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* [[佐和山遊園]]
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2011年2月28日 (月) 23:40時点における版

 
石田三成
時代 安土桃山時代
生誕 永禄3年(1560年
死没 慶長5年10月1日1600年11月6日
改名 佐吉(幼名)、三也、三成
戒名 江東院正軸因公大禅定門
墓所 大徳寺三玄院
官位 従五位下治部少輔従四位下侍従
主君 豊臣秀吉秀頼
氏族 石田氏
父母 父:石田正継、母:岩田氏瑞岳院
兄弟 正澄三成、女(福原長堯室)
正室:皎月院宇多頼忠の娘)
重家重成荘厳院津軽信牧室)
娘(山田氏室)、娘(岡重政室)
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石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代武将大名豊臣政権五奉行の一人。

生涯

秀吉の子飼い

永禄3年(1560年)、石田正継の次男(三男とも)として近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)で生まれる。幼名は佐吉。石田村は古くは石田郷といって石田氏は郷名を苗字とした土豪であったとされている。

羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が織田信長に仕えて近江長浜城(長浜市)主となった天正2年(1574年)頃から、父・兄とともに一家そろって秀吉に仕官し、自身は小姓として仕える(天正5年(1577年)説もある)。秀吉が信長の命令で中国攻めの総司令官として中国地方に赴いたとき、これに従軍した。

天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変により横死し、次の天下人として秀吉が台頭すると、三成も秀吉の側近として次第に台頭してゆく。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに従軍。柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当、また先駈衆として一番槍の功名をあげたと『一柳家記』にある。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いにも従軍。同年、近江国蒲生郡の検地奉行を務めた。

豊臣政権下

天正13年(1585年)7月11日、秀吉の関白就任に伴い、従五位下治部少輔に叙任される。同年末に秀吉から近江水口4万石の城主に封じられたと一般にはされているが、水口には天正13年7月に中村一氏が6万石で入っており、その後18年に駿河国駿府14万石に移ってからは増田長盛、文禄4年に長束正家と引き継がれている。三成が水口4万石を領有したという事実はない。

天正14年(1586年)1月、当時名将として名高かった島清興(左近)を知行の半分を与えて召抱えたといわれる[1](異説あり[2])。 秀吉はこれに驚愕、そして賞賛し、左近に三成への忠誠を促し、菊桐紋入りの羽織を与えた。同年、越後上杉景勝が秀吉に臣従を誓うために上洛してきたとき、これを斡旋した。また、秀吉から奉行に任じられる。

天正15年(1587年)、九州の役に参陣するが、武功を挙げたわけではなく後方の兵糧・武具などの輜重を担当していた。先年の四国攻めと同様に九州の役が比較的短期間で終わったことは、秀吉が大軍を動員する能力があったからであるが、そこでの兵員・兵糧の輸送には水軍が最大限に活用された[3]。三成はじめ有能な行政官僚が輜重を担当していたことも勝因のひとつであった。九州平定後、命じられて博多奉行となり博多復興に従事した。また、天正16年(1588年)、取次として薩摩の島津義久の秀吉への謁見を斡旋した。

天正17年(1589年)、美濃国検地する。天正18年(1590年)の小田原の役に参陣。秀吉から後北条氏の支城の館林城忍城攻撃を命じられる。忍城攻めでは元荒川の水を城周囲に引き込む水攻めが行われ、その際の遺構石田堤として周囲に現存している。関東各地の後北条氏のほとんどの支城は本城である小田原城よりも先に陥落したが、忍城では小田原開城後の7月初旬まで戦闘が続いた。なお三成は取次として、常陸佐竹義宣が秀吉に謁見するのを斡旋し、奥州仕置後の奥州における検地奉行を務めるなど着実に実績を重ね、行政官僚としての功績は大きかった。

文禄元年(1592年)の文禄の役では渡海し、増田長盛大谷吉継とともに漢城に駐留して朝鮮出兵の総奉行を務める。文禄2年(1593年)、碧蹄館の戦い幸州山城の戦いに参加。その後、明軍の講和使謝用梓徐一貫を伴って肥前名護屋に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしている。しかし、秀吉と現地の連絡役という立場の行動は、豊臣家中で福島正則ら武断派の反発を招いた。

