コンテンツにスキップ

「エドアルド・レヤ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Chujuki (会話 | 投稿記録)
39行目: 39行目:
2008-09シーズン、ナポリを率いて[[UEFAインタートトカップ]]を勝ち抜き、[[UEFAカップ]]出場を果たすが、[[ベンフィカ]]と戦い一回戦敗退。セリエAでは開幕当初よりラベッシ、ハムシクを中心にチームは好調で、ユヴェントスを撃破するなどの成果を挙げた。しかし、[[2009年]]に入るとチームは失速し、チーム不調の責任を問われたレーヤは3月に解任された。後任には前[[サッカーイタリア代表]]監督[[ロベルト・ドナドーニ]]が就任。
2008-09シーズン、ナポリを率いて[[UEFAインタートトカップ]]を勝ち抜き、[[UEFAカップ]]出場を果たすが、[[ベンフィカ]]と戦い一回戦敗退。セリエAでは開幕当初よりラベッシ、ハムシクを中心にチームは好調で、ユヴェントスを撃破するなどの成果を挙げた。しかし、[[2009年]]に入るとチームは失速し、チーム不調の責任を問われたレーヤは3月に解任された。後任には前[[サッカーイタリア代表]]監督[[ロベルト・ドナドーニ]]が就任。


[[2009年]]8月、[[クロアチア]]の強豪[[ハイデュク・スプリト]]の監督に就任した。ハイデュク・スプリトは開幕から2節経過後に[[アンテ・ミシェ]]監督を解任し、後任に[[イビチャ・カリニッチ]]監督を招聘したものの初采配直後に心臓病に倒れて指揮が執れなくなっていた。自身初の海外での指揮となる。シーズン途中の[[2010年]]2月、不振に陥っていた[[イタリア]]の[[SSラツィオ]]より監督就任要請を受け、ハイデュクとの契約を解除し、ラツィオ監督に就任。
[[2009年]]8月、[[クロアチア]]の強豪[[ハイデュク・スプリト]]の監督に就任した。ハイデュク・スプリトは開幕から2節経過後に[[アンテ・ミシェ]]監督を解任し、後任に[[イビチャ・カリニッチ]]監督を招聘したものの初采配直後に心臓病に倒れて指揮が執れなくなっていた。自身初の海外での指揮となる。シーズン途中の[[2010年]]2月、不振に陥っていた[[イタリア]]の[[SSラツィオ]]より監督就任要請を受け、ハイデュクとの契約を解除し、ラツィオ監督に就任<ref>[http://number.bunshun.jp/articles/-/61792 降格の危機からスクデット獲りへ!ラツィオを変えた老将レーヤの兵法。] -[[Sports Graphic Number|Number]]Web: 2010年11月12日</ref>


{{節stub}}
{{節stub}}

2011年7月24日 (日) 18:12時点における版

エドアルド・レヤ
名前
カタカナ エドアルド・レヤ
ラテン文字 Edoardo Reja
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1945-10-10) 1945年10月10日(78歳)
出身地 イタリアの旗 ゴリツィア
選手情報
ポジション MF
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

エドアルド・レヤEdoardo Reja1945年10月10日 - )は、イタリアゴリツィア出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。現役時代のポジションはMF。名前の表記にはレハ、レーヤなどもある。

クラブでの指導歴は30年近くにわたるものの、セリエAでの監督経験はヴィチェンツァ・カルチョSSCナポリSSラツィオの時のみである。途中解任を含めなければ、1979年に監督としてのキャリアをはじめてから、1年も休まずに活動している。また、ナポリ監督としての年数は1980年代末ナポリ全盛期の監督オッタビオ・ビアンキに並び最長となっている。

来歴

選手としてはSPAL1907パレルモアレッサンドリアの3チームに所属。このうちパレルモでセリエA通算124試合に出場した。

1979年セリエDモリネッラの監督に就任。指導者として歩み始める。翌年にはセリエC2のモンセリーチェの監督に就任。その後、1989年には自身初のセリエB経験となるペスカーラの監督に就任する。

ヴィチェンツァカリアリをセリエA昇格に導き、昇格のエキスパートとしての評価を高めた。ヴィチェンツァでは初のセリエA挑戦となったが、クラブは降格となる。カリアリでは、3トップとジャンフランコ・ゾラを中心として圧倒的強さを誇るチームを構築し、セリエB優勝を果たす。

2005年1月にジャンピエロ・ヴェントゥーラの後任としてSSCナポリの監督に就任。2005-06シーズンにはセリエC1に低迷していたナポリをセリエBへ、2006-07シーズンにはセリエBでユヴェントスに次ぐ2位に導き、ナポリを6シーズンぶりにセリエAへ昇格させた。

2007-08シーズンには、マレク・ハムシークワルテル・ガルガーノエセキエル・ラベッシマルセロ・サラジェタなど新戦力を上手くチームに融合させ、昇格1年目にして8位へと躍進させた。ホームゲームでの勝負強さが際立っており、インテルACミランユヴェントスなどの強豪相手に勝利した。

2008-09シーズン、ナポリを率いてUEFAインタートトカップを勝ち抜き、UEFAカップ出場を果たすが、ベンフィカと戦い一回戦敗退。セリエAでは開幕当初よりラベッシ、ハムシクを中心にチームは好調で、ユヴェントスを撃破するなどの成果を挙げた。しかし、2009年に入るとチームは失速し、チーム不調の責任を問われたレーヤは3月に解任された。後任には前サッカーイタリア代表監督ロベルト・ドナドーニが就任。

2009年8月、クロアチアの強豪ハイデュク・スプリトの監督に就任した。ハイデュク・スプリトは開幕から2節経過後にアンテ・ミシェ監督を解任し、後任にイビチャ・カリニッチ監督を招聘したものの初采配直後に心臓病に倒れて指揮が執れなくなっていた。自身初の海外での指揮となる。シーズン途中の2010年2月、不振に陥っていたイタリアSSラツィオより監督就任要請を受け、ハイデュクとの契約を解除し、ラツィオ監督に就任[1]

エピソード

  • イタリアを代表する名将ファビオ・カペッロは親友である。フェッラーラにあるSPAL1907所属時、カペッロとチームメートとなり、ハウスシェアの経験もある。カペッロの妻ラウラの友人リヴィアはレヤと結婚した。
  • CALCiO2002のインタビューにおいて、守備的な戦術家と決め付けられることを嫌がっている。本人は、4-3-3を基本とする攻撃重視であると語っている。

選手経歴

指導者経歴

外部リンク

  1. ^ 降格の危機からスクデット獲りへ!ラツィオを変えた老将レーヤの兵法。 -NumberWeb: 2010年11月12日