した。重量を軽量化し、フィードバック奏法を容易くするための空洞も内部にあるが(ボディに空洞を作るとそこで共鳴する)、これ自体も、独自のサウンド作りに貢献している。ジョン・デイーコンが作った(あるいは既存の製品を改造した)とされるギターアンプも、随所で使用されている。しかし、メイは、既製のギターも各所で音を変えたりして使用しているため、それらの特徴的な音成分の部分以外は、非常に判別しづらい。

シンセサイザーを用いずにギターオーケストレーションで重厚なサウンドを生み出していることを明示するため、初期のレコードには「ノー・シンセサイザー」というクレジットがなされている。

クイーンのコーラスの録音方法については、「リードヴォーカルと重複するパートは、他のメンバーがバッキングヴォーカルをとり、リードヴォーカルがダブルトラックになったり、コーラスに埋もれてしまうのを防ぐ」、「スタジオ専用のサウンドエフェクターを駆使して音を厚くし、「ハーモナイザー」(エフェクターの項参照)で倍音を加える」などといった、現在常識となっているいくつかの手法以外は、不明な点も多い。 「最上パートはテイラーが担当することが多い」といった明確な部分は別として、特にオペラ風コーラスに際しては「1パートにつき3人で2〜3回ずつ重ねている」というある専門家の意見もある。また同時代のイエスユーライア・ヒープからの影響も伺える。 非公式な初期の映像では、マーキュリーのイニシアティヴの元、メイとテイラーの3名が、同一のバッキングパートを歌っているシーンもあるが、これが正式録音にも用いられたどうかは不明である。しかしながら、正式録音のコーラスでは、同一パート内に、それぞれの声の成分が含まれている部分も随所にある。が、正確にはメンバーとレコーディング担当スタッフしかわからない、企業秘密的な扱いとなっている[1]

また、メンバー全員が作曲ができ、作風もそれぞれ異なっているため、ヴァリエーションの多様さが強みとなっている。

歴史

クイーンのライヴ(1982年ノルウェー

クイーンの音楽形式は数年毎に変化し、時には大幅な変化もあった。

初期(1973年)

彼らのファーストアルバムである、『戦慄の王女』リリース当時のクイーンは、母国イギリスで、「ロックなのに、曲構成が複雑で、サウンドに小細工が多い。ディープ・パープルレッド・ツェッペリンそしてイエスの亜流」などとメディアから酷評された。化粧をしていたため遅れてきたグラムロックバンドと見られることもあった。また、彼らは、このアルバム制作から発売までに2年近くももたつき、結果、後のマーキュリーがインタヴューで述べていたように、レコード契約から1年以上待機させられたため「発売時にはあらゆる意味で、時代遅れになっていた」という。

黄金期(1974年~1979年)

1977年ニューヘイヴン公演。

「時代遅れ」と酷評された初期に比べ、黄金期にはルックスに多少変化が出てくる。マーキュリーは以前より少し髪が短くなり、ストライプやダイヤ、白と黒のシンメトリーなどの様々なタイツを身にまとい、スタンドマイクで歌うようになる。サウンドも華やかになり、メンバーの美しいコーラスとマーキュリーの高い声のリードヴォーカルが特徴的な時期である。

1974年3月クイーン II』をリリース。イギリスのメディアの評価はいっこうに変わらなかったが、シングル曲「輝ける7つの海」のヒットもあり、アルバムは全英5位まで上がるヒット作になった。これによりクイーンはシルバーディスクを受賞する。このアルバムをきっかけにクイーンの音楽性は一気に開花し、ヒット作の連発につながるようになる。

1974年にマーキュリーによる彼ら初のスマッシュヒットとなる「キラー・クイーン」(サードアルバム『シアー・ハート・アタック』からのシングルカット)がリリースされた(後にマーキュリーはこの曲の作曲者としてイヴォール・ノヴェロ賞を受賞する。)またこの年、モット・ザ・フープルの前座として初のアメリカツアーを行うが、メイが肝炎にかかってしまいツアーの途中でクイーンは降板余儀なくされる。この頃日本では、ルックスや煌びやかなサウンドからクイーンが若い女性を中心に人気が爆発し、翌1975年に初来日した。空港には1200人のファンが押し寄せ、武道館ライブは大成功を収める。日本でのあまりの歓迎振りは彼らにとっても驚きだったと、後にメンバーがコメントしている。

1975年1月、ディーコンが教師のヴェロニカ・デヅラフと結婚。翌2月にはカンサスマカボニー・ラッシュスティックスの前座として再びアメリカツアーを開始する。「キラー・クイーン」のヒットもあり、ツアーは各地で大盛況を得て、「キラー・クイーン」は全米5位まで上昇する。しかしアメリカのメディアも地元イギリス同様、クイーンを「レッド・ツェッペリンやディープ・パープルの後継者」として批判するようになる。さらにツアーの途中、前回のメイに続き今度はマーキュリーの喉がやられてしまう。マーキュリーはしばらく医師から安静状態を強いられたが、その後奇跡的に回復し、無事にツアーを終了させる。