文禄3年(1594年)、島津氏佐竹氏の領国を奉行として検地する。

文禄4年(1595年)、秀吉の命により、秀吉の甥・豊臣秀次を謀反の嫌疑により糾問する(秀次事件、最終的には秀次は秀吉に切腹を命じられた)。秀次の死後、その旧領のうち近江7万石が三成の代官地になる(当初は旧領のうち尾張清須21万石が与えられる予定であったが、こちらは福島正則に与えられた)。また、同年に近江佐和山19万4000石の所領を秀吉から与えられた。

文禄4年(1595年)3月、蒲生氏郷が死亡したが、一部資料にはこれを三成の毒殺とするものがある。動機は上杉景勝に会津を与えるためという。今井林太郎は、これに否定的な見解を採る。

慶長元年(1596年)、佐和山領内に十三ヶ条掟書、九ヶ条掟書を出す。の講和使節を接待。同年、京都奉行に任じられ、秀吉の命令でキリシタン弾圧を命じられている。ただし、三成はこのときに捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉の怒りをなだめて信徒たちが処刑されないように奔走するなどの情誼を見せたという(日本二十六聖人)。

慶長2年(1597年)、慶長の役が始まると国内で後方支援に活躍した。慶長3年(1598年)、秀吉は小早川秀秋の領地であった筑後国筑前国を石田三成に下賜しようとしたが、三成は辞退している。しかし、筑後国・筑前国の蔵入地の代官に任命さて名島城を与えられた。慶長4年(1599年)に予定されていた朝鮮における大規模攻勢では福島正則や増田長盛とともに出征軍の大将となることが決定していた。[4]しかし、慶長3年(1598年)8月秀吉が没したためこの計画は実現せず、代って戦争の終結と出征軍の帰国業務に尽力した。

秀吉死後

秀吉の死後、豊臣氏の家督は嫡男の豊臣秀頼が継いだ。しかし、次の天下人の座を狙う関東250万石の大老・徳川家康が次第に台頭してゆく。三成は秀吉の死の直後、慶長3年8月19日に家康を暗殺しようとしている。家康は覇権奪取のため、三成と対立関係にあった福島正則や加藤清正黒田長政らと、豊臣氏に無断で次々と縁戚関係を結んでゆく。慶長4年(1599年)1月、三成は家康の無断婚姻を「秀吉が生前の文禄4年(1595年)に制定した無許可縁組禁止の法に違反する」として、前田利家らと諮り、家康に問罪使を派遣する。家康も豊臣政権の中で孤立する不利を悟って、2月2日に利家・三成らと誓紙を交わして和睦した。

しかし、閏3月3日に家康と互角の勢力を持っていた大老・前田利家が病死する。その直後、三成と対立関係にあった武断派の加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興浅野幸長池田輝政加藤嘉明の7将が、三成の大坂屋敷を襲撃した。しかし三成は事前に佐竹義宣の助力を得て大坂から脱出し、伏見城内に逃れていた。この後7将と三成は伏見で睨みあう状況となるが、仲裁に乗り出した家康により和談が成立し、三成は五奉行からの退隠を承諾した。3月10日、三成は家康の次男・結城秀康に守られて、佐和山城に帰城した。この事件時、「三成があえて敵である家康に助けを求め、単身で家康の向島の屋敷に入り難を逃れた(家康は豊臣家を内部分裂させるため、まだ三成を死なせる訳にはいかなかった)」という逸話があるが、これらの典拠となっている資料は明治期以降の『日本戦史・関原役』などで、江戸期に成立した史料に三成が家康屋敷に赴いたことを示すものはない。

利家の死去・三成の蟄居により、家康の専横は再び活発になり、一旦白紙にしていた無断婚姻や秀吉の遺命で禁止されていた所領配分なども実施した。

関ヶ原

慶長5年(1600年)7月、三成は家康を排除すべく、上杉景勝(特に家臣の直江兼続)らと密かに挙兵の計画を図る。 その後、上杉勢が公然と家康に対して叛旗を翻し、家康は諸大名を従えて会津征伐に赴いた。これを東西から家康を挟撃する好機として挙兵を決意した三成は、家康に従って関東へ行こうとした大谷吉継を味方に引き込もうとする。吉継は、家康と対立することは無謀であるとして初めは反対したが、三成との友誼などもあって承諾した。

