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'''昇天'''(しょうてん)とは、天に昇ること、すなわち、 |
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#[[イエス・キリスト]]が[[復活]]の後40日間地上に有った後、体を持ったまま[[天]]に上ったとする出来事を指す、[[キリスト教]][[神学]]用語。 |
#[[イエス・キリスト]]が[[復活]]の後40日間地上に有った後、体を持ったまま[[天]]に上ったとする出来事を指す、[[キリスト教]][[神学]]用語。 |
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#転じて、「死」「亡」などの直接的な語を忌避しつつ、人の[[死|死亡]]を間接的に表現する語の一つ。(ref.[[成仏]])。 |
#転じて、「死」「亡」などの直接的な語を忌避しつつ、人の[[死|死亡]]を間接的に表現する語の一つ。(ref.[[成仏]]、[[往生]])。 |
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#天にも昇る心地(快楽・愉悦の表現)。 |
#天にも昇る心地(快楽・愉悦の表現)。 |
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==昇天の教義== |
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上記の原義により、世俗の用法と異なり、現在の[[キリスト教]]ではこの語を人の死の意味で用る事はない。キリスト教の[[正統信仰]]では、普通の人の死に際して起こっていることはイエスの十字架の死と同じ現象、すなわち「冥府に下る」ことであり、「昇天」とは考え |
上記の原義により、世俗の用法と異なり、現在の[[キリスト教]]ではこの語を人の死の意味で用る事はない。キリスト教の[[正統信仰]]では、普通の人の死に際して起こっていることはイエスの十字架の死と同じ現象、すなわち「冥府に下る」ことであり、復活の栄光の体をもって天に昇る「昇天」とは分けて考える。[[ローマ・カトリック]]ではイエスの他に[[聖母]][[マリア]]が、死後直ちに天にあげられた(自力ではなく)という信仰が有り、これを[[聖母被昇天]]と呼ぶ。 |
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==キリスト教における死の婉曲表現== |
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キリスト教はそもそも信仰上の理由から死を忌む事が少なく、そのまま「死亡」「死去」「逝去」などの語を用いるが、何らかの配慮が必要な際には逆に[[死生観]]の異なる[[仏教]]や[[神道]]に基づく表現を使うわけにいかず、不自由することになる。使えない語としては、[[成仏]]はもちろん、転生を意味する[[往生]]、霊界の存在を明示する[[他界]]、鬼籍に入る、復活の教義に抵触する[[永眠]]などがある。 |
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==昇天日== |
==昇天日== |
2005年12月2日 (金) 02:22時点における版
昇天(しょうてん)とは、天に昇ること、すなわち、
- イエス・キリストが復活の後40日間地上に有った後、体を持ったまま天に上ったとする出来事を指す、キリスト教神学用語。
- 転じて、「死」「亡」などの直接的な語を忌避しつつ、人の死亡を間接的に表現する語の一つ。(ref.成仏、往生)。
- 天にも昇る心地(快楽・愉悦の表現)。
昇天の教義
上記の原義により、世俗の用法と異なり、現在のキリスト教ではこの語を人の死の意味で用る事はない。キリスト教の正統信仰では、普通の人の死に際して起こっていることはイエスの十字架の死と同じ現象、すなわち「冥府に下る」ことであり、復活の栄光の体をもって天に昇る「昇天」とは分けて考える。ローマ・カトリックではイエスの他に聖母マリアが、死後直ちに天にあげられた(自力ではなく)という信仰が有り、これを聖母被昇天と呼ぶ。
キリスト教における死の婉曲表現
キリスト教はそもそも信仰上の理由から死を忌む事が少なく、そのまま「死亡」「死去」「逝去」などの語を用いるが、何らかの配慮が必要な際には逆に死生観の異なる仏教や神道に基づく表現を使うわけにいかず、不自由することになる。使えない語としては、成仏はもちろん、転生を意味する往生、霊界の存在を明示する他界、鬼籍に入る、復活の教義に抵触する永眠などがある。
そこで独自の表現を用いることになるが、上記教義上の区別により「昇天」は厳に避け、「召天」(しょうてん、天に召される)「帰天」(きてん、天に帰る)などの語を用いる。但し、「召天」は戦後に、人の死去に対し「昇天」を用いる神学的問題とキリストに対する不遜を避ける遠慮から音を合わせて造語されたものであり、漢文に親しんだ世代からは「『天を召す』としか読めない、間違っている上に却って非常に不遜な表現である」という批判も為されている。
昇天日
昇天日 (Ascension Day) は、キリスト教の祝祭日の一つ。上記「キリストの昇天」を記念し祝う祭りで、復活祭から40日目の木曜日に行われる。