この頃、クイーンのマネージャーをしていたトライデントとの契約解除の裁判で手を焼くことになる。原因はトライデントがメンバーの要望を全く聞き入れなかった為。契約解除は成立するもクイーンは多額の金を支払うことになる。その後新マネージャーとしてエルトン・ジョンのマネージャーであるジョン・リードを迎えるも、世界的ヒットとなる「ボヘミアン・ラプソディ」を巡ってメンバーとリードは対立することとなる。

初の全英1位を獲得した4枚目のアルバム『オペラ座の夜』は世界的なヒットであり、代表曲のひとつ「ボヘミアン・ラプソディ」に象徴される、豪華できらびやかなクイーン独自のサウンドを確立し、アメリカでの知名度も格段に上がった。しかし前述にもあるように、この曲を巡ってクイーンはリードと口論となる。リードは「6分を超える長い曲などラジオで流してくれない」と主張しており、曲のカットを指示したがメンバーは受け入れなかった。マーキュリーとテイラーは知り合いのラジオDJであるケニー・エヴェレットに意見を求めるが、エヴェレットはこの曲を気に入り、自身のラジオ番組で2日間で14回も流したという。「ボヘミアン・ラプソディ」はイギリス史上最高の売り上げを記録し、クイーンは地元およびヨーロッパ圏で一気にスーパースターへ上り詰めた。マーキュリーはこの曲の世界的ヒットにより2度目のイヴォール・ノヴェロ賞を受賞する。

1976年、軌道に乗ってきたクイーンはアメリカ、日本、オーストラリアなどで次々とツアーを成功させる。プライベートではメイがクリッシー・ミューレンと結婚、テイラーはコンサートの手助けをしてくれたレコード社の社長のアシスタントであるドミニク・ベイランドに一目惚れをする。

1977年、アメリカ各地でコンサートを超満員にさせると同時にヨーロッパや地元イギリスでも積極的にツアーを開始する。しかしイギリスのメディアからのバッシングはさらに勢いを増していた。メンバーはそれぞれ妻、および恋人と持ち家を持ち、自身のレコーディングスタジオで作詞・作曲活動に専念し始める。

5枚目のアルバム『華麗なるレース』では、初めてのセルフ・プロデュースとなり、イコライジングを多用する前作までのプロデューサーロイ・トーマス・ベイカー不在のためか、サウンドが多少重たくなっているものの、基本的には『オペラ座の夜』の路線をさらに推し進めた作風となっている。「愛にすべてを」、「懐かしのラヴァー・ボーイ」などの初期のクイーンを代表する楽曲も収録されたことにより、イギリスや日本で1位を獲得するなどヒットした。また、歌詞の一部を日本語で歌った「手をとりあって」が収録されたことは日本のファンを大変喜ばせた。

6枚目のアルバム『世界に捧ぐ』では、当時の音楽シーンの流れを意識し、サウンド的にはシンプルな方向へ向かい、音楽性の幅を広げると同時にメンバーのソロワークに近い楽曲も収録されると共に、トレードマークの一つであったコーラス・パートの全くない曲(「永遠の翼」など)も収録された。「伝説のチャンピオン」や「ウィ・ウィル・ロック・ユー」などアメリカでヒットした曲が多く収録されており、全米3位、日本とイギリスで4位を記録するなどヨーロッパや日本だけではなく、アメリカの大衆からもクイーンが人気になってきたことが裏付けられた。またヨーロッパの中で唯一クイーンが苦手としていたフランスで「ウィ・ウィル・ロック・ユー」が12週連続1位となり、13週目に1位となったのは「伝説のチャンピオン」であった。

一方でクイーンは元マネージャーのトライデントとの関係を完全に解消する。しかしクイーンの人気が上昇するにつれ、エルトン・ジョンとのマネージメントが困難になったリードはクイーンと契約を解除する。1978年にはヨーロッパ9カ国でツアーを開催。6年目にして初のフランスでのコンサートも大成功を収めた。

7枚目のアルバム『ジャズ』では再びロイ・トーマス・ベイカーを迎え、ヴァラエティに富んだサウンドと楽曲を展開している。「バイシクル・レース」プロモーション用に制作された、全裸の女性が自転車レースをするというポスターとプロモーションヴィデオは物議をかもした。「バイシクル・レース」の影響もあり、このアルバムの発売直後にはマスコミは一斉にクイーンを批判したがアルバムは全英2位の大ヒットとなった。このアルバム発売と同年、クイーンはカナダを皮切りに北米ツアーを開催。マーキュリーはステージにヌード姿で自転車に乗って登場した。

翌年1979年にはヨーロッパツアーを開催。東西冷戦状態であったユーゴスラビアもツアーのプログラムに入っていたことで話題を呼んだ。またマーキュリーがバレエ好きであったことから国立バレエ団の知的障害者への義援金チャリティ特別公演に出演。マーキュリー自身もバレエを踊り、大成功を収めた。また、カンボジア救済チャリティコンサートにも出演し、初日に単独コンサートを開いた。 『ジャズ』のリリース後、ライヴ・アルバム『ライヴ・キラーズ』で1970年代を締めくくる形となる。

