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2007年、なでしこジャパンは[[2007 FIFA女子ワールドカップ|第5回FIFA女子ワールドカップ]]([[中華人民共和国]])に出場。翌2008年は[[2月]]には[[東アジアサッカー選手権2008|東アジア女子サッカー選手権2008]]で優勝し、女子代表として初タイトルを獲得し、さらに同年8月の[[北京オリンピック]]では第4位となった。
2007年、なでしこジャパンは[[2007 FIFA女子ワールドカップ|第5回FIFA女子ワールドカップ]]([[中華人民共和国]])に出場。翌2008年は[[2月]]には[[東アジアサッカー選手権2008|東アジア女子サッカー選手権2008]]で優勝し、女子代表として初タイトルを獲得し、さらに同年8月の[[北京オリンピック]]では第4位となった。

2007年、[[2011 FIFA女子ワールドカップ|第6回FIFA女子ワールドカップ]]([[ドイツ]])に出場。決勝で強豪[[サッカーアメリカ合衆国女子代表|アメリカ代表]]を破り優勝した。
またキャプテンを務めた[[澤穂希]]は得点王、大会MVPに輝いた。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2011年7月17日 (日) 21:56時点における版

UEFA女子カップ2004-05決勝戦 (1.FFCトゥルビネ・ポツダム対ユールゴルデン&アルヴシェ) の様子。

女子サッカー(じょしサッカー)は、女性が選手としてプレーするサッカーであり、約100年以上にわたって行われてきた。しかし黎明期は慈善活動運動の一環として行われており、1970年代に女性のサッカーが組織化され、進歩への道程を歩み始めるまでは、サッカーといえば「男性のためのスポーツ」という見方が大勢であった。今日いくつかの国においては、サッカーは女性にとって最も身近なスポーツ競技であり、またいくつかある女子のプロスポーツのひとつでもある。

女子サッカーの成長・発展ぶりについては、世界各国、または世界および各大陸レベルにおいていくつかの大会が創設され行われてきたという事実が物語っている。女子サッカーの全国リーグの数は少しずつ増加しており、リーグがない国においては各種カップ戦が行われている。

女子サッカーはその存在を認められるため、長きに渡り苦闘を経験してきた。1920年代初頭、イギリス国内で女子サッカーが最初の黄金時代を迎えていた時代、いくつかの試合では50,000人を超える観客を集めていた[1]。しかし1921年12月5日、イングランドサッカー協会において会員であるクラブによる投票が行われた結果、1971年7月にこの決定が撤回されるまで、女子サッカーはイングランド国内において排除されることとなった。

歴史

「近代サッカーの母国」イングランドでの最古の記録として1895年に北イングランドと南イングランドによる対抗試合が残っている。これは「近代サッカー成立の年」とされる1863年から僅か30年ほどのことであり、僅かな間に女性にも普及していった。

予想以上の盛り上がりに対し、サッカーを「男の中の男のスポーツ」と考えたイングランドサッカー協会(FA)は1902年、傘下のクラブに対し女性との試合を禁ずる。しかし1914年第一次世界大戦が勃発して男性が戦場へ借り出されると、女子サッカーはヨーロッパ各地で盛んに行われるようになった。

戦争の終結により男子プレーヤーの復帰が進んでのちも女子サッカーの人気はつづいたが、「サッカーは女性のからだに有害」という根拠の薄い理由付けにより不当な扱いを受け、さらに1921年にはFAが女子チームに対してグラウンドの貸し出しを禁ずる命令を通達。そのため一時は試合どころか練習会場すらままならない状況が続いた。同じ頃に中国大陸各地で女子の学校教育においてサッカーが登場した。

第二次世界大戦後の1954年オランダサッカー協会(KNVB)とドイツサッカー協会(DFB)は女子チームに対しFAと同様の通知を発布する。しかしこのころには男女同権の流れが世界に浸透し始め、1960年代にはアメリカ合衆国ウーマン・リブが興るなど女性に対する社会の風潮が変わり始めると、女子サッカーも少しずつ盛り返し始める。とりわけ東ヨーロッパ諸国では各国でいち早く女子チームが作られた。同じころ、東アジアでも台湾シンガポールタイ王国で女子サッカーが盛んになり、女子のスポーツとして大きく浸透した。

1970年、FAは女性に対するグラウンド使用禁止の通達を破棄。KNVBとDFBもそれにつづいた。1971年には国際サッカー連盟(FIFA)が初めて公認した女子代表の国際試合「フランスオランダ」が行われ、また各国協会で女子サッカーも傘下に置くよう通達がなされたこともあり、イタリアデンマークスウェーデンをはじめとして、世界各地で女性の競技機会の解放が進み、さらに1980年代には「サッカー不毛の地」といわれるアメリカでも女子のスポーツとして広く浸透するに至った。