7月12日、兄・正澄を奉行として近江愛知川に関所を設置し、家康に従って会津征伐に向かう後発の西国大名、鍋島勝茂前田茂勝らの東下を阻止し、強引に自陣営(西軍)に与させた。7月13日、三成は諸大名の妻子を人質として大坂城内に入れるため軍勢を送り込んだ。しかし加藤清正の妻をはじめとする一部には脱出され、さらに細川忠興の正室・玉子には人質となることを拒絶され屋敷に火を放って死を選ぶという壮烈な最期を見せられて、人質作戦は中止された。

7月17日、毛利輝元を西軍の総大将として大坂城に入城させ、同時に前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状を諸大名に公布した。7月18日、西軍は家康の重臣・鳥居元忠が守る伏見城を攻めた(伏見城の戦い)。しかし伏見城は堅固で鳥居軍の抵抗は激しく、容易に陥落しない。そこで三成は、鳥居の配下に甲賀衆がいるのを見て、長束正家と共に甲賀衆の家族を人質にとって脅迫する。8月1日、甲賀衆は三成の要求に従って城門を内側から開けて裏切り、伏見城は陥落した。8月2日、三成は伏見城陥落を諸大名に伝えるべく、毛利輝元や宇喜多秀家、さらに自らも連署して全国に公布する。

8月からは伊勢方面の平定に務めたが、家康ら東軍の反転西上が予想以上に早かったため、また思いがけず小早川秀秋が松尾山に陣取ったため、14日夕刻、三成は当初の大垣城に依り美濃で食い止める方策を捨て、関ヶ原で野戦を挑むこととなる。そして9月15日、東軍と西軍による天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いが始まった。当初は西軍優勢であり、石田隊は6,900人であったが、細川忠興・黒田長政・加藤嘉明・田中吉政ら兵力では倍以上の敵に攻められたものの、高所という地の利と島左近・蒲生頼郷舞兵庫らの奮戦もあって持ちこたえた。しかし西軍全体では戦意の低い部隊が多く、次第に不利となり、最終的には小早川秀秋脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなり、三成は戦場から逃走して伊吹山に逃れた。

その後、伊吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れた。その後、春日村から新穂峠を迂回して姉川に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入った。そして、小谷山の谷口から高時川の上流に出、古橋に逃れた。しかし9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛された。

一方、9月18日に東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継をはじめとする石田一族の多くは討死した。

9月22日、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされ、その後家康と会見した。9月27日、大坂に護送され、9月28日には小西行長安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回された。9月29日、京都に護送され、奥平信昌京都所司代)の監視下に置かれた。

10月1日、家康の命により六条河原斬首された。享年41。首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園沢庵宗彭に引き取られ京都大徳寺の三玄院に葬られた。

