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「選抜高等学校野球大会」の版間の差分

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'''部員不足などの困難を克服した'''学校や、'''他校の模範となる'''学校を選出。推薦は基本的に各都道府県の秋季新人大会で参加校数が128校を上回る都道府県ではベスト16、それ以外の県ではベスト8以上のチーム。各ブロックから1校ずつ出してもらいその中で2校(東日本〜東海以東・西日本〜近畿以西各1校)を選出。[[第80回選抜高等学校野球大会|第80回]]([[2008年]])は記念大会で例年より1校増の3校で「北海道、東北、関東・東京」、「東海、北信越、近畿」、「中国、四国、九州」各1校が選出。[[第81回選抜高等学校野球大会|第81回]]([[2009年]])は東日本1校、西日本1校、その他1校の3校が選出された。この21世紀枠は他競技にも影響を及ぼしており、近いものとして[[全国高等学校選抜ラグビーフットボール大会]]の「チャレンジ枠」、[[全国選抜高等学校テニス大会]]の「ドリーム枠」が後に設けられた。
'''部員不足などの困難を克服した'''学校や、'''他校の模範となる'''学校を選出。推薦は基本的に各都道府県の秋季新人大会で参加校数が128校を上回る都道府県ではベスト16、それ以外の県ではベスト8以上のチーム。各ブロックから1校ずつ出してもらいその中で2校(東日本〜東海以東・西日本〜近畿以西各1校)を選出。[[第80回選抜高等学校野球大会|第80回]]([[2008年]])は記念大会で例年より1校増の3校で「北海道、東北、関東・東京」、「東海、北信越、近畿」、「中国、四国、九州」各1校が選出。[[第81回選抜高等学校野球大会|第81回]]([[2009年]])は東日本1校、西日本1校、その他1校の3校が選出された。この21世紀枠は他競技にも影響を及ぼしており、近いものとして[[全国高等学校選抜ラグビーフットボール大会]]の「チャレンジ枠」、[[全国選抜高等学校テニス大会]]の「ドリーム枠」が後に設けられた。


“他校の模範であること”を根拠に[[ブランド大学|名門大学]]へ現役合格者多数、学校全体での「朝の読書」推進、「[[日本赤十字社#青少年赤十字|青少年赤十字]]部」の活動、生徒の[[ボランティア]]活動など野球そのものとは直接関係のない事象により推薦されるケースがあり、「選考基準が曖昧」という理由により非難の声も聞かれる。さらに、過去の選出校のほとんどが一般選考ライン一歩手前で敗れており、実質的には地区大会出場校の救済枠となっている。高校野球バージョンの[[ワイルドカード (スポーツ)|ワイルドカード]]と捉えても良いだろう。2009年の利府に至っては困難克服どころか、地元紙の特集において「恵まれた環境」<ref>[http://jyoho.kahoku.co.jp/member/spe/spe184/rensai/20090126_01.htm 燃えろ公立魂 利府センバツ初出場(2)恵まれた環境/スポーツ科精鋭集う]-河北新報 2009年1月26日付</ref>とされ、更に「他校の模範となるチーム」を選出する枠でありながら、2006年から2010年までは毎年都道府県推薦校が不祥事により推薦を取り消される事態が発生していた。[[2011年]]大会で見直しがれるはずだったが結局は地区大会の成績に「原則」が付記され、出場校選出の最終優先条件が「30年以上出場がない学校」から「出場からより遠ざかっている学校」となったのみで、事実上の前例踏襲となった。
“他校の模範であること”を根拠に[[ブランド大学|名門大学]]へ現役合格者多数、学校全体での「朝の読書」推進、「[[日本赤十字社#青少年赤十字|青少年赤十字]]部」の活動、生徒の[[ボランティア]]活動など野球そのものとは直接関係のない事象により推薦されるケースがあり、「選考基準が曖昧」という理由により非難の声も聞かれる。さらに、過去の選出校のほとんどが一般選考ライン一歩手前で敗れており、実質的には地区大会出場校の救済枠となっている。高校野球バージョンの[[ワイルドカード (スポーツ)|ワイルドカード]]と捉えても良いだろう。2009年の利府に至っては困難克服どころか、地元紙の特集において「恵まれた環境」<ref>[http://jyoho.kahoku.co.jp/member/spe/spe184/rensai/20090126_01.htm 燃えろ公立魂 利府センバツ初出場(2)恵まれた環境/スポーツ科精鋭集う]-河北新報 2009年1月26日付</ref>とされていた。また、「他校の模範となるチーム」を選出する枠でありながら、2006年から2010年までは毎年都道府県推薦校が不祥事により推薦を取り消される事態が発生していた。[[2011年]]大会で見直しが行われるはずだったが結局は地区大会の成績に「原則」が付記され、出場校選出の最終優先条件が「30年以上出場がない学校」から「出場からより遠ざかっている学校」となったのみで、事実上の前例踏襲となった。


なお、この枠で出場した高校は全て[[公立学校|公立校]]であり[[私立学校|私立校]]の出場は一校も無い。初戦の成績は2011年現在10勝16敗。
なお、この枠で出場した高校は全て[[公立学校|公立校]]であり[[私立学校|私立校]]の出場は一校も無い。初戦の成績は2011年現在10勝16敗。

2011年8月4日 (木) 09:21時点における版

選抜高等学校野球大会
開始年 1924
主催 毎日新聞社
日本高等学校野球連盟
チーム数 32
(記念大会を除く)チーム
加盟国 日本の旗 日本
前回優勝 東海大相模高校
最多優勝 中京大中京高校(4回)
東邦高校(4回)
公式サイト
高野連公式サイト
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選抜高等学校野球大会(せんばつこうとうがっこうやきゅうたいかい)とは、例年3月下旬から4月にかけて兵庫県西宮市阪神甲子園球場で行われる日本の高校野球の大会である。略称はセンバツ。通称は「の大会」「春の高校野球」「春の甲子園」とも。英文名称はNational High School Baseball Invitational Tournament。主催は毎日新聞社財団法人日本高等学校野球連盟(高野連)。大会旗および優勝旗の色は紫紺。5年に1度(下1桁が0と5の回)は記念大会として実施されている。歴代優勝校は、選抜高等学校野球大会歴代優勝校に記述。

概要

出場校の選抜

出場校は、選考委員会によって決められる。一般に、新チームで臨む最初の公式大会(実質的な新人トーナメント戦)となる秋季各都道府県大会・地域大会(全国10ブロック)がこの大会出場校・並びに補欠校の選考資料となる。また、出場校が最大32校と定められている。そのため1つのブロックに定められているため確実に1校は選出される東京都北海道を除けば夏の高校野球とは違い、出場校が1校もない府県は毎回生じる。逆に、同一府県から2校出ることもあるのが夏の大会と違う点の1つでもある。

選考会における出場校の決定には高野連の役員の意思が反映されるため地域的なバランスを考えた選考、秋の地区大会で初戦敗退だった高校が選ばれるなど時々首をかしげたくなるような選考が起こる。そしてこれら一連のことが選考後に毎年といっていいほど物議を醸しているのも事実である。「明確な選考基準」を示すことを望む高校野球ファンは多い。

出場校決定後に組み合わせ抽選会を行いトーナメント方式で頂点を決め、2校出場した都道府県代表校は決勝戦まで当たらない様に配置させる。そのため、同じ都道府県代表校の対戦の機会は非常に少ない。

