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[[1856年]]、西太后は咸豊帝の長男(愛新覚羅載淳。咸豊帝の唯一の男子)を生み、その功績により、皇后に次ぐ二番目の地位である貴妃に昇進。次第に帝を取り込み様々な策略を企て発言力を強めた。
[[1856年]]、西太后は咸豊帝の長男(愛新覚羅載淳。咸豊帝の唯一の男子)を生み、その功績により、皇后に次ぐ二番目の地位である貴妃に昇進。次第に帝を取り込み様々な策略を企て発言力を強めた。


その後咸豊帝が[[崩御]]した[[1861年]]、西太后は咸豊帝との間に生まれた皇太子載淳を同治帝として即位させ、自らも東太后と共に[[垂簾聴政]]の名の下、咸豊帝の弟である[[恭親王]]奕訢(エキキン)を取り込み、事実上の摂政として政治に介入した。一方咸豊帝の遺命を受け政治の中枢を掌握していた「顧命大臣」載垣や端華・粛順たち8名は垂簾聴政真っ向から反発し、激しい権力争いの末に載垣や端華・粛順を処刑([[辛酉政変]]:1861年)し、権力を手中にした。またこの時、梳頭太監だった[[宦官]][[李蓮英]]をとりたてて重く重用した。
その後咸豊帝が[[崩御]]した[[1861年]]、西太后は咸豊帝との間に生まれた皇太子載淳を同治帝として即位させ、自らも東太后と共に[[垂簾聴政]]の名の下、咸豊帝の弟である[[恭親王]]奕訢(エキキン)を取り込み、事実上の摂政として政治に介入した。一方咸豊帝の遺命を受け政治の中枢を掌握していた「顧命大臣」載垣や端華・粛順たち8名は垂簾聴政真っ向から反発し、激しい権力争いの末に載垣や端華・粛順を処刑([[辛酉政変]]:1861年)し、権力を手中にした。またこの時、梳頭太監だった[[宦官]][[李蓮英]]をとりたてて重用した。


[[1874年]]同治帝の[[大婚]]を機に親政を行おうとしたが、[[天然痘]]のため若くして崩御。一説によると真の死因は[[梅毒]]で、西太后が皇帝と皇后([[嘉順皇后]])を離間させたため、同治帝は[[天橋]]の売春宿へ通うようになり、そこで感染したという。天然痘か梅毒か、学者のあいだでも意見は分かれている。
[[1874年]]同治帝の[[大婚]]を機に親政を行おうとしたが、[[天然痘]]のため若くして崩御。一説によると真の死因は[[梅毒]]で、西太后が皇帝と皇后([[嘉順皇后]])を離間させたため、同治帝は[[天橋]]の売春宿へ通うようになり、そこで感染したという。天然痘か梅毒か、学者のあいだでも意見は分かれている。
同治帝は子供を作らずに死去したため、後継問題が持ち上がった。通常、皇帝の継承は同世代間では行わないことになっている。この場合名に「載」の字がある世代は、皇帝候補者とはなり得ない。しかし自身の権力低下を恐れた西太后は、その通例を破り他の皇帝候補者よりも血縁の近い、妹の息子である載湉(さいてん)を[[光緒帝]]として即位させた。そして再度東太后と共に垂簾聴政を行い、権力の中枢に居続けた。
同治帝は子供を作らずに死去したため、後継問題が持ち上がった。通常、皇継承は同世代間では行わないことになっている。この場合名に「載」の字がある世代は、皇帝候補者とはなり得ない。しかし自身の権力低下を恐れた西太后は、その通例を破り他の皇帝候補者よりも血縁の近い、妹の息子である載湉(さいてん)を[[光緒帝]]として即位させた。そして再度東太后と共に垂簾聴政を行い、権力の中枢に居続けた。