辞世の句

  • 筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり

逸話

大一大万大吉の紋。文字の並び方は数種がある。
  • 大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)、もしくは大吉大一大万と記された紋を用いた。「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」という意味とされる。
    • だが近代以前にその意を示した文献はなく、本来は「一」を「かつ」と読み、縁起の良い文字を重ねたものともされる。鎌倉時代の武将、石田次郎為久源義仲を射落とした武将)も使用しており、ほかには備後山内首藤氏も使用している。また、石田家ではこの他に九曜紋や桔梗紋も使用している。
  • 近江国長浜の観音寺(伊香郡古橋村の三珠院という説もあり)に、秀吉が鷹狩りの帰りにのどの渇きを覚えた立ち寄り、寺小姓に茶を所望した際、最初に大振りの茶碗にぬるめの茶を、次に一杯目よりやや小さい茶碗にやや熱めの茶を、最後に小振りの茶碗に熱い茶を出した。まずぬるめの茶で喉の渇きを鎮めさせ、後の熱い茶を充分味わわせようとする寺小姓の細やかな知恵配り・心遣いに感じ入った秀吉は彼を家来として採用した。それが後の石田三成である、という逸話がある。これが俗に「三杯の茶(三献茶)」と呼ばれるエピソードである。
    • ただし、このエピソードが載っている史料がいずれも江戸時代のもの[5]であること、三成の息子が記した寿聖院「霊牌日鑑」では三成が秀吉に仕えたのは18歳の時に姫路においてと記されていること等から、創作であるとする説もある。
  • 大谷吉継とは親友同士だった。秀吉の茶会で、一口ずつ飲み次へ茶碗を回す回し飲みがされた。らい病を患っていた大谷吉継は飲むふりのみで茶碗を回そうとしたが、顔から出たが茶に落ちてしまった。以降の諸大名は茶に口を付けるのを嫌がり飲むふりだけで茶碗を回していったが、三成は躊躇わず茶を飲み干した。それ以降二人の間には一層深い友情が生まれたという。
  • 秀吉が伏見城に井戸を掘るように命じた際、担当者は丘陵から水脈まで掘られねばならなったため苦戦していた。それを聞いた三成は貫差しの銭を井戸の中に放り工事人夫たちに「井戸を掘り抜けばあの銭はお前達のものだ」と叫んだ。その結果人夫たちは全力で掘り井戸は驚くほど早く完成した(『前橋旧蔵聞書』)。
  • 三成の検地での働きから、秀吉が九州に33万石の領地を与えようとしたところ、三成は自分が九州の大名になってしまうと大阪で行政を担当する者がいなくなり国政に支障が出る、という理由で加増を断った。
  • 「奉公人は主君より授かる物を遣いきって残すべからず。残すは盗なり。遣い過ぎて借銭するは愚人なり」という言葉を残している。
    • 関ヶ原の合戦の3日後に居城の佐和山城も落城。佐和山城に乗り込んだ小早川、脇坂らの武将は、19万石の大名であり、秀吉に寵遇された三成の城はさぞかし豪勢で、私財を貯えているだろうと思っていたが、壁は板張りで上塗りされずむき出しのまま、庭には風情のある植木もなく手水鉢は粗末な石、金銀も少しもなく、あまりの質素さに驚いたという。
  • 名護屋城建設では下準備と後方支援の三成と建設指揮の清正のコンビネーションで短期間に十数万の人間を収容できる基地を建設している。2人の仲が破綻するのは文禄の役の講和問題が持ち上がった時期と思われる。
  • 前田利家の死後、加藤清正・福島正則らが三成を襲撃するという事件が起こり、家康の仲裁によって三成は奉行を辞し佐和山城に蟄居することになった。三成が佐和山城への護送役を務めた結城秀康に「無銘正宗」を贈ると、秀康はこれを喜び、「石田正宗」と名付けて終生大切にしたという。この「正宗」は三成が秀吉から拝領したものといわれるが、江戸時代享保期に出版された書物『刀剣名物帳』では、毛利輝元が所持していたものを宇喜多秀家が買い取り、三成に贈ったと記されている。
  • 関ヶ原の戦いで敗走した三成は、自身の領地である近江(滋賀県)の古橋村に身を潜めた。初めは三珠院を頼ったが、そのとき住職・善説より「何を所望か」と問われて「家康の首が欲しい」と答え、善説を呆れ且つ恐れさせたとされる。その後、与次郎太夫という百姓の招きで、山中の岩窟に身を隠した。与次郎はこの時、徳川軍による咎めの責任を一身に引き受けるために妻を離縁し、刑死を覚悟で三成を介抱した。三成はこの義侠心に感じ入り、与次郎に咎めが及ばないよう、与次郎を説得して自分の居場所を徳川軍へ告げさせた。徳川軍を代表して三成の捜索に当たっていた田中吉政は、三成を匿った場合には当事者のみならずその親族および村人全員に至るまで処刑すると触れを出していたが、最終的には与次郎が三成の説得に従って自首したため、村は虐殺を免れている。
    • この時、与次郎が死を覚悟で三成を匿ったのは、かつて古橋村が飢饉に襲われた際、三成が村人たちを救うために米百石を分け与えたことがあり、与次郎はそのことに深く恩義を感じていたためとされる。
    • しかし他説では、三成が村人たちに「このように逃れてきたのはふたたび家康と一戦を交え、天下を統一する所存であるからだ。統一の暁には、古橋から湖(琵琶湖)までの間を大きな平野となし、道は全部石畳にする」と言い、村人たちはこの言葉に惹かれて三成を匿った。しかし隣村の出身で古橋村に養子に来ていた与次郎太夫という者が裏切ったため三成は捕らえられたとする。古橋村ではこれ以降、他村より養子を取らない慣習ができたという。
  • 処刑前の三成、小西行長、安国寺恵瓊の3人に、家康が小袖を与えた際、他の二人は受け取ったが、三成は「この小袖は誰からのものか。」と聞き、「江戸の上様(家康)からだ。」と言われると、「上様といえば秀頼公より他にいないはずだ。いつから家康が上様に成ったのか。」と言って受け取らなかった(『常山紀談』)。
  • 家康がやはり処刑前の三成に会った際、「このように戦に敗れることは、古今良くあることで少しも恥では無い。」といった。家康も「三成はさすがに大将の道を知るものだ。平宗盛などとは大いに異なる。」と嘆じた(『常山紀談』)。
  • 三成が処刑直前に、警護の人間に喉が乾いたので水を所望したのに対し、「水は無いが、がある。代わりにそれを食せ。」と言われたところ、「柿はの毒であるのでいらない。」と答えた。警護の者は「もうすぐに首を切られるものが、毒断ちをして何になる。」と笑ったが、三成は「大志を持つものは、最期の時まで命を惜しむものだ。」と泰然としていたという(『茗話記』)。