一般選考

基本的には秋季大会の成績に、地域性を考慮して決定[1]。ここで出場28校と補欠(各地区につき1、2チーム程度)を選出。しかし野球と何ら関係のない地域性という選考基準を商業的理由により採用するに対して、批判の声が存在する。

  • 北海道:1
  • 東北:2
  • 関東(4)・東京(1):6
  • 東海:2
  • 北信越:2
  • 近畿:6
  • 中国(2)・四国(2):5
  • 九州:4

(後述する明治神宮大会枠21世紀枠は除く)

  • 関東・東京、中国・四国の括弧内は各地区の出場校数。残り1校は両地区を比較した上で選出する。しかし、特に中国・四国においてこの比較選考を疑問・批判する声も少なくない。
  • 東京大会のみ関東の枠組みから外れて、単独開催となっている。2003年まではほぼ2枠で固定されており、それゆえ、1位校と2位校が揃って選出されるケースが多かった。この実質的な”東京の2校枠”に付いては、「選抜の不思議」として揶揄されている。背景には、毎日新聞東京本社の意向が反映しているともいわれる。出場枠が減枠され、関東との比較となった2004年以降は1枠となる年が多くなっている。
  • かつては近畿地区の枠は7校であり、2府4県から1校ずつ選ばれてもさらにもう1校枠があった。そのため近畿のいずれかの府県からは必ず2校選出されていた。
  • 第75回大会まで各地区の出場枠は明文化されておらず、選考委員会で決定していたが(ただし第63回大会(1991年)以降は事実上固定状態にあった)、第76回大会以降前年7月の運営委員会で出場枠が決定され、一般枠は各地区の枠が明文化されるようになった。

21世紀枠

第73回2001年)から設けられた。

部員不足などの困難を克服した学校や、他校の模範となる学校を選出。推薦は基本的に各都道府県の秋季新人大会で参加校数が128校を上回る都道府県ではベスト16、それ以外の県ではベスト8以上のチーム。各ブロックから1校ずつ出してもらいその中で2校(東日本〜東海以東・西日本〜近畿以西各1校)を選出。第80回2008年)は記念大会で例年より1校増の3校で「北海道、東北、関東・東京」、「東海、北信越、近畿」、「中国、四国、九州」各1校が選出。第81回2009年)は東日本1校、西日本1校、その他1校の3校が選出された。この21世紀枠は他競技にも影響を及ぼしており、近いものとして全国高等学校選抜ラグビーフットボール大会の「チャレンジ枠」、全国選抜高等学校テニス大会の「ドリーム枠」が後に設けられた。

“他校の模範であること”を根拠に名門大学へ現役合格者多数、学校全体での「朝の読書」推進、「青少年赤十字部」の活動、生徒のボランティア活動など野球そのものとは直接関係のない事象により推薦されるケースがあり、「選考基準が曖昧」という理由により非難の声も聞かれる。さらに、過去の選出校のほとんどが一般選考ライン一歩手前で敗れており、実質的には地区大会出場校の救済枠となっている。高校野球バージョンのワイルドカードと捉えても良いだろう。2009年の利府に至っては困難克服どころか、地元紙の特集において「恵まれた環境」[2]とされていた。また、「他校の模範となるチーム」を選出する枠でありながら、2006年から2010年までは毎年都道府県推薦校が不祥事により推薦を取り消される事態が発生していた。2011年大会では見直しが行われるはずだったが、結局は地区大会の成績に「原則」が付記され、出場校選出の最終優先条件が「30年以上出場がない学校」から「出場からより遠ざかっている学校」となったのみで、事実上の前例踏襲となった。

なお、この枠で出場した高校は全て公立校であり私立校の出場は一校も無い。初戦の成績は2011年現在10勝16敗。

21世紀枠出場校一覧
出場校 主な選考理由 結果
2001年 安積(福島) 創立創部ともに県最古であり、質実剛健で考える野球を実践した。 初戦敗退(2回戦)
宜野座(沖縄) 部員全員が地元中学出身で地域貢献を果たす。 ベスト4
2002年 鵡川(北海道) 廃校の危機を乗り越え、希望の星となる。 ベスト16
松江北(島根) 県内屈指の進学校。 初戦敗退
2003年 柏崎(新潟) 豪雪地のハンディを克服。 初戦敗退
隠岐(島根) 離島の過酷な条件を克服。 初戦敗退(2回戦)
2004年 一関一(岩手) 県内屈指の進学校。 初戦敗退
八幡浜(愛媛) 生徒数大幅減少の中で文武両道を徹底。 初戦敗退
2005年 一迫商業(宮城) 地域密着の活動で過疎の町を勇気づけた。 ベスト16
高松(香川) 県内屈指の進学校。 初戦敗退
2006年 真岡工業(栃木) 地元密着の選手育成。 初戦敗退
金沢桜丘(石川) 県内有数の進学校。 初戦敗退
2007年 都留(山梨) 部活時間確保のため、通常10分の休み時間を7分に短縮。三宅島噴火による避難生活中だった都立三宅高校と合同練習や試合を行った。 初戦敗退
都城泉ヶ丘(宮崎) 県内有数の進学校。狭いグラウンドという悪条件を、工夫を凝らした練習で克服。 ベスト16
2008年 安房(千葉) 創立100年を超える文武両道の進学校。房総半島の南端に位置し、小規模校の多い地元の中学出身者だけでチームを構成。 2回戦敗退
成章(愛知) 創部100年を誇る県立の進学校。試合会場まで長距離移動する地理的なハンディを乗り越え強豪私立高と接戦を演じた。 2回戦敗退
華陵(山口) 全校生徒が日本赤十字の会員で、青少年赤十字モデル校の指定を受けている。過去4年間で春秋合わせて中国大会に6回出場。 ベスト16
2009年 利府(宮城) 地域の清掃活動に積極的に参加。運動部員が小学校へ出前授業をしている。生徒が梨農家の手伝いをしている。 ベスト4
彦根東(滋賀) 右翼が左翼より30メートルも短い変形グラウンドという悪条件を、工夫を凝らした練習で克服。 初戦敗退
大分上野丘(大分) 県内随一の進学校。放課後の練習は2時間までと決められていながら、2008年秋季大会では九州大会出場を果たした文武両道。 初戦敗退
2010年 山形中央(山形) 野球ばかりでなくスキー、スケート、柔道なども全国トップレベルにある。率先して学校周辺の清掃活動に取り組み、また部の方針に「感謝」を掲げ地域交流にも取り組む。 初戦敗退
向陽(和歌山) 旧制海草中学時代に嶋清一などの活躍で1939~40年夏の大会を連覇した名門校。清掃活動など地域とつながりも深く、副主将は生徒会長を務めて学校生活にも熱心に取り組む。 ベスト16
川島(徳島) 少人数部員(18人)、グラウンドが共用で使える広さがダイヤモンドとほぼ同じという悪条件を、工夫をこらした練習で克服。 初戦敗退
2011年 大館鳳鳴(秋田) 1898年創立の進学校。部員全員が地元出身で、冬はボランティアで除雪を行い地域に貢献。「ベースボール」を「野球」と訳した中馬庚が大正期に校長を務めていた。 初戦敗退
佐渡(新潟) 本州まで2時間半かけて遠征し練習試合を行う離島のハンディを乗り越え、2010年秋の県大会で準優勝。60条からなる「野球部心得」を基に人間力向上に取り組む。 初戦敗退
城南(徳島) 創立・創部とも県内最古の歴史を持つ進学校。部員全員が近隣中学出身で、生徒会活動などに積極的に参加。 ベスト16