クイーンのライヴ(1984年フランクフルト

第2次黄金期(1980~1986年)

1980年代のポップシーンの変化のためアルバム中心の姿勢から、シングル盤も重要視されるようになる。よって、「アルバムからのシングルカット」という考え方から、「シングルの集合体が、アルバム」といえるような作風に変化してきた。また、サウンドがさらにシンプルになり、大作が減ってゆき、あくまでも彼ら自身が持つ音楽性の範囲で、曲調も時代や周辺のサウンドに迎合してゆく。一方で、マーキュリー作の「オールディーズ」風味の曲である「愛という名の欲望」、ディーコン作のファンクの要素のある「地獄へ道づれ」が世界的にヒットし、「第二黄金期」と呼ばれるに至った。また、この後者のヒットは、「ロック」だけでなく、アメリカでの「ファンク」「ソウル」などといった、ブラックミュージックのチャートでも上位にランクインした。この頃マイケル・ジャクソンとの深い交流があり、楽曲を共同で作成するなど良好な仲だった(しかし80年代後半からはマイケルとの交流はなくなり、詳しい原因は不明である)。このアルバム中「愛という名の欲望」でブライアンはいつもの”レッド・スペシャル”ではなく、それまで録音で使用したことのない「フェンダー・テレキャスター」(ロジャー所有)を使用している。かのジョン・レノンはプレスリー風の楽曲である「愛という名の欲望」を聞いて1980年7月に再び創作意欲を爆発させ、22曲を録音したという(それが1980年11月の『ダブル・ファンタジー』につながった)「もしそれが本当なら、なんという素晴らしい事か」(ロジャー談)。ルックス的にも変化が訪れた。「グラムロック」のイメージでアイドル的にデビューした彼らは、メイ以外、全員髪を切り、マーキュリーはこの頃から口ひげを生やし、マッチョな雰囲気を強調し、80年代のクイーンを象徴していく姿へと変貌していく。

また、その他のサウンド上の特色として(ノイズや効果音程度の使い方に限られてはいるのだが)、このアルバムから、シンセサイザーが導入されていることが挙げられる。さらに加えるならば、初期アルバムに印刷された「ノー・シンセサイザー」といううたい文句の根拠である、ギター・オーケストレーション担当のギタリスト、メイ自らシンセサイザー解禁を行ったという事実である。『ザ・ゲーム』制作途中で、映画のサウンドトラック『フラッシュ・ゴードン』の録音が挟まった形となったことが、大きな要因となっている。つまり、それ以前にシングル発売された曲「愛という名の欲望」や「セイヴ・ミー」などには、シンセサイザーの導入がなく、サウンドがシンプルになった程度であった。サウンドトラック制作ということで、一般的なクイーンのイメージでもあるギターやコーラスが初期のスタイルに戻ったのと同時に、大々的にサウンドにシンセサイザーが導入された。結果、それ以降のシングル「プレイ・ザ・ゲーム」「地獄へ道づれ」「夜の天使」「フラッシュ・ゴードン」などには、シンセサイザーが局所で効果的に導入されることとなった。この頃メンバーは日本でコンサートを開いており、帰り際にマーキュリーは西武百貨店を貸しきって恋人とショッピングを楽しんだ。1981年には初の南米でのツアーを行うが、メンバーは政治的未熟さや、お国柄の違いを痛感させられる。器具の盗難などはなかったが、文化や法の違いなどにより、度々クイーンのスタッフが警察のお世話になった。またメキシコのコンサートでは会場内にが持ち込まれ、メンバーは酔った観客によるゴミの洗礼を受けた。これはメキシコ流の歓迎であるが、事態は泥沼化し、メンバーは急遽ニューヨークへ脱出することとなった。南米でのツアーを終了させたメンバーはスイスでレコーディング中に親交を深めたデヴィッド・ボウイと「アンダー・プレッシャー」を共作する。全英1位を獲得するなど「アンダー・プレッシャー」は世界的にヒットした。しかし第2次黄金期を象徴するこれらのヒット作はクイーンの音楽の軌道を狂わせていくことになる。

問題作とされるアルバム『ホット・スペース』は、「地獄への道づれ」などがアメリカで成功したことから、マーキュリー&ディーコンを中心にファンク、ダンスミュージックの要素を更に突き詰めた内容だった。しかし初期のクイーンの華やかなサウンドの傾向を望むファンや評論家らには、あまり受け入れられなかった。メイの華やかなギターサウンドがなくなってしまい、ファン離れが進んだ時期だった。またこの頃「アンダー・プレッシャー」がアルゼンチンで1位となるが、当時イギリスとは対立関係にあったため、クイーンの入国は禁止され曲も放送されなくなってしまった。

