「ダスティ・スプリングフィールド」の版間の差分
m ロボットによる 追加: sh:Dusty Springfield |
編集の要約なし |
||
1行目: | 1行目: | ||
'''ダスティ・スプリングフィールド'''('''Dusty Springfield'''、[[1939年]][[4月16日]] - [[1999年]][[3月9日]]、本名メアリー・イザベル・キャサリン・バーナデット・オブライエン)は、[[ロンドン]]生まれの白人女性[[ポップス]]、[[ソウルミュージック|ソウル]][[シンガー]]である。 |
'''ダスティ・スプリングフィールド'''('''Dusty Springfield'''、[[1939年]][[4月16日]] - [[1999年]][[3月9日]]、本名メアリー・イザベル・キャサリン・バーナデット・オブライエン)は、[[ロンドン]]生まれの白人女性[[ポップス]]、[[ソウルミュージック|ソウル]][[シンガー]]である。 |
||
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」に於いて第35位。 |
|||
== バイオグラフィ == |
== バイオグラフィ == |
||
8行目: | 11行目: | ||
1969年、やや人気が下降気味とはなったが[[ブルー・アイド・ソウル]]の名盤、「Dusty In Memphis」を発表し、批評家からも高い評価を受ける。しかし商業的には成功とは言えず、また彼女自身の問題(製作現場でのトラブル、ドラッグ・アルコール依存、[[バイ・セクシャル]]発言)もあって、作品は製作するも以後長い間彼女はスランプ状態に陥ることになる。 |
1969年、やや人気が下降気味とはなったが[[ブルー・アイド・ソウル]]の名盤、「Dusty In Memphis」を発表し、批評家からも高い評価を受ける。しかし商業的には成功とは言えず、また彼女自身の問題(製作現場でのトラブル、ドラッグ・アルコール依存、[[バイ・セクシャル]]発言)もあって、作品は製作するも以後長い間彼女はスランプ状態に陥ることになる。 |
||
1986年、彼女を敬愛していたイギリスのポップス・バンド、[[ペットショップ・ボーイズ]]が彼女との共演を申し込む。彼らとレコーディングされた「[[:en:What Have I Done to Deserve This?|What Have I Done To Deserve This?]]」(邦題:「とどかぬ想い」)が全米、全英で大ヒットを記録し復活を遂げる。その後も彼らと組んで自らの作品を製作し、話題となったが、1994年に[[乳癌]]と診断され、1999年3月9日に59歳で亡くなった。同年に[[ロックの殿堂]]入りを果た |
1986年、彼女を敬愛していたイギリスのポップス・バンド、[[ペットショップ・ボーイズ]]が彼女との共演を申し込む。彼らとレコーディングされた「[[:en:What Have I Done to Deserve This?|What Have I Done To Deserve This?]]」(邦題:「とどかぬ想い」)が全米、全英で大ヒットを記録し復活を遂げる。その後も、彼らと組んで自らの作品を製作し、話題となったが、1994年に[[乳癌]]と診断され、1999年3月9日に59歳で亡くなった。同年に、[[ロックの殿堂]]入りを果たした。 |
||
2006年には彼女の半生を描いたミュージカル「Dusty」が上演された。 |
2006年には、彼女の半生を描いたミュージカル「Dusty」が上演された。 |
||
== 代表的な作品 == |
== 代表的な作品 == |
2011年1月6日 (木) 12:53時点における版
ダスティ・スプリングフィールド(Dusty Springfield、1939年4月16日 - 1999年3月9日、本名メアリー・イザベル・キャサリン・バーナデット・オブライエン)は、ロンドン生まれの白人女性ポップス、ソウルシンガーである。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」に於いて第35位。
バイオグラフィ
1960年に2人の兄(ディオン、ティムフィールド)との3人でザ・スプリングフィールズを結成。そのツアー中に訪れたアメリカ・テネシーでモータウン・サウンドに感化され、以後彼女の作品に大きく影響を残すことになる。
1963年にグループ脱退後、ソロ歌手として「I Only Want To Be With You」(邦題:「二人だけのデート」)でデビュー。この曲は全英のみならず全米でもTOP5に入る大ヒット曲となり、以後数年はヒットチャート上位の常連となる。
1969年、やや人気が下降気味とはなったがブルー・アイド・ソウルの名盤、「Dusty In Memphis」を発表し、批評家からも高い評価を受ける。しかし商業的には成功とは言えず、また彼女自身の問題(製作現場でのトラブル、ドラッグ・アルコール依存、バイ・セクシャル発言)もあって、作品は製作するも以後長い間彼女はスランプ状態に陥ることになる。
1986年、彼女を敬愛していたイギリスのポップス・バンド、ペットショップ・ボーイズが彼女との共演を申し込む。彼らとレコーディングされた「What Have I Done To Deserve This?」(邦題:「とどかぬ想い」)が全米、全英で大ヒットを記録し復活を遂げる。その後も、彼らと組んで自らの作品を製作し、話題となったが、1994年に乳癌と診断され、1999年3月9日に59歳で亡くなった。同年に、ロックの殿堂入りを果たした。
2006年には、彼女の半生を描いたミュージカル「Dusty」が上演された。
代表的な作品
- 「I Only Want To Be With You」(邦題:「二人だけのデート」) 後にベイ・シティ・ローラーズがカバーしたことで有名。
- 「I Just Don't Know What To Do With Myself」(邦題:「恋のとまどい」)
- 「You Don't Have To Say You Love Me」(邦題:「この胸のときめきを」) カンツォーネのカバー
- 「The Look Of Love」(邦題:「恋の面影~カジノ・ロワイヤル」)
- 「Son Of A Preacher Man」(邦題:「プリーチャー・マン」) 後に映画「パルプ・フィクション」のサントラに使用される。
- 「What Have I Done To Deserve This?」(邦題:「とどかぬ想い」)/ペット・ショップ・ボーイズ によるプロデュース