明治神宮大会枠

第75回2003年)から設けられる。明治神宮大会枠は11月の明治神宮大会優勝校が所属する地域に与えられ、この地域の通常枠が1つ増える形となる。第80回(2008年)は記念大会で1校増の2枠で、優勝校・準優勝校を出した地区に枠が与えられた。この枠ができ、通常枠の1道府県2校までが確定した。東京のみ神宮枠を獲得し、関東との比較により一般枠が2となった場合に3校出場の可能性がある[3]。関東と東京は、神宮大会にそれぞれ代表校が出場するのに対し、通常の選抜出場枠が関東4.5、東京1.5であるため、神宮枠の恩恵を互いに共有している。

明治神宮大会枠出場校一覧
出場校 結果
2003年 東邦(愛知) 初戦敗退(2回戦)
2004年 常葉菊川(静岡) 初戦敗退
2005年 戸畑(福岡) 初戦敗退
2006年 旭川実(北海道) 初戦敗退
2007年 室戸(高知) ベスト8
2008年 宇都宮南(栃木) 初戦敗退(2回戦)
宇治山田商(三重) ベスト16
2009年 下妻二(茨城) 初戦敗退
2010年 三重(三重) ベスト16
2011年 国学院久我山(東京) 初戦敗退

希望枠

第75回(2003年)から、第80回(2008年)まで設けられた。

一般選考の補欠校にもセンバツへの「希望」を残す狙いで第75回から導入された。神宮大会枠を得た地区を除く地区の補欠1位校が対象。投手を含めた守備力のデータに従って決める。項目は第75回が被塁打、与残塁+失点、失点、第76回以降が被塁打、与四死球、失点、失策。第75回大会では明治神宮大会を除く直近5試合で各項目の1試合9イニング平均値を計算し、最初に被塁打数の多い3校、次に与残塁+失点の多い3校を除外し、残った3校のうち最も失点の少ないチームを選出するという方法が採られていた。

第76回大会から選出方法が変更され、明治神宮大会を除く直近4試合で各項目の1試合9イニング平均値を計算し、順位を得点化、合計がもっとも多い学校が選出されるようになった。

合計ポイント(第75回大会では失点)が同じ場合は得失点差の大きいほうを選出する。得失点差も同じ場合は第75回では出場経験がない、もしくは古い方を選出するとされていたが、第76回大会以降は明示されていなかった。

希望枠は明治神宮枠以外の地区の補欠出場順位第1位の学校の中からデータを比較の上、守備力に長けているチームを1校選出。ただし東京枠は2枠選出する場合においては除かれる。理由は同一都道府県から出場枠を21世紀枠を除く、3校選出を避けるためである。

希望枠出場校一覧
出場校 結果
2003年 旭川実(北海道) 初戦敗退(2回戦)
2004年 秋田商(秋田) ベスト8
2005年 三本松(香川) 初戦敗退
2006年 一関学院(岩手) 初戦敗退
2007年 大垣日大(岐阜) 準優勝
2008年 一関学院(岩手) 初戦敗退(2回戦)

1日に割り当てる試合数

  • 1日の試合数は以前は最大4試合で、第66回1994年)までは1回戦の2日目-4日目と8日目の準々決勝開催日がその当該日だった。しかし阪神・淡路大震災による交通障害で応援団の来場スケジュール調整が必要なこと、また選手の健康管理面の問題などを考慮し第67回1995年)から4試合日は9日目の準々決勝のみとし1・2回戦の全開催日の初日-8日目は1日3試合とするようになった。
  • 更に第76回2004年)から大会後半の選手の連戦による疲労を避けるという意味合いで夏の大会と同じように、準々決勝を1日2試合ずつ割り当てることにした。ただし雨天延期などによる日程の過密化で消化しきれない場合は4試合一括開催となる場合あり。よって現在は最大1日3試合まで開催されていることとなる[4]。ただ5年年単位の記念大会となる西暦下一桁3年の年は34チーム、10年単位の記念大会となる西暦下一桁8年の年は36チーム参加のため、一部予め4試合設定の日がある。
  • 第1試合の基本的な開始時間
初日 - 開会式直後の10:20
3試合開催日 - 9:00(第79回2007年)から、従来の9:30より30分繰り上げられた[5]
2試合開催日(主として準々決勝、準決勝) - 11:00
1試合開催日(主として決勝) - 12:30または13:00
4試合開催日(日程編成の都合で4試合消化しなくてはいけない場合) - 8:30(第61回1989年)まで8:00開始)
  • 2試合以上開催する場合、新聞の組み合わせ発表では「試合時間2時間・練習とグラウンドの整備30分」と仮定して3試合日の場合「(1)9:00、(2)11:30、(3)14:00」とそれぞれ掲載されているがあくまでも目安であり、実際には次の試合はグラウンド整備や事前練習の関係もあり原則として前の試合終了から30分程度の時間を置いてから行う(早く終了した場合は新聞等発表の時刻より繰り上げられる場合もある)。なおかつては4試合開催日の場合で「(1)8:00、(2)10:20、(3)12:40、(4)15:00」を目安として、前の試合終了から20分後に次の試合を行っていた。

試合

DH制指名打者)は採用しない。

試合は9回で同点の場合には延長戦。ただし延長15回でも決着しない場合には、翌日か翌々日再試合。コールドゲームは得点差では認められておらず、雨天などの天災で7回以降の均等回を消化した場合のみに採用される。1999年12月の高野連全国理事会で翌年の春の大会から延長18回制(引き分け再試合)を15回制に変更。

審判員は球審、3人の塁審、予備審判2人と控え審判員1人の計7人。ただし、ナイター下では2人の予備審判員が外審として試合に加わる。

大会歌・その他

  • 第8回1931年)で初代大会歌(作詞・長谷川海太郎、作曲・陸軍戸山学校軍楽隊)が制定。しかし歌詞に英語が含まれていたため1年で廃止。
  • 第11回1934年)で2代目大会歌「陽は舞いおどる甲子園」(作詞・薄田泣菫、作曲・陸軍戸山学校軍楽隊)が制定され、第64回1992年)まで使われた。
  • 第65回1993年)からの3代目大会歌は阿久悠の作詞、谷村新司が作曲した「今ありて」が採用されている。
  • また第27回1955年)から現在に至るまで、連続的に神戸山手女子高等学校が大会歌の合唱を担当している。
  • 国旗、大会旗、プラカードを持つのはボーイスカウト日本連盟所属のベンチャースカウト(高校生)であったが第80回(2008年)から各出場校の生徒がプラカードを持つことになった(連続出場できなかった前年度優勝校・準優勝校は変わらず)。なお、甲子園球場の所在地は兵庫県だが、プラカードは大阪連盟所属のスカウトが持っていた。プラカードは第80回から「全国高校書道コンクール」(毎日新聞主催)で上位に入賞した高校生が地域ごとに出場校の文字を書き入れるものに変更される[6]
  • 第71回1999年)より、開会式の国旗掲揚時に「全日本学生音楽コンクール」(毎日新聞主催)声楽部門高校生の部の優勝者による国歌独唱が行われている。