三成と淀殿及び高台院

一般的に広まっている誤解に、三成は旧主(浅井氏)の姫である淀殿を崇拝していたというものがある。これは両者が近江出身ということからイメージされたものと推測されるが、三成の石田家は近江の土豪であり、京極氏に代々仕官していた国人である。間接して、浅井氏にも仕えていた(浅井氏が京極氏を保護していた)こととなるが、基本的には、当時の浅井氏と京極氏は敵対関係にあったため(浅井氏は、京極氏への下剋上で当時、台頭していた)、淀殿は「仇敵の娘」ともいえる。

また、豊臣秀頼が豊臣秀吉の実子ではなく三成が淀殿と密通して生ませた子であるという説があるが、淀殿不行跡の史料的根拠である『萩藩閥閲録』において、その風聞があったのは秀吉の死後で、かつ相手も大野治長と記載があること及びこの話の出典が江戸中期以降ということから、現在では三成や淀殿を貶めるために幕府の御用学者が捏造したと考えられる。秀頼は文禄2年8月3日(1593年8月29日)生まれであり、前年の文禄元年6月から朝鮮半島に赴いていた三成が秀頼の父親であるとは考えにくい。

その一方で白川亨は、三成が秀吉の正室である北政所高台院と親密であり、逆に秀頼の母として政治に介入する淀殿とその側近を嫌っていたとする、これまでの通説とは正反対の説を唱えている。その論拠として白川は、三成の三女辰姫は高台院の養女である(杉山家由緒書・岡家由緒書)こと、側近筆頭の孝蔵主は三成の縁戚で関ヶ原でも西軍のために大津城の開城交渉を行っていること、淀殿の周辺に三成ら西軍派の縁者がいないことなどを挙げている(詳しくは高台院を参照)[6]

肖像画

少なくとも3種類から4種類程度確認されているが、ここでは特に、三成自身(と伝えられる)の頭蓋骨から復顔した肖像画を取り上げる。

関ヶ原の戦いから約300余年を経た明治40年(1907年)、東京帝國大学の渡辺世祐が三成の伝記執筆のために、三玄院にある三成のものと思しき墓を発掘、京都帝國大学解剖学教室の足立文太郎が遺骨を鑑定調査し、その時に頭蓋骨の写真を撮影した。調査の結果は「優男の骨格・頭形は木槌型・反っ歯・没年41歳相当」。下って昭和51年(1976年)、末裔の一人である石田多加幸(写真家)からの依頼を受け、東京科学警察研究所元主任技官・長安周一が石膏復顔を行い、それをもとに関西医科大学の石田哲郎の指導のもと、昭和55年(1980年)3月、日本画家前田幹雄の手によって石膏の復顔肖像画が制作された。この肖像画は現在大阪城天守閣に保管されている。同時に身長の推測も行い、156cmと試算された。小柄であるとされていた石田三成であるが、当時の男子の平均身長は160cm程度であり、骨格から考えるととりたてて小柄とはいえない。