さらに[[1881年]]東太后が崩御。これによって西太后は清朝において誰に遠慮することもない地位をた。このため西太后によって東太后は毒殺させられたという風聞が広まった。[[1887年]]光緒帝の成年に伴い、自らは隠退を要望するが、混乱を恐れた重臣たちの意を受け3年間の「訓政」という形で政治のフォローを行う事を条件に、光緒帝の親政が始まる。
さらに[[1881年]]東太后が崩御。これによって西太后は清朝において誰に遠慮することもない地位を確立した。このため西太后によって東太后は毒殺させられたという風聞が広まった。[[1887年]]光緒帝の成年に伴い、自らは隠退を要望するが、混乱を恐れた重臣たちの意を受け3年間の「訓政」という形で政治のフォローを行う事を条件に、光緒帝の親政が始まる。
[[1888年]]には自身の姪を光緒帝の皇后(のちの隆裕皇太后)に推挙。
[[1888年]]には自身の姪を光緒帝の皇后(のちの隆裕皇太后)に推挙。


同治帝の即位以降、西太后は宮廷内政治に手腕を発揮する一方、現実の政治においては[[李鴻章]]らと結び、彼らの推進する[[洋務運動]]を支持した。洋務運動がある程度の成果を上げて清朝の威信が回復した期間を[[同治中興]]と呼ぶが、この運動の成功は、西太后と李鴻章ら洋務派官僚が結びついたことによる政治的安定が大きく寄与した。しかし洋務運動は[[1895年]]の[[日清戦争]]により挫折する。清朝の敗北は北洋海軍の整備が遅れていたことが大きな要因であるが、整備用の海軍予算を西太后が私的に流用していたといわれる。
同治帝の即位以降、西太后は宮廷内政治に手腕を発揮する一方、の政治においては[[李鴻章]]らと結び、彼らの推進する[[洋務運動]]を支持した。洋務運動がある程度の成果を上げて清朝の威信が回復した期間を[[同治中興]]と呼ぶが、この運動の成功は、西太后と李鴻章ら洋務派官僚が結びついたことによる政治的安定が大きく寄与した。しかし洋務運動は[[1895年]]の[[日清戦争]]により挫折する。清朝の敗北は北洋海軍の整備が遅れていたことが大きな要因であるが、整備用の海軍予算を西太后が私的に流用していたといわれる。


日清戦争の敗北は、西太后に一時的な権力からの後退を余儀なくさせた。彼女が結託していた李鴻章の威信低下や海軍予算の流用により、帝党と呼ばれる光緒帝支持派が勢いを増したためである。帝党は、明治維新にならって政治制度も変革すべきと主張した変法派の[[康有為]]・[[梁啓超]]を取り込み、[[1898年]]に真の光緒帝親政を開始した。これを[[戊戌の変法|戊戌維新]](別名戊戌の変法、変法自強運動、百日維新)という。西太后は当初は改革の推移を見守っていたが、戊戌の変法は立憲君主制を目指すものであったから、自らの政治権力低下を恐れ、これにクーデターを仕掛けることを決意した。改革に好意的と見られていた[[袁世凱]]が一部で進めていた西太后暗殺計画を密告した事により光緒帝を逮捕の上、[[中南海]]の瀛台(エイダイ)に幽閉し、三度目の垂簾聴政を開始した([[戊戌政変]])。わずか三ヶ月あまりで西太后は権力の座に返り咲いたことになる。さらに将来[[光緒帝]]を廃位すべく、端郡王載漪(サイイ)の子溥儁(フシュン)を大阿哥(清朝では立太子の制度を廃止した為、普通は皇長子もしくは皇嗣子を指す)に擁立した(己亥の建儲)。ただ光緒帝の廃位は諸外国の反対により実行できず、西太后の意のままにはならなかった。清朝内部においては並ぶものなき権力者でありながらも、西欧列強には譲らねばならないことが多く、彼女はフラストレーションを蓄積させていった。この点が後の義和団支持へとつながっていくことになる。
日清戦争の敗北は、西太后に一時的な権力からの後退を余儀なくさせた。彼女が結託していた李鴻章の威信低下や海軍予算の流用により、帝党と呼ばれる光緒帝支持派が勢いを増したためである。帝党は、[[明治維新]]にならって政治制度も変革すべきと主張した変法派の[[康有為]]・[[梁啓超]]を取り込み、[[1898年]]に真の光緒帝親政を開始した。これを[[戊戌の変法|戊戌の変法]](別名戊戌維新、変法自強運動、百日維新)という。西太后は当初は改革の推移を見守っていたが、戊戌の変法は立憲君主制を目指すものであったから、自らの政治権力低下を恐れ、これにクーデターを仕掛けることを決意した。改革に好意的と見られていた[[袁世凱]]が一部で進めていた西太后暗殺計画を密告した事により光緒帝を逮捕の上、[[中南海]]の瀛台(エイダイ)に幽閉し、三度目の垂簾聴政を開始した([[戊戌政変]])。わずか三ヶ月あまりで西太后は権力の座に返り咲いたことになる。さらに将来[[光緒帝]]を廃位すべく、端郡王載漪(サイイ)の子溥儁(フシュン)を大阿哥(清朝では立太子の制度を廃止した為、普通は皇長子もしくは皇嗣子を指す)に擁立した(己亥の建儲)。ただ光緒帝の廃位は諸外国の反対により実行できず、西太后の意のままにはならなかった。清朝内部においては並ぶものなき権力者でありながらも、西欧列強には譲らねばならないことが多く、彼女はフラストレーションを蓄積させていった。この点が後の義和団支持へとつながっていくことになる。


