コンテンツにスキップ

「三瀬諸淵」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Sugawa (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
編集の要約なし
11行目: 11行目:
釈放後、大洲に帰国するが、そのまま[[大洲藩]]に召される事になる。後に[[江戸幕府]]によって[[大坂]]に召されるが、[[明治維新]]を迎えると、そのまま新政府に仕えて医学校の創設にあたる。
釈放後、大洲に帰国するが、そのまま[[大洲藩]]に召される事になる。後に[[江戸幕府]]によって[[大坂]]に召されるが、[[明治維新]]を迎えると、そのまま新政府に仕えて医学校の創設にあたる。


この間の[[慶応]]2年([[1866年]])にシーボルトの孫娘にあたる楠本高子と結婚している。明治3年([[1870年]])頃に諸淵と名乗り始める。
この間の[[慶応]]2年([[1866年]])にシーボルトの孫娘にあたる楠本高子と結婚している。明治3年([[1870年]])頃に諸淵と名乗り始める。その後、大阪大学医学部の前身にあたる大阪医学校の教官(大学小助教)や大阪病院一等医官を歴任
 明治4年[[1871年]]に文部省が設置され東京医学校を創設した折りに、招かれ文部中助教となり、翌年には文部大助教を務めた。

明治6年([[1873年]])に官を退いて大阪で病院を開くが、明治10年(1877年胃腸カタルにより39歳の若さで死去。
 明治6年([[1873年]])に官を退いて大阪で病院を開くが、明治10年(1877年)10月19日に胃腸カタルにより39歳の若さで死去。


 1876年(明治9年)に大阪病院の一等医に任命されて、周三も我が国医学界の未来に大望を抱いていた矢先、胃腸を患い1877年(明治10年)10月19日に他界する。
[[大正]]15年([[1926年]])に医学教育における功労によって正五位が贈られた。
[[大正]]15年([[1926年]])に医学教育における功労によって正五位が贈られた。



2011年12月25日 (日) 14:22時点における版

三瀬 諸淵(みせ もろぶち、天保10年7月1日1839年8月9日)- 明治10年(1877年10月19日)は、幕末・明治期の医師。初名・周三(しゅうぞう)。幼名は弁次郎、は修夫。伊予国大洲出身。

幼い頃に両親を失い親戚の下で育てられる。初めは国学を学んでいたが、17歳のときに遠縁の医師二宮敬作の弟子となる。その際に二宮の元にいた長州藩の村田蔵六(大村益次郎)からオランダ語を学び、蘭学に関心を抱くようになっていく。その後、二宮のとともに長崎に渡り蘭学、医学を修めた。

安政5年(1858年)に大洲に一時帰郷したときに、長崎から持ち帰った発電機と電信機で大洲藩の許可を受けて「電信」の実験を行った様子は日本電信電話株式会社広報部 『電話100年小史』(1990年)にも取り上げられている。

安政6年(1859年)、二宮の師であったシーボルトが再来日すると、シーボルトに預けられた。シーボルトの長男のアレクサンダー・フォン・シーボルト[1] の家庭教師役を務めながら、自身は医学を学んだ。

文久2年(1862年)になると、諸淵がシーボルトのために国学の知識を生かして、日本の歴史書翻訳をおこなっていた事が発覚[要出典]、投獄される。しかし、後世書かれた妻・高子の手記[2]によると、通訳の件を関して公の役人を差しおいたことが一因であるという。2年後の1864年に出獄している。

釈放後、大洲に帰国するが、そのまま大洲藩に召される事になる。後に江戸幕府によって大坂に召されるが、明治維新を迎えると、そのまま新政府に仕えて医学校の創設にあたる。

この間の慶応2年(1866年)にシーボルトの孫娘にあたる楠本高子と結婚している。明治3年(1870年)頃に諸淵と名乗り始める。その後、大阪大学医学部の前身にあたる大阪医学校の教官(大学小助教)や大阪病院一等医官を歴任。  明治4年1871年に文部省が設置され東京医学校を創設した折りに、招かれ文部中助教となり、翌年には文部大助教を務めた。  明治6年(1873年)に官を退いて大阪で病院を開くが、明治10年(1877年)10月19日に胃腸カタルにより39歳の若さで死去。

 1876年(明治9年)に大阪病院の一等医に任命されて、周三も我が国医学界の未来に大望を抱いていた矢先、胃腸を患い1877年(明治10年)10月19日に他界する。 大正15年(1926年)に医学教育における功労によって正五位が贈られた。

関連項目

脚注

  1. ^ 後にイギリス公使館の通弁官、徳川昭武らのパリ万国博覧会通訳、日本の外交顧問となる/アレクサンダー・フォン・シーボルト
  2. ^ 山脇たか(楠本高子)が語る自分のこと、シーボルト記念館、2008年8月30日閲覧。