センバツ球史に残る名勝負

長い歴史を持つ大会ゆえに、球史に残るとされる試合は数多い。以下は一例である。

歴史

エピソード

入場行進曲における流行曲使用

第34回1962年)以降、入場行進曲においては前年の流行曲が使われることになった。1曲目は坂本九の『上を向いて歩こう』。

選抜高等学校野球大会入場行進曲を参照

近畿以外の地域での全国大会開催

第1回1924年)だけ名古屋市山本=八事球場で開いた理由として当時、夏の大会では関西近郊学校が8回中8回とも決勝に進出し優勝は8回中5回だったため主催者の毎日新聞社は「夏の大会(全国中等学校優勝野球大会)で関西近郊の学校が優勝確率の高いのは開催地の風土に関係するかを試すこと」と「東海地方の野球ファン拡大につなげるため」の2点を挙げていた。このうち、開催地の風土に関しては本大会では代表校8校中3校だった関西近郊の学校は2校(和歌山中、立命館中)が初戦敗退で1校(市岡中)が2回戦敗退、逆に東海エリアで唯一出場した愛知一中も2回戦敗退という結果になっている(決勝は東京府(当時)の早実香川県高松商業の対戦となり、早実が優勝。)。一方、東海地方の野球ファン拡大についての効果は大きく、特に1930年代に入り愛知県勢(中京商、東邦商、愛知商など)と岐阜商を中心に東海勢が中等野球で一時代を築き、1936年の職業野球(後のプロ野球)創設時に愛知県のチームが2チーム(名古屋軍名古屋金鯱軍)できるほどに野球が盛んとなる下地を作ったと言える。

主催者の毎日新聞社は毎年開催地を変えて全国各地で開催する構想だったが翌年の第2回1925年)以後は高校野球(当時は中学野球)の聖地として知られる甲子園球場での開催に定着するようになり、近畿地域以外での全国大会開催は国体明治神宮大会を除くと春・夏を通してこれが最初で最後となっている。夏の大会における甲子園以外の開催は豊中球場鳴尾球場阪急西宮球場があるがいずれも近畿地域の開催である。

初の引き分け再試合

春夏通して初めての引き分け再試合は山本球場で開催された第1回(1924年)の1回戦、横浜商 - 市岡中の試合。当時の制度は引き分けという制度が無く、勝負がつくまで試合を続けるというものだった。しかし山本球場には照明設備が無かったため、延長14回終了後に日没による引き分けとなった。

  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 R
横浜商 1 0 4 3 4 0 0 0 1 0 0 0 0 0 13
市岡中 0 7 0 2 0 2 0 0 2 0 0 0 0 0 13
  • 市岡中 21-13 横浜商(再試合)

前年度優勝校の無条件出場

第2回(1925年)から第9回1932年)までは、前年度優勝校は地方大会に出場しなくても無条件で全国大会に出場することができた。第10回1933年)からこの制度は廃止されたが、優勝校は次年度全国大会に出場し続けていた。1942年の大会が戦争で中止になったのを除き、優勝校が次年度全国大会に出場できなかったのは第20回1948年)で優勝した京都一商(京都)が最初である。

優勝校のアメリカ遠征

第4回1927年)から、主催の大阪毎日新聞社が野球の本場メジャーリーグの見学や日米親善という趣旨によりこの年から優勝校のアメリカ遠征が行われるようになった。この制度によってアメリカに遠征した優勝校は和歌山中(和歌山)、関西学院中(兵庫)、第一神港商(兵庫)、広島商(広島)の4校。

アメリカ遠征は夏休みを利用して行い7月中旬から9月中旬までの長期に渡り、メジャーリーグの試合見学や地元高校との親善試合も行った。夏の大会開催中に主力選手がアメリカ遠征に行っているため、春の優勝校は控え選手で夏の大会予選を戦うことになった。その中で第4回の優勝校だった和歌山中は控え選手で夏の大会の予選を制し、全国大会に出場した。

1932年、外国チームとの試合を禁止する野球統制令を政府が出したことにより、それ以降は優勝校のアメリカ遠征は中止になった。

なお、春の優勝校のアメリカ遠征に関しては春の大会を主催していた毎日新聞社が朝日新聞社が主催していた夏の大会の興味をそぐ目的があったという陰謀説も存在する。

同都道府県から4校の出場

第10回(1933年)では出場校32校中、海草中、和歌山商、海南中、和歌山中と和歌山県から4校出場した。この時は海草中と和歌山商のベスト8が最高で、2回戦では海草中と海南中の同県対戦もあった。また第14回1937年)では出場校20校中、中京商、東邦商、享栄商、愛知商と愛知県から4校出場している。この時は中京商が準優勝し、また準決勝で中京商と東邦商の同県対決があった。

なお現在では、通常枠での同一都道府県からの出場は2校までと決められている。21世紀枠、神宮大会枠(東京のみ)を含めての3校出場は可能だが地域性の問題もあるため、選考されるのは非常に難しいとされている。かつては第60回1988年)には大阪府から上宮近大付北陽の3校が、第67回1995年)には兵庫県から神港学園報徳学園育英の3校が、第73回2001年)には茨城県から水戸商常総学院藤代の3校が選出された例もある。

優勝旗

  • 選抜大会の優勝旗は「大紫紺旗」と称されている。これは紫に近い色の糸を使っているためで、赤い糸を使っている夏の全国大会の優勝旗は「大深紅旗」と称されている。現在の旗は2代目で、第35回1963年)に初代に代わり新調されたもの。初代と現在の旗との相違点は以下の3点。
  1. 大会名 - 初代は「全国選抜中等学校野球大会」に対し、現在は「全国選抜高等学校野球大会」。
  2. 主催新聞社名 - 初代は「大阪毎日新聞社」に対し、現在は「毎日新聞社」になっている。1943年に「東京日日新聞」と「大阪毎日新聞」が題号を「毎日新聞」に統一した事により、商号も毎日新聞社に変更したため。
  3. VICTORY」の文字 - 初代は染めぬきだが現在は金の糸を使って織られており、少し文字が大きくなっている。
  • 初代の優勝旗は第18回1941年)で愛知県・東邦商が手にしたまま戦争で大会が中断していたが、1945年名古屋大空襲で同校の校舎が全焼。その際校長室に保管されていた優勝旗は燃え落ちる寸前に校庭に放り投げられ事なきを得た。
  • 初代の優勝旗を最後に手にしたのは1962年作新学院高等学校(栃木)で、現在の優勝旗を最初に手にしたのは1963年下関商(山口)だった。
  • 春の選抜大会には準優勝旗が存在する。夏の全国大会には存在しない(木内幸男(当時常総学院監督)が夏にも準優勝旗があると勘違いしていたのは有名)。色は夏の優勝旗と同じ深紅で3代目である。
  • 優勝旗は大会の閉会式にて優勝校に授与され、翌年の大会の開会式にて前年優勝校から大会会長に返還される。その返還の際、優勝旗のレプリカが代わりに授与される。このレプリカの意匠は優勝旗とほぼ同じだが模様・文字は全部染めぬきであり、“第○回”および校名が付加される。

連覇

本大会においての連覇は現在2例ある。詳しくは甲子園連覇を参照されたい。

セレモニーでの夏との相違点

春・夏とも高校生が担当するようになる以前の開・閉会式の司会は男性職員だった。ただ各々別の人物だったので、主催者か高野連関係者が担当したと推測される。

春の開会式は仕掛け花火をバックに選手が入場するのが特徴となる。かつては風船やハトを飛ばすこともあった。なお第67回(1995年)は入場行進を簡素化したため行われなかった。また天候の関係上花火が省略されることもある。

