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「山辺安之助」の版間の差分

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'''山辺 安之助'''(やまべ やすのすけ(やまのべ、とする場合も)、[[1867年]](慶応3年) - [[1923年]](大正12年)[[7月9日]])は、[[白瀬矗]]の[[南極]]探検隊に[[樺太犬]]の犬ぞり担当として参加した樺太[[アイヌ]]。アイヌ名「ヤヨマネクフ」(Yayomanekuh)。樺太アイヌの指導者として、集落の近代化や、子どもたちへの教育に尽力した。著書に「あいぬ物語」(樺太アイヌ語による口述を[[金田一京助]]が筆記)。
'''山辺 安之助'''(やまべ やすのすけ(やまのべ、とする場合も)、[[1867年]](慶応3年) - [[1923年]](大正12年)[[7月9日]])は、[[白瀬矗]]の[[南極]]探検隊に[[樺太犬]]の犬ぞり担当として参加した樺太[[アイヌ]]。[[アイヌ名]]「ヤヨマネクフ」(Yayomanekuh)。樺太アイヌの指導者として、集落の近代化や、子どもたちへの教育に尽力した。著書に「あいぬ物語」(樺太アイヌ語による口述を[[金田一京助]]が筆記)。
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== 生涯 ==
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== 花守信吉 ==
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白瀬隊のもう1人の樺太アイヌ隊員、花守信吉はアイヌ名シシラトカ(Sisratoka)。多来加(タライカ)の首長の子孫。10頭の樺太犬を率いて白瀬の南極探検に参加する。また[[知里真志保]]に多くの説話を伝える。探検後、日本人女性と再婚し、樺太・敷香(シスカ)に戻ったがすぐに離婚。荒れた生活に陥り、不幸な後半生を送ったと伝えられる。[[画像:KarafutoNoIshibumi.jpg|thumb|200px|right|2004年7月、旧落帆集落に設けられた南極探検碑]]
白瀬隊のもう1人の樺太アイヌ隊員、花守信吉はアイヌ名シシラトカ(Sisratoka)。多来加(タライカ)の首長の子孫。10頭の樺太犬を率いて白瀬の南極探検に参加する。また[[知里真志保]]に多くの説話を伝える。探検後、日本人女性と再婚し、樺太・敷香(シスカ)に戻ったがすぐに離婚。荒れた生活に陥り、不幸な後半生を送ったと伝えられる。[[画像:KarafutoNoIshibumi.jpg|thumb|200px|right|2004年7月、旧落帆集落に設けられた南極探検碑]]


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2011年11月23日 (水) 06:08時点における版

山辺 安之助(やまべ やすのすけ(やまのべ、とする場合も)、1867年(慶応3年) - 1923年(大正12年)7月9日)は、白瀬矗南極探検隊に樺太犬の犬ぞり担当として参加した樺太アイヌアイヌ名「ヤヨマネクフ」(Yayomanekuh)。樺太アイヌの指導者として、集落の近代化や、子どもたちへの教育に尽力した。著書に「あいぬ物語」(樺太アイヌ語による口述を金田一京助が筆記)。

