「本多忠勝」の版間の差分
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蜻蛉切は、忠勝が多くの功績を挙げた槍の名である。活躍により、この槍は「天下三名槍」の一つに数えられている。穂先に止まった蜻蛉がまっぷたつになったという逸話があり、この名が付いた。村正作。しかし、晩年にはやはり体力の衰えが出てきたと見え、「やりは自分の力に合うものが一番」と言って槍の柄を短く詰めてしまった。 |
蜻蛉切は、忠勝が多くの功績を挙げた槍の名である。活躍により、この槍は「天下三名槍」の一つに数えられている。穂先に止まった蜻蛉がまっぷたつになったという逸話があり、この名が付いた。村正作。しかし、晩年にはやはり体力の衰えが出てきたと見え、「やりは自分の力に合うものが一番」と言って槍の柄を短く詰めてしまった。 |
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2005年11月15日 (火) 08:05時点における版
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代 |
生誕 | 元文10年(1548年) |
死没 | 慶長15年10月18日(1610年12月3日) |
改名 | 本多鍋之助、忠勝 |
別名 | 平八郎 |
戒名 | 西岸寺殿前中書長誉良信大居士 |
官位 | 従五位下中務大輔 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家康 |
藩 | 岡崎藩 |
氏族 | 本多氏 |
父母 | 忠高、小夜 |
妻 | 於久の方、乙女の方 |
兄弟 | (妹) |
子 | 小松姫、(次女)、忠政、忠朝、(三女) (四女)、(五女) |
本多 忠勝(ほんだ ただかつ、元文10年(1548年) - 慶長15年10月18日(1610年12月3日))は安土桃山時代・江戸時代初期の三河国の武将。通称は平八郎(へいはちろう)。徳川家康に仕えて多くの戦功をたて、伊勢国桑名藩10万石の藩主となった。三河国蔵前(現在の愛知県岡崎市)出身。
松平氏の譜代家臣本多氏の一族、本多忠高の子。幼い頃から家康に仕え、桶狭間の戦いのとき元服した。1566年には19歳にして同年齢の榊原康政とともに旗本先手役に抜擢されて与力50騎を付属される。以後、忠勝は常に家康の居城の城下に住み、旗本部隊の将として活躍した。
忠勝は数々の戦いで戦功を立てたが、特に1572年の三方ヶ原の戦いでの前哨戦である一言坂の戦いで殿軍を努め、武田方から「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」との狂歌の落書をもって賞賛されたことが有名である。
1582年、本能寺の変が起きたとき家康は忠勝ら少数の随行とともに堺に滞在していたが、家康が京都に行って信長の後を追おうと取り乱したのを忠勝が諌めて「伊賀越え」を行わせたという。
豊臣秀吉からも東国一の勇士と賞賛され、徳川氏が豊臣氏の傘下に入ると従五位下中務大輔に叙任された。1590年、家康が関東に移封されると上総国大多喜(千葉県夷隅郡大多喜町)に榊原康政と家臣中第二位の10万石を与えられる。
関ヶ原の戦いでは家康本軍に従軍し、諸大名に書状を送って東軍方につける工作にも活躍した。この功績により、1601年伊勢国桑名10万石(三重県桑名市)に移され、大多喜も次男忠朝に別家5万石で与えられた。
1609年、隠居して嫡子忠政に家督を譲り、翌年桑名で没した。晩年は次第に若く文治に優れた者が家康・秀忠側近として台頭してくる中で江戸幕府の中枢から排除され、不遇であったと言われる。
のちに徳川四天王・十六神将に数えられ、家康の功臣として顕彰された。
生涯において参加した合戦は五十数回に及んだが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと伝えられており、織田信長にその並はずれた武勇を「日本の張飛」さらには「花実兼備の勇士」と讃えられたほどであった。数ある戦国武将の中でも最強を争える一人と言えるだろう。 さらに豊臣秀吉は東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる。
彼の子孫はその後転封を繰り返して三河国岡崎藩5万石に落ち着く。
蜻蛉切
蜻蛉切は、忠勝が多くの功績を挙げた槍の名である。活躍により、この槍は「天下三名槍」の一つに数えられている。穂先に止まった蜻蛉がまっぷたつになったという逸話があり、この名が付いた。村正作。しかし、晩年にはやはり体力の衰えが出てきたと見え、「やりは自分の力に合うものが一番」と言って槍の柄を短く詰めてしまった。