[[1900年]][[義和団の乱]]が発生。義和団は「扶清滅洋」をスローガンとし、国内にいる外国人を次々と襲った。このため、清朝内にはこれに支持を与え、この機会に一気に諸外国の干渉を排除しようとする動きがあった。その中心人物の一人が西太后である。しかしこれは西欧列強の実力を過小評価したものであり、すぐさま日本を中心とした八ヶ国軍が派兵される事態を招いた。その結果、首都北京が陥落、西太后自らは側近を伴い西安へ逃走を余儀なくされた。この際、光緒帝の側室[[珍妃]]を紫禁城内の井戸へ投げ捨てる事を命じたといわれる。
[[1900年]][[義和団の乱]]が発生。義和団は「扶清滅洋」をスローガンとし、国内にいる外国人を次々と襲った。このため、清朝内にはこれに支持を与え、この機会に一気に諸外国の干渉を排除しようとする動きがあった。その中心人物の一人が西太后である。しかしこれは西欧列強の実力を過小評価したものであり、すぐさま日本を中心とした八ヶ国軍が派兵される事態を招いた。その結果、首都北京が陥落、西太后自らは側近を伴い西安へ逃走を余儀なくされた。この際、光緒帝の側室[[珍妃]]を紫禁城内の井戸へ投げ捨てる事を命じたといわれる。


義和団の乱終結以後、遅まきながら西欧風の政治改革の必要性を認識した西太后は、かつて自らが失敗させた戊戌変法を手本に所謂「清末新政」を開始した。
義和団の乱終結以後、遅まきながら西欧風の政治改革の必要性を認識した西太后は、かつて自らが失敗させた戊戌変法を手本に所謂「[[光緒新政]]」を開始した。しかしその新政も、[[辛亥革命]]への流れを堰き止めることはできず、遅きに失した観は否めない


[[1908年]]光緒帝が崩御した翌日、「ラストエンペラー」[[愛新覚羅溥儀|溥儀]]を宣統帝として擁立し、西太后も74歳で崩御した。光緒帝と西太后の亡くなった日が近いことから、自らの死期の近いことを悟った西太后が帝に手をかけた、という流説が飛び交った。
[[1908年]]光緒帝が崩御した翌日、「ラストエンペラー」[[愛新覚羅溥儀|溥儀]]を宣統帝として擁立し、西太后も74歳で崩御した。光緒帝と西太后の亡くなった日が近いことから、自らの死期の近いことを悟った西太后が帝に手をかけた、という流説が飛び交った。

2005年12月25日 (日) 10:41時点における版

西太后せいたいこう 道光十五年(1835年11月29日) - 光緒三十四年十月二十二日(1908年11月15日))は咸豊帝の妃で、同治帝の母。末期の権力者。満州 旗人(鑲藍旗人)の葉赫那拉(エホナラ)氏の出身。慈禧太后じきたいこう)のこと。老仏爺。

中国語では「慈禧太后(Cixi Taihou ツーシー・タイホウ)」ないし「西太后(Xi Taihou シータイホウ)」。英語では「Empress Dowager(寡婦女帝)」という呼称がよく使われる。幼名(個人名)は蘭児(らんじ)。