開会式の選手入場までの流れは夏は開式アナウンス→ファンファーレ→「選手が、入場します。」→選手入場だが、春はファンファーレ→開式アナウンス→司会自己紹介→「選手、入場!」→選手入場となっている。また選手入場での学校紹介は夏は以前はウグイス嬢、現在は高校生司会者が「(地区名)代表、○○高校。」と読み上げるが春は以前は男性職員、現在は高校生司会者が「○○高校、(所在都道府県名)、○年ぶり○回目(○年連続○回目、初出場)。」と出場回数を紹介するのが特徴。それからファンファーレは春・夏別で、演奏する場所も春は三塁側ファウルゾーン、夏はバックスクリーンと異なる。

また開会式では国旗・大会旗のみならず、前年度優勝校の校旗を同校校歌の吹奏と共に掲揚するのも当大会の特徴となっている(夏は未実施)。なお、春夏とも各旗の掲揚(降納)については1970年 - 2000年頃は開会式では全出場校の主将が閉会式では進出校の全選手がバックスクリーンの掲揚台に上って行っていた。現在どの団体の関係者が行っているかは不明。

表彰式の演奏曲は夏はスタンダードな「見よ、勇者は帰る」(ヘンデル作曲)が使用されるが、春は大会オリジナルの「栄光」(永野慶作作曲)が用いられている。導入のきっかけは1973年オイルショックである。ユダヤ戦士を称える「見よ、勇者は帰る」を使うとアラブ諸国から石油を売ってもらえなくなる恐れから、翌年急遽この曲が作成された[8]。急ごしらえで作成された「栄光」だが使用後の評価が高かったため、それ以後継続して使われ続けている。ちなみに、同じ毎日新聞主催(日本野球連盟と共催)の社会人野球日本選手権大会の開・閉会式でも使用されている。

開会式の選手退場は夏は普通に行進で退場するが、春は駆け足で退場する。

歴代優勝校のパネル

1984年第56回大会2日目(3月27日)まで、大会の歴代優勝校の校章が描かれた白いパネルが外野に掲げられていた。ところがこの大会2日目の第1試合、滋賀県立高島高等学校戦で佐賀県立佐賀商業高等学校の中原康博選手の打球が本来ならワンバウンドしてラッキーゾーンを越えた為エンタイトル2塁打になるところを2塁塁審が誤ってホームランと判定されたことで、打球の行方が見辛いとして歴代優勝校のパネル掲額はこの日の試合終了後直ちに廃止された。また大会名が記されたパネル(左中間・右中間)も優勝校パネルと同様の白地・黒文字だったのを次回・1985年第57回以後は通常のフェンス広告と同じように緑地・白文字と変更された。更に2010年第82回から、外野フェンスの広告を解禁したため、これらはバックネット裏・回転看板スペースに掲示されている。

選抜に関する争い

1969年の秋の東京大会において帝京商工高等学校(現・帝京大学高等学校)が準優勝し、東京都高野連も翌年の第42回(1970年)に推薦した。しかし、高野連の選出委員会は帝京商工の火事による資料の喪失から戦力分析が不可能との理由で帝京商工を選出しなかった。

帝京商工はこれを不満として1970年2月20日に高野連を相手取り代表決定の効力停止の仮処分大阪地方裁判所に申し立てた。これに対して東京都高野連が本校の対外試合を禁止する制裁を決定。さらにこの制裁に対して本校が東京地方裁判所に仮処分を申請するなどの泥仕合となった。

この際に帝京商工側が「選抜落選や試合禁止は野球選手としての就職が不利になる」としたことから高校野球においてそのような考え方の是非について議論を巻き起こした。3月9日には対外試合禁止が撤回され、3月12日には大阪地方裁判所で申立てが却下され続いて東京地方裁判所に対する申立ても取り下げられ問題は決着した。なお第42回には、東京都からは東京大会優勝の日大三高と都大会4位の堀越高等学校が出場した。

応援団賞

第70回1998年)より応援団賞が設けられた。21世紀枠導入以降はほぼ毎年21世紀枠校が最優秀賞を受賞している。

(審査規定)出場校の初戦(原則1回戦。記念大会の場合は一部を除く2回戦も)を対象に審査を行い、最終日の試合終了後に最優秀賞1チーム、優秀賞若干数のチームが選出され表彰される。なお、同じ毎日新聞が主催する都市対抗野球大会における応援団賞は大会全試合が対象であり、さらに初戦を対象とした「前期賞」「後期賞」と、大会全試合を対象とした「期間賞」に細分されている

