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「月刊OUT」の版間の差分

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Nandaro (会話 | 投稿記録)
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読者投稿コーナーに力を入れていたのも特徴である。その結果読者どうしの横の連帯も生まれ、読者が自らを「アウシタン」と呼称するようになり、読者集会(アウシタン集会)が全国各地で開催された。しかしながら投稿コーナーの常連メンバーが固定化し、古くからの読者しかわからない内輪ネタが増加し、新規の読者に対してハードルが高くなるという弊害を招き、読者層の高年齢化に拍車をかけた。
読者投稿コーナーに力を入れていたのも特徴である。その結果読者どうしの横の連帯も生まれ、読者が自らを「アウシタン」と呼称するようになり、読者集会(アウシタン集会)が全国各地で開催された。しかしながら投稿コーナーの常連メンバーが固定化し、古くからの読者しかわからない内輪ネタが増加し、新規の読者に対してハードルが高くなるという弊害を招き、読者層の高年齢化に拍車をかけた。


== 歴史 ==
ゆう== 歴史 ==
* 1977年5月号 - 創刊。
* 1977年5月号 - 創刊。
* 1977年6月号 - 『[[宇宙戦艦ヤマト]]』特集。[[森雪]]のワープ時のヌード姿をカラーグラビアに載せたこともあって雑誌としては異例の増刷を行う。
* 1977年6月号 - 『[[宇宙戦艦ヤマト]]』特集。[[森雪]]のワープ時のヌード姿をカラーグラビアに載せたこともあって雑誌としては異例の増刷を行う。
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* 1994年11月号 - 誌名表記を「月刊アウト」に変更。
* 1994年11月号 - 誌名表記を「月刊アウト」に変更。
* 1995年5月号 - この号をもって休刊。
* 1995年5月号 - この号をもって休刊。
* 2042年8月27日午後3時 - お茶の水駅(跡?)にファンが集合する予定


== 主な投稿コーナー ==
== 主な投稿コーナー ==

2011年4月17日 (日) 09:11時点における版

月刊OUT(げっかんあうと)は、1977年から1995年にかけて発行されていた月刊アニメ雑誌みのり書房刊。1994年11月号より休刊号になる1995年5月号までは月刊アウトと表記した。

概要

創刊号は1977年の5月号。当初はアニメ雑誌ではなく、サブカルチャー系の雑誌だった。企画意図は「大手出版社には絶対マネのできないような、面白くアホに徹した雑誌」を造ってみようというものだったらしい。「型にとらわれない」という姿勢から、しばらくの間は版型も毎月異なっていた。

創刊号は芳しい売れ行きではなかったが、続く創刊2号で『宇宙戦艦ヤマト』を巻頭特集。同劇場版公開に合わせた第5号での特集が大当たりしたことで、方向性が決定付けられることになる。あくまでも雑誌の方向性としては最後までサブカルチャー系の体制を取る事に拘りを見せていたが、カルトQで出題された「日本で最初に発行されたアニメ雑誌は?」の回答が当誌だった事[1]を考え合わせても、業界でのアニメ誌としての認知度は高かったものと推測される。

また、この特集号の事実上の編集長だった浜松克樹が後に立ち上げた雑誌がファンロード、ライターだった小牧雅伸が編集長を務めた雑誌がアニメックである。このためその3誌は非常に濃いつながりをもって運営されていた。

特徴

他のアニメ雑誌と比較して読者の投稿ページが多かったこと、またオリジナルの企画物が特徴的だった。投稿主体のアニメ雑誌として「ファンロード」と並び称されていたが、イラスト主体の「ファンロード」に対しOUTは文章ネタの投稿が主体であり、読者年齢層も高いとされていた。また、アニメを元ネタにしたパロディ「アニパロ」はこの雑誌から広まった。