[1]

ファイル:Empress Dowager Cixi.png

紫禁城内における二人の皇太后の住む場所によって東太后(皇后・鈕祜禄(ニウフル)氏。慈安皇太后、母后皇太后)、西太后(第二夫人。慈禧皇太后、聖母皇太后)と区別して呼ばれた。諡は孝欽顕皇后。なお「せいたいう」という読み癖は正式の読みではない。

生 涯

西太后の出生地は不明で、安徽省蕪湖説、内モンゴルのフフホト説、山西省長治説など諸説があるが、近年の学界では北京出生説が有力とされる。 西太后の父親だった恵徴は、清朝の中堅官僚で、最終官職は安徽寧池太広道の「道員」だった。恵徴は1853年、安徽省の赴任先で太平天国の乱に巻き込まれ、その心労により同年六月三日(7月8日)に鎮江で病死した。

1852年、数え十七歳のとき、三年ごとに紫禁城でおこなわれる后妃選定面接試験「選秀女」を受けて合格。翌年の五月九日(6月26日)、十八歳で咸豊帝の後宮に入って「蘭貴人」となり、序列第三位の妃となる。ちなみに皇后は、咸豊帝の皇子時代から仕えていた鈕祜禄氏(のちの東太后)であった。

西太后については、民間に多くの逸話が伝えられている。たとえば「西太后は、下級官吏の貧しい家に生まれ育った」、「最初、円明園の宮女となったが、たまたま通りかかった咸豊帝に声と容姿が美しいことからみそめられ妃に昇格した」、 「いわゆる『葉赫那拉(エホナラ)の呪い』の伝説のせいで皇后になれなかった」などが有名である。しかし現在では上に挙げたどれもが根拠のない流説であると判明している。

1856年、西太后は咸豊帝の長男(愛新覚羅載淳。咸豊帝の唯一の男子)を生み、その功績により、皇后に次ぐ二番目の地位である貴妃に昇進。次第に帝を取り込み様々な策略を企て発言力を強めた。

その後咸豊帝が崩御した1861年、西太后は咸豊帝との間に生まれた皇太子載淳を同治帝として即位させ、自らも東太后と共に垂簾聴政の名の下、咸豊帝の弟である恭親王奕訢(エキキン)を取り込み、事実上の摂政として政治に介入した。一方咸豊帝の遺命を受け政治の中枢を掌握していた「顧命大臣」載垣や端華・粛順たち8名は垂簾聴政に真っ向から反発し、激しい権力争いの末に載垣や端華・粛順を処刑(辛酉政変:1861年)し、権力を手中にした。またこの時、梳頭太監だった宦官李蓮英をとりたてて重用した。

1874年同治帝の大婚を機に親政を行おうとしたが、天然痘のため若くして崩御。一説によると真の死因は梅毒で、西太后が皇帝と皇后(嘉順皇后)を離間させたため、同治帝は天橋の売春宿へ通うようになり、そこで感染したという。天然痘か梅毒か、学者のあいだでも意見は分かれている。 同治帝は子供を作らずに死去したため、後継問題が持ち上がった。通常、皇位継承は同世代間では行わないことになっている。この場合名前に「載」の字がある世代は、皇帝候補者とはなり得ない。しかし自身の権力低下を恐れた西太后は、その通例を破り他の皇帝候補者よりも血縁の近い、妹の息子である載湉(さいてん)を光緒帝として即位させた。そして再度東太后と共に垂簾聴政を行い、権力の中枢に居続けた。

さらに1881年東太后が崩御。これによって西太后は清朝において誰に遠慮することもない地位を確立した。このため西太后によって東太后は毒殺させられたという風聞が広まった。1887年光緒帝の成年に伴い、自らは隠退を要望するが、混乱を恐れた重臣たちの意を受け3年間の「訓政」という形で政治のフォローを行う事を条件に、光緒帝の親政が始まる。 1888年には自身の姪を光緒帝の皇后(のちの隆裕皇太后)に推挙。

