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「沖合いで北朝鮮の船に助けられた」という証言は、[[金英男]]の証言と一致しており、北朝鮮当局者からの指示である可能性がある。また、わずか7km沖合いの日本領海内において漂流した漁船が発見されており、日本の警察当局は北朝鮮の[[工作船]]によって発見され拉致されたと推測している。しかし、2002年の来日時には拉致を否定したため、拉致被害者として日本政府は認定してない。また当人も「拉致されてなどいない」と明言している<ref>[http://www.47news.jp/CN/201105/CN2011051901001049.html 寺越さん自筆で「拉致ではない」 訪朝の母、文書もらう] 共同通信2011年5月19日</ref>。 |
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== 関連項目 == |
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2011年12月29日 (木) 02:35時点における版
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寺越武志(てらこし たけし、1950年 - )は、日系朝鮮人男性。北朝鮮で金英浩(キム・ヨンホ)という名前で生活している。
概要
1963年5月11日、13歳の中学生であった寺越は、叔父の寺越昭二(当時36歳)、寺越外雄(当時24歳)と能登半島沖へ漁に出たまま行方不明になる。翌日に沖合い7kmを漁船だけが漂流しているのを発見された。漁船には他の船に衝突されてできたような損傷があり、塗料も付着していた。海上保安庁や地元漁協の捜索にもかかわらず、その後の消息がつかめず戸籍上「死亡」扱いにされたが、1987年1月22日に寺越外雄からの手紙によって北朝鮮での生存が判明した[1]。その後武志の父で昭二・外雄の兄の寺越太左エ門(1921年生まれ)と武志の母寺越友枝(1931年生まれ)は北朝鮮に渡り外雄・武志と再会。1997年7月1日、武志は金沢市を本籍として戸籍を回復した。以後友枝は彼に会うために数ヶ月に1度の割合で訪朝するようになる。一方太左エ門は2001年7月に訪朝した際そのまま北朝鮮に留まり、武志一家と平壌市内で生活した。
寺越はこの行方不明について、「自分は拉致されたのではなく、北朝鮮の漁船に助けられた」と話し、拉致疑惑を否定している。そのため、日本政府が認定する「拉致被害者」には含まれない。
2002年10月3日に、労働団体の代表団の副団長として来日し、石川県の生家にも宿泊した。この来日は拉致被害者5人が帰国する12日前であったが、日本政府と与党(自民党と公明党)関係者の出迎えはなかった。帰国が近づいた頃、母親が「お前は日本人なんだから日本のパスポートを持つべき」と問いかけたところ、「私は(朝鮮民主主義人民)共和国の人間です。金正日将軍様の配慮で何不自由なく暮らしています」と話し、日本のパスポート所持を拒否した。
一緒に行方不明になった寺越昭二は1968年に清津で死亡(昭二の死亡については「船上で銃撃されて死亡した」とする説と、「清津のベッドで酒盛りをした翌日、ベッドから転落して死んでいた」という2つの説がある)、寺越外雄は1994年に亀城で死亡している。また太左エ門は2008年1月12日、平壌市の武志宅にて86歳で死去した。
北朝鮮による拉致疑惑
「沖合いで北朝鮮の船に助けられた」という証言は、金英男の証言と一致しており、北朝鮮当局者からの指示である可能性がある。また、わずか7km沖合いの日本領海内において漂流した漁船が発見されており、日本の警察当局は北朝鮮の工作船によって発見され拉致されたと推測している。しかし、2002年の来日時には拉致を否定したため、拉致被害者として日本政府は認定してない。また当人も「拉致されてなどいない」と明言している[2]。