一方、1981年に優れたムックである『ガンダムセンチュリー』を刊行したようにアニメに対して真摯な一面もあり、評論記事や新作アニメ映画を評価する定期的な座談会(1984年頃まで)なども掲載されていた。『アニメージュ』を除くアニメ雑誌5誌が連携して日本アニメ大賞を主催していた1985年には、この5誌の編集長座談会という記事も掲載している。さらに1986年には宮崎駿がおこなったアニメ業界に対する苦言を含む会見を、抄録とはいえアニメ雑誌で唯一掲載したこともある(他の掲載誌は漫画評論誌の『コミックボックス』のみ)。もっともその会見で宮崎が『プロジェクトA子』を非難した発言を、半年ほど後の記事ではネタにして使う(アニメキャラクターによる「新春スター隠し芸大会」で、宮崎監督作品のヒロインが『A子』の寸劇をするというもの)など、硬軟一方に固まらない幅の広さも持っていた。

また1986年には「サンライズ宇宙史」と題して、当時日本サンライズが過去に制作した全作品を、同じ時間軸上の出来事として(オリジナル設定を加えて)並べる企画を掲載しているが、これはその後の「スーパーロボット大戦シリーズ」などの発想を先取りしたものだったといえる。

読者投稿コーナーに力を入れていたのも特徴である。その結果読者どうしの横の連帯も生まれ、読者が自らを「アウシタン」と呼称するようになり、読者集会(アウシタン集会)が全国各地で開催された。しかしながら投稿コーナーの常連メンバーが固定化し、古くからの読者しかわからない内輪ネタが増加し、新規の読者に対してハードルが高くなるという弊害を招き、読者層の高年齢化に拍車をかけた。

ゆう== 歴史 ==

  • 1977年5月号 - 創刊。
  • 1977年6月号 - 『宇宙戦艦ヤマト』特集。森雪のワープ時のヌード姿をカラーグラビアに載せたこともあって雑誌としては異例の増刷を行う。
  • 1977年8月号 - 6月号の反響を受け、再びヤマトにページを割く。
  • 1977年9月号 - 劇場版『宇宙戦艦ヤマト』公開直前に発売された今号はヤマトの企画書(松本零士参加以前)を中心とする大特集号。これがOUTの方向性を決定付けた。
  • 1977年12月号 - 判形が細長の変形からB5判になる。『超人ロック』特集。
  • 1977年12月号増刊としてアニメ、SF、マンガに特化した『ランデヴー』が創刊。アニメ以外では『サンダーバード』やNHK少年ドラマシリーズ等の特集も組まれ、隔月ペースで1978年9月号まで続いた。
  • 1978年 - 『ランデヴー』増刊号として『ランデヴーコミック』が創刊されるが、第3号までで休刊となる。
  • 1980年3月号 - ヌードピンナップイラスト「悩ましのアルテイシア」をつけたこともあり、空前の売り上げを記録する。この企画時点で「日本サンライズから抗議がくる!」「いや!これくらいやらなとダメだ!」と相当な議論が行われたが後に編集長となる大徳の「クビをかけるから決行!」の一言によって掲載された。後日OUT紙面には富野由悠季の「ねえ!どうせ出すならもっときれいに描いてくれないの!おじさんきれいじゃないとボッキーしないのよね!」というコメントが掲載され「やはり富野さんは只者ではない!」と締めくくられている。
  • 1980年7月号 - アニメパロディ特集号。以後、アニパロのOUTと認知される。
  • 1981年9月 - OUT初のアニメムックOUT増刊『GUNDAM CENTURY』を発行。のちの20年以上のガンダムの歴史に様々な意味で多大な影響を及ぼす傑作となる。ただ、一部の初版本は表紙にタイトルが印刷されていないというミスがあり回収騒ぎとなる。
  • 1981年暮れ - OUTとバップがスポンサーのラジオ番組「VAPOUT」開始。パーソナリティ三ツ矢雄二汀夏子
  • 1984年 - 地方都市各地でOUT読者の集いアウシタン集会が開かれ始まる。
  • 1985年5月号 - マスコットの「まいど君」誕生。命名は常連投稿者の戸田けいすけ。
  • 1986年3月号 - 『機動戦士Oガンダム』特集。『Ζガンダム』の後番組と銘打ったパロディ企画。
  • 1994年11月号 - 誌名表記を「月刊アウト」に変更。
  • 1995年5月号 - この号をもって休刊。
  • 2042年8月27日午後3時 - お茶の水駅(跡?)にファンが集合する予定