1986年メキシコシティで行われた国際サッカー連盟(FIFA)総会でノルウェーサッカー協会から派遣された女性、エレン・ウィレ(エレン・ヴィッレ)が「人類の半数は女性である。FIFAは女子サッカーにもっともっと力を入れるべきである。そして女子サッカーがもつ限りない将来性に目を向けなければならない。」と演説し、女子ワールドカップの開催、オリンピックに女子サッカーの追加、男女とも同一のルールの採用を提案した。これに感銘を受けた議長のジョアン・アヴェランジェ会長(当時)は、2年後の1988年中華人民共和国広州市で非公式な世界大会を実施。この結果をもとに1991年第1回女子サッカー世界選手権を中国の5会場で開催した。のちにFIFA女子ワールドカップと呼ばれるこの大会が開かれ、さらにオリンピックでも1996年アトランタ大会から正式種目に採用されたことにより、少しずつ市民権を得てきている。

現在ではアメリカ合衆国のほか、北ヨーロッパ西ヨーロッパが強豪国となっており、また東アジアでも中国、北朝鮮日本、そして近年では韓国で盛んになってきている。またアフリカ南アメリカといった男子サッカーの強豪地域、そしてオセアニアでも女子サッカーが盛んになってきた。さらに宗教上の理由などからイスラム文化圏での活動はあまり見られなかったが、2005年カタールドーハで「西アジア女子サッカー選手権」が行われ、また2006年には「第1回シリア女子全国リーグ」が7月から7チーム(80分制で交代は5人まで認められる特別方式)で行われ、同年12月には2006アジア競技大会ドーハヨルダンヒジャブなどを着用して参加するなど、少しずつ裾野を広げつつある。

日本の女子サッカー

日本女子サッカーの誕生

日本のサッカーにおける女子サッカーの歴史はそれほど長くない。女性がサッカーに携わるのは、おもにマネージャーなどであった[2]。しかし1960年代から70年代にかけて競技を行う女性が少しずつ見られはじめ、1966年11月には神戸市立福住小学校で「福住女子サッカースポーツ少年団」が誕生[3]。同じ年には神戸女学院中学部の3年生によるチームも誕生し、翌1967年3月19日にはこの2チームによる対戦が、神戸市王子陸上競技場で開催された「第1回神戸サッカーカーニバル」での一戦として行われた。この試合では主審および2名の副審も、すべて女性が担当した[4]

1972年には東京でFCジンナンが誕生[5]。その後関東地方において、望月三起也が設立したワイルド・イレブン・レディース(横浜)、三菱重工女子サッカー部 (三菱重工社員を中心としたクラブ)、三菱養和レディース、実践女子大学サッカー同好会などが誕生し、京浜女子リーグ、チキンフットボールリーグ (東京都)、横浜女子サッカーリーグなどのリーグも設立された。

一方で、1976年に神戸市で神戸FCの女子チーム (神戸FCレディース)、三重県上野市伊賀上野くノ一が設立された他、1978年には清水市立入江小学校でサッカーの指導にあたっていた杉山勝四郎によって清水第八スポーツクラブ[6]、また大阪府高槻市では高槻女子フットボールクラブ (現スペランツァF.C.高槻) が設立された。関西地区においては関西女子サッカーリーグが設立され、神戸女学院 (中学部・高等学部)や高槻女子FC、大阪FCレディース (現バニーズ京都SC) などが参加した。 1979年にFIFAが各国のサッカー協会宛てに、女子サッカーを管轄下において普及と発展に努める旨の通達を出した事を受けて日本女子サッカー連盟が設立され、ベルリンオリンピック時の日本代表選手であった加納孝が会長に就任した。この団体は日本サッカー協会加盟団体となり、女子サッカーは正式に同協会の管轄下に入った[7]

1980年には全日本女子サッカー選手権大会が開催され、男子サッカーの天皇杯全日本サッカー選手権大会にあたる大会として日本全国のチームを対象とするトーナメントが行われるようになった。第1回大会ではFCジンナンと高槻女子FCが決勝戦に進み、2-1で勝利したジンナンが初代チャンピオンとなった。第2回大会から第8回大会までは、清水第八SCが7連覇した。第1回・第2回大会までは、8人制、25分ハーフ、4号球使用で行われていたが、第3回大会より11人制でグラウンドの面積も男子サッカーと同じ大きさとなり、第4回大会では試合時間が25分ハーフから30分ハーフに変更された。第7回大会からは、試合用のボールが男子と同じ5号球に変更された[8]

