コンテンツにスキップ

「寒山」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
編集の要約なし
14行目: 14行目:
|著作=『寒山子詩』?
|著作=『寒山子詩』?
}}
}}
[[画像:尾竹国観「寒山拾得図」.jpg|thumb|220px|「[[寒山拾得]]図」(部分)個人蔵]]
[[画像:尾竹国観「寒山拾得図」.jpg|thumb|250px|「[[寒山拾得]]図」(部分)個人蔵]]
'''寒山'''(かんざん、生没年不詳)は、[[中国]]で[[唐]]代に[[浙江省]]にある[[天台山]]の[[国清寺]]に居たとされる伝説的な[[風狂]]の僧の名である。『[[寒山子詩]]』の作者とされる。後世、[[拾得]]と共に有髪の姿で禅画の画題とされる。
'''寒山'''(かんざん、生没年不詳)は、[[中国]]で[[唐]]代に[[浙江省]]にある[[天台山]]の[[国清寺]]に居たとされる伝説的な[[風狂]]の僧の名である。『[[寒山子詩]]』の作者とされる。後世、[[拾得]]と共に有髪の姿で禅画の画題とされる。


== 人物像 ==
伝歴は不明な点が多く、時代も初唐の人とされるが、それは『寒山子詩』の中唐以降の詩風とは一致していない。その名は、始豊県(天台)西方70里の寒巌を居所としていたことにちなむものとされる。その風姿は、痩せこけたもので、樺の冠をかむり、衣はボロで木靴を履いた奇矯なものであったという。食事は、国清寺の厨房を任される拾得から残飯を得ていたといい、寺僧に咎められると、大笑いして走り去ったという。虎を連れた姿で知られる豊干禅師の弟子とされ、豊干を[[釈迦]]、寒山を[[文殊]]、拾得を[[普賢]]の化身に見立てるものもある。
伝歴は不明な点が多く、時代も初唐の人とされるが、それは『寒山子詩』の中唐以降の詩風とは一致していない。その名は、始豊県(天台)西方70里の寒巌を居所としていたことにちなむものとされる。その風姿は、痩せこけたもので、樺の冠をかむり、衣はボロで木靴を履いた奇矯なものであったという。食事は、国清寺の厨房を任される拾得から残飯を得ていたといい、寺僧に咎められると、大笑いして走り去ったという。虎を連れた姿で知られる豊干禅師の弟子とされ、豊干を[[釈迦]]、寒山を[[文殊]]、拾得を[[普賢]]の化身に見立てるものもある。


[[台州]]刺史の[[閭丘胤]]が国清寺を訪ねた時、拾得と共に大笑しながら寒巌に姿を隠し、二度と姿を見ることは無くなったとされる([[森鴎外]]がこれを題材として小説化している)。また、その後山中の諸処に書かれていた詩300篇余りが発見され、それが『寒山子詩』であるとい
[[台州]]刺史の[[閭丘胤]]が国清寺を訪ねた時、拾得と共に大笑しながら寒巌に姿を隠し、二度と姿を見ることは無くなったとされる([[森鴎外]]が、「寒山拾得」として作品化している)。その後山中の諸処に書かれていた詩300篇余りが発見され、それが『寒山子詩』であるとされて


『[[宋高僧伝]]』巻19「感通篇」に、「唐天台山封干(豊干)師伝」があり、寒山子・拾得として附伝されており、『[[景徳伝灯録]]』巻27にも、「天台豊干禅師 天台寒山子 天台拾得」として記録されている。
『[[宋高僧伝]]』巻19「感通篇」に、「唐天台山封干(豊干)師伝」があり、寒山子・拾得として附伝されており、『[[景徳伝灯録]]』巻27にも、「天台豊干禅師 天台寒山子 天台拾得」として記録されている。


また、[[道教]]史書を数々編纂した[[五代十国|五代]]の[[杜光庭]]による『[[仙伝拾遺]]』中にも寒山が収められており、そこでは道士が『寒山子詩』を集めたことになっている。
なお[[道教]]史書を数々編纂した[[五代十国|五代]]の[[杜光庭]]による『[[仙伝拾遺]]』中にも寒山が収められており、そこでは道士が『寒山子詩』を集めたことになっている。


== 文献 ==
== 文献 ==
29行目: 30行目:
* 『寒山詩.詩偈 西谷啓治著作集 第12巻』 ([[創文社]]、1987年) ISBN 442319712X
* 『寒山詩.詩偈 西谷啓治著作集 第12巻』 ([[創文社]]、1987年) ISBN 442319712X
** [[西谷啓治]] 『寒山詩』 [[筑摩書房]], 1986年 
** [[西谷啓治]] 『寒山詩』 [[筑摩書房]], 1986年 
** 『禅家語録2. 寒山詩』 筑摩書房〈世界古典文学全集第36巻B〉,初版[[1974年]]復刊1984年、2004年
** 『禅家語録2. 寒山詩』 筑摩書房〈世界古典文学全集第36巻B〉初版[[1974年]], 復刊1984年、2004年
* [[入谷仙介]]・松村昂 『禅の語録13.寒山詩』 筑摩書房、1979年 
* [[入谷仙介]]・松村昂 『禅の語録13.寒山詩』 筑摩書房,1979 


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2011年1月2日 (日) 02:52時点における版

寒山
(不詳)
顔輝作『寒山拾得図』寒山。東京国立博物館
尊称 寒山子
宗派 禅宗?
寺院 天台山国清寺
豊干?
弟子 拾得?
著作 『寒山子詩』?
テンプレートを表示
寒山拾得図」(部分)個人蔵

寒山(かんざん、生没年不詳)は、中国代に浙江省にある天台山国清寺に居たとされる伝説的な風狂の僧の名である。『寒山子詩』の作者とされる。後世、拾得と共に有髪の姿で禅画の画題とされる。

人物像

伝歴は不明な点が多く、時代も初唐の人とされるが、それは『寒山子詩』の中唐以降の詩風とは一致していない。その名は、始豊県(天台)西方70里の寒巌を居所としていたことにちなむものとされる。その風姿は、痩せこけたもので、樺の冠をかむり、衣はボロで木靴を履いた奇矯なものであったという。食事は、国清寺の厨房を任される拾得から残飯を得ていたといい、寺僧に咎められると、大笑いして走り去ったという。虎を連れた姿で知られる豊干禅師の弟子とされ、豊干を釈迦、寒山を文殊、拾得を普賢の化身に見立てるものもある。

台州刺史の閭丘胤が国清寺を訪ねた時、拾得と共に大笑しながら寒巌に姿を隠し、二度と姿を見ることは無くなったとされる(森鴎外が、「寒山拾得」として作品化している)。その後、山中の諸処に書かれていた詩300篇余りが発見され、それが『寒山子詩』であるとされている。

宋高僧伝』巻19「感通篇」に、「唐天台山封干(豊干)師伝」があり、寒山子・拾得として附伝されており、『景徳伝灯録』巻27にも、「天台豊干禅師 天台寒山子 天台拾得」として記録されている。

なお道教史書を数々編纂した五代杜光庭による『仙伝拾遺』中にも、寒山が収められており、そこでは道士が『寒山子詩』を集めたことになっている。

文献

関連項目