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「佐郷屋留雄」の版間の差分

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== 経歴 ==
== 経歴 ==


[[玄洋社]]系[[右翼団体]][[愛国社]]党員。
[[玄洋社]]系[[右翼団体]][[愛国社]]党員。[[1930年]]11月、[[東京駅]]構内にて、[[濱口雄幸]]首相を狙撃、重傷を負わせる。濱口は一命を取り留め「男子の本懐だ」と言った。しかし、翌年この傷が原因で死亡。


[[昭和5年]]([[1930年]])11月14日午前8時58分、[[東京駅]]構内にて、特急燕に乗り込むため第4ホームを移動中の[[濱口首相遭難事件|濱口雄幸]]首相を至近距離より銃撃、重傷を負わせる。佐郷屋は銃撃直後に周囲の手で取り押さえられ、現行犯逮捕された。
佐郷屋は「濱口は社会を不安におとしめ、陛下の[[統帥権]]を犯した。だからやった。何が悪い」と言い、背後の右翼団体は隠ての犯行であっ。もっとも、「[[統帥権干犯]]とは何か」という質問には答えられなかったという。[[1933年]]死刑判決、[[1934年]]恩赦で無期に減刑、[[1940年]]仮出所


佐郷屋は背後の右翼団体を表には出さず、「濱口は社会を不安におとしめ、陛下の[[統帥権]]を犯した。だからやった。何が悪い」と供述した、「[[統帥権干犯]]とは何か」という質問には答えられなかった。
その後、愛国社社長[[岩田愛之助]]の娘婿になり後を継ぎ、右翼活動を続けた。


濱口首相は一命を取り留めたものの、翌年、この時の傷がもとで死去した。ただし、濱田首相が特殊な細菌の保有者であったことから、死因は、この細菌が傷口に侵入したことによる化膿によるものと判断された。そのため、裁判では殺人罪ではなく、殺人未遂罪が適用された。[[1933年]]、殺人未遂罪により死刑判決を受け、[[1934年]]恩赦で無期懲役に減刑され、[[1940年]]に仮出所している。
後、[[公職追放]]を受けるが、佐郷屋嘉昭と改名。1954年、[[血盟団事件]]の中心人物である[[井上日召]]と共に右翼団体[[護国団]]を結成、第二代団長となる。1959年には[[児玉誉士夫]]らがいる[[全日本愛国者団体会議]]([[全愛会議]])の初代議長となる。

その後、愛国社社長[[岩田愛之助]]の娘婿になり後を継いで右翼活動を続け、戦後は[[公職追放]]を受けるが、佐郷屋嘉昭と改名。1954年、[[血盟団事件]]の中心人物である[[井上日召]]と共に右翼団体[[護国団]]を結成、第二代団長となる。1959年には[[児玉誉士夫]]らがいる[[全日本愛国者団体会議]]([[全愛会議]])の初代議長となる。


弟子に[[黒崎健時]]、[[藤元正義]]がいる。黒崎はのちに空手「[[極真会館]]」のナンバー2となり、日本とオランダでキックボクシングを育てた。<!--『格闘技通信』の黒崎自身の説明によると、母親を心配させるのが苦しくて地元から出ようと考えたときに紹介してくれる人がいたため世話になったが何をしたいのか聞かれても、当時の黒崎は満足に答えられなかったこと。思想的教育を受けた事実もないといつもの如く糞リアリアズムに徹した、殺し屋のような答えで格闘ファンを落胆させている。-->
弟子に[[黒崎健時]]、[[藤元正義]]がいる。黒崎はのちに空手「[[極真会館]]」のナンバー2となり、日本とオランダでキックボクシングを育てた。<!--『格闘技通信』の黒崎自身の説明によると、母親を心配させるのが苦しくて地元から出ようと考えたときに紹介してくれる人がいたため世話になったが何をしたいのか聞かれても、当時の黒崎は満足に答えられなかったこと。思想的教育を受けた事実もないといつもの如く糞リアリアズムに徹した、殺し屋のような答えで格闘ファンを落胆させている。-->

[[1972年]](昭和47年)4月死去。


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[[Category:熊本県出身の人物]]
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2012年1月13日 (金) 09:51時点における版

逮捕された佐郷屋留雄

佐郷屋 留雄(さごや とめお、1908年12月1日 - 1972年4月14日)は、日本の右翼活動家。熊本県出身。別名は佐郷屋嘉昭(よしあき)。

経歴

玄洋社右翼団体愛国社党員。

昭和5年1930年)11月14日午前8時58分、東京駅構内にて、特急燕に乗り込むため第4ホームを移動中の濱口雄幸首相を至近距離より銃撃、重傷を負わせる。佐郷屋は銃撃直後に周囲の手で取り押さえられ、現行犯逮捕された。

佐郷屋は背後の右翼団体を表には出さず、「濱口は社会を不安におとしめ、陛下の統帥権を犯した。だからやった。何が悪い」と供述したが、「統帥権干犯とは何か」という質問には答えられなかった。

濱口首相は一命を取り留めたものの、翌年、この時の傷がもとで死去した。ただし、濱田首相が特殊な細菌の保有者であったことから、死因は、この細菌が傷口に侵入したことによる化膿によるものと判断された。そのため、裁判では殺人罪ではなく、殺人未遂罪が適用された。1933年、殺人未遂罪により死刑判決を受け、1934年恩赦で無期懲役に減刑され、1940年に仮出所している。

その後、愛国社社長岩田愛之助の娘婿になり後を継いで右翼活動を続け、戦後は公職追放を受けるが、佐郷屋嘉昭と改名。1954年、血盟団事件の中心人物である井上日召と共に右翼団体護国団を結成、第二代団長となる。1959年には児玉誉士夫らがいる全日本愛国者団体会議全愛会議)の初代議長となる。

弟子に黒崎健時藤元正義がいる。黒崎はのちに空手「極真会館」のナンバー2となり、日本とオランダでキックボクシングを育てた。

1972年(昭和47年)4月死去。