1980年代後半より、FIFA女子ワールドカップの新設を前提とする国際親善大会の開催 (1988年) や、1990年度アジア競技大会における女子サッカーの正式種目への採用など、国際状況が変化する中で、所属クラブにおける試合経験を積むための場所がない事が問題とされた。1989年、日本女子サッカー連盟は全国リーグの設立という結論に達し、日本女子サッカーリーグが設立された[9]

サッカー日本女子代表チームの誕生

日本女子サッカーにおける初の国際試合は、1978年に台湾で開催された第2回目のAFCアジア女子選手権へのFCジンナンの出場である。その後チキンフットボール選抜や神戸FCレディースによる香港への遠征が行われた[10]

1981年6月、香港にて第4回目となるAFCアジア女子選手権が開催される事となり、この時初めて正式な日本女子代表チームが結成され、監督には市原聖基が就任した。この時は日本サッカー協会より強化費用が支給されず、日本女子サッカー連盟が自前で強化費用をまかなった。遠征費の半分は選手たちが自ら負担し、残りは三菱グループやプーマグループが支援した。5日間の事前合宿の後香港へと渡った日本代表チームは1勝2敗の成績で、1次リーグで敗退して同大会を終えた[11]

同年9月神戸市で行われた博覧会「ポートピア81」の関連事業として日本女子代表が結成され、神戸市の中央競技場でイングランド代表と、東京の国立西が丘サッカー場イタリア代表と対戦した。イングランド戦に臨む代表チームは関西および清水の選手で、イタリア戦に臨む代表チームは関東および清水の選手で編成するという形をとった[12]

1984年の中国遠征時は、FCジンナンのコーチであった[13]折井孝男が代表監督を兼任して采配を取った[14]。1986年、鈴木良平が初の専任代表監督に就任した。1989年に退任するまでの間に鈴木は公式戦23試合で采配を取り、うち1986年12月に香港で開催された第6回目のAFCアジア女子選手権では準優勝の成績を修めた[15]

2003年の第4回FIFA女子ワールドカップアメリカ合衆国)や2004年のアテネオリンピックでの活躍により、女子サッカーは日本国内に浸透。女子日本代表の愛称「なでしこジャパン」とともに女子サッカーは認知されたといえる。またこの人気により「なでしこ」を日本女子サッカーのブランドとすることを決め、L・リーグになでしこリーグという愛称を制定した。

2005年1月、日本サッカー協会会長・川淵三郎は「2030年までに女子ワールドカップを日本で開催し、その年までに世界一にする」と宣言。また「女性監督の育成にも力を入れる」と明言した。

そして同年4月には、この年トルコイズミルで行われるユニバーシアード世界大会に参加する女子代表チームの監督に本田美登里(なでしこリーグ・岡山湯郷Belle監督)を任命。日本では各年代を通じて初の「女性代表監督」となる。8月10日から行われた本大会では、大学チーム所属選手となでしこリーグ所属選手による混成チームを率いて第3位の成績を収めた。

2007年、なでしこジャパンは第5回FIFA女子ワールドカップ中華人民共和国)に出場。翌2008年は2月には東アジア女子サッカー選手権2008で優勝し、女子代表として初タイトルを獲得し、さらに同年8月の北京オリンピックでは第4位となった。

2007年、第6回FIFA女子ワールドカップドイツ)に出場。決勝で強豪アメリカ代表を破り優勝した。 またキャプテンを務めた澤穂希は得点王、大会MVPに輝いた。

脚注

  1. ^ Trail-blazers who pioneered women's football BBC 2005.6.3付記事
  2. ^ 大住良之・大原智子『がんばれ!女子サッカー』(2004岩波アクティブ新書) p. 5によると、1960-70年代のサッカーマガジンクラブ員募集ページにおいては、女性に対する募集は選手ではなくマネージャーが中心であった
  3. ^ 大住・大原、p. 5
  4. ^ 大住・大原、pp.5-6
  5. ^ 大住・大原、pp.7-8
  6. ^ 大住・大原、pp.9-10
  7. ^ 大住・大原、pp.10-11
  8. ^ 大住・大原、p17
  9. ^ 大住・大原、pp.21-22
  10. ^ 大住・大原、p.14
  11. ^ 大住・大原、p.15-16
  12. ^ 大住・大原、pp15-16
  13. ^ 大住・大原、p.8
  14. ^ 日本女子代表 全試合記録 (PDF) JFA公式サイト 2010.4.4 12:57 (UTC) 閲覧
  15. ^ 大住・大原、pp.19-20

関連項目

外部リンク

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