同治帝の即位以降、西太后は宮廷内政治に手腕を発揮する一方、表の政治においては李鴻章らと結び、彼らの推進する洋務運動を支持した。洋務運動がある程度の成果を上げて清朝の威信が回復した期間を同治中興と呼ぶが、この運動の成功は、西太后と李鴻章ら洋務派官僚が結びついたことによる政治的安定が大きく寄与した。しかし洋務運動は1895年日清戦争により挫折する。清朝の敗北は北洋海軍の整備が遅れていたことが大きな要因であるが、整備用の海軍予算を西太后が私的に流用していたといわれる。

日清戦争の敗北は、西太后に一時的な権力からの後退を余儀なくさせた。彼女が結託していた李鴻章の威信低下や海軍予算の流用により、帝党と呼ばれる光緒帝支持派が勢いを増したためである。帝党は、明治維新にならって政治制度も変革すべきと主張した変法派の康有為梁啓超を取り込み、1898年に真の光緒帝親政を開始した。これを戊戌の変法(別名戊戌維新、変法自強運動、百日維新)という。西太后は当初は改革の推移を見守っていたが、戊戌の変法は立憲君主制を目指すものであったから、自らの政治権力低下を恐れ、これにクーデターを仕掛けることを決意した。改革に好意的と見られていた袁世凱が一部で進めていた西太后暗殺計画を密告した事により光緒帝を逮捕の上、中南海の瀛台(エイダイ)に幽閉し、三度目の垂簾聴政を開始した(戊戌政変)。わずか三ヶ月あまりで西太后は権力の座に返り咲いたことになる。さらに将来光緒帝を廃位すべく、端郡王載漪(サイイ)の子溥儁(フシュン)を大阿哥(清朝では立太子の制度を廃止した為、普通は皇長子もしくは皇嗣子を指す)に擁立した(己亥の建儲)。ただ光緒帝の廃位は諸外国の反対により実行できず、西太后の意のままにはならなかった。清朝内部においては並ぶものなき権力者でありながらも、西欧列強には譲らねばならないことが多く、彼女はフラストレーションを蓄積させていった。この点が後の義和団支持へとつながっていくことになる。

1900年義和団の乱が発生。義和団は「扶清滅洋」をスローガンとし、国内にいる外国人を次々と襲った。このため、清朝内にはこれに支持を与え、この機会に一気に諸外国の干渉を排除しようとする動きがあった。その中心人物の一人が西太后である。しかしこれは西欧列強の実力を過小評価したものであり、すぐさま日本を中心とした八ヶ国軍が派兵される事態を招いた。その結果、首都北京が陥落、西太后自らは側近を伴い西安へ逃走を余儀なくされた。この際、光緒帝の側室珍妃を紫禁城内の井戸へ投げ捨てる事を命じたといわれる。

義和団の乱終結以後、遅まきながら西欧風の政治改革の必要性を認識した西太后は、かつて自らが失敗させた戊戌変法を手本に所謂「光緒新政」を開始した。しかしその新政も、辛亥革命への流れを堰き止めることはできず、遅きに失した観は否めない。

1908年光緒帝が崩御した翌日、「ラストエンペラー」溥儀を宣統帝として擁立し、西太后も74歳で崩御した。光緒帝と西太后の亡くなった日が近いことから、自らの死期の近いことを悟った西太后が帝に手をかけた、という流説が飛び交った。

中国史上、権力者として50年もの長期にわたり女性が君臨した例はなかった。(前漢呂后は約25年、武則天は帝位について16年であった。)


後世の評価

権力欲と人を巧みに操る感覚が並外れたものを持っていたが、それ以前に皇太后という身分では外界の情報が届きにくく、かつ、国体(王朝)の保持を第一義としてしまったために、人民を顧みない政治を行い続けたことは当時の中国人にとって不幸以外の何物でもなかった。また諸外国との戦争処理の際に安易な妥協や講和をし続けたことで清朝そのものを疲弊弱体化に導いてしまった事については後世の歴史家たちから批判されている。

他方で西太后が君臨する前から中国の疲弊弱体化は進んでおり、西太后が現れなかったらもっと早く中国の分割・植民地化は進んでいた、という学説もある。


参考文献

 加藤徹『西太后』中公新書,2005 ISBN: 4121018125  
 スターリング・シーグレーブ著『ドラゴン・レディ』サイマル出版会,1994
         

大婚=皇帝や天皇の結婚