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「非人」の版間の差分

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# [[日本]][[中世]]の特定職能民・芸能民の呼称であり、次第に[[被差別民]]の呼称となる。
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# [[江戸時代]]には、[[穢多]](えた、長吏)とともに[[賎民]]身分の呼称である。
# [[江戸時代]]には、[[穢多]](えた、長吏)とともに[[賎民]]身分の呼称である。
いわゆる[[士農工商]]には属さないが、公家や医師や神人等と同様にあくまでも身分制度上の身分とされる点で、身分制度外に位置付けられる[[山窩]](サンカ)等とは明確に異なる。さらに多数説は、「下人」といわれた不自由民・奴隷とも全く異なる存在であるとする。
いわゆる[[士農工商]]には属さないが、公家や医師や神人等と同様にあくまでも身分制度上の身分とされる点で、身分制度外に位置付けられる[[山窩]](サンカ)等とは明確に異なる。さらに多数説は、「'''下人'''」といわれた不自由民・[[奴隷]]とも全く異なる存在であるとする。


非人という言葉は仏教に由来し、『[[法華経]]』「提婆品」にも見られる。日本では[[平安時代]]に[[橘逸勢]]が{{和暦|842}}に反逆罪に問われ、[[姓]]・[[官位]]を剥奪されて「非人」の姓を[[天皇]]から与えられたのが文献上の初例とされる<ref>高柳金芳『非人の生活』雄山閣、1974年、p11-12。</ref>。時代によって地域によって言葉が指す内容(社会関係上の立場や就業形態や排他的業務など)は大きく異なる。また、非人という語義は、広義の非人と狭義の非人に分けられる。広義の非人とは、[[犬神人]](いぬじにん)・墓守・[[河原者]]・放免(ほうめん)・乞胸(ごうむね)・猿飼・[[八瀬童子]]等々の総称である。狭義の非人に関しては諸説多数あり、さらなる調査研究が必要とされる。
非人という言葉は仏教に由来し、『[[法華経]]』「提婆品」にも見られる。日本では[[平安時代]]に[[橘逸勢]]が{{和暦|842}}に反逆罪に問われ、[[姓]]・[[官位]]を剥奪されて「非人」の姓を[[天皇]]から与えられたのが文献上の初例とされる<ref>高柳金芳『非人の生活』雄山閣、1974年、p11-12。</ref>。時代によって地域によって言葉が指す内容(社会関係上の立場や就業形態や排他的業務など)は大きく異なる。また、非人という語義は、広義の非人と狭義の非人に分けられる。広義の非人とは、[[犬神人]](いぬじにん)・墓守・[[河原者]]・放免(ほうめん)・乞胸(ごうむね)・猿飼・[[八瀬童子]]等々の総称である。狭義の非人に関しては諸説多数あり、さらなる調査研究が必要とされる。

2011年2月3日 (木) 20:43時点における版

非人(ひにん)は、主に、

  1. 日本中世の特定職能民・芸能民の呼称であり、次第に被差別民の呼称となる。
  2. 江戸時代には、穢多(えた、長吏)とともに賎民身分の呼称である。

いわゆる士農工商には属さないが、公家や医師や神人等と同様にあくまでも身分制度上の身分とされる点で、身分制度外に位置付けられる山窩(サンカ)等とは明確に異なる。さらに多数説は、「下人」といわれた不自由民・奴隷とも全く異なる存在であるとする。

非人という言葉は仏教に由来し、『法華経』「提婆品」にも見られる。日本では平安時代橘逸勢842年(承和9年)に反逆罪に問われ、官位を剥奪されて「非人」の姓を天皇から与えられたのが文献上の初例とされる[1]。時代によって地域によって言葉が指す内容(社会関係上の立場や就業形態や排他的業務など)は大きく異なる。また、非人という語義は、広義の非人と狭義の非人に分けられる。広義の非人とは、犬神人(いぬじにん)・墓守・河原者・放免(ほうめん)・乞胸(ごうむね)・猿飼・八瀬童子等々の総称である。狭義の非人に関しては諸説多数あり、さらなる調査研究が必要とされる。

変遷

非人の形成期には、検非違使管轄下で「囚人の世話・死刑囚の処刑・罪人宅の破却・死者の埋葬・死牛馬の解体処理・街路の清掃・井戸掘り・造園・街の警備」などを排他的特権的に従事した。また悲田院や非人宿に収容されたことから、病者[2]や障害者[3]の世話といった仕事も引き受けていた地域・集団もあった。また芸能に従事する者もおり、芸能史の一翼を担ってきた。

