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'''平部 嶠南'''(ひらべ きょうなん、[[文化 (元号)|文化]]12年[[9月28日 (旧暦)|9月28日]]([[1815年]][[10月30日]]) - [[明治]]23年([[1890年]])[[10月26日]])は、[[江戸]]・明治期の[[政治家]]。[[飫肥藩]][[家老]]などを務めた。現[[宮崎県]][[宮崎市]][[清武町]]出身。[[諱]]は俊良、[[字]]は温郷、嶠南。
'''平部 嶠南'''(ひらべ きょうなん、[[文化 (元号)|文化]]12年[[9月28日 (旧暦)|9月28日]]([[1815年]][[10月30日]]) - [[明治]]23年([[1890年]])[[10月26日]])は、[[江戸]]・明治期の[[政治家]]。[[飫肥藩]][[家老]]などを務めた。現在の[[宮崎県]][[宮崎市]]出身。[[諱]]は俊良、[[字]]は温郷、嶠南。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
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== 著作 ==
== 著作 ==
* 『日向地誌』 ([[青潮社]]、1978年)
* 『日向地誌』 ([[青潮社]]、1978年)
* 『嶠南日誌』全3巻 ([[宮崎県立図書館]]、1990~1993年)
* 『嶠南日誌』全3巻 ([[宮崎県立図書館]]、1990 - 1993年)


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* [[末永和孝]]『宿志の人平部嶠南』 ([[鉱脈社]]、2006年) ISBN 4860611586
* [[末永和孝]]『宿志の人平部嶠南』 ([[鉱脈社]]、2006年) ISBN 4860611586
* [[大石慎三郎]]他監修『江戸時代 人づくり風土記45 ふるさとの人と知恵 宮崎』([[農山漁村文化協会]]) ISBN 4540961535
* [[大石慎三郎]]他監修『江戸時代 人づくり風土記45 ふるさとの人と知恵 宮崎』([[農山漁村文化協会]]) ISBN 4540961535
*「三百藩家臣人名事典 7」([[新人物往来社]])
*「三百藩家臣人名事典 7」([[新人物往来社]])

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[[Category:日本の儒学者]]
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2011年7月30日 (土) 04:11時点における版

平部 嶠南(ひらべ きょうなん、文化12年9月28日1815年10月30日) - 明治23年(1890年10月26日)は、江戸・明治期の政治家飫肥藩家老などを務めた。現在の宮崎県宮崎市出身。は俊良、は温郷、嶠南。

生涯

小田源五右衛門の娘と和田重寛(石高65石)の子として誕生し、天保4年(1833年)に平部俊寧の中継ぎ養子となる。

少年期は安井滄州安井息軒父子に儒学を学ぶ。その後江戸に留学し古賀侗庵に師事する。帰国後の天保5年(1834年)、飫肥藩の藩校である振徳堂の句読師となる。天保6年(1835年)には同校教授に出世。

弘化元年(1844年)には江戸留守居副役となる。その後、相談中や川除奉行、山林奉行、大坂留守居となる。安政元年(1854年)に隠居するも、文久3年(1863年)には再び召しだされて伊東祐帰の授読や用人番頭、中老を経て慶応3年(1867年)に家老、明治2年(1869年)に飫肥藩大参事となる。

廃藩置県後は明治政府に出仕。明治8年(1875年)には宮崎県地誌編集係に任命される。県内各地を巡り資料の収集・整理に努めた。明治17年(1884年)地誌が完成。翌18年に編集功労手当を受ける。この地誌が『日向地誌』である。

明治23年(1890年)、死去(享年76)。平部が19歳から66歳までの47年間にわたる日誌が『六鄰荘日誌』と呼ばれ現存している。

著作

参考文献