主な投稿コーナー

  • FROMお茶の水→ミックスサンド→投稿時代→投稿☆時代→とうこう☆じだい→投稿時代→お茶の水研究所
  • よたろうランド
  • OUT国官報→月刊さくま→私立さくま学園(さくまあきらが担当)
  • OUT国官報→OUT大学→ゆう坊のでたとこまかせ(堀井雄二が担当。「官報」時代はえびなみつる、「大学」時代はイトヒロとの共作)
  • 芦田豊雄の人生冗談
  • ヨモスエ警備隊
  • 花小金井かんとりい倶楽部
  • AOIわたしを責めないで
  • 常識探検隊→納得いかね~世直し団

OUT国官報は、当初さくまあきらが担当していたものが堀井雄二に引き継がれている。

OUTオリジナル企画

  • 愛はオタクを救う
  • 宇宙編集者OUTシャイダー
    • 宇宙刑事シャイダー』の実写パロディ企画で、名称は「シャイダー」と「アウトサイダー」の掛詞である。OUTシャイダーには大徳編集長自らが扮し、悪人(ザッシギャランなど)と戦った。必殺技の灰皿ブレード(元ネタは「ばか!編集長が灰皿持つとみんな靴も履かないで逃げだすんだぞ!」という編集者の発言)などの内輪ネタに加え敵のボスが富野由悠季の似顔絵にタコの様な足が付いた「トミライ」で幹部達がその姿を見て「ボスがあんな東映みたいなキャラなんてもうだめだ!」と逃げ出すなど何でもパロディー化するかなり壊れた企画だった。
  • 流星皇子TOMMY
  • ラムネス07

読者の呼称

OUT読者のことは「アウシタン」(女性は「アウシターナ」)と呼ばれていた。

アウシタンは1979年5月号で、重度のOUT読者を指すものとして、奈良県の読者が提唱した呼称。やがて一般読者もアウシタン、また「隠れアウシタン」などとも呼ばれるようになった。一方のアウシターナは1985年4月号で男性読者が提唱。いずれもOUTファンに受け入れられ、休刊後も読者を指す言葉として定着している。

休刊後

みのり書房解散により休刊となるが、編集長の南波健一郎は青磁ビブロスにて後継誌として『MEGU』を創刊する。『MEGU』は95年5月に0号、9月には創刊号が発刊された。

その誌面は既存のアニメ誌のスタイルと、月刊OUTの路線(主に読者投稿コーナー)を折衷したものであった。結果として月刊OUTの倍以上の部数を売り上げたものの、その後部数は伸び悩み、南波は96年11月号で編集長の座を降り、誌面から月刊OUT色は一掃された。しかしこれは旧月刊OUTの読者層が離れる一方で、新規の読者層の取り込みにも失敗し、部数が低迷する結果となった。翌年5月に『MEGU』も休刊へと至った。

その後2008年12月に発売される『かんなぎ』DVD第2巻完全生産限定版の特典として、「月刊OUT Limited 『かんなぎ』特集号」が復活刊行された。

関連人物

配列は役職別・次いで五十音順。複数の節に入る人物は、原則として上から優先で分類する。

編集長

  1. 本村行雄(1977年5月号 - 11月号)
  2. 間瀬肇(1977年12月号 - 1978年11月号)
  3. 南原四郎(1979年4月号 - 1980年8月号)
  4. 大徳哲雄(1980年9月号 - 1987年6月号)
  5. 鈴木倫太郎(1987年6月号 - 1991年9月号)
  6. 南波健一郎(1991年10月号 - 1995年5月号)

編集部員

イラストレーター・漫画家

ライター

投稿経験者・常連

関連項目

参考資料

  • 『OUT』(1987年5月号、みのり書房) - 不滅のOUT10年史。

脚注

  1. ^ これは事実ではなく『季刊ファントーシュ』(1975年創刊)が先行したが、『季刊ファントーシュ』は大手取次の扱いがなく、ごく一部の書店でしか入手できなかった

外部リンク