各種記録

高校野球全国大会の記録一覧を参照。

中継

NHK

基本的な放送時間帯(3試合日の場合、2010年のケース)
総合テレビ
平日 9:00-11:54(3月26日まで)、10:05-11:54(3月29日から)、13:05-17:00(最大18:00まで延長)、8:20-11:54(3月31日準々決勝時)
土曜日 9:00-11:54、13:50-17:00(最大18:00まで延長)
日曜日 10:05-11:54、13:05-17:30(最大18:00まで延長)
教育テレビ
平日 11:54-13:05(3月26日まで)、9:00-10:05(3月29日から)、11:54-13:05(3月29日から)、(18:00-最終試合終了)
土曜日 11:54-13:50、(18:00-最終試合終了)
日曜日 9:00-10:05、11:54-13:05
デジタル衛星ハイビジョン 9:00-18:00(総合テレビがニュースなどのインターバルで中断している時間帯も、中継は中断せずに球場の映像をフィラー的に流している)
ラジオ第1 8:55-11:50(月~金)・11:55(土・日)[9]、12:20(月〜金)・12:15(土・日)-最終試合終了
参考・2006年のケース(3試合日の場合)
総合テレビ
平日 9:25-11:45、13:05-17:30(最大18:00まで延長)
土曜日 9:25-11:54、13:50-17:30(最大18:00まで延長)
日曜日 10:05-11:54、13:05-17:30(最大18:00まで延長)
教育テレビ
平日 11:45-13:05、(18:00-最終試合終了)
土曜日 11:54-13:50、(18:00-最終試合終了)
日曜日 9:30-10:05、11:54-13:05、(18:00-最終試合終了)
デジタル衛星ハイビジョン 9:30-17:30(最大19:00まで延長 2010年で打ち切り)
ラジオ第1 9:25-11:50、12:15-最終試合終了
ただし大相撲中継国会中継その他重要な事件などで総合テレビ、ラジオ第1、衛星第2(2010年まで)で中継が出来ない場合はそれぞれ教育テレビ、FM放送衛星第1(2010年まで)で振り替えて中継する。総合テレビとラジオ第1は大相撲期間中は幕内の取り組みが始まる時間帯に合わせて16時台までに放送を一旦切る(総合テレビの場合は教育テレビへリレーする。<2011年は大相撲中止のほか、東北地方太平洋沖地震の影響で特殊だったので後述>2007年3月25日能登半島地震でも同様の措置が取られた。ただ、2008年3月22日3月23日の関西地区でのFM放送は中継しなかった。
  • 第49回1977年)までは他の野球中継と同様、ラジオ第2で放送されていた。(近畿圏ではラジオ第1で放送したこともある)。それ以前は市況放送、講座放送の合間を縫っての放送だった。
  • 海外でも準々決勝以降はNHKワールド・プレミアムでも放送[10]NHKワールド・ラジオ日本では2008年まで同時放送されていた夏の高校野球中継とは異なり、決勝戦も含め一切放送されていない[11]
  • BSアナログハイビジョン実用化試験放送の頃は、毎日放送と共同制作となったこともある。実況と解説はNHKが担当・映像は両社のものが混在。なお、当時の番組表ではNHK・TBS共同枠となっていた。
  • 2002年の第74回大会では2回戦の鵡川-広島商戦の途中で津波警報が発令されたため中継が中断され臨時ニュースの間に試合が終了、臨時ニュース終了後に中断以降の場面をVTRで放送した。なおこの大会では1回戦の智弁和歌山-関西戦でも津波警報により中継が中断されている。
  • 東北地方では原則プロ野球の生中継はラジオ第1で行うが第77回2005年)〜第79回(2007年)の楽天のシーズン開幕戦の時はまだ選抜高校野球の実施期間のためラジオ第1での放送ができず、異例のFM放送になった。第78回2006年)は開幕カードが日本ハムvs楽天だったため北海道もこの例に当てはまる。
  • 第65回(1993年)以後、中継の映像は甲子園球場のスコアボードで初戦の場合は学校紹介、2戦目以降は先の試合のハイライト、(以下春のみ)試合後は勝利校の校歌斉唱や校旗掲揚、さらに開閉会式の大会歌斉唱や各旗の掲揚、降納シーンを放映するのに使用される(いずれも実況なし)。ほか球場内の喫煙所や食堂、売店に設けられたモニターでも試合映像、監督インタビューやインターバルのフィラー映像が流されている。ただしファンから一番要望のある各試合の球場内リプレイ放映は高野連が高校野球にふさわしくないとして2008年現在も使用を認めていない。
  • 第83回(2011年)のテレビ中継は、大相撲春場所(予定通りであれば3月13日-3月27日)が八百長問題による不祥事のため開催自体中止となり、3月23日の開幕時から総合・教育テレビでほぼ通常と同じパターン(12時台と18時以後が教育テレビ、他総合テレビ)で放送される予定だったが、東日本大震災関連番組の優先や電力事情の考慮のため、次のような特別体勢がしかれた。
    • 東北地方は震災報道を優先するため準々決勝まで総合テレビでの放送はせず全編教育テレビのみの放送。東北地方のみ教育テレビでの放送となった時間帯の通常番組はサブチャンネルのデジタル教育3で放送、同時間帯のワンセグでは通常番組を放送したため高校野球の視聴は不可能となった。
    • それ以外の地方も震災関係の情報・ニュース番組を送る関係で総合テレビとでの放送は10時台と14時台-16時55分に縮小し、他は教育テレビでの放送とする。
    • 東北・関東地方は16時を以って一旦中継を終了し教育テレビへのリレーは16:55以後試合が続いている場合を除き行わない。但し東北・関東地区の学校が出場する試合は、16時以降も放送される。海外向け「NHKワールド・プレミアム」も16:55で放送を打ち切る。
    • 当初、総合テレビの放送枠時間帯に充てられていた17時台には関東甲信越地方とNHKワールド・プレミアム(4月2日まで)は「首都圏震災ニュース」、東北地方は「東北ライフライン情報」、その他の地域は東京からの裏送りで「世界ふれあい街歩き」のセレクション放送(3月30日はニュース延長のため「ダーウィンが来た! 〜生きもの新伝説〜」に変更)にそれぞれ充てられた(高校野球期間終了後も当面の間行なわれる)。
    • 総合テレビの定時ニュースは決勝を除き試合展開にかかわらず毎時0分に挿入、東北地方では地元校の試合時を除き総合、教育で同時放送された。
    • それ以外にもニュースが頻繁に挿入され、中には放送時間が1時間程度に延長されることもあった。また、3月23日の第3試合、創志学園北海戦では試合途中で放送を終了し、勝利校の校歌斉唱は放送されなかった。
    • 大会3日目以降はニュースにより勝利校の校歌斉唱が放送できなかった場合、中継再開後にVTRで流す措置を取った。教育テレビで放送されていた東北地方のみ3月28日、3月30日の第3試合で校歌斉唱時にNHK手話ニュースが挿入されたが、同様の措置が取られることはなかった。
    • 各試合のダイジェスト動画を、ホームページ上で公開する。
    • 1回戦での学校紹介VTRは放送されなかった。

解説者については、高校野球解説者一覧を参照。

毎日放送・GAORA

毎日放送(MBS)テレビでは、第31回1959年)から第74回2002年)までは1回戦から決勝戦まで生中継していた。なお、第29回1957年)、第30回1958年)は旧大阪テレビ放送(現・朝日放送)が中継していた。大阪テレビ放送は毎日新聞社、朝日新聞社、朝日放送、そして毎日放送の前身・新日本放送(NJB)との合弁企業だったためである。従って、この2回の高校野球の民放テレビ中継は大阪テレビの事実上独占放送だった。

テレビ中継のタイトルは夏のABCとは対照的に、NHK同様「第○○回センバツ」である。かつて第66回1994年)までは春も「第○○回選抜高等学校野球大会・中継」であった。ただしオープニングはグラウンドをバックにしたタイトル表示はあったが、最終試合以外の(例:第1〜3試合)エンディングは「第○日(若しくは準々決勝、準決勝) 第(一〜三)試合 終。」だけだった(ニュース等の中断明けの時間を案内することもあった)。現在はグラウンドをバックに「第○○回センバツ」とOP、ED、イニング間もタイトル出しが行われている。なおラジオ中継タイトルは「選抜高校野球・実況中継」となる。

初期は完全放送を実施していたが(試合の幕間にMBSニュース、天気予報、「水道完備ガス見込」などの帯ドラマを放送)、第38回1966年)以降昼間時には平日は東京局(1975年3月まではNET、同年4月以降はTBS、「腸捻転解消」参照)発の全国ネット番組を、日曜は自社製作の演芸、バラエティー番組(後年は日曜もTBS発の全国ネット番組)を編成するようになった(土曜日と準決勝以降、後年は準々決勝以降を除く)。しかしABCのようなサンテレビなどの近畿圏UHF局経由のリレー形式を取り入れる事はすでにABCがこれらUHF局と包括的な提携を結んでいたためMBSにはできなかった事に加え、視聴率も一桁に低迷した事、TBS発の全国ネット番組を編成するのに障害が生じてきたこと、そして夕方ワイド番組(『ちちんぷいぷい』)を強化したいMBSの意向もあり第75回(2003年)からは「センバツは別の形でお届けしたい」と準決勝の2試合と決勝戦の生中継だけとなった[12]

毎日放送系のCATVCS放送のチャンネル「GAORA」は1990年のスペース・ビジョン・ネットワーク開局以来全試合完全生中継している。また開局から数年の間はその日の夜録画中継も行っていたためほぼ1日中高校野球だけの編成というケースもあった。なお2007年・2008年・2010年の一部の期間、プロ野球日本ハムが主催するパ・リーグ公式戦を生中継するためプロ野球終了後この時間の試合分を録画中継(ニアライブ)した。GAORAでは大会終了後まとめて再放送[13]も行っている。なおTBS系のBS-TBSTBSニュースバードTBSチャンネルでの放送は行っていない。

