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2005年11月15日 (火) 08:51時点における版
本多 忠可(ほんだ ただよし、寛保元年(1741年) - 寛政6年閏11月30日(1795年1月20日))は、播磨山崎藩の第5代藩主。父は越前丸岡藩主の有馬孝純。養母は相良長在の娘。正室は本多忠堯の養女で本多忠辰の娘・熊姫。官位は従五位下。肥後守。
先代藩主の忠堯が嗣子なくして1761年に若死にしたため、忠堯の養女(実は異母妹)である熊姫と結婚することで忠可が後を継ぐこととなった。藩政においてはすでに破綻寸前であった藩財政の再建を目指して、1775年から中級藩士であった佐藤善五右衛門を家老に登用して藩政改革に乗り出した。
改革では心学を中心とした文武を奨励し、さらに教育を武士だけにではなく領民にも広めた。さらに藩士から借り米の半減を実施し、倹約を行なって株仲間を公認するなどして財政再建に大きな成功を挙げた。このため、天明の飢饉が起こったときには、山崎藩は忠可と佐藤の手腕のおかげで被害は最小限に食い止めたと言われている。
松平定信とも親交があったため、この改革の成功の手腕を買われて、寛政の改革では側用人、大番頭として幕政に参与した。1788年、長男の本多忠居に家督を譲って隠居(近年の説では、譲っていないとも)したが、なおも藩政は掌握し続けた。1794年閏11月晦日に54歳で死去。墓所:東京都江東区三好の雲光院。