1982年にはクイーンとしては最後となる北米ツアーを開催。また同年に日本でツアーを開催。初めて武道館が会場から外された。

アルバム『ザ・ワークス』と『カインド・オブ・マジック』では模索をやめ、ファンが待ち望んでいたような曲を作った。『ワークス』自体は、前作アルバムの延長というよりは、『ゲーム』の延長線上のサウンドといえる。要するに、「前作からの方向転換」というよりは、「軌道修正」である。

また、この頃から、各メンバーのソロ活動も盛んとなり、加えてメンバー間の仲も険悪になっていく。ささいな事で口論が絶えなくなり、話し合いの結果活動を小休止し、ツアーも当面行わないことになった。「1985年ライヴエイド出演がなければ、そのまま、本当に解散していたかもしれない」という、多くの評論家の意見や、その後のメンバーのインタヴューもある。

また、楽曲がシングル盤のB面に収録されると、それだけで、A面のヒット曲と対等の著作権料が得られることから、誰の曲を収録するかでメンバー間でもめていた。この時期に至って、テイラー作の「Radio Ga Ga」が、イギリスでスマッシュヒットを飛ばし、その結果によって、作曲面で全員が対等となり、『ミラクル』以降での、全曲全員クレジットが実現する。

ライブなどでメンバーの意見が対立することも度々あったが、1984年頃から4人はまたクイーンとしての活動を本格的に再開させたいと思うようになり、ツアーに向けて準備を始める。

そして前述にもあったように解散寸前だったクイーンを立て直すきっかけとなった、飢餓を救うために行われたチャリティーライブ「ライヴエイド」では出演アーティスト中最多の6曲を披露。ライブパフォーマンスはレッド・ツェッペリンエルトン・ジョンU2デヴィッド・ボウイといった大物アーティストを圧倒するものであった。クイーンの演出は「ライヴエイド」の主催者であるボブ・ゲルドフからも絶賛され、スタジアムの観客やライブが中継されたの国々のファンからも絶大な反響を得た。またクイーンとしての演奏の他に、マーキュリー&メイによる「悲しい世界」も演奏された(しかし、マーキュリー&メイのスタッフが誤ってマイクのケーブルを抜いてしまったため、2人の後に演奏したポール・マッカートニーは、曲の前半部分の自分の歌声が消されるというミュージシャンとして痛い火傷を負った)。

ライヴエイドでの演奏は間違いなくその日最高の出来であり、これに自信がついたメンバーは1985年最後のシングルとなった「ワン・ビジョン」を発表。初の4人の共作であったが、メディアはこぞって「ライヴ・エイドの便乗商売だ」とこれを批判した。しかしイギリスではチャート7位にランクインし、ライヴエイドでクイーンのパフォーマンスが人々に影響を与えたせいか、世界各国でクイーンの全アルバムがチャート急上昇した。

もう一つの特色として、アメリカ合衆国での人気は下降し始めてくるが、1984年、ディーコンの「ブレイク・フリー(自由への旅立ち)」が、南米などでヒットし、加えて、南アフリカ東欧諸国などでも、「民衆を勇気づける曲」、「自由へのシンボルとしての曲」と、位置づけられている。これによりクイーンの音楽性は日本やアメリカ、ヨーロッパ圏だけではなく南アメリカやアフリカといった進展地にも広がり、音楽界の頂点へと進んでいった。

1985年にはクイーン最後となる日本公演を果たした。

そして1986年、イギリスのウェンブリースタジアムで行われた『カインド・オブ・マジック』のコンサートは観客動員数15万人を記録し、クイーン史上最高ともいえる大成功を収めた。巨大な特設ステージでクイーンの歴代ヒット作がメドレーで演奏され、ステージの下やスタジアムの中央、ヘリコプターからライブの様子が撮影された。マーキュリーの映像はステージの上の巨大モニターに映し出され、ステージから離れた観客にも見えるようになっていた。このライブで黄色い衣装を身にまとったマーキュリーは後に銅像やフィギュアとなった。また、『伝説のチャンピオン』の演奏終了には赤いマントと金の王冠を身に着け、チャンピオンに扮したマーキュリーが登場し、観客を沸かせた。

『カインド・オブ・マジック』は、元々サウンドトラックとして作られた作品を再録音し、数曲加えることによって作られた。次作アルバムよりは、前作アルバムの発表年に近い。当初の流れとしては、このアルバムのツアーの頃にマーキュリーのエイズ感染が判明し、その直後、バンドの次作アルバム発表まで、ソロ活動が盛んとなるため、「中期」のアルバムとされることが多い。

後期(1987年~1991年)

ザ・ミラクル』では、クイーンの出発点であるハードロックに戻った。次作同様、母国イギリスやヨーロッパ各国などでヒットした。楽曲に現れている各人のカラー(「原作曲者が明確」という意味)が強いながらも、パワーと活気のみなぎる収録曲の雰囲気から、「ライヴが近々行われる」と、ファンやマスコミ関係者の間で期待された。しかし、マーキュリーはあっさり否定。ジャケットに象徴されるように、「全曲全員クレジット」が開始されたのだが、そのことも含め、「マーキュリーの病状から死が近い」ことが大きな原因であると、後に明らかになった。ロック色の強いサウンドではあるが、「出発点」といいきれるかは不明。アルバムに収録しきれなかった、CDシングルでのカップリング曲も数曲あり、現在、コレクターズアイテムとなっている。

