「明菴栄西」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
86行目: | 86行目: | ||
|isbn=4-00-080205-4 |
|isbn=4-00-080205-4 |
||
}} |
}} |
||
*『栄西 喫茶養生記』 古田紹欽訳注、 |
*『栄西 喫茶養生記』 古田紹欽訳注、[[講談社学術文庫]]、2000年、ISBN 978-4061594456 |
||
**『栄西 興禅護国論・喫茶養生記』 [[講談社]]〈禅入門1〉、1994年/旧版「栄西 日本の禅語録. 第1巻」 |
|||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
2011年1月2日 (日) 10:20時点における版
栄西 | |
---|---|
永治元年4月20日 - 建保3年7月5日[1] (1141年5月27日 - 1215年8月1日) | |
![]() | |
号 |
(道号)明庵 (房号)葉上房 |
諡号 | 千光国師 |
尊称 | 栄西禅師 |
生地 | 岡山 |
没地 | 鎌倉?・京都? |
寺院 | 聖福寺・建仁寺 |
師 | 虚庵懐敞 |
著作 | 『誓願寺盂蘭盆縁起』 |
明菴 栄西(みんなんえいさい・ようさい)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。日本臨済宗の開祖、建仁寺の開山。生年には異説がある。天台密教葉上流の流祖でもある。また、喫茶の習慣を日本に伝えたことでも有名である。
経歴
- 永治元年(1141年) 吉備津宮(現在の岡山県岡山市、吉備津神社)の権禰宜賀陽貞遠の子として誕生。
- 久安4年(1148年) 8歳で『倶舎論』、『婆沙論』を読んだと伝えられる。
- 久寿元年(1154年) 14歳で比叡山延暦寺にて出家得度。
- 仁安3年(1168年) 形骸化した日本天台宗に嫌気し、南宋に留学。天台山万年寺などを訪れ、『天台章疎』60巻を将来する。
- 文治3年(1187年) 再び入宋。仏法辿流のためインド渡航を願い出るが許可されず、天台山万年寺の虚庵懐敞に師事。
- 建久2年(1191年) 虚庵懐敞より臨済宗の嗣法の印可を受ける。同年、帰国。
- 建久5年(1194年) 彼や大日房能忍の禅宗が盛んになり、天台宗からの排斥を受け、禅宗停止が宣下される。
- 建久6年(1195年) 博多に聖福寺を建立し、日本最初の禅道場とする。
- 建久9年(1198年) 『興禅護国論』執筆。
- 正治2年(1200年) 北条政子建立の寿福寺の住職に招聘。
- 建仁2年(1202年) 源頼家の外護により京都に建仁寺を建立。
- 建仁寺は禅・天台・真言の三宗兼学の寺であった。以後、幕府や朝廷の権力に取り入り、それを利用して禅宗の振興に努めた。
- 建永元年(1206年) 重源の後を受けて東大寺勧進職に就任。
- 建暦2年(1212年) 法印に叙任。
- 建保元年(1213年) 権僧正に栄進。
- 建保3年(1215年) 享年75(満74歳没)で病没。終焉の地はの2説がある。
他者からの栄西観
- 日本曹洞宗の開祖である道元は、入宋前に建仁寺で修行しており、師の明全を通じて栄西とは孫弟子の関係になるが、栄西を非常に尊敬し、夜の説法を集めた『正法眼蔵随聞記』では、「なくなられた僧正様は…」と、彼に関するエピソードを数回も披露している。なお、栄西と道元は直接会っていたかという問題は、最近の研究では会っていないとされる。
主な著作
- 『誓願寺盂蘭盆縁起』 - 栄西唯一の肉筆文書で国宝。福岡市西区の誓願寺に滞在した折、書いたと見られる。
- 『喫茶養生記』 - 『喫茶養生記』は上下2巻からなり、上巻では茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする喫茶の効用が説かれ、下巻では飲水(現在の糖尿病)、中風、不食、瘡、脚気の五病に対する桑の効用と用法が説かれている。このことから、茶桑経(ちゃそうきょう)という別称もある。書かれた年代ははっきりせず、一般には建保2年(1214年)に源実朝に献上したという「茶徳を誉むる所の書」を完本の成立とするが、定説はない。
- 『栄西-興禅護国論・喫茶養生記-』
関連項目
脚注
参考文献
- 中村 元、福永光司・田村芳朗・末木文美士・今野 達 編『岩波仏教辞典』(第二版)岩波書店、2002年。ISBN 4-00-080205-4。
- 『栄西 喫茶養生記』 古田紹欽訳注、講談社学術文庫、2000年、ISBN 978-4061594456
- 『栄西 興禅護国論・喫茶養生記』 講談社〈禅入門1〉、1994年/旧版「栄西 日本の禅語録. 第1巻」
外部リンク
- 日本の禅 臨済宗・黄檗宗公式サイト
- 栄西茶(佐賀新聞公式サイト:さが名産物語)
- 聖茶まつり(吉野ヶ里町公式サイト)