選抜の期間中はMBSのみ深夜時間帯は特別編成となるケースが多い。選抜高校野球のハイライト(2011年は『みんなの甲子園』。ABCの『熱闘甲子園』と違って地上波は全国放送ではなく当日深夜のJNN最終版ニュース明け(平日は『NEWS23X』)にMBS関西ローカルで、また翌朝にはGAORAで第1試合開始前に全国放映されている。出場校によっては番販扱いで地方局で放映されることもある)が放送され、MBS制作の本来の番組は中止にされるか傑作選を放送することが多い。また土曜日全国ネットの『CDTV』はこの時期のみ放送時間(2005年までは日曜日にずらされていた)が変更される。

標準的な放送時間(表示は日本時間)

以下地上波(関西ローカル

  • 準決勝 11:00 - 15:55(延長:平日17:40、土・日曜17:00まで)。
    • 途中、『JNN NEWS』(平日は『ひるおび!』第1部後半『JNN NEWS』)を放送するため生中継は一旦中断される。
  • 決勝戦 11:55から放送開始(出場校により一部地方局配信あり)。終了時間は14:55(延長:平日17:40、土・日曜の場合17:00まで)。

平日帯番組の『ごごネタ!』は試合終了後の時差放送。 夕方ワイドの『ちちんぷいぷい』は開催有無に関係なく休止。なお雨天順延を考慮して余分に一日休止する場合もある。毎日放送テレビ番組一覧も参照。

参考:1975 - 1990年頃の準々決勝までの放送時間

毎日放送テレビ製作の高校野球中継は東京地区では第32回1960年)〜第34回1962年)・第36回1964年)・第41回1969年)はNETで、第35回1963年)はTBSで(スポンサード・ネット)、第37回1965年)〜第40回1968年)・第42回1970年)〜第46回1974年)は東京12チャンネル(現・テレビ東京)で多く放送され、特に当時放送番組に窮していた東京12チャンネルでは完全中継を実施したこともあった。ほかカードによりtvkチバテレビで放送されたこともある。名古屋地区では当初東海テレビでのち名古屋テレビから中京テレビで放送され、名古屋テレビと中京テレビの変則クロスネット解消後は岐阜放送、「腸捻転解消」後は中部日本放送(但し決勝戦のみ)でも放送された。いずれも1975年のいわゆる「腸捻転解消」で、毎日放送がTBS系になったことに伴いほとんど放送されなくなった。TBSで放送されたのは今のところ第50回1978年)の決勝戦が最後である。

近年地方局へのネットは長野代表校登場の際に信越放送、沖縄代表校登場の際に琉球放送(放送時間はかつてのMBS地上波に準ずる。編成上の都合で放送されない時もある)。決勝戦に限れば第73回2001年)、仙台育英が進出した際の東北放送(13時からの飛び乗りで、石黒新平による応援実況を実施)、第77回(2005年)、愛工大名電が進出した際の中部日本放送、第78回(2006年)、清峰が進出した際の長崎放送(各局共に14時からの飛び乗り)、第79回(2007年)、大垣日大が進出した際の中部日本放送(11時58分より)、第81回(2009年)、清峰と花巻東が進出した際の長崎放送(14時からの飛び乗り)とIBC岩手放送(12時より)などのケースに留まっている[14]

毎日放送テレビ中継の協賛スポンサーは長らく十川ゴム提供クレジット読みは「家庭用から工業用まで日の出馬印でおなじみの十川ゴム」、当初1社提供)を筆頭に年毎に松下電器(「技術で開く世界の繁栄〜あなたとともに豊かな未来へ」。1995年は震災の被災者を激励するオリジナルCMを放映)、JR西日本グループ(「総合サービス企業を目指す」。1995年は震災のためにスポンサーは見合わせ)東京建物(「信頼を未来へ」)や日本ペイント(「豊かなこころで未来を開く」)(以下社名のみ)ゼットコカ・コーラボトラーズ日清食品など3-4社で担当していたが、2002年は十川ゴムとNTT-ME関西のみがスポンサーとなり、残りの枠はパーティシペーション(PT)によるスポットCM(主にハウス食品)が流されていた。地上波の中継が縮小された2003年以後は十川ゴムも降板し、PTによるスポットCMのみ放映されている(GAORAは最初からノンスポンサー)。

MBSラジオでは、新日本放送(NJB)時代の第24回1952年)から生中継を開始。ただし翌年からはもっぱら生中継は準決勝、決勝戦のみ行い、そのほかの試合は当日の12時、17時台(後年は22時台)にダイジェスト版を放送していた。またこの時期に開局した京都放送(当時KHK、現在のKBS京都)や四国放送(当時JR、現在のJRT)などの地方民間放送局へもネットしていた。決勝戦はNHKに対抗して「3元立体放送」(ステレオ放送とは別)と題して、アルプススタンドや出場校の地元にリポーターを配して放送していた。その後第31回(1959年)からは和歌山放送(当時WBC、現在のWBS)で1回戦から一部の試合を中継。第35回(1963年)以降はMBSラジオで全試合完全生中継を行い(ただしWBCは準決勝、決勝戦の放送をしばらくの間MBSとのサイマルで続行)、第38回(1966年)以降はJRNNRNを通して全国に配信している。これ以降東京地区でも放送されるようになった。最近ではローカル番組が充実していることやスポンサーがなかなか付かない、NHKでも放送されているなどの理由から地元校が準決勝あるいは決勝まで進まない限りネットしない局が増えつつある[15]。そしてMBSラジオでも第81回(2009年)からラジオ中継も再び、テレビと同様に準決勝と決勝のみを中継することになった[16]河内一友社長は「民放には民放のやり方がある」と指摘し、第81回は準々決勝までは速報番組『春一番!選抜甲子園』で選抜大会をPRすることとした。

MBSラジオは大会期間中その日の試合終了まで延長放送するため、最悪夜の番組(特に、終夜放送を実施していない日曜日の番組で顕著である)にまで影響するケースもある。さらに夏のABCやプロ野球と異なり雨天中止や早く終了した場合は雨傘番組を用意せずに通常の番組を放送するため生ワイド番組こんちわコンちゃんお昼ですょ!ノムラでノムラだ♪ EXトラ!などのパーソナリティーたちは中継時間内待機を強いられる。ちなみに日曜日と準決勝、決勝戦が勝ちあった場合、サンデー競馬中継 みんなの競馬ラジオ関西で放送する(MBSラジオは中継終了後の飛び乗り)。毎日放送ラジオ番組一覧も参照。

MBSラジオでは協賛スポンサーのクレジット読みは試合中継の開始終了ごとに行われる。以前は12-3社程度あったゆえ開始時と終了時各々で社名を読み分けたり、イニング間に3-4社ずつ読み上げる措置をとったこともあった。ここ数年はスポンサーが7-8社程度(ほぼ夏のABCと共通)のためラジオでも広告枠の半分がPTによるスポットCMや自社イベントのPRや番組宣伝で埋められることが多い。第81回(2009年)は速報番組を毎日新聞社が連日協賛し、そのほか日替りで協賛スポンサーが付いた(昨年までの各社はほとんど降板)。準決勝、決勝戦の生中継はそれらスポンサーの連名となった。