人物像

  • 太閤検地においては検地尺を定めるなど、大きな実績を残した。豊臣家奉行の筆頭格であり、優れた行政能力を持った官僚であったという評価は定着している。『翁草』は世の人々が三成を「無双の才覚」と讃えていたと伝えている。
  • 三成が豊臣政権で絶大な権力を握っていたことを現す発言が残っている。
    • 「かの仁、当時、肝心の人にて、なかなか申すに及ばず。大かた心得にて候(大いに気を使う)」(毛利輝元
    • 「江州佐和山の城主・石田治部少輔、太閤公の股肱の臣として、その勢威、比肩の人なし」(島津義弘
    • 「治少(治部少輔)、御奉行のその随一なる顔にて候つる。少しもそむけ候えば、たちまち身のさわりをなす仁にて候」(木食応其

評価

江戸時代には三成は悪人と見なされた。明治に入ってもなお奸臣説が強く、秀次を讒訴したとか、秀吉自身は秀頼を家康に託すよう遺言したのに三成がそれに背き、天下を狙って家康と戦ったと説かれていた。三成の再評価を志した三井の朝吹英二は、三成の墳墓発掘などを行った他、歴史家・渡辺世祐に依頼し、渡辺は三上参次と協力して明治40年に『稿本石田三成』を上梓、三成奸臣説に論駁している。現在では実証的な評論が行われ、正確な三成像を描く模索が続いている。

肯定的材料

  • 後世に五人組となる制度の元を築いた。これは、江戸時代を通じて農政の基本となった制度である。
  • 豊臣秀吉が短期間で天下を統一できた理由のひとつとして、三成ら有能な行政官僚が常に後方補給などの輜重役を担当したことが挙げられる。実際に文禄の役の際にも兵站度外視で無闇に戦線拡大する諸将を説得して漢城(ソウル)に集結させ、碧蹄館の戦いでの勝利の基礎を作った。
  • 佐和山で善政を敷いていたため領民から慕われ、三成の死後も佐和山の領民はその遺徳を偲んで、佐和山城付近に地蔵を築くなどしてその霊を慰めたという。
  • 領内の古橋村が飢饉に襲われた時、年貢を免租したばかりか前記の通り村人たちを救うために米百石を分け与えたと言われる。古橋には当時、三成の母の菩提寺である法華寺があり、三成は手厚い保護を与えていたという。
  • 文禄4年(1595年)の豊臣秀次失脚時には、諸将が秀次を見限る中で三成は「秀次公無罪」と信じ、最後まで秀次の助命に動き、秀次の家臣であった前野忠康(舞兵庫)ら若江八人衆はその三成の姿に感激し、以後、三成の麾下に加わったという記録もある[7]またこの際、細川藤孝と共同しようとしたが、三成が遠方の検地に赴いていた為、思うように動けなかったとする説もある[要出典]
  • 浅野長政が関ヶ原の後における大坂城(江戸城説も)の猥雑な雰囲気を「三成が存命の頃はこのようなことはなかった」と嘆いたとの逸話が残っている。
  • 天元実記』には「三成は武道に名誉ある者であれば何をおいても召抱えた為、関が原における石田家の兵の働き、死に様は尋常ではなかった」と記されている。
  • 桃源遺事』によると、徳川光圀は「石田三成は憎い人物ではない。人はそれぞれ、その主君に尽くすのを義というのだ。たとえ敵でも、君のために尽くした者を悪く言うのは良くない。君臣ともそう心がけるべきだ」と言ったとされる。