生涯

樺太は1854年安政元年)の日露和親条約以来、無国境状態だった。当時の樺太アイヌ人口は2372人(1873年資料)
  • 1875年明治8年) - 樺太・千島交換条約によって樺太はロシア領と決定。日本と関係が深かった亜庭湾周辺の樺太アイヌ108戸、841人が北海道に移住する際に9歳の山辺も同行。政府は樺太アイヌを内陸の対雁(ついしかり)村(現江別市)に強制移住させるが、農業化に失敗し生活は困窮。
  • 1878年(明治11年) - 対雁学校が開設され、山辺らが学ぶ。山辺は成績優秀。
  • 1884年(明治17年) - 対雁の樺太アイヌのほとんどが石狩川右岸の来札に移住し漁業に従事。
  • 1887年(明治19年) - コレラ天然痘が流行し、移住した樺太アイヌの40パーセントが死亡。
山辺は『明治十九年の夏から秋まで段々激烈になって冬から春にかけて物が沈んでゆくように親戚の人や友達が後から後から私を置いて世を去った』(あいぬ物語)と語っている。
  • 1893年(明治26年) - ロシア領の樺太に小さな船で自力帰還。トンナイチャ(富内村)の総代、ラマンテ(東内忠蔵)のところに落ち着く。
樺太では、日本の漁業権が認められており、山辺は秋田県象潟の商家「角丁」の佐々木平次郎(良心的な漁場主として樺太アイヌに信頼されていたとされる)の鰊、鮭、鱒の漁場で働く。番屋はオホーツク海富内湖の接する場所にあった。また、民族学者のブロニスワフ・ピウスツキと知り合い、樺太アイヌの古謡や古伝を伝える。
  • 1904年(明治37年)2月 - 日露戦争が勃発し、ロシア軍の攻撃で佐々木漁場の番屋と倉庫をすべて焼失。山辺は日本側について物資輸送や偵察に協力した。
山辺は南極探検後に日露戦争の功績として、アイヌでは初の勲八等瑞宝章を授与される。表彰金70円が出たが、山辺は「金を貰うためにロシアと戦ったのではない」として村に寄付。
  • 1905年(明治38年) - 日露戦争終結。ポーツマス条約で南樺太は日本領となる。
  • 1907年(明治40年) - 金田一京助が樺太を初調査。ラマンテから英雄叙事詩(ハウキ)を聞き取る際、日本語が上手な副総代の山辺が協力。金田一は山辺について「六尺豊かな風貌だが、話してみると物腰の静かなやさしく穏やかな人柄」(採訪随筆)と述懐。
  • 1909年(明治42年) - トンナイチャの総代となった山辺が、樺太アイヌのための最初の学校を富内村西部のオチョポカ(落帆)に建設する。佐々木漁場が資金支援。
  • 1910年(明治43年) - 8月、樺太日日新聞(樺太新聞)の依頼で樺太犬を集める過程で南極探検参加を決意。9月25日、樺太犬20頭とトンナイチャを出発。11月29日、白瀬やもう1人の樺太アイヌ花守信吉とともに、芝浦ふ頭から開南丸で南極に出発。
  • 1911年(明治44年)3月 - 南極圏に到達したが、ほとんどの犬が死ぬ。シドニーに撤退後、11月に樺太犬30頭を投入し、南極圏へ再挑戦する。
  • 1912年(明治45年)1月17日 - ロス棚氷に接岸。1月28日、南緯80度5分、西経165度37分に到達。2月4日、悪天候に遭い緊急離岸。流氷に取り囲まれ、犬を6頭しか収容できず20頭が置き去りとなる。6月、開南丸が東京帰着。
  • 1913年大正2年) - 「あいぬ物語」出版。落帆で開拓に取り組み、半農半漁による集落の収入安定を図る。
  • 1923年(大正12年)7月9日 - 落帆で病没。56歳。盛大な葬儀が営まれる。

語録

  • 『アイヌを救うものは、決してなまやさしい慈善などではない。宗教でもない。善政でもない。ただ教育だ。』(あいぬ物語)
  • 『今度、樺太から連れてきた犬は強壮で、年齢は3歳から6歳までの白、黒、ぶちの3種で、樺太日日新聞社が探検隊の壮挙に賛同して、多くの同志から募集したものです。これらは樺太東海岸富内村の産から選びました。(中略)その勇敢な姿、雄々しい働きは内地の犬には見られないでしょう。(中略)私の飼育していた5頭の犬は実の子供のように思っています。樺太出発からほぼ2カ月の間20頭の犬と起居を共にして、さらに数千里の波濤を蹴って南極の地を踏むかと思えば何ともいえぬ感にうたれます』(1910年11月3日、樺太日日新聞への談話)
  • (白瀬の南極探検が国家事業ではないとして参加取りやめを勧める地質学者に対し)『昨日承諾し、今日違約したら『やっぱりアイヌだなぁ』とさげすまれる。それは我慢できない』(あいぬ物語)

落帆

落帆川(ロシア・コルサコフ市、2004年7月撮影)

樺太東海岸、落帆川の河口近くの地名。山辺安之助が率いる樺太アイヌの集落と、漁業、林業に携わる和人の集落が設けられた。また、沿岸の漁場も分かれていた。山辺が創設したアイヌのための学校はその後、和人の小学校と統合される。1945年(昭和20年)のソ連軍占領後、1948年(昭和23年)に樺太アイヌの大半は日本に渡り、離散を余儀なくされた。

落帆周辺は、現在はサハリン州コルサコフ市の管轄でレスノエ(Resnoe)と呼ばれている。

花守信吉

白瀬隊のもう1人の樺太アイヌ隊員、花守信吉はアイヌ名シシラトカ(Sisratoka)。多来加(タライカ)の首長の子孫。10頭の樺太犬を率いて白瀬の南極探検に参加する。また知里真志保に多くの説話を伝える。探検後、日本人女性と再婚し、樺太・敷香(シスカ)に戻ったがすぐに離婚。荒れた生活に陥り、不幸な後半生を送ったと伝えられる。

2004年7月、旧落帆集落に設けられた南極探検碑

参考文献

  • 佐藤忠悦『南極に立った樺太アイヌ - 白瀬南極探検隊秘話』(ユーラシア・ブックレット) - 東洋書店ISBN 4-88595-509-2
  • 金田一京助『ユーカラの人びと-金田一京助の世界1』(藤本英夫編・平凡社ライブラリー) - 平凡社刊 ISBN 4-582-76495-9