「人穴富士講遺跡」の版間の差分
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Sablier de Verrie (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
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== 概要 == |
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人穴は[[角行 (富士講)|角行]]が修行を行 |
人穴は[[角行 (富士講)|角行]]が16世紀から17世紀にかけて修行を行い、浅間大菩薩による啓示を得、また入滅した場だと伝わる<ref name="suisenshogennan">{{PDFlink|[http://www.fujisan-3776.jp/topics/H23.07.27suisenshogennan.pdf 「富士山」推薦書原案]}}、富士山世界文化遺産登録推進両県合同会議、2011.07.27</ref>。『[[吾妻鏡]]』によると、「浅間大菩薩(浅間大神)の御在所」とみられていたという<ref name="suisenshogennan" />。 |
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角行は人穴を浄土としたために人穴の地は富士講信者により聖地と考えられるようになり、参詣や修行が行われた。その信者の多くは吉田口登山道の利用者であり、吉田と人穴を結ぶ道として[[中道往還]]が利用されたと考えられている<ref name="fujisan" />。 |
角行は人穴を浄土としたために人穴の地は富士講信者により聖地と考えられるようになり、参詣や修行が行われた。その信者の多くは吉田口登山道の利用者であり、吉田と人穴を結ぶ道として[[中道往還]]が利用されたと考えられている<ref name="fujisan">{{PDFlink|[http://www.fujisan-3776.jp/documents/100702kengakujutusiryou.pdf 第1回静岡県学術委員会・第2回山梨県学術委員会資料(旧・「富士山」推薦書原案)]}}、富士山世界文化遺産登録推進両県合同会議、2010.07.14</ref>。富士講の衰退により、碑塔の建設は[[1964年]]以降は行われていない<ref name="suisenshogennan" />。 |
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== 史跡など == |
== 史跡など == |
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*:主祭神は[[コノハナノサクヤビメ]]、角行、[[徳川家康]]である<ref name="fujisan" />。創建は[[1648年]]及び[[1665年]]で前身である光侎寺が富士講二世日珀、三世珀心により再興されたことに始まるという<ref name="fujisan" />。 |
*:主祭神は[[コノハナノサクヤビメ]]、角行、[[徳川家康]]である<ref name="fujisan" />。創建は[[1648年]]及び[[1665年]]で前身である光侎寺が富士講二世日珀、三世珀心により再興されたことに始まるという<ref name="fujisan" />。 |
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*[[人穴]] |
*[[人穴]] |
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*碑塔群(約230基<ref |
*碑塔群(約230基<ref name="suisenshogennan" />) |
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*:碑塔の中で建立年代のわかるものが89基あり、富士講が隆盛した18世紀末から19世紀前半に建立されたものが一番多い。その89基の中で一番古い年代のものは[[1664年]](寛文4年)建立のものである<ref name="fujisan" />。 |
*:碑塔の中で建立年代のわかるものが89基あり、富士講が隆盛した18世紀末から19世紀前半に建立されたものが一番多い。その89基の中で一番古い年代のものは[[1664年]](寛文4年)建立のものである<ref name="fujisan" />。 |
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*宝篋印塔 |
*宝篋印塔 |
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== 関連項目 == |
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* [[富士講]] |
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* [http://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/isan/sekai-kousei.htm 富士宮市] |
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2011年12月1日 (木) 17:04時点における版
人穴富士講遺跡(ひとあなふじこういせき)は静岡県富士宮市人穴にある富士講に関わる史跡群で、富士宮市指定史跡。富士山世界遺産登録における構成資産の1つ。
概要
人穴は角行が16世紀から17世紀にかけて修行を行い、浅間大菩薩による啓示を得、また入滅した場だと伝わる[1]。『吾妻鏡』によると、「浅間大菩薩(浅間大神)の御在所」とみられていたという[1]。
角行は人穴を浄土としたために人穴の地は富士講信者により聖地と考えられるようになり、参詣や修行が行われた。その信者の多くは吉田口登山道の利用者であり、吉田と人穴を結ぶ道として中道往還が利用されたと考えられている[2]。富士講の衰退により、碑塔の建設は1964年以降は行われていない[1]。