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* 2学年後輩で、F・マリノスでも一緒にプレーした[[岡山一成]]と顔が似ているとされる(岡山の項目参照)。 |
* 2学年後輩で、F・マリノスでも一緒にプレーした[[岡山一成]]と顔が似ているとされる(岡山の項目参照)。 |
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* ボールに対して遠いゴールポスト側である「ファー(far)」を「フォア」と言う。 |
* ボールに対して遠いゴールポスト側である「ファー(far)」を「フォア」と言う。 |
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* 横浜Fマリノス同期入団[[松田直樹]]のとは、無二に親友。松田が突然の逝去で告別式で弔辞を読んだ。その後遺族から松田が生前右ひざを手術した際に足に入れたボルトが彼を火葬した際に出てきて、安永はそのボルトを形見として受け取った。安永は「このボルトは直樹苦しめていた痛みを救ってくれたもので、直樹の熱い想いも支えてくれたもの。これにありがとうと言いたい」と、松田を偲んでいた。 |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
2012年1月29日 (日) 00:00時点における版
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名前 | ||||||
カタカナ | ヤスナガ ソウタロウ | |||||
ラテン文字 | YASUNAGA Sotaro | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
![]() | |||||
生年月日 | 1976年4月20日(48歳) | |||||
出身地 | 山口県宇部市 | |||||
身長 | 178cm | |||||
体重 | 75kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
利き足 | 右足 | |||||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
安永 聡太郎(やすなが そうたろう、1976年4月20日 - )は、山口県宇部市出身の元サッカー選手、現在はサッカー指導者・解説者。現役時代のポジションはFW。
略歴
清水商業高校時代には佐藤由紀彦らと共に、2年次に高校選手権、全日本ユースの二冠、3年次には高校総体、全日本ユースの二冠に貢献し、U-20日本代表に招集された。
卒業後の1995年にJリーグの横浜マリノスに入団、その年にJリーグ制覇を経験した。1997/98シーズンにはスペインのセグンダ・ディビシオンのUEリェイダ(ジェイダ、レリダ)にテスト入団を経て期限付き移籍し、34試合に出場し4得点を挙げた。
1999年には清水エスパルスに移籍金約9千万円で完全移籍。ゴール数は少なかったが、レギュラーとして活躍した。特に1999年Jリーグ2ndステージでは、2位だったF・マリノスとの直接対決になった第14節で決勝ゴールを決め、エスパルスは初のステージ優勝を決めた。2001年シーズン途中にゼムノビッチ・ストラヴゴ監督の練習方針をマスコミを通して批判し、約1ヶ月間の謹慎処分を受けた後、残留争いに苦しんでいた横浜F・マリノスに移籍。2002/03シーズンには再びスペインセグンダ・ディビシオンのラシン・フェロルに期限付き移籍し、12試合に出場して1得点を挙げ、チームから高評価を得るがF・マリノスのチーム復帰依頼により日本へ戻る。
2005年に柏レイソルに移籍したが、満足な活躍が出来ず同年限りで現役を引退した。2006年10月29日にはF・マリノスでのチームメートだった柳想鐵との合同引退試合として「横浜F・マリノスOBチーム対静岡県連合スターズ」が開催された[1]。これは「横浜F・マリノスみなとみらい21トレーニングセンター」(マリノスタウン)の開場記念試合ともなった。
引退後は2007年から日本サッカー協会が進めているJFAこころのプロジェクト(ユメセン)の専属講師として日本全国の小学校などでサッカー教室を開催しながら、衛星テレビ放送のWOWOWで放映されるリーガ・エスパニョーラ(スペイン1部リーグ)の試合中継やダイジェスト番組で解説者を務めている。
所属クラブ
- 清水商業高校
- 1995年-1997年 横浜マリノス
- 1997年-1998年 UEリェイダ(スペイン)
- 1998年 横浜マリノス
- 1999年-2001年 清水エスパルス
- 2001年-2002年 横浜F・マリノス
- 2002年 ラシン・フェロル(スペイン)