また毎日放送のホームページでは第70回1998年)より試合速報を配信したのを皮切りに第75回(2003年)からNTT西日本協力の下ラジオの実況とMBSのカメラワークを用いたリアルタイムネット中継を実施していたが試合終了後のダイジェスト版にアクセスするユーザーが多かったこともあり、第78回(2006年)からは各イニング終了後に配信される形(ビデオ・オン・デマンド、画面アスペクト比16:9)になった。但し第80回(2008年)は準決勝と決勝のみリアルタイムネット中継を再開したが、大会期間後の動画の再生はできなくなった。さらに各インターネットテレビへの動画の配信も積極的に行っている。なお第81回(2009年)からラジオ中継が縮小されたため、実況音声はテレビ中継のものが使用されている。また、第82回(2010年)ではTwitter(ID:@senbatsu)を使って得点経過や試合経過を知らせるサービスを行い、動画のライブ配信(この年よりUstreamに変更)も準々決勝からに拡大された。第83回(2011年)ではTwitterでの情報サービスが継続されたほか、ライブ配信が開会式から決勝戦まで一部の試合を除き実施される。

中継のオープニング、エンディングテーマ曲は長年ラジオ、テレビとも大会歌(陽は舞いおどる甲子園今ありて)のインストを、テレビは第68回1996年)より、ラジオは第71回(1999年)より入場行進曲を採用していた[17]がテレビは第76回(2004年)を最後に独自のテーマソング[18]を設けている。

実況アナウンサーは、MBSタイガースライブのアナウンサーの項目を参照のこと。なお上記のウェブサイトで主としてテレビ担当実況アナウンサーが各試合の戦評を記すことになっている。

第80回(2008年)は記念大会として各試合の5回のグラウンド整備の際、甲子園球場のスコアボードに「プレイバック・センバツ」として各大会からピックアップされた映像を流していたがほぼMBSテレビの映像だった。ナレーションや谷村新司の歌う「今ありて」もバックについてはいたが、テロップや実況音声は当時のまま流れていた(例:東邦対上宮水谷勝海アナウンサー)[19]

その他放送局

1959年開局時は連日春の大会を中継し、その後は春・夏とも1回戦から地元校の試合をネット受けにより中継してきたラジオ局の和歌山放送が第81回(2009年)は開局記念番組として、代表である箕島の試合を1回戦から準々決勝(敗退)までアナウンサーとゲスト解説者(1、2回戦はOBでもある尾藤公が担当)を自局で派遣して中継した(準決勝進出の場合も自主制作だったかどうかは不明)。

脚注

  1. ^ 前年の夏の甲子園で東北勢が2校ベスト4(仙台育英が準優勝、秋田経法大付がベスト4)に残ったは東北地方から3校選ばれた。21世紀枠を除けば初となる。
  2. ^ 燃えろ公立魂 利府センバツ初出場(2)恵まれた環境/スポーツ科精鋭集う-河北新報 2009年1月26日付
  3. ^ センバツ:各地区の選考経過 毎日新聞 2011年1月29日付
  4. ^ ただし、2010年は3月24.25日が雨天順延となり日程が過密化したため準々決勝は3月31日に4試合一括で行われた。
  5. ^ 第79回選抜高等学校野球大会について - 日本高等学校野球連盟
  6. ^ 関西845 2008年2月15日放送
  7. ^ 恒川直俊 記録で読む甲子園「なぜ誕生した選抜大会 出場校の選抜基準も時代とともに」 asahi.com 2007年3月30日
  8. ^ ちなみに表彰式のテーマに「見よ、勇者は帰る」を使うのは日本独自の傾向である。この曲が表彰式のスタンダードになったのは1946年に復活した夏の大会からとされる。それ以降翌年復活した春の大会や他のスポーツ大会、学校や職場、地域の運動会まで広まった。
  9. ^ 一部地域では11:50に飛び降りする場合あり
  10. ^ 2011年(第83回)大会は震災関連のニュースも放送する都合上、第1日目から放送していた(第1日目から準々決勝まで総合テレビ放送分のみ同時放送。準決勝は11時台のみ教育テレビと同時放送。それ以外の時間帯は総合テレビ同時放送だが、震災関連のニュースも放送する都合上、完全中継には至らなかった。この番組はスクランブル配信となっているが、毎時0分の中断ニュースのみノンスクランブル放送となっている)。
  11. ^ ただし、2011年(第83回)大会は同年3月11日の東日本大震災の発生があったこともあり、毎時0分の関連ニュースの同時放送および緊急ニュースを迅速に伝える対応をとるため、NHKワールド・ラジオ日本でも独自編成のニュース放送時を除いてそのまま選抜高校野球中継が放送された。
  12. ^ なお第76回2004年)の決勝戦は開始時間が遅れナイターとなったため地上波は「中止」。1959年に「皇太子ご成婚中継」に人員や機材を割いたため中継できなかったのに続く決勝戦中止。
  13. ^ 随時、その年に行われた試合を全部ノーカットで放送しているほか、過去の大会からの名勝負を選んで1時間ダイジェストで送る「センバツプレイバック」も放映
  14. ^ さらに以前は福井代表校登場の際に福井放送NNN系、夏も放送)、1988年、宇和島東が進出した際に南海放送(NNN系、当時あいテレビは未開局。なお愛媛朝日テレビ開局まで夏も放送)へネットされたこともある。
  15. ^ JRN親局のTBSラジオでは、第71回1999年)以降は中継放送を行っていない。岡山県山陽放送香川県西日本放送では両県でMBSラジオが直接受信可能なため、近年は中継放送を行っていない。さらに以前にはNRNのニッポン放送文化放送ラジオ沖縄へ配信されたケースがある。沖縄県では1990年代まで夏の大会(2005年まで)と同様、琉球放送(RBC i-Radio)とラジオ沖縄の2局でサイマル放送していた(コマーシャルは別内容。現在はRBC i-Radioのみ放送。ただし第81回(2009年)のラジオ中継はなかった)。
  16. ^ MBS センバツ高校野球 ラジオ中継縮小 産経関西 産経新聞 2009年1月8日
  17. ^ ちなみにテレビはOPと当日の最終試合のEDが原曲、中継放送のEDはインストバージョン。ラジオはOPもEDもインストバージョン。中継のジングルや最終試合のEDは原曲。ただし第72回(2000年)、第73回(2001年)(ジングルは「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」)、第77回(2005年)はOP・EDのみ大会歌を使用。第74回(2002年)〜第76回(2004年)、第80回(2008年)以降はジングルもインストバージョン。
  18. ^ OPは「ザ・プロ野球」とおなじ効果音によりタイトル出し(第81回(2009年)はTBS系のドラマ、東宝系の映画「ROOKIES」と同様のフォントによるタイトル)をするだけ。近年はNHKテレビもOP・EDのテーマを省略する。EDは第80回(2008年)が「一歩一歩〜終わりなき道しるべ〜」(ONE☆DRAFT)、第81回が「One」(Aqua Timez)、第82回(2010年)が「夢追いの地図をひろげて」(MASH)、第83回(2011年)が「春」(カラーボトル)。
  19. ^ 通常は厚生労働省の薬物乱用防止キャンペーン、「NO CAR 甲子園」として球場側から観客に電車で来場の呼びかけ、「北海道にバットの森をつくろう」としてアオダモ植樹キャンペーンを流す(夏の大会はこれらは試合開始前に流し、試合中は年ごとのイメージアーティストが歌う大会歌「栄冠は君に輝く」をバックにその年の大会のポスター、キャッチフレーズコンクールの入賞作品を流している)。第81回(2009年)はこれに加え田中将大(楽天)、斎藤佑樹(早大)が2016年夏季オリンピックでの野球競技復活を呼びかけるキャンペーンを流す。

関連項目

外部リンク

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