1991年初頭に、前作からわずか1年あまりで『イニュエンドウ』をリリース。サウンド的には、やや初期に戻ったか、あるいは、ブリティッシュ系ロックバンドをさらに自覚したようなサウンドとなったともいえる。タイトル・ナンバーではスティーヴ・ハウによるアコースティック・ギターソロがフィーチャーされた。メンバー以外のミュージシャンがクイーンのスタジオアルバムでギターを演奏したのはこれが最初で最後である。

フレディ・マーキュリーの死

この頃からマーキュリーの体調が急激に悪化していく。以前からマーキュリーには「HIVに感染しているのではないか」との噂がメディアの中で飛び交っていたがその真相は長年ベールに包まれていた。しかし実際にも前述の通り、マーキュリーがHIVに感染していることは『カインド・オブ・マジック』のツアー頃に判明しており、このことは関係者のみが知ることとなった。80年代の末期からはマーキュリーの喉の状態も徐々に悪化していき、ツアーも行われなくなり、メディアへの露出も徐々に減っていった。

前アルバム『イニュエンドゥ』発表から一年足らずあとの1991年11月23日、マーキュリーの自宅前で記者会見が行われ、スポークスマンを通じてこう述べた。

「私はHIVテストで陽性と診断され、AIDS患者であることが確認されました。しかし私の身の回りの人々のプライバシーを守るため、この事実を隠しておくことが適当だと考えておりました。 しかし今、世界中の友人たちとファンの皆様に真実をお伝えする時が来ました。これからはこの恐ろしい病気に対して、私と私の医師団と世界中で私と同じように苦しんでいる人々と一緒に戦って下さい。」

そして1991年11月24日、フレディ・マーキュリーはHIVによる免疫不全が原因となって引き起こされたニューモシスチス肺炎により自宅で死去。45歳という若さだった。マーキュリーの死は世界中に衝撃が走り、音楽界にとって大きな損失となった(マーキュリーの死を伝える当時のニュースの様子は動画サイトYouTubeで視聴が可能)。葬儀会場は世界中から駆けつけたファンの花束で埋め尽くされた。

マーキュリーの死の直後、クイーンのアルバムが世界中でチャートインし、イギリスでは「ボヘミアン・ラプソディ」がイギリス史上初の同一曲2度目の1位という記録を打ち立てた。また、マーキュリーの遺言により初登場1位を獲得した作品の収益金はすべてエイズ基金に寄付された。

前2作に入りきらなかった曲、その後録音された曲、加えて、それだけでは足りない分は、かつてのソロアルバムやそれに近い録音曲などからセレクトされ、1995年にフルアルバム『メイド・イン・ヘヴン』としてリリースされた。クイーンの残ったメンバー(特に、ギタリストのメイ)が中心となって、演奏の差し替えやサウンドのアレンジなどを行い、フルアルバムとして発表された。

終わらないクイーン伝説

フレディ・マーキュリーの死後(1992年~2003年)

ミュージカル『ウィ・ウィル・ロック・ユー』の新宿公演

クイーンは正式に解散したことはなく、テイラーとメイがそれぞれソロ活動を行ったり、残されたメンバーでクイーン名義でたびたび活動したりしている。ソロ活動においては、メイは、クイーン時代の延長線上に当たる音楽を、一方、テイラーは、クイーンとは異なったアプローチで、それぞれ音楽活動を断続的に続けていた(ディーコンは、あまり目立った活動は行っておらず、後述するように2008年現在は音楽業界から完全に引退している)。

マーキュリー死後から近年の活動再開までの、クイーン名義での主な活動は以下の通り。

フレディ・マーキュリー追悼コンサート

マーキュリーがこの世を去った翌年の1992年2月12日、メンバーからマーキュリーの追悼コンサートが4月20日に開催されることが発表された。出演者は未定だったもののチケットは2時間で完売した。そして同年4月20日に行われたフレディ・マーキュリー追悼コンサートにはロバート・プラントエルトン・ジョンデヴィッド・ボウイメタリカといった大物アーティストが集結し、会場となったウェンブリー・スタジアムには7万人を超えるファンが集まった。世界でも生中継され、元祖クイーン大国・日本でも、NHKでクイーンの歴史を紹介するVTRと共にライブの様子が放送された。

ジョン・ディーコンの引退

ジョン・ディーコンは、1997年の「ノー・ワン・バット・ユー」の発表を最後に、クイーンとしての活動には一切参加しなくなった。しかし2002年の「エリザベス女王在位50周年式典」(The Queen's Golden Jubilee)の一環であるロックコンサート以降は、メイとテイラーの二人が「クイーン」名義で出演したため、最低この2人のメンバーが揃うと、「クイーン」のバンド名が使えると解釈しうる。

