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「白面金毛九尾の狐」の版間の差分

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* [[室町時代]]初期、[[会津]]・[[示現寺]]を開いた[[玄翁]]和尚によって、殺生石は破壊され、各地へと飛散する。
* [[室町時代]]初期、[[会津]]・[[示現寺]]を開いた[[玄翁]]和尚によって、殺生石は破壊され、各地へと飛散する。



[[category:妖怪|はくめんこんもうきゅうひのきつね]]

2005年12月19日 (月) 04:50時点における版

白面金毛九尾の狐(はくめんこんもうきゅうびのきつね)は、広義には九尾の狐の一種(亜種)に分類されるが、狭義にはこれ自身を指すこともある。日本史上最強の妖怪の一つとして挙げられる。

他の呼び名として、金毛九尾の狐三国伝来金毛玉面九尾などがある。

また金毛の読み方としては、「きんげ」あるいは「きんもう」などとされることもある。

特徴

白面金毛九尾の狐の姿は諸説あり、主なものに、人間の姿をした九尾の狐という説と、本来のの姿をした九尾の狐という二つの説がある。顔は白く、金色の髪(毛髪、体毛)を持ち、九つの尻尾を持つ。また「玉面」とも呼ばれることから、「白」の意味は元々「美しい」という意味で与えられた表現とも考えられている。莫大な妖力(霊力・神通力とも)を持つと云われている。

なお、九尾の狐、及び傾国の悪女を狐狸の精になぞらえる、と言うモチーフは中国から伝わったものと見られている(『山海経』や『封神演義』を参照のこと)が、玉藻前の事跡に関する伝説、及び白面金毛九尾の狐を、中国天竺日本をまたにかけた三国一の大妖怪とする表現は、日本国内に伝わってから付加された伝承と見られる。

経歴

  • 前11世紀頃、中国古代王朝の最後の王である(ちゅう)の后、妲己を喰い殺して彼女に化け、酒池肉林、炮烙(ほうらく)の刑等を編み出し、暴政を敷いた。武王率いる軍勢により捕らえられ、処刑された。またこの処刑の際に、妲己の怪しげな術によって首が切れないとき、太公望照魔鏡を取り出して妲己にかざし向けると、白面金毛九尾の狐の正体を現して逃亡しようとした。太公望が宝剣を投げつけると、九尾の体は3つに飛散したと云われている。
  • 天竺(インド)の班足太子の妃・華陽夫人となり、暴虐の限りを尽くす。
  • 前780年ごろ、褒姒という女性に化け、申后に代わって周の第12代の王、幽王の后となる。褒姒がなかなか笑わないので、幽王はさまざまな手立てを使って彼女を笑わそうとし、ある日何事もないのに王が烽火(のろし)を上げ、諸侯が集まったという珍事に初めて笑ったといわれ、それを機に王は何事もないのに烽火を上げ、諸侯が烽火をみても出動することが無くなり、後に申后の一族が周を攻めたとき、王は烽火を上げたが諸侯は集まらず、王は殺され、褒姒は捕虜にされたといわれている。
  • 753年若藻(わかも)という16、7歳の少女に化け、彼女に惑わされた吉備真備の計らいによって、阿倍仲麻呂鑑真和尚らが乗る第10回目の遣唐使船に乗船。嵐に遭遇しながらも来日を果たしたといわれている。(第9回の遣唐使に来日という説もある。)
  • 来日から約360年後(1113年頃か?)北面の武士である坂部行綱(さかべゆきつな)が子宝に恵まれなかったため、九尾の狐が化けたとも知らずに藻女(みずくめ)という捨て子を拾い、大切に育てられる。
  • 17年後(1130年頃か?)、坂部夫婦に大切に育てられた藻女は18歳で宮中に仕え、玉藻前(たまものまえ)と改名する。その才能と美貌、優しさから、次第に鳥羽上皇に寵愛され、契りを結ぶこととなる。しかしその後鳥羽上皇は病を発する。そして、その原因が玉藻前であると発覚し、玉藻前は白面金毛九尾の狐の姿で宮中から逃亡した。
  • 数年後、彼女は下野国那須に現れ、婦女子や旅人を誘拐し喰い殺すなどの暴行を働いたため、鳥羽上皇は白面金毛九尾の狐の討伐を命令。8万の軍勢が那須へ集結する。軍勢は白面金毛九尾の狐を捕らえて殺すことに成功する。九尾の狐はその直後、巨大な毒石(殺生石)に姿を変える。