中世前期は人々が畏れ忌避した業務に携わっていた非人であるが、中世後期に人々の感覚が次第に「畏れの忌避」から「穢れ(触穢)の忌避」に変遷すると共に、非人に対する捉え方も畏怖視から卑賤視へと変遷していったとされる。

鎌倉時代には叡尊忍性による悲田院の再興を受けて西大寺真言律宗の元に組織化されたり、一遍時宗とともに遊行する者もいた。中世の非人の多くは異形(蓬髪・顎鬚・童姿等)の者であった。やがて河原者・無宿者などを指すようになった。江戸時代には身分や居住地域・従事職能等が固定化された。

江戸時代

概要

非人とは

非人は、

  1. 代々の「非人素性」の者
  2. 非人手下(ひにんてか)という刑罰で非人になる者
  3. 野非人(無宿非人)

の違いがある。このうち(1)(2)を抱非人(かかえひにん)と呼び、(3)と区別する。

  1. 一般の非人は、非人頭(悲田院年寄・祇園社・興福寺・南宮大社など)が支配する非人小屋に属し、小屋主(非人小頭・非人小屋頭)の配下に編成された。この頭や小屋主の名称は地域よって異なる。非人は小屋に属して人別把握され、正式な非人となる。
  2. 犯罪による非人への身分移動を伴う刑罰を非人手下という。刑の執行は、非人頭に身柄が引き渡されることで完了する。人別把握され、非人となる。刑罰の一覧参照。
  3. 野非人・無宿非人は、非人の組織に属さないまま、浮浪状態にある者である。平人・抱非人・穢多が、経済的困窮などによって欠落(かけおち)し、無宿となり、浮浪状態となる。取締の対象であり、捕まった野非人は元の居所に返されるか、抱非人に編入された。この脱走が3回に及ぶと死罪にされた(1790年(寛政2年))。

近世の非人の発生は、江戸時代の町と村の成立過程と不即不離の関係にある。村においては地方知行制から俸禄制へと移行する中で、村に対する武士の直接的関与が薄れ、年貢の村請けが進行するに伴い、病気や災害などにより年貢を皆済できない百姓が村の根帳(人別帳)から外れ、町へ流入。町においては城下町整備に伴う治安・防火対策の一環として、里帰し政策を取り続けるが、一方ではこれを保護の対象として捕捉し、抱非人として野非人を取り締まった。場合によっては元の身分に復帰することもできたという(足洗い・足抜き)。

生業と役負担

非人の生活を支えた生業は勧進である。小屋ごとに勧進場というテリトリーがあり、小屋ごとに勧進権を独占した。非人の課役は、行刑下役・警察役などである。本来町や村は、共同体を維持するため、よそ者や乞食を排除する目的で番人を雇っていたが、非人はこの役を務めた(番非人、非人番)。番太郎・番太とも呼ばれた。

死牛馬解体処理や皮革処理は、時代や地域により穢多(長吏・かわた等)との分業が行われていたこともあるが、概ね独占もしくは排他的に従事していたといえる。ただしそれらの権利は穢多に帰属した。

町方と在方

  • 町方と在方の非人の異同

関東

江戸においては、近世中期に穢多頭の浅草矢野弾左衛門の支配下に入った。弾左衛門の支配下には各地域ごとに非人頭がおり、非人を管理下に置いた。身分的には穢多より非人は下位に置かれていたとされているが、これは江戸の事例であり、京都や大坂などでは穢多身分との支配関係はなかった。江戸の他においても弾左衛門の支配は、関八州(水戸藩日光神領)、伊豆国陸奥国の南端、甲斐国駿河国の一部に及び、当該地域の非人は弾左衛門の配下となった。

関西

畿内においては、中世以来有力寺社との結びつきが強く、多くが各寺社の管理下に置かれた。しかし制度として整備された関東の弾左衛門による組織的な集中支配下に置かれた関係とは異なる。そのためか京都や大阪の町奉行で解決できなかった例が多く残る。時代・地域によっても多様であり、未だ解明されていない部分が多い。

その他

有名な例として、太平の世で注文が激減、ついには非人小屋入りしたことから「非人清光」と呼ばれた刀鍛冶、加州清光などもいた。

穢多と異なり脇差は禁止され、穢多と同様に傘は禁止された。

参考文献・注釈

  1. ^ 高柳金芳『非人の生活』雄山閣、1974年、p11-12。
  2. ^ 癩病(ハンセン病)等の忌避された病に罹患した者。
  3. ^ 次第に病者や障害者ごと非人と呼ばれるようになった。

関連項目