このようにマーキュリーの死後も、メイとテイラーを中心にたびたびクイーン名義で活動していることがわかるが、マーキュリーのような絶対的なヴォーカリスト不在により、クイーンとしての本格的な活動再開には長い間至らなかった。

クイーン+ポールロジャース(2004年~2009年)

クイーン+ポール・ロジャース
左からポール・ロジャース、ロジャー・テイラー、ブライアン・メイ

2004年後半、テイラーとメイ(前述のとおり、ディーコンは音楽業界から引退)は、英国音楽殿堂の授賞式での共演をきっかけにして、2005年1月、元フリーバッド・カンパニーヴォーカリストであったポール・ロジャースと組んで、「クイーン+ポール・ロジャース」として活動することを正式に決定した(メイは、それ以前にもロイヤル・アルバート・ホールでの公演など、数回ポールと共演していた)。

ヨーロッパツアーのチケットはソールドアウト、来日公演は、さいたま横浜名古屋福岡で行われ、10万人を動員するなど、各地で大成功を収めた。2006年にはクイーン名義では24年ぶりの全米ツアーも成功させる。10月には「クイーン+ポール・ロジャース」としてスタジオ入りするとメイのホームページで宣言され、2008年にはニューアルバム『ザ・コスモス・ロックス』(The Cosmos Rocks)が発売され、それに伴うヨーロッパ・南米ツアーを行っていたのだが、2009年ロジャースは「クイーン+ポール・ロジャース」としての活動に終止符を打ちバッド・カンパニーの再始動に移行した。[2]

メンバー

主要メンバー
サポート・メンバー

ライブパフォーマンス

クイーンのライブパフォーマンスは他のロックバンドを圧倒するほどの迫力と勢いを持っていた。その要因の一つはフレディ・マーキュリーという絶対的なヴォーカリストの存在が大きかったと思われる。初期のクイーンのライブは煌びやかで華やかなイメージをかもしだしていた。マーキュリーは様々な柄のタイツを身にまとい、独特の体の動きと比較的高い声で歌う姿はゲイセクシャルをイメージさせるようなものだった。そして衣装はタイツからラバースーツ、そしてシャツなどの簡素なものへと変化していき、マーキュリーは上半身を露出させ、ショートカットにし、髭を生やすなど初期のイメージとは全く異なるものへと進化した。ステージ上ではで曲の質も引き立てたり、曲に大胆なアレンジを加えたりなどファンを魅了し続けた。そしてクイーンの代名詞ともいえるマーキュリーのマイクパフォーマンスはライブをさらに盛り上げるものとなった。スタンドマイクを巧みに操って凄まじい声域で様々なジャンルの曲を歌い上げるマーキュリーの姿は、多くのロックバンドに影響を与えた。

クイーンと日本の関係

1970年代半ば、日本で最も大きな影響力をもっていたロック雑誌「ミュージック・ライフ」が最大限のプッシュをしたこともあり、10代の女性の間で人気が爆発し、アイドル的人気を博した。

当時まだクイーンはヒット曲も少なく、地元の音楽評論家から嫌悪される存在であった。そんな中での遠い異国・日本での人気は衝撃的であったと後にメンバーも語っている。初来日の際は空港にファン1200人が集結しパンク状態になった。そしてメンバーは会見を行い芸子らから日本のお茶をいただくなど日本文化を満喫し、武道館公演では着物を着て演奏し見事成功を収めた。

クイーンが日本で人気を獲得して以来、日本のさまざまなメディアにおいて「クイーンは本国よりもいち早く日本でブレイクした」という報道がされ続けている。クイーンのルックスや歌唱力は日本の若者の心を掴み、他国に比べ日本では比較的早い時期から人気があったことは間違いない。そのことについては、メンバーも当時から現在まで、ことあるごとに日本のファンへの感謝の言葉を述べており、5枚目のアルバム『華麗なるレース』には、歌詞の一部を日本語で歌った「手をとりあって」も収録されているほどである。

日本の歓迎以来メンバーは親日家となり、ツアー以外にもお忍びで来日していたと噂されている。特にフレディは日本文化に関心があり、伊万里焼きを集めたり、自宅の庭に日本庭園を造らせたりしていた。ブライアンは来日した際、日本のが気に入ったが、大きすぎて持ち帰れないことに非常に残念がっていたという。また、新宿にはフレディの行きつけのゲイバー(フレディはゲイ男性であったため)があり、度々通っていたと思われる[3]

また日本でも2004年木村拓哉主演のドラマ『プライド』に使用されたクイーンの楽曲「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」が一躍有名になり「第2次クイーンブーム」が起こった。これにより『ジュエルズ』というクイーンの初心者向けのアルバムが日本のみで発売され、アルバムチャート1位を獲得した。今までクイーンを知らなかった若年層のファンも増え、日本でのクイーン人気はさらに上昇したともいえる。

