「ゴーストップ事件」の版間の差分
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更に、勅令第四十四号陸軍軍人軍属の違警罪処分例に依れば以下の通り。 |
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第一條 陸軍軍人軍属の犯したる違警罪は違警罪即決例に依り憲兵に於いて其処分を為し憲兵設置なき地に於いては警察に於いて其処分を為すべし |
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第二條 憲兵部若しくは警察署に於いて被告人を留置したるときは直ちに其の所属の長官若しくは隊長に通知すべし |
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第三條 即決の言い渡しに対しては軍法会議に正式の裁判を請求することを得其の裁判管轄は陸軍治罪法に従う |
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== 脚注 == |
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2011年10月18日 (火) 14:36時点における版
ゴーストップ事件(ゴーストップじけん)は、1933年(昭和8年)に大阪府大阪市北区の天六交叉点で起きた事件、およびそれに端を発する陸軍と警察の大規模な対立。「ゴーストップ」とは信号機を指す。別名は天六事件、進止事件。
満州事変後の大陸での戦争中に起こったこの事件は、軍部が法律を超えて動き、国家の統制がきかなくなるきっかけの一つとなった。
事件の経過
発端
1933年(昭和8年)6月17日午前11時40分頃、大阪市北区の天神橋筋6丁目交叉点で、慰労休暇中の陸軍第4師団第8連隊第6中隊の中村政一一等兵が信号無視をしたとして、交通整理中であった大阪府警察部曽根崎警察署の戸田忠夫(中西忠夫)巡査が注意し、天六派出所まで連行した。その際中村一等兵が「軍人は警官の命令には従わない」と反論したため、つかみ合いの喧嘩になり、互いに負傷。中村一等兵は鼓膜損傷全治3週間、戸田巡査は全治1週間の怪我を負った。
この時騒ぎを見かねた見物人が大手前憲兵分隊へ通報し、駆けつけた憲兵隊の伍長が中村を連れ出してその場は収まったが、その2時間後、憲兵隊は「公衆の面前で軍服姿の帝国軍人を侮辱したのは断じて許せない」として曽根崎署に対して抗議した。当時、第8連隊の松田四郎連隊長が不在であったため、上層部に直接報告が伝わって事件が大きくなり、平和的に事態の収拾を図ろうと考えていた曽根崎署の高柳博人署長の考えもむなしく、21日には事件の概要が憲兵司令官や陸軍省にまで伝わっていた。
この後の当事者の事情聴取で、戸田巡査は「信号無視をし、先に手を出したのは中村一等兵である」と、逆に中村一等兵は「信号無視はしていないし、自分から手を出した覚えはない」と両者全く違う主張を繰り返した。
軍部と内務省の対立
6月22日、第4師団参謀の井関隆昌大佐が「この事件は一兵士と一巡査の事件ではなく、皇軍に拘る重大な問題である」と声明した。それに対して粟屋仙吉大阪府警察部長も「軍隊が陛下の軍隊なら、警察官も陛下の警察官である。陳謝の必要はない」と言明した。[1]6月24日の寺内寿一第4師団長と縣忍大阪府知事の会見も決裂した。
この結果、問題は寺内と粟屋という軍部と警察(すなわち内務省)との対立の様相を示す。この議論は平行線を辿り、また、新聞をはじめとするマスメディアもこれを「軍部と警察の正面衝突」などと大きく報じたことによって過剰なほどの騒ぎとなった。「天皇陛下の軍隊」に対して「天皇陛下の警察官」(清水重夫)を自任する警保局を中心とする官僚たちは新たな政治勢力として意識され、「新官僚」(後の新々官僚とは別物)と呼ばれた。彼等は主に1910年代に東京帝国大学を上位の成績で卒業し、中堅の幹部に昇進していた者たちであった。
7月17日、中村一等兵は戸田巡査を相手取り、刑法第195条(特別公務員暴行陵虐)、同第196条(特別公務員職権濫用等致死傷)、同第204条(傷害罪)、同第206条(名誉毀損罪)で告訴した。
8月24日、事件目撃者の一人であった高田善兵衛が、憲兵と警察の度重なる厳しい事情聴取に耐え切れず自殺、国鉄吹田操車場内で轢死体となって発見された。なお、この事件の処理に追われていた曽根崎署長の高柳博人は疲労で倒れ入院したが、7月18日その一報を知った寺内は井関に「事件で心痛のあまり病状が悪化すると気の毒なので、適当にお見舞いするように」と伝えたとの逸話がある。しかしその10日後、高柳は死去した。
終結
最終的には、事態を憂慮した昭和天皇の特命により白根竹介兵庫県知事が調停に乗り出し、11月18日に和解が成立した。11月20日、当事者の戸田と中村が仲介した大阪地方検事局の和田良平検事正の官舎で会い、互いに詫びたあと握手して幕を引いた。和解の内容は公表されていないが、警察側が譲歩したものだというのが定説となっている。
事件の影響
結局この事件は軍と警察の面子の張り合いにすぎなかったが、解決を一番喜んだのは師団長の寺内だという。この後、現役軍人に対する行政行為(取り締まり)は警察ではなく憲兵が行うこととされるようになり、軍部が法を超え、次第に国家の主導権を握るきっかけの一つとなった。
上記の様な解説をする歴史家が居るが、憲兵条令によれば以下の通り。
憲兵条令(勅令四十三号)明示二十二年
第一條 憲兵は陸軍兵の一にして陸軍大臣に管轄に属し軍事警察行政警察司法警察を掌る其戦時若しくは事變に際し特に要する服務は別に定む
とあり、憲兵は行政警察権を、明治時代から持っていた。
更に、勅令第四十四号陸軍軍人軍属の違警罪処分例に依れば以下の通り。
第一條 陸軍軍人軍属の犯したる違警罪は違警罪即決例に依り憲兵に於いて其処分を為し憲兵設置なき地に於いては警察に於いて其処分を為すべし
第二條 憲兵部若しくは警察署に於いて被告人を留置したるときは直ちに其の所属の長官若しくは隊長に通知すべし
第三條 即決の言い渡しに対しては軍法会議に正式の裁判を請求することを得其の裁判管轄は陸軍治罪法に従う
脚注
関連項目
- 松島遊廓(1884年、大阪市西区の松島遊廓をパトロール中の警察官に大阪鎮台兵士が尿を浴びせ、喧嘩となった。最終的に兵士約千数百名、警察官約六百数十名が集まり激しい乱闘となり、死者2名、重軽傷者多数を出した。陸軍中尉兼大阪府警部長の大浦兼武が双方の上官として割って入り、事態を鎮圧した)[1]。
- 陸軍悪玉論