否定的材料

  • 豊臣秀次事件において、三成は秀吉に対して、「御謀反調議ノタメニ、山々ニ在留セラル」と讒言し、これが秀吉に秀次排除を決意させたとされるが、現在は秀次の謀反説及び讒言説は否定されている。三成は秀吉の意向を受けて働いただけであり、結果として事務処理をせざるをえなかった三成が秀吉の代わりに憎まれ役になったという側面があった[要出典]にしろ、それをもって「秀次を謀反の罪で直接糾弾したのは三成」と断言できるかどうかについては意見が分かれる。
  • 改正三河後風土記』等には豊臣秀吉臨終時の五奉行の会議で、徳川家康前田利家に秀吉の死を連絡するか否かの議案に反対したにも拘らず、個人的に密使を二人に送って秀吉の死を知らせたことが記されている。そのせいで一時期三成は家康と利家の心象を良くし、逆に二人と仲が良かったものの議決に従って秀吉の死を秘した浅野長政には不信の念を抱かせている。結局、この独断専行は最終的には三人に露見してしまい、激怒させる結果に終わっている。(ただしこれら史料は江戸時代に成立していることに留意)
  • 蒲生氏郷を毒殺したという疑惑も存在するが、現在では氏郷の死因は膵臓癌であったという記録があり、否定的な見方が大勢を占める。氏郷に症状が出始めた頃、三成は朝鮮にいたため、少なくとも直接毒をもった可能性はゼロである。
  • 蒲生家の騒動(蒲生騒動)を仕掛け、蒲生家の弱体化を三成が謀ったとも言われるが、根拠となる記録はなく、蒲生家の多くの旧臣が三成に仕え、更には三成と敵対したとされる人物の家臣であった者達も後に三成に仕えているため、現在では否定的な意見も多い。むしろこのような豊家内紛や謂れなき秀次謀反人扱いは豊臣政権を弱体化させるだけだと反対の立場を持っていたとされる。その証拠に秀次ゆかりの人物を多く助けていること、それら秀次家臣を多く召し抱えたことなどから秀次への敵対、濡れ衣を着せたなどの話は江戸時代に幕府が意図的に三成を貶めるために流布させた嘘や創作である可能性が高い。

系譜

兄弟
子女

3男3女もしくは2男5女がいたとされる。

研究書籍

関連事項

三成を演じた俳優

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脚注

  1. ^ 『常山紀談』
  2. ^ 三成が左近を召抱えたのは、左近の先主・羽柴秀保が死去した文禄4年以降とも言われており、この場合、三成は既に佐和山25万石の城主になっている(二木謙一1982『関ケ原合戦』)。また、水口4万石の半分の2万石で召し抱えたという説もあるが、三成が水口を領有した事実はないため、これは誤りである。
  3. ^ 安井(1996)p.19
  4. ^ 「島津家文書」二‐九七八
  5. ^ 熊沢正興 正徳6年(1716年)『武将感状記』など
  6. ^ 『石田三成とその一族』など。
  7. ^ ただしこれは『武功夜話』の記述によるため、信憑性を疑問視する声もある。前野忠康が石田三成の配下になったのは事実であるが、感激したためかはわからない。ただ、当時においても秀次の旧臣達が三成の事を、旧主を陥れた仇敵とは考えていなかった事は明確といえる。

関連項目

参考文献

  • 石田多加幸「忠節無比に仕えた股肱の臣 石田三成」『歴史群像シリーズ 豪壮 秀吉軍団』学習研究社1992年
  • 関ケ原合戦 笠谷和比古 講談社選書メチエ 1994年 のち講談社学術文庫
  • 中井俊一郎「秀次・蒲生牢人を吸収、三成苦心の家臣団構成」『歴史群像シリーズ【戦国】セレクション 決戦 関ヶ原』学習研究社2000年
  • 三池純正『義に生きたもう一人の武将 石田三成』宮帯出版社、2009年
  • 安井久善「秀吉の戦略・戦術」『別冊歴史読本21巻35号 豊臣秀吉合戦総覧』新人物往来社、1996年9月。ISBN 4-404-02407-X
  • 今井林太郎著『石田三成』吉川弘文館、1988年

外部リンク