- 2003年-2004年 横浜F・マリノス
- 2005年 柏レイソル
個人成績
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国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1995 | 横浜M | - | J | 28 | 1 | - | 2 | 0 | 30 | 1 | |
1996 | 横浜M | - | J | 11 | 1 | 6 | 0 | 1 | 0 | 18 | 1 |
1997 | 横浜M | 17 | J | 9 | 1 | 6 | 2 | - | 15 | 3 | |
スペイン | リーグ戦 | 国王杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1997-98 | リェイダ | 23 | セグンダ | 34 | 4 | - | |||||
日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1998 | 横浜M | 29 | J | 19 | 6 | 3 | 0 | 1 | 0 | 23 | 6 |
1999 | 清水 | 21 | J1 | 29 | 5 | 3 | 0 | 2 | 0 | 34 | 5 |
2000 | 清水 | 9 | J1 | 24 | 3 | 4 | 2 | 3 | 1 | 31 | 6 |
2001 | 清水 | 9 | J1 | 12 | 2 | 0 | 0 | - | 12 | 2 | |
横浜FM | 19 | J1 | 6 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 7 | 0 | |
2002 | 横浜FM | 19 | J1 | 4 | 0 | 1 | 0 | - | 5 | 0 | |
スペイン | リーグ戦 | 国王杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2002-03 | フェロル | 16 | セグンダ | 12 | 1 | 1 | 1 | - | 13 | 2 | |
日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2003 | 横浜FM | 19 | J1 | 8 | 1 | 3 | 0 | 2 | 1 | 13 | 2 |
2004 | 横浜FM | 19 | J1 | 7 | 0 | 4 | 0 | 2 | 0 | 13 | 0 |
2005 | 柏 | 29 | J1 | 8 | 1 | 3 | 0 | 0 | 0 | 11 | 1 |
通算 | 日本 | J1 | 165 | 23 | 33 | 4 | 14 | 2 | 212 | 29 | |
スペイン | セグンダ | 46 | 5 | 1 | 1 | - | 47 | 6 | |||
総通算 | 211 | 28 | 14 | 2 |
その他の公式戦
- 1995年
- Jリーグチャンピオンシップ 1試合0得点
- 1999年
- スーパーカップ 1試合0得点
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 2001年
- スーパーカップ 1試合0得点
その他の国際公式戦
- 2004年
- A3チャンピオンズカップ 1試合1得点
- Jリーグ初出場:1995年6月17日 サントリーシリーズ第17節 横浜マリノス 3-1 ガンバ大阪(三ツ沢球技場)
- Jリーグ初得点:1995年10月21日 ニコスシリーズ第18節 柏レイソル 4-2 横浜マリノス(国立競技場)
代表歴
- U-20日本代表
- 1995年FIFAワールドユース
エピソード
- 清水エスパルス在籍時代、同い年のFW久保山由清との絶妙なコンビーネーションは、漫才師のやすし・きよしになぞらえ「ヤスキヨコンビ」と呼ばれるほどであった。
- リェイダでのテスト入団時に安永を評価して入団させたのは、後にセビージャFCを率いてUEFAカップやコパ・デル・レイなどを制したファンデ・ラモス監督だった。
- 2学年後輩で、F・マリノスでも一緒にプレーした岡山一成と顔が似ているとされる(岡山の項目参照)。
- ボールに対して遠いゴールポスト側である「ファー(far)」を「フォア」と言う。
- 横浜Fマリノス同期入団松田直樹のとは、無二に親友。松田が突然の逝去で告別式で弔辞を読んだ。その後遺族から松田が生前右ひざを手術した際に足に入れたボルトが彼を火葬した際に出てきて、安永はそのボルトを形見として受け取った。安永は「このボルトは直樹苦しめていた痛みを救ってくれたもので、直樹の熱い想いも支えてくれたもの。これにありがとうと言いたい」と、松田を偲んでいた。