クイーンと交流のあったアーティスト

ブライアン・メイは数々のハードロックバンドとのセッション、アルバムのゲスト参加等で、同時代のミュージシャンとも交流があった。90年代にはコージー・パウエルをメンバーに迎え2枚のソロアルバムを発表している</ref>。

批判

クイーンはデビュー時から地元英国の音楽評論家から「時代遅れのロックバンド」として嫌われている存在であった。しかしその批判とは反比例するかのようにクイーンの人気は瞬く間に上昇し、世界のロック界を先導する存在となった。「Radio Ga Ga」が発表された時には「プロモーションビデオファシズム的だ」と批判されたにもかかわらず世界19カ国で1位を獲得した。「伝説のチャンピオン」では「歌詞のチャンピオンというのは自分たちのことを指し、自分たちが世界一だと思い上がっているのではないか」と批判されたが、曲は英国でスマッシュヒットを記録した。後にブライアンは「この曲は自分たちをチャンピオンだと歌っているのではなく、世界中の一人ひとりがチャンピオンなのだと歌っている」と反論している。 音楽雑誌からの批判も酷く、クイーンのアルバム『ジャズ』が発表された際にイギリスの音楽雑誌「NME」は「あなたに耳の聞こえない親戚がいたら、是非クリスマスの贈り物には『ジャズ』を差し上げて下さい」と酷評した。また、アメリカの音楽雑誌ローリング・ストーンでもクイーンは特に取り上げられず、2004年に発表された「ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500では英国史上最大の売り上げを記録したクイーンの楽曲「ボヘミアン・ラプソディ」を100位圏外の163位に格付けした。

記録

  • ギネスブック』によると、2005年時点で、クイーンのアルバムは、全英アルバムチャートで合計1,422週、つまり27年間チャートインしたという。これはビートルズエルヴィス・プレスリーといったアーティストを上回って第1位に輝いている。
  • 前期のベストアルバムである『グレイテスト・ヒッツ』は、2006年11月までに英国内だけで約540万枚を、一方後期のベストアルバムである『グレイテスト・ヒッツII』も英国のみだけで360万枚を売り上げているなど、国内セールスだけをとっても破格のチャート・アクションをみせている。ちなみに『グレイテスト・ヒッツ』は英国アルバムチャートで562週に渡りトップ100圏内にランクインし、全世界では2200万枚以上を売り上げた。英国での『グレイテスト・ヒッツ』の売り上げはビートルズローリング・ストーンズエルトン・ジョンなどの英国を代表するアーティストのアルバムを抑えて第1位である。
  • クイーンは全世界の異なる国で、ナンバーワンのアルバムとナンバーワンのシングルをそれぞれ18枚、またトップテンのアルバムを26枚、トップテンのシングルを36枚保持している。そして2010年時点で、アメリカでのクイーンのアルバムの総売上枚数は4000万枚、全世界のアルバムの総売上は3億枚に達している。シングルも合わせると4億5千万枚を超え、世界中のアーティストの中ではビートルズエルヴィス・プレスリーマイケル・ジャクソンABBAに次いで第5位である[4]
  • 2007年1月に、クイーンの『グレイテスト・ヒッツI&II』が、北米iTunesダウンロードチャートで第1位を獲得した。
  • クイーンを代表する楽曲「ボヘミアン・ラプソディ」は英国では9週連続1位となり英国で最も売れた曲となった。世界中の国々でも1位を連発し、フレディの死後には英国史上初の同曲2度目の1位を獲得した。またこの曲は世界初のプロモーションビデオが作成され、音楽評論家たちに改めて音楽の視覚的な役割を認識させることとなった。2002年ギネス・ワールド・レコーズが調査した「英国史上最高のシングルは?」というアンケートでは「イマジン」(ジョン・レノン)、「ヘイ・ジュード」(ビートルズ)を抑えてクイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」が第1位となった。
  • 1986年のウェンブリースタジアムのコンサートでは15万人が集まり、南アメリカでのコンサートでは2日間で25万人を動員した。

ディスコグラフィ

オリジナル・アルバム

ライヴ・アルバム

クイーン+ポールロジャース名義

映像作品

楽曲を使用している作品

TV作品
  • スキャンダル - Too Much Love Will Kill You(ブライアンのソロVersionが主題歌に使われた)
  • プライド - ボーン・トゥ・ラヴ・ユー
  • SAMBA・TV - ボヘミアン・ラプソディ
  • F1グランプリ(2007年 - ) - フラッシュのテーマ(ブライアン・メイによる再リミックス版をオープニングテーマに使用)
  • F1グランプリ(2008年ドイツグランプリ以降) - SAVE ME
映画
その他
  • 1996年には女王様というクイーンの曲の歌詞を直訳して歌っていたギャグシンガーも出てきた。

脚注・出典

  1. ^ 2006年にワーナーから単品販売されたDVD『ヒストリー・オブ・ロックンロール DISC 4 ギター・ヒーローズ/華麗なる'70年代』にてメイ本人が明かしている。1トラックあたり2〜3回重ねているとのこと。
  2. ^ http://brianmay.com/queen/queennews/queennewsmay09a.html#01
  3. ^ 2010年(平成22年)7月9日(金)8:15 - 9:55 放送のNHK総合『あさイチ』の番組中でグッチ裕三が、新宿2丁目にフレディの馴染みのゲイバーがあったことに言及した -- プレミアムトーク 寺脇康文」『あさイチ』、NHK、2010年7月9日、2010年7月14日(水)閲覧 
  4. ^ http://www.emigroup.com/Press/2009/press17.htm

関連項目

  • ボストン - 70年代後半のアメリカのハードロックグループ、緻密なスタジオワークと重厚なギターオーケストレーションで「ノー・シンセサイザー」を記載し当時アメリカ版クイーンとも呼ばれた。
  • マカロニほうれん荘 - 作品中にメンバーがしばしば登場する。ブライアン・メイらしき登場人物が、喫茶店にて「華麗なるレース」をBGMにリクエストするシーンもある。コミック3巻の表紙は『世界に捧ぐ』ジャケットのパロディ。
  • KWEEN - クイーンのトリビュートバンド。
  • ヴァレンシア - 2003年にアルバム『クイーン・トリビュート』をリリースした。
  • パッパラー河合 -「女王様」の名でクイーンの曲の日本語コピーを行っている。
  • レイザーラモンHG - 彼はクイーンの曲しか聴かない(設定)らしい。
  • 松永光弘 - プロレスラー。テーマ曲が「フラッシュ・ゴードン」である。
  • グッチ裕三 - クイーンの楽曲「ボヘミアン・ラプソディ」と童謡「犬のおまわりさん」を融合させたオリジナルソングを制作し、さらに細かくPVを再現している。
  • 神無月 - 自身の持ちネタにフレディ・マーキュリーがある。
  • ラッセル・ワトソン - 自身のアルバム『ザ・ヴォイス』で「ボヘミアン・ラプソディ」をカバーしている。
  • カーペンターズ - クイーンのプロフィールに「嫌いなアーティスト」としてこの2人が挙げられていた。
  • ライザ・ミネリ - フレディが尊敬していたアーティストの一人。「フレディ・マーキュリー追悼コンサート」ではトリに「伝説のチャンピオン」を歌い上げスタジアムを盛り上げた。
  • アクセル・ローズ -「俺が死んだら棺桶の中にクイーンの2ndアルバムを入れてくれ」と語ったエピソードはあまりにも有名である。
  • デフ・レパード - 彼らの楽曲「パワー・サム・シュガー・オン・ミー」はクイーンの楽曲「ウィー・ウィル・ロック・ユー」を拝借したとメンバーが発言している。
  • モンセラート・カバリェ - スペインのオペラ歌手でフレディが彼女のファンだった。1992年バルセロナオリンピックで2人がデュエットする予定だったがフレディが急死したため実現しなかった。
  • ロバート・プラント - クイーンと同じく英国を代表するロックバンド「レッド・ツェッペリン」のヴォーカル。クイーンと交流があり、フレディの追悼コンサートにも駆けつけた。
  • エクストリーム - クイーンの後継者としてブライアンが高く評価した。フレディの追悼コンサートでは独自のパフォーマンスで観客を湧かせた。
  • マクフライ - クイーンの影響を受けた英国の若きロックバンド。クイーンの楽曲「ドント・ストップ・ミー・ナウ」をカヴァーし、全英1位を獲得した。
  • U2 - クイーンと親交があったロックバンド。フレディの追悼コンサートではサクラメントから衛星中継でビデオ・スクリーンによる出演を果たした。
  • ジミ・ヘンドリックス - クイーンが影響を受けたギタリスト。
  • リッチー・ブラックモア -ブライアンとの親交が深く互いを尊敬し合う間柄 チャリティーなどで共演。
  • ジョン・レノン - クイーンの楽曲「愛という名の欲望」を聞いて再び創作意欲が湧いたという秘話がある。あまり知られていないがクイーンは彼の代表的な楽曲「イマジン」をカヴァーしている。
  • 本田美奈子 - クイーン(特にブライアン)と親交があった歌手。彼女が亡くなった際、ブライアンは自身のブログに追悼メッセージを掲載した。
  • ザ・ダークネス - クイーンやAC/DC等の70年代ハードロックを意識したサウンドとビジュアル面で00年代中盤に人気を博した。2ndアルバムではフレディが演奏していたピアノを使用。プロデューサーはロイ・トーマス・ベイカー。
  • アンジェラ・アキ - 自身のライブで気持ちを盛り上げるために、度々「伝説のチャンピオン」をカヴァーしている。
  • レディー・ガガ - クイーンの影響を受けたアーティスト。彼女の芸名はクイーンの楽曲「Radio Ga Ga」をもじっている。
  • ポール・ロジャース - ブライアン&ロジャーと共にクイーン名義で活